笑う死者
2
その日、聖真学園高校の校舎の周辺は、正に蜂の巣を突いたような喧騒に包まれていた。
時刻は午後5時25分。
もはや夕闇が迫る時刻だというのに、辺りは一向に静かになる気配を見せない。事件現場となった校舎の屋上を下から臨む、校庭前のコンクリートの道路部分から半径50メートル以内には立ち入り禁止の札に虎柄のロープが張られている。
多くの警察官や教師達が、校門から我先にと情報を集めようと、今しも校舎になだれ込もうとしているマスコミや報道陣、帰宅の途についていたはずの生徒達や、野次馬な周辺住民への対応に苦慮していた。
放課後に起こった事件だけに学園に残っていた生徒達は事情聴取の為に学園内に留められる事となった。
その為、校門にごった返す人込みの中には生徒達の保護者の姿も見られ、彼らが乗りつけてきた自家用車が交通渋滞を招き、場の収拾はさらに混乱を究めた。警察官達の一部には交通整理にあたる者もいた。ニュースや刑事ドラマなどでよく見掛ける、青い制服に帽子を被った鑑識員や、スーツを着た刑事達の姿も既に見える。
乱舞するパトカーの赤色灯の光。見知った人間の突然の死に泣き出す女生徒達。ひそひそと聞こえる人の噂。心配げに校舎を見つめる保護者達。事故現場だろうとおかまいなしに、はしゃぎ回る近所の子供達。黙々と作業を進める鑑識員や警察官。
まるでおかしな縁日にでも来たような騒ぎだな…。
警視庁捜査一課、殺人課の刑事である花屋敷優介は、現場の慌ただしい空気の中にあって不謹慎にもそう感じてしまった。
綺麗で優しげな名前とは似ても似つかない、彼の大柄な体格と終始不機嫌とも取れる特徴的な顔立ちは一年365日、殺害現場がラブホテルであろうと場末のスナックだろうと、どの現場であっても目立つ。27才という年齢ながら、同年代の刑事達に階級を間違えられて敬礼された事もあるほどだ。
警察学校時代のあだ名が何を隠そう『力也』である。不本意にも厳つい顔立ちで有名な芸能人にそっくりであった為らしい。
花屋敷の元に事件発生の呼び出しを告げる電話があってから既に30分ほどが経過している。
平日に、たまたま非番で自宅の安アパートの布団の上で安眠中だった彼は、今や休日を邪魔された腹いせも手伝って、いつもの三割増しの不機嫌な表情でいた。
おかげでインタビューに応じてほしいという、騒がしいマスコミへの対応や年頃の生徒達への聞き込みなどという繊細さを要する(と思われる)作業にはあたらずに済んだ。
初動捜査を円滑に進める上では実に適切な人材分担であったろう。
現場に到着して速やかに彼は上司であり、刑事課長でもある現場責任者の磯貝警部の元を訪れ、現場検証にあたる事になった。
そして花屋敷は今、数分前に女生徒が最後に地上に立っていたであろう、屋上にいる。
高さ2メートルはある、テニスコートのフェンスのような金網を乗り越え、地上25メートルはある、高さ三階の鉄筋コンクリートの校舎の上から、女生徒は飛びおりたようだ。
花屋敷は金網越しに遥か眼下の地上を見下ろした。
物言わぬ女生徒の死体と痛々しい肉片は既に片付けられ、現場の周辺は相変わらずの騒ぎのようだ。
上の方から望めば確かに、不謹慎にもお祭りの縁日に見えなくもない。
もっとも、そこにあるのは人々の笑顔などではなく、都会の日常に突如穿たれた穴に広がる闇への恐怖心と被害者の孤独な死に対するほんの少しの憐憫と同情。そして悲しみの仮面に素顔を隠した好奇の視線があるだけなのだろうが…。
「花屋敷、そちらに何か遺留品の類はあったか?」
白い手袋を嵌め直しながら屋上の検証を指揮していた磯貝警部は、ちょうど生徒が飛び下りた地点を記した、白いチョークで描かれた場所にいる花屋敷の方へと歩いてきた。白髪混じりのグレーの髪をオールバックにして口ヒゲを蓄えた、年の頃は50ぐらい、鷲のような鼻と鋭い目つきの背の高い、紳士風の男である。そのダンディな風貌と面倒見のよい性格で署内の婦警達にもファンが多いと聞く。
花屋敷の現場勤務の経験は一から十までこのマシーンのように精密かつ冷静で、優秀な警部に叩き込まれたといっていい。プライベートでも一人身の花屋敷と離婚したばかりの磯貝警部は馬が合った。確かちょうど飛び降りた生徒と同じ年頃の一人娘がいるようだが、詳しくは知らない。元の奥さんとの事は磯貝警部から話さない限りは聞かない事にしていた。
職場の上司と部下という間柄を越え、今では公私ともに二人はある種の信頼関係で結ばれているといってもよかった。
「ああ、ご苦労様です。
残念ながら手掛かりとなるような物はここには何もありませんね。遺書の類も見当たりませんし…今、石原に教室にある被害者の私物をあたらせています」
「そうか…休みの所、呼び出して本当にすまなかったな、花屋敷」
「いえ…自宅待機も仕事のうちですからね」
「まったく難儀な事だ。
石原が戻り次第、簡易ではあるが今後の指示を出す。正式な捜査会議は明日以降にもつれそうだ。それと…まだ未確認ではあるが、もし今回の事件に他殺の線もあるとなると、本庁の方から別の責任者がやってきて着任するらしい」
「…え?警部が今回の現場指揮を取られるんじゃないんですか?」
花屋敷は今や刑事ドラマでもお馴染みの、現場と本庁のキャリアとの軋轢というヤツが大の苦手だった。
現場で培ってきた経験を生かして仕事をする刑事達にとっては、生え抜きのキャリア組という奴らは煙たい存在である。
まず現場への対応の仕方が違う。マスコミや報道関係等への対応という外面だけはよくて被害者の家族とは面会せず、事件捜査は所轄の刑事達に任せきりで、細かい指示は二の次という最低な手合いは殊の外多いものだ。いざ事件解決となれば手柄は丸ごと頂き、自分の輝かしいキャリアの功績の一つとする。
時代錯誤なたとえだが、いきなり有象無象の手下を連れて大挙して押しかけ、好き放題荒らし回り、奪うだけ奪って山へと帰っていく山賊のような連中としか思えないのだ。
「ああ、キャリア組の若い管理官が俺の代わりだそうだ。今回は俺も駒の一つだよ。正式な辞令はまだだろうが、飛び降りた生徒を見たという目撃証言の多数がアレではな…奴らが来るのも時間の問題だろう」
「ええ、いかがわしい噂で世間に注目される事件なんて、さぞかし美味しい餌に見える事でしょうね…」
二人は揃って不機嫌な顔を隠そうともしない。理由は簡単である。
この事件が、ただの自殺などであるはずがない(!)からだ。
飛び降りた女生徒は、ここミッション系の私立高校、聖真学園高校2年B組の生徒で名前は川島由紀子17才。死亡推定時刻は多数の目撃証言からはっきりしていて午後4時37分。放課後、グラウンドで部活の練習中だった野球部にサッカー部、テニス部の生徒達が甲高いおかしな笑い声とトタン板が落ちた時のような乾いた音を聞いている。正に墜落途中の川島由紀子を目撃したという生徒もいた。
近隣の住民の中にも音や声こそ聞いていないが、墜落現場を見たという同じ証言が取れた。
ミッション系の学校であるせいかはわからないが、この学園の屋上部分はやや他の学校とは違っていて風変わりな作りになっている。入口のドアとちょうど反対側にやたらと豪奢で大きな時計塔の入口があり、この近くで彼女は墜落した為に正確に覚えられていた訳である。
またこの時計塔はこの学園の名物で、近隣の住民達にも時間を知らせる為に作られたというだけあってやたらと目立つ。学園資料館も兼ねていて、学校という環境にあっては通常は自殺防止の為に屋上など立入禁止にする所だが、この学園に限ってはそういった処置はとられていなかった。
聖真学園の校舎は鉄筋コンクリート製。死体があった場所は三階建ての校舎の前にある、グラウンドと校庭のちょうど中間にある道路のど真ん中。そこに川島由紀子は倒れていた。
「警部」
「…ん?なんだ」
花屋敷が重苦しい沈黙を破って磯貝の名前を呼ぶ。今は先の事より今のうちにできる事から片付けていきたい気分だった。
「…警部は今回の事件をどう考えてるんです?
これから自殺しようとする人間が狂ったように笑いながら金網を乗り越え、屋上から飛び降りるなんて異常な行動、普通じゃ考えられません」
花屋敷は鑑識班が指紋を採取するのに用いたと思われる、金網についたアルミの粉をフッと吹き飛ばした。
太陽は既に西へと傾きかけている。鮮やかな暁の空にキラキラと舞い、軌跡を描いてアルミ粉は風に散っていった…。
磯貝警部は部下の気安い口調を別に咎めるでもなく、僅かに目尻を下げ、ふうっと息をつくと花屋敷の方に目を向けた。既に刑事の顔ではなく、一人の年長者の顔になっている。花屋敷にはよく見せる彼のクセだ。
「そうだな…。
俺がまず考えたのは薬物による幻覚症状ではないかという事だ」
「薬物…ですか?
しかし…いくら最近の高校生が大人びているといっても死んだのは17才、それもどこにでもいそうな普通の少女ですよ?」
「おいおい、刑事が思い込みで物を言ってもらっては困るな。最近のガキ共のやんちゃぶりをお前も知らない訳じゃないだろう?」
「まぁ…そりゃそうなんですが…」
「援助交際という名の売春にカツアゲと称した恐喝。家族殺しにケンカなどの傷害事件、窃盗に放火。数えあげればキリがない。
奴らは立派な大人だよ。
俺の娘など女のクセに親を親とも、自分を女だとも思わんような喋り方をする。何度注意しても直そうともせん。逆にこっちがからかわれるほどだ」
磯貝は僅かに微笑みながらそう言った。娘の事を話す時だけは優しい父親の表情に戻るようだ。
「しかし薬物といっても何を使用したんです?
幻覚症状を起こして実際に狂ってしまうほど純度の高い物となると、高校生が入手するには無理があるんじゃありませんか?」
「それでも可能性はゼロではなかろう?
インターネットで拳銃の部品が買えて、爆弾や毒ガスの製造法まで公開しているサイトもある時代だ。どんな隠れた入手ルートがあるかはわからんよ。
…まぁ、現時点ではまだ何もわからん。とりあえずは鑑識の結果を待とう、証拠のない憶測は推理とは呼ばないからな」
磯貝はそう言って下の様子に気を配る。
つい先程、校内で事情聴取を終えたばかりの生徒達が自宅に帰っていくようだ。報道局のカメラが一斉にそちらへと矛先を向けるのが見えた。
これで渋滞と人混みも少しは緩和されるだろう。
「花屋敷先輩!」
という鈴を転がすような場違いな若い女性の声が花屋敷を呼びとめた。その声に屋上で作業をしていた人間の大半が一斉にそちらを振り向いた。
クリーム色のジャケットに黒いレザーのタイトスカートを着た、小柄な女性の姿が見える。
皆が一斉に自分へと奇異の視線を向けているのに気付いたのか、女性は罰が悪そうにぺろりと舌を出して、恥ずかしいのか花屋敷の元へと足早に駆けてきた。
花屋敷より三つ年下というから今年で24才になる、この女性の名は警視庁捜査一課殺人課の女刑事で花屋敷の後輩であり、現在コンビで捜査にあたっている石原智美である。ショートボブで一重まぶたの化粧っ気の少ない、全体的に小作りで童顔な、日本人形のような愛くるしい顔立ち。刑事らしくジャケットを着てはいるが、非常に小柄で一見すると高校生くらいにしか見えない、幼い顔立ちの女性である。
ショートボブの髪をなびかせて、彼女は花屋敷の元へとやってきた。急いでいたらしく、大きく息をついて花屋敷を見上げた。大柄で上背のある柔道選手のような体格の花屋敷と一緒にいると彼女の小さい体がますます際立って小さく見える。
「相変わらず騒がしい登場の仕方だな、石原」
「ゴメンなさい!あ、警部もいらしたんですね。ご苦労様です!
…ありましたよ、先輩」
そう言うと彼女は遺留品とおぼしき物を入れたビニール袋を磯貝警部と花屋敷に見えるように目の前に差し出して見せた。
「これが彼女のクラスの教室にあったものか?どこにあった?」
磯貝は石原から指紋がつかないように防水処置が施してある、証拠保存用の透明なビニール袋を受け取る。ジッパーを開封し、中身を取り出した。
中には被害者の私物と思われる、俗にプリ帳と呼ばれるプリクラがたくさん張ってある手帳と一冊の日記、そしてマスコットか何かのかわいらしいウサギのデザインのストラップが付いた青いスライド式の携帯電話が入っていた。
「遺書という訳じゃありませんけど彼女の日記と携帯電話のようです。彼女の机の中から発見しました。
教室にあったのは茶色の学生鞄が一つきりで、彼女の机の横にぶら下がってました。それについては教科書と参考書、後は昼食のお弁当箱しか入っていませんでした。鑑識の方に回してあります」
「とりあえず、一歩前進といった所だな、やるじゃないか石原」
花屋敷は石原を労ったが、彼女の顔色はいまひとつ冴えない。
「…どうした?それに何かマズい事でも書かれてあったのか?」
「花屋敷、これを見ろ」
磯貝は日記帳と思われる、『DAIRY』と銀色の文字で書かれた、本屋などでよく見掛ける日記帳の、最後のページを開いて花屋敷に渡して見せた。
そこには几帳面で丁寧な、女子高生らしい丸い字でこう書かれてあった。
『16時に時計塔。魔術師に会う。例の件どうやら事実。楽しみで仕方ない』
暮れなずむ暁の夕暮れに、花屋敷達のいる屋上を冷たく湿った風が一陣、吹き抜けていった…。 |