呪いのアルカナ
12
夕方見た奇抜な服装とは打って変わった、シックな黒いスーツに身を包んだ探偵…来栖要は見ためにも高級そうな上着を脱いで無造作に肩に引っ掛けると、ゆったりとした動作で勇樹の元へと歩み寄ってきた。
歩む度に真っ直ぐな黒髪がサラサラと揺れる。ネクタイは締めておらず、象牙色の白いワイシャツを第二ボタンまではだけたワイルドな風貌はいささか探偵らしくは見えなかったが、長身でしなやかな痩躯が外国人モデルのような、一種独特の気品さえ漂わせていた。
相変わらず左手をすっぽりと黒いレザーグローブで覆い、赤い瞳をした異様な風体を除けば、まるで一体のギリシャ彫刻のように壮健で優美な魅力に溢れた人物である。
「気がついたか。思ったより元気そうだな。怪我の具合はどうだ?」
相変わらず見ためとは裏腹な、やさぐれたぶっきらぼうな口調で来栖は話しかけてきた。涼しくも優しげに細めた目が勇樹を真っ直ぐに見つめてくる。あまりに現実味のない衝撃的なファーストコンタクトであっただけに、今の彼の豹変ぶりは意外だった。
不器用だが温厚で話のわかる人物なんだと勇樹は改めてそう感じた。
「あ、はい。助けてくれて本当にありがとうございます!あの時、来栖さんが来てくれなかったら今頃どうなってた事か…。怪我の手当までしてもらって…」
「礼ならアリサに言ってくれ。それに、俺は仕事を果たしてるだけだしな」
勇樹はアリサも同じ事を言っていたのを思い出して思わず微笑んでしまった。
「…ん?どうした?
さてはアリサがまた余計な事でも言ったのか?」
来栖はわずかに微笑んで困ったような表情をした。
「あ、いえ…」
勇樹はアリサに来栖と恋人同士なのかと尋ねたのを思い出し、今になって気恥ずかしくなった。
「すまなかったな。わざわざここまで運ぶ必要はなかったんだが、こちらも色々と訳ありでな。事後承諾になるが了解してくれ」
「あ、いえ…僕の方こそ、いきなり押しかけちゃった形ですみません。
…話を聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ、取り敢えずお互い堅苦しいのはなしにしようぜ。俺はそれほど育ちのいい方じゃないんでな。
俺も色々と聞きたい事がある。まぁ適当にくつろいでくれ。
…どうやらもうすぐ晩飯も来るみたいだしな」
来栖はチラリと先程アリサが入っていった部屋に視線を送った。
この地下室のような変わった事務所兼住居がどのような間取りになっているかはわからないが、おそらく向こう側はダイニングかキッチンなのだろう。
彼の言う通り、先程から室内には食欲をそそる、いい匂いが漂い始めていた。
異国の占い師は今頃、腕によりをかけて、珍しい来客と一風変わったパートナーの為に、遅い夕食を用意してくれているのだろう。勇樹は近くにあったソファーに腰掛け、来栖は上着を机の側のクローゼットへと仕舞い、自分の肘かけ椅子に座った。
二人はここにきてようやく互いの情報交換をする機会を得る事となった。
「じゃあ来栖さんは理事長の依頼で学園に来てたって訳ですか?」
「正確には娘である間宮先生の依頼、だな。といってもあの女医先生も、困った父親を見兼ねて仕方なくといった所だったが…」
自己紹介も終わり、二人はどういった顛末で自分達が事件に関わるに至ったのかを語りあっていた。
来栖は続けた。
「理事長の間宮孝陽氏は、お前も知ってるだろうが、かなりの高齢でな、まだ軽度だが進行性のアルツハイマーを患って今じゃ車椅子での生活を与儀なくされてる状態だ。
…あの爺さんもえらく生徒思いな理事長らしいな。
ここは一応は探偵事務所となってるが、依頼も何もあったもんじゃなかった。来て早々、俺の顔を見るなり『どうか生徒を助けてやってください!』の一点張りだった」
来栖は近くにあったセブンスターの箱をあのライターごと手に取った。
勇樹も自分の学園理事長の事は知っていた。
天気のよい日などは車椅子で中庭や学校中を巡り歩いて生徒達に声をかけるのが理事長の楽しみらしく、勇樹も何度か声をかけてもらった事がある。
年不相応な赤いスーツを好んでよく着る、長い白髪を後ろで縛った特徴的な老紳士である。
今は皺くちゃだが若い頃はさぞかしモテたであろう。端正な顔立ちをした人物で生徒達を、まるで実の孫達を見るような目で微笑む、好々爺のような姿が目に浮かんだ。いつぞや、その珍しい姿にテレビ局が来た事もあるほどだ。
勇樹も頷いた。
「理事長は今は仕事らしい仕事はしてないって聞いた事があります。昔から今の学園を支えてきた生き字引みたいな人だからって…。教育委員会を通じた仕事やなんかの大半は今は校長が引き継いでるそうです」
「らしいな…。
あの隠居爺さんには気の毒だが、実際かなり老人ボケの方は進行してるようだ。白内障も患ってるし、内臓の方もよくない顔色をしていた。あの分じゃこの先、もう長くないのかもしれんな…」
来栖は赤い瞳を僅かに細め何かを堪えるような不思議な表情を見せた。
勇樹も理事長を思うと、沈黙せざるをえなかった。
「俺も老人向けのボランティアをしてる訳じゃない。そんな内容も漠然とした、訳のわからん依頼は最初は断るつもりだった。
だがあのキナ臭い事件には興味があってな、川島由紀子の死亡した原因を探る名目で結局は引き受ける事にした訳だ」
来栖はとんとんと煙草の先で葉を詰める動作を幾度か繰り返した。
「この事務所にあの二人が来たのは、事件の起きた日の夜。
時間はちょうど今ぐらいだった。もっとも、ここには時計なんかないから正確な所はわからねぇがな」
相変わらずぶっきらぼうとも取れる低い口調で淡々と答えた来栖要は、自分の椅子に深々と腰掛け、愛用の不思議な色合いをしたジッポーライターで煙草に火を点けた。
紫煙がゆるゆると尾を引いて上方へと巻いていく。やがて煙はヘリのローターのような天井のファンの回転に紛れて消えていった。
勇樹は反射的に自分の携帯電話を取り出し、時間を確認した。奈美と勇樹がツーショットで笑っている写真を待ち受け画面にした液晶の画面には『PM09:21』の表示。
自分以外の高校生の帰宅時間の平均値など勇樹には知る由もないが、普段の部活帰りと較べても、ずいぶん遅い時間なのは確かだ。
しかし今は時間を気にする心配もないのだった。
周到な探偵は、例の廃工場に置きっぱなしにしてきた勇樹のバッグをちゃっかり勇樹ごと回収してきていたのである。探偵は椅子に座るなり、見慣れた勇樹の黒いバッグをポンと勇樹の手に投げて寄越した。
「忘れ物だぜ。
いざ傷害だなんだで警察沙汰となると理由を説明するのも一苦労だからな。回収しといた。
警察もじきにここを嗅ぎつけてくるだろう。
まぁ安心しな。お前がやった連中の一部は凶器持ちだけじゃなく、あちこちでコソ泥や暴力事件にも手を染めてるような臑に傷を持つ連中だ。
警察が嗅ぎ付けて事情を聞かれても、俺が全部やった事にすればいい。ま、罪の引っ被りついでに色々聞きたい事がある。
なんだったら泊まっていってもいい。晩飯がてらゆっくりしていきな」
とサラリと言ってのけたのだ。勇樹はびっくりするより先に正直呆れた。
あの状況でよくそこまで気を回せたものである。さらに勇樹を呆れさせたのは勇樹の実家にまで彼の手が及んでいた事である。
勇樹を運び出し、勇樹の携帯電話から自宅の電話番号を調べ上げ、早々に勇樹の母親に連絡までしていたのである。
学園の教師を装い、保護者向けの事務的な口調で電話で話したらしい。
『夏休みにある、空手部の合宿の打ち合わせの件で、部長代理の成瀬君は今夜帰りが遅くなります。着替えや食事の心配は学園の寮を使うので一切心配いりませんから』と嘘八百並べて丸め込んだらしい。
後でお礼に伺いますって、オフクロさんが言ってたから適当にフォローしといてくれ、とあっけらかんと彼は語った。
返す返すも油断のならない男である。
探偵の守秘義務である所の依頼人を見ず知らずの勇樹に明かしたり、不良達と大立ち回りを演じたりと、破天荒な探偵もいたものだ。悪人ではないとは思うのだが、どうも微妙な雲行きである。勇樹にわかるのは、一筋縄ではいかないタイプの男だという事だけだ。
勇樹は最初から気になっていた疑問を、ここで始めてぶつけてみる事にした。
「あの…須藤達はあれからどうなったんですか?あいつらが僕を襲ったのは僕が川島から、何か知られてはヤバイ物を預かってるかもしれない、と誤解した為らしいんですが…」
来栖は赤い瞳を考え深げに空中へと向けながら、ぷうと煙草を吹かした。
「ダチュラ…って知ってるかい?」
「え…?」
唐突に何を言い出すのだろう。ダチュラ…?
勇樹が怪訝そうな視線を向けたのを見てとると、彼は淡々と話し出した。
「ダチュラは花の名前さ。和名を朝鮮朝顔、俗名を曼陀羅華。そうそう、こんなふうにも言われるな…」
探偵はそこでチラリと上目使いで勇樹を見やった。
「キチガイナスビ…」
「気狂いナスビ!?」
一体なんの話を始めるものか、まるで意図は汲めないが何かが勇樹の琴線に激しく触れた。
探偵は続ける。
「インド原産の一年草で、高さは1m程度。
大きさ15cmほどの見ためが派手な白いラッパ状の花を咲かせ、強いジャコウのような芳香を放つ。
園芸品種もあって黄、紫、ピンク色をしたものもあり大きくなって、毎年花を咲かせる。
こいつは根、茎、葉、花といった全草すべてに幻覚性のアルカロイドを含んでいる有毒植物でな、モルヒネのような直接的な鎮痛効果はないが、痛覚が鈍くなる為に麻酔薬や喘息薬としても知られている。
江戸時代の外科医である、かの華岡清州はダチュラを主成分とする内服全身麻酔薬『通散仙』を完成させ、日本最初の全身麻酔による乳癌摘出の手術に成功している。
こいつは猛毒で素人がみだりに手をつけるとえらい事になる。
インドの山間部では毎年のように誤って口にした何人もの人間が病院に搬送されるか、死亡してもいる。
効果は違うがトリカブトのようなものだな」
来栖はそこまで喋ると、机にあったクリスタル製の灰皿で短くなった煙草を揉み消した。
「来栖さん…まさか川島のあれは…」
訝しむ勇樹に向け、来栖は待ったとでもいうように片手で制した。
「早まるな。
…いずれわかる。もう少し聞いとけ」
来栖は両手で頭の後ろに手を回してどっかりと椅子の背中に凭れた。
「ダチュラの成分は薬物にも使われている。
ドラッグの隠語で『魔王』または木立朝鮮朝顔…英名でエンゼルストランペットと呼ばれる別の品種にあやかって『天使のラッパ』とも呼ばれている。
ダチュラのアルカロイドの一番の特徴は、恐ろしいほど相当なせん妄状態を引き起こす事にある。全ての妄想が行動となって現れる。意識はグシャグシャになり、己の意思決定が一切できなくなって獣のような状態になる。
その昔、外国の娼館の主は売られて間もない嫌がる女達にダチュラを投与して、積極的に男の身体を欲しがるように仕向けたという記録さえある。
せん妄中にいくら凌辱されようが女達には一切の記憶が残らないから、男の欲望を満たすには実に都合がいい代物だった訳だな。
さて…聖真学園には無茶な素人商売をする困ったお嬢ちゃん達が実際にいるそうだな…?」
いきなり来栖は話題を変えた。かの売春グループの事だろう。
「そんなのたんなる噂に決まってます!須藤から何を聞いたのかは知りませんが川島はそんな事…!」
勇樹は由紀子の屈託のない笑顔を思い出し、思わず来栖を責めるような強い口調になってしまった。
すいません、と言ってから思わず目を逸らした。冷静でなければならないのに、自分でもどうしてここまで腹が立つのだろう。
「まあ俺も変化球が多いのが悪いんだが、話は最後まで聞きな。
須藤直樹だったな…お前のクラスメートのあいつだけは普通の病院に連れていく訳にはいかなかった。なにしろ事の首謀者だ。一カ所に集めて警察に売ってやった他のザコ共とは違う。
…あいつは今、この新宿で闇医者をしてる奴の診療所にいる。
警察に身柄を拘束される前に事情を聞いておきたくてな…さっきまで話を聞いてきた所なのさ」
「闇医者!?来栖さん!あいつは…須藤は何て言ってたんですか!?
…僕もそこに行きます!
闇医者のいる診療所なんでしょ?どこなのか教えて下さい!」
我慢出来ずに勇樹は思わず立ち上がった。
ちょうどその時、部屋に流れていたアナログ盤のジャズの曲が終わった。
…沈黙。
互いの視線が交錯する。勇樹は来栖を見つめる。
来栖は身じろぎ一つせず、能面のような凍てついた表情でただ勇樹を黙って見つめていた。
勇樹は僅かたじろぐ。言ってしまってから己の軽はずみな言動に気付き、ひどく後悔した。
『…居所を話すつもりなどない』
勇樹には、彼の沈黙はそういう意味にとれた。
彼の事はろくに知らないが話しぶりや言動を見てもひどく慎重なタイプだし、傍目には大胆不敵で破天荒で、ある種、無茶苦茶のようにも見える一連の行動は彼なりの理由や論理に添って動いている節がある。
自分が必要と感じた情報しか開示するつもりがないのは、彼の表情を見ていてわかった。
彼は探偵なのだ。
情報の取捨選択と開示の仕方を誤る事は彼にとっては死活問題なのだろう。
考えてみれば勇樹が須藤に会えたところで、いまさら何もできはしない。
命を懸けて勝者と敗者を決める我の張り合いを演じた者同士が、どのツラ下げて会えというのだろう?あのプライドの高い、負けた須藤の気持ちはどうなる?
勇樹は自分の浅はかさが嫌になった。
それにここは砂漠のオアシスとも呼ばれるが、実際は魔所のようなアンダーグラウンドな部分をまるごと多く抱え込む、大東京は新宿の歌舞伎町なのだ。
人生経験の浅い、たかだか高校生の勇樹には迷宮のような場所だ。
ここは探偵、来栖要のフィールドであり、活動拠点なである。言ってみれば勇樹の方が異分子なのだ。
人の数だけ真実や世界があるように、彼らには彼らの繋がりがある。非合法とはいえ闇医者は追いつめられた人間の救済手段として成り立っている以上、立派な商売である。
場所をおいそれと、誰かれ構わず明かす訳にはいかないし背景もわからぬ真実は常に明かすべきだとは限らないとする、彼の行動原理にそぐわないのだろう。
勇樹は諦め、脱力してソファーへと座った。
来栖は能面のような表情をわずか和らげた。しかし、今度はより厳しく勇樹を見つめるのだった。
「…固い口を割らすのに、苦労した。奴とは…須藤とは一つ約束した事がある。クサい言い方だが、男同士の約束だ。
これから話す事は、同時に奴からお前へのメッセージだという事を忘れるな」
来栖は机の上で肘を立て、祈るように指を絡ませ口元を隠す仕草になった。鋭く赤い瞳が、勇樹だけを対象に真っ直ぐ捉えている。
…そして来栖要は須藤直樹の物語を始めた。
それはただのクラスメートに過ぎなかった勇樹には、決して見える事のなかった須藤直樹という人間のリアルな現実である。それは、川島由紀子を真ん中に据え、勇樹を光とするならば真逆の性質を持った合わせ鏡の裏側の、もう一つの世界の話だった…。
須藤はひょんな事から小学校からの自分の幼なじみ…川島由紀子がかの売春グループとコンタクトを取りたがっているのを知った。須藤は幼い頃から正義感の強い由紀子の性格をよく知っていたから、すぐに感づいたのだという。
おそらく由紀子は売春グループの実態を学園や警察に告発するつもりではないのかと。
詰問する須藤に由紀子はあっさりその通りよ、と白状したという。
事あるごとに須藤は由紀子を諌めた。件の売春グループはドラッグまで使う怪しげな噂まであったからだ。由紀子には危険過ぎる。そもそも学園の口さがない噂にしか過ぎない連中でもあるのだ。
しかし由紀子の決心は堅く、須藤の言葉に頑として耳を傾ける事はなかったのだという。
『心配しないで直樹。私なら平気よ。無茶しないから…大丈夫だから』
須藤は由紀子のニッコリと微笑む、明るい笑顔が耐え切れなくなった。
なんとしてでも由紀子の力になりたかった。それに、須藤自身も連中の事を知りたくなったのだという。
しかし素性も実態もわからない、しかして素人とはいえ警察の目さえ逃れ続ける、かの売春グループが簡単に尻尾を出す訳もない。
個人個人で勝手気ままに動き、決まった料金をぶん取るストリートガールや援助交際などとは違う。
連中は客層も援助の額も、コンタクトの方法も、一切が謎に包まれていた。
毒をもって毒を制す。
目には目。歯には歯。
須藤は、渋谷界隈を荒らし回るスカーズと名乗る不良グループの仲間に自ら関わる事で情報を集め始める事にした。腐った奴らばかりだった…須藤はそう来栖に話したという。
夜のクラブを拠点に強請りにたかり、ドラッグにオヤジ刈り。恐喝や暴力は日常茶飯事な奴らは金や刺激の為なら何でもやった。
バイクや改造車で方々を荒らし回る連中の姿は、今でもヘドが出る程だった。
『今思えばそんな奴らに関わりたいと思った俺自身も最低だ。
いまさらだけどよ…』
須藤は後悔の中で来栖にそう語ったのだという。
そんな折、リーダー格の男が傷害容疑の現行犯で捕まった。酔っ払った揚げ句、居酒屋で一人の会社員を刺してしまったのだ。
警察はすぐに嗅ぎつけてくる…余罪が明らかになり、馬鹿なリーダーがゲロすれば関わっていた者達に一斉に警察の手が及ぶ。
スカーズは解体せざるを得なくなった。
しかし、須藤は逆に警察に積極的にタレ込む事を提案した。
リーダーに全ての罪を引っ被せて、メンバーはリーダーの指示には逆らえなかった事にしてしまうのだ。
話のわかるフリをしていい人を気取って見せている中年の交番巡査や、生活安全課の人のいい刑事は既に抱き込んである。
万が一の救済措置として須藤が渡りをつけておいた、そんなお人よしな彼らに、須藤は徹底して友達思いな不良を演じたのだった。
刑事ドラマやホームドラマのくだらないワンシーンは案外に使えるものだ。絵空事ほどリアルなものだと、大人達は知っている。自供や自首ならば二十歳過ぎても仕事をしないフリーター連中なら、せいぜいが保護観察止まり。
有り難い事に少年院送りという温い刑罰が未だに浸透したこの国の少年犯罪も、自白を利用するという意外な逃げ方には弱い。
余程の事がない限り軽犯罪で摘発はされない。未だに法の網すらきちんと敷かない大人達が馬鹿なのだ。
付け入る隙はいくらでもあった。自ら軽犯罪をゲロして少しの間、拘束されるだけ。警察に便所を借りに行くようなものだ。
後ろ暗い噂は家族の破滅だと頑なに信じ、温かい家族というくだらない幻想を未だ後生大事に守っている、社会的な地位にしか興味のない昭和生まれの馬鹿親共がいくらでも必死で守ってくれるだろう。
臆病な連中はすぐに須藤の提案に応じた。逆らう奴は須藤自身が痛めつけてやった。元々腕っぷしの強かった須藤は、いつしかスカーズのリーダー格にまでなっていった。
…そして須藤はいつしか目的を忘れ、戻れなくなっていったのだという。
昼は学園で何食わぬ顔で学生をしながら、夜は誰にも、何にも縛られず生まれて始めて手にした権力と自由の謳歌を満喫するのは痛快で刺激的で、最高の遊びだった。
社会の鼻つまみ者の集団である彼らは決して一人にはなりたがらない。仲間意識は強く、馬鹿な奴などは須藤が望めば何でもやった。須藤の望むものは何でも手に入った。その頃には同年代の学園の女達など興味もなくなっていた。小中学生だろうが、援助交際だろうが、やりたい奴はやればいい。
買う奴も売る奴も退屈だからやるのだろう。
由紀子の事は気がかりではあったけれど、当時の須藤にとっては、もはやどうでもよかった。
しかし須藤の意に反して、聖真学園の売春組織の噂は程なくして須藤の耳にも聞こえてきた。
組織の名前が『ヘブンズ・ガーデン』と呼ばれる名前でインターネットを使って売春をしているらしい事。
『魔女』というダチュラの成分を用いた、相当トべるクスリを使って教師や企業の重役といった社会的な地位のあるオヤジ共を相手に売春をしているという噂も気になった。
ある時、須藤はあの運命の日を迎えるのだった…。
そう、それは正に運命としかいいようのない、全能な神に仕組まれ、かつ見捨てられたかのような最悪の偶然であった。
渋谷のセンター街から程近い歓楽街。その片隅に位置するラブホテル通り…。
須藤は見てしまった。
時刻は夕暮れ。
車の後ろ姿が狭い路地をノロノロと走っていくのが見えた。
明らかにこうした通りに慣れた感じの運転ではなかった。邪魔だな…それが最初の印象だった。
六月の欝陶しい霧雨がシトシトと降っていた…。
夕暮れ時にも関わらず、早くも辺りに灯り始めた、妖しくも淫らなラブホテルの看板の明かり…。
陰欝な暗さと甘酸っぱいような饐えた匂いが冷たい雨と同調する。それはまるで薄暗い逢魔ヶ刻を漆黒の夜へと染め上げるべく、悪意ある何者かが街をしとどに濡らしているかのように思えるのだった。
最初に見つけ、いやらしそうに話しかけてきた仲間の下卑た口調と顔つきは今でも忘れない。
『須藤さん…あれ!
ほら、見て下さいよアレ。うまくいけばあの援交カップル…強請りのいいネタになるんじゃないスか?』
気のない返事を返したように思う。正直そんなものに興味などなかった。
しかし…
見なければよかった。
須藤は凍りついた。
黒塗りの高級な外車の中から表れたのは、見慣れた聖真学園の制服の後ろ姿。
長い髪を後ろで留めた女生徒…。そして、その隣にいる背広姿にグレーの髪を撫でつけた中年の男は間違いなく聖真学園の校長、村岡義郎だった。
表情まで見えなかったが、二人は恋人のように腕を組み、寄り添うようにホテルへと入っていった。
女がさした赤いタータンチェックのビニール傘がクルリと回るのが見えた…。
須藤は茫然とその場に立ちつくしていた。
しかし、次の瞬間には携帯電話のデジカメで写真を撮っていた仲間を、須藤は訳もなく殴り倒していた。
リーダーのただ事ならぬ豹変ぶりを察知した他の連中が駆け付け、近くの路地に引っ張り込まれなければ、須藤は間違いなくそいつを撲殺していただろう。
拳から滴り落ちた、自分のとも相手のものともつかぬドス黒い血が雨に紛れて消えていく…。
降りしきる雨の中、嫉妬とも憤怒ともつかない歯止めの利かない感情は、いつしか獣のような咆哮となり、薄暗い路地裏にこだました…。怒りは頭の中で真紅に染まった紅蓮の炎となり、己の身体を灰になるまで焼き尽くすのではないかとさえ思った…。
それはもはや理性も人格も失った人という曖昧で不確かなモノが、得体の知れない境界を経て、深く、暗い底なしの深淵へと落ちていく瞬間だった…。
「後はお前も知っての通りだ…。
報復を誓った矢先に川島由紀子は死に、不可解な事実だけが残った…。
奴がお前を襲った理由はおそらく…」
「やめて下さい!」
勇樹は堪らなくなって叫んだ。聞きたくなかった。
「来栖さん、お願いです!その先は…その先だけは言わないで下さい…!」
「………」
来栖は険しい表情のまま赤い瞳を伏せ、僅かの間、沈黙した。
…が、残酷にも真相を告げる死神の言葉は止む事はなかった。
「奴からのメッセージをそのまま伝えよう…。
『奴らが『魔女』と呼ぶ、ダチュラを使ったクスリを一刻も早く回収しろ。
奴らを放っておけば際限なく人が死ぬ。
校長を始め、学園の後ろ暗い過去と裏の秘密を探っていけ。
由紀子は売春などしていない。口封じに殺されたに決まっている。
由紀子の為にも仇を討ってやってくれ…。
お前は俺に勝った。俺にはその資格はない。お前にしか出来ない…頼む』
…奴からは以上だ…」
勇樹には探偵の低い声が須藤の声と重なって聞こえていた…。勇樹は血が滲む程に唇を噛みしめ、拳を握りしめていた。
無知という己の罪…。
自分は何もわかっていなかった…!
身近にいる同じクラスメートの事さえ…!初めて唇を交わし、身体を重ねた相手の事さえ…!
好奇心猫を殺す。歪んだ事実は人までも狂わせるというのだろうか?
勇樹も須藤も由紀子も…。ただ知りたいと願っただけだというのに…。
過ちを糾す。誤りを正す。歪みを正す…。
方法はそれぞれ違っていたけれど、たったそれだけを願った、きわめて真っ当な意志が実は触れてはならぬものだというのか…。
だとすればそれは何だ!
勇樹はガラスのテーブルに乗ったタロットカードを見つめた。カードの裏側の泣き笑いのような表情をした太陽が、無知蒙昧な勇樹を嘲笑っているかのように見えた。
耐え切れずに勇樹はカードを裏返した。
荒野に堂々と立つ魔術師の姿が描かれていた。
探偵は何かを悔いるようにしていた勇樹のそんな所作を静かに見つめていた。
探偵はボソリと呟く。
「この事件はそのカード…魔術師のようなものだ。
限りなく曖昧で誤った不吉な事実が、長い時間経過と共に余計な深さを持ち、新しく組み上がった歪んだ事件が本来そこにあった境界をさらに曖昧なものにしていく…。
夕焼けの緋色か、朝焼けの緋色か…。事件の場に関わろうとする者は、不確かで蜃気楼のようなその事実に翻弄され、己の存在まで曖昧になってしまう。
しかし、その正体は実は、邪悪な悪意が生み出した下らないものなんだ。
奇術や魔術にしか見えない事実は、表層に浮かんだ謎の一つ一つに過ぎない。俺達は既に全能なる魔術師の組み上げた檻に囚われた哀れな鼠という訳だ」
来栖はこの世のものとは思えぬ暗い、嫌悪の表情を浮かべて言った。
「あんなもの(!)があるから、悪いんだ…」
その時、部屋の入口の白いドアを叩く、渇いた音が響き渡った。
「来たな…」
来栖要は何やら決意したかのような固い表情で、椅子から立ち上がった。 |