悪を呼ぶ花
10
思い起こせば成瀬勇樹が不良達とのいざこざを介して出会ったあの不思議な人物の出現…、花屋敷優介を始めとする警察の捜査が軌道に乗り始めるまでの過程…そして鈴木貴子が学園で不穏な噂を耳にしたこの時期というのは、あの稀に見る悪夢のような惨劇の壮大な前奏曲にしか過ぎなかったのかもしれない。
人はえてして偶然の散積としか思えぬ事象に共通のキーワードさえ見出だせば、それがさも必然だ運命だと関連付けたがるものだが、銀幕の舞台に上がった役者達は既に観衆ではない。
そして推理小説の読者のごとき、全能な視点を持った第三者も存在しえない。
観測行為それ自体が対象に影響を及ぼすという、この究極の矛盾に人は存外、無頓着なものである。
彼らはそれぞれがバラバラに散逸したパズルのピースをただ嵌め込み、そしてそれがバラバラであるが為に自らが描き出す絵の全体像を未だに掴めないでいるのかもしれなかった…。
ともあれ、その日の午後も事件を覆い隠す混迷の霧は未だ晴れる事なく、聖真学園は六月の欝陶しいじめじめした熱気を伴った昼下がりを迎えていた。
由紀子の実家での葬儀も終わり、午後は平常通りの授業の予定だった。
昼休み…。
鈴木貴子はぼんやりと頬杖をつきながら、図書室の窓から望む中庭の景色を眺めていた。皮肉な事に気まぐれな梅雨時の空は正午頃にはからりと晴れ、久しぶりに姿を表した太陽の光が、キラキラと眩しく木々や草花を輝かせていた。
天を仰げば、抜けるような蒼穹が夏の訪れを早くも予感させる。
中庭ではおそらくは公認のカップル達が恋人の為に作ったのであろう、お手製の弁当を広げたりキャッチボールをする男子生徒達もいたり、軒下で本を読んでいる生徒もいた。
この図書室は校舎の2階にあり、教室からも近いせいか貴子と同じ2年生の生徒達の方が多く利用する。
昼寝にはもってこいな環境であるせいか、昼休みのこの時間は体育会系の部活に所属している生徒達が午後の練習や授業に備えて仮眠していたりもするのだが、今日は誰もいなかった。
もしかしたら勇樹は午後に登校してくるかもしれない…いるとすればここだろうという僅かな期待を込めてここで昼食をとる事にしたのだが、どうやら無駄足になりそうだ。
母親が元気を出すようにと気を遣って、いつもよりボリュームのあるお弁当を用意してくれたのだが、例によって食欲のない貴子は母親に申し訳ないと思いつつ、結局かなりの量を残してしまった。
味のしない昼食を早々に切り上げ、貴子はつらつらと勇樹や由紀子の事件の事、それに対する学園のおかしな…ある意味で冷たくも常識的な例の対応について考えを巡らせていた。我ながらおかしなもので、勇樹に協力を頼まれてからというもの、貴子は以前よりもクラスメート達の同情に満ちた視線や、元気を出してと気にかけてくれる言葉の一つ一つが気にならなくなってきていた。
もちろん完全に安定したという訳ではない。そうした感覚はこれから生きていく過程の中にあっても多分に思い込みや幻想に過ぎないと思うからだ。
どうした所で世界から戦争や犯罪がなくなる訳はないし、悪意が消えてなくなる訳もない。テレビのニュースや新聞を眺めているだけでも暗澹とする事の方が多い。安定など実はどこを探してもない事に気付く。
退屈で似たような日常を繰り返す行為を、平和や平静と錯覚させ誤認させてしまう所が、実は社会というものの一つの機能なのかもしれぬと思うからだ。
いつまでも心の傷だ悲しみだと過剰に意識し続ける行為は停滞に過ぎないし、貴子もそんなふうには出来ていない。
だから今は由紀子の為にも何かしていたかった。勇樹が言っていたようにそれが由紀子を忘れない事なのかもしれない…。
それにしても…
一人の人間が狂ったように笑い続けるという、この事件の最大のキーともいえる理由が貴子には未だにわからないでいる。
一体あの時計塔で事件の前に何があったというのだろう…?
由紀子が自分から飛び降りなければならぬ程の、その理由とは何だ?
貴子は事件のあった当日、由紀子とは会っていない。授業中には見ているが、それこそ淡々といつも通りに振る舞っていたし、自殺するようなそぶりなど何一つなかったように思う。
その辺りも自殺説に対し、勇樹や貴子が違和感を感じる所以である。
もしも…貴子の知らない、由紀子のもう一つの顔(!)があったとしたら…。
そこまで考えて貴子は愕然とした。貴子は親友のプライベートな部分はまるで知らない事に…。
登下校はといえば、貴子の住所は祐天寺だし、由紀子の実家のある小石川は正反対の方角である。
部活が終わり、二人が一緒に帰る時にはいつも貴子の方が先に別れるから、その後に由紀子がどのような事をするかまでは貴子も与り知らぬ事である。
もしも…
もしも貴子の死に不自然な点が…もっと極端に考えれば誰かに殺害されたのだとすれば、その動機となるのは由紀子の私生活の方にこそあるのではないか…?
『…死んだY・Kは誰にでもヤらせる女で超有名』
時計塔の魔術師と名乗る、謎の人物によるあのブログの書き込み…。考えたくない事だが傍証ならある。
いや…。
貴子は一人ゆるゆるとかぶりを振る。
仮に由紀子がそうだとして殺されるほど誰かに憎まれていたにしても、殺害の理由にはなりえない。
男女関係の縺れイコール即殺人では短絡的過ぎるし、それほどの人物の存在が由紀子の周辺にいたならば、いくら貴子がそうした感情に鈍感であっても由紀子が巧妙にその存在を隠そうとしたとしても、さすがに気付いただろう。
だからこの場合、わからない事はわからないと棚上げにしておくしかない。
では…仮に殺害だとしてその方法とは何だろう?
貴子が目の前で目撃した以上、誰かに突き落とされた訳では当然ないし、遠目に見ても由紀子が人事不省に陥る程の怪我をしていたような感じもなかった。
貴子は思い出す。
未だに生々しいあの常軌を逸した記憶をなぞる。
吹きすさぶ強い風…。
辺りから聞こえる生徒達のガラスの割れるような引き裂くような悲鳴…。
フェンス状の金網に腰掛け、ただただ痙攣したように笑い、おかしそうに手を叩き、ガシャガシャと踵で金網を蹴り続ける由紀子…。赤いチェック柄のスカートが風になびき、長い髪を振り乱して…。
…え…?
思わず凍りついた。
長い…髪…?
風に…なびいて…?
待て。
待て待て待て…!
由紀子は髪留めを滅多に外したりしない!いつもユラユラと垂らした由紀子のトレードマークとも言うべき長めのポニーテール…。それを留めている、あの中心が十字型に盛り上がり、偏光グラスが入ったムスカリとかいう赤い髪飾り…。
これは貴子しか知りえない情報のはずだ。貴子はあまり付けないが同じ種類の青い物なら持っている。学校帰りにデパートで一緒に由紀子と買ったのは貴子だからだ。お気に入りのファッションアイテムを見つけて子供のようにはしゃいでいた由紀子との会話を、貴子は思い出していた。
『これ可愛くない?この髪留め、大好きな人の前でしか絶対外さない。アタシの勝負アイテムにする!』
『使い道ないクセに』
『失礼ね!今はないけど絶対来るもん!貴子も買いなよ。お揃いのにしよ?こっちの青いのはどう?』
ざわりと寒気にも似た震えが貴子を襲う。何かしら決定的に不自然な違和感を掴んだ気がする。
あの髪留めは授業中には間違いなく付けていた。
あの髪留めがもし放課後、あの時計塔で由紀子の手によって自発的に外されたのだとすれば…。
今の所は飛躍にしか過ぎないが、これは由紀子が自殺したのではない事を裏付ける一つの証拠となりえるものではないのか?
由紀子は誰かと待ち合わせをしていた。そしてその人物は…
そこまで考えた。
その時だった。
「しかし困ったわね…。
由紀子がもしアレを持ち出したんだとしたら私達だってどうなるか…」
「しっ!声が大きいって!とりあえず図書室に行きましょ。昼休みも終わるし、今なら誰もいないわ」
「うん…ゴメン」
…え?
…由紀…子?
足音は徐々にこの部屋へと近付いてくる。
…隠れなきゃ!
ただならね気配を感じ貴子は反射的にたくさんの蔵書の詰まった書架の並んだ、部屋の奥の死角へと身を隠した。ガチャリとドアの開く音と貴子が書架の間に滑り込むタイミングはほとんど同時だった。
息を殺し、物音を立てないように膝を折り曲げ、身を屈める。スカートがひどく邪魔だ。
…お願い!見つかりませんように!
普段は毛程も信じてはいないクセに、この時の貴子はちょうど神に懺悔の祈りをする時のような姿勢で固まっていた。
足音は二人のようだ。貴子はヒヤヒヤしながらもそっと聞き耳を立てる。
「誰もいないわね…」
「そりゃそうでしょ。
どこの部活も今日はないみたいだし、こんな所に来て寝てるバカも今日はいないわよ」
ガタンと音がした。貴子は思わずビクッと縮み上がった。
椅子を微かに引きずるような音がする。たんに座っただけのようだ。
…ビックリさせないで!
貴子は内心見つかったのではないかと思ってビクビクしていた。心臓がバクバクと張り裂けそうだ。
まさかこんな所にこんな奴がうずくまっているとは誰も思わぬだろう。
「…静かね」
「うん…。今はね…」
居心地の悪い沈黙が僅かの間、部屋を支配する。
来訪者は二人だ。ニメートルはある書架越しであるから当然顔は見えない。
かなり深刻な空気を感じ、貴子は律義に呼吸まで止めて、さらに息を潜めた。
「けどこれからどうなる事やら…。
ウチらどうなるんだろ…。やっぱ警察とかがいきなりウチらを捕まえに来んのかな…」
「わかんないよ。このまま見つからないかもしんないじゃん」
「ダチュラは何て言ってたの?」
「今は何もするなって。
由紀子…ローズの事は放っておけって」
「だからアタシは反対だったのよ!あの女、新参者で客もとらないクセに口だけは出してきてさぁ。
新聞部と掛け持ちしてたし最初からアタシ達をタレコむつもりで入ってきたに決まってるよ!」
「リリー!少しは落ち着きなよ。ローズの横の繋がりがなきゃアタシらだってヤバかったんだよ」
「わかってるわよ!
けど…けど…」
再び沈黙が訪れた。
窓の外の中庭から男子生徒達の声がする。
貴子は自分の身体が足元からひんやりと冷たくなっていくのを意識していた。
ダチュラ…。ローズ…。リリー…?
お互いの名前を花の名前で呼び合っている。おそらくはコードネームや暗弥の類なのだろう。
一体なんの為に…?
何者かはわからないが、はっきりしているのは名前をおいそれと明かせない、後ろ暗い活動をグループ単位でしている連中だという事だけだ。そしておそらくは由紀子も…。
「これからどうする?」
幾分幼い感じの声が、リリーと呼ばれた少女に呼び掛けた。この少女にも同じように花の名前の暗弥があるのだろうか?感情の起伏をあまり相手に悟らせまいとするような、慎重な話し方をする少女だ。
「普通よ。アタシはダチュラの指示通りに普段通りに過ごす事にするわ。サバトもギフトもしばらくはないだろうし、普通のJKライフを満喫するわよ。
…ガーベラは?」
リリーが鼻白んだように事もなげに答え、今度はガーベラと呼ばれた少女に問い返す。このリリーという少女は幾分か、声のトーンが高い。ガーベラとは対照的で内緒話がおよそ向くような感じではない。
「私もよ…。あまり派手に動かない事にするわ。まぁ警察だって証拠がなきゃ捕まえには来れないし」
「まあね。時計塔の魔術師とか言ったっけ?誰か知らないけど、超ムカつく!
本当に余計な真似してくれたわ!」
バン!と平手で机を叩く音がした。
貴子は再びビクッと身を竦めた。このリリーという女、本当にこちらの心臓に悪い。言葉や態度の一つ一つに刺がある。おしとやかそうな名前にはおよそ似つかわしくない。
「ねぇ、こんなコトすんの誰だと思う?まさか、ウチらヘブンズのメンバーじゃないよね?」
「まさか!ビビって味方を売るような奴がアタシらの中にいる訳ないじゃん。
一人が捕まったら芋蔓式に顔が割れてくのよ?
そんなヘマしないって」
「そうね…。掟を破る奴なんかいる訳ないか…」
「でもアレをローズが持ってたとしたら、実際ヤバイ事になるんじゃない?」
「それなんだけど…警察はまだ何も見つけてないんじゃないかしら…」
「…何それ?」
「だってそうでしょ?アレが見つかったら真っ先に疑われるのはアタシ達の方じゃない?
おそらくまだ警察は見つけてない。ローズ…ううん、由紀子の死体からも実家の方からもまだ何も出てないからこそ、アタシ達に捜査の手が伸びてこないのよ」
まだ幼い感じの残る声だがこのガーベラという少女…ひどく理知的な感じを与える。それが貴子には逆に怖かった。
考えてみれば貴子はとんでもない会話を耳にしている事になる。そして今、急速に危機が迫っている自分の立場に初めて気付いた。
…もしこの人達に見つかったとしたら…。
考えたくなかった。ぶるりと背中に悪寒が走る。
「どなたかそこにいらっしゃるのですか?」
貴子は三度ビクリとする。…今度こそ見つかった!
貴子は自然と頭を抱えてうずくまっていた。
しかし、すぐさまそうではない事に気付いた。
今の声はガーベラでもリリーでもなく、もっと柔らかく気品に満ちていた。
この声…
ドアが開く音がする。
「あ、一条先輩…」
リリーの怯えたような声が聞こえる。
やはりそうだ…。貴子はそっと胸を撫で下ろした。
一条明日香。
この学園でおそらく、その名前を知らない者などいないだろう。
成績優秀、容姿端麗。有名な代議士の娘でもあり、学園の生きた伝説。現生徒会長で教師達のウケもいい。近隣の高校からも彼女見たさに、大勢の人が放課後になると校門に詰め掛ける程で、男子生徒達にとっては目にする事さえ光栄とされる高嶺の花である。
国民的美少女コンテストにも選ばれた事もある、将来は有名芸能人とも一流モデルとも噂される、絶世の美少女である。
「もうすぐチャイムの鳴る時間です。ここももうすぐ閉めますから、そろそろ教室に戻られた方がよろしいですわ」
判で押したような、お嬢様言葉だが不思議と嫌みな感じはしない。繊細で柔らかく、温かみのある声だ。
「あ、あの…ゴメンなさい!すっ…すぐに戻りますから!」
リリーの慌てふためいた声がする。よほど動転しているのか、同時にガタガタと軋んだ音を立てて木製の椅子を引く音がした。
「ふふっ…そんなに慌てなくても大丈夫。まだ間に合いますわ」
「す、すみません一条先輩!し、失礼します…」
今度はガーベラの声だ。
冷静で慎重な感じのする子だと思っていたが、さすがに役者が違うらしい。
「ふふっ…そんなに畏まる必要ありませんわ。
私にもわかります。女同士友達同士のお喋りはつい時間を忘れてしまいますものね」
「し、失礼します!」
そう同時にハモったかと思うと、二人の足音が徐々に遠ざかっていく。
貴子は身体中の力が一気に抜けていくのを感じた。
まったく…今日は最低最悪の日だ。できる事なら何も考えず、倒れ込んで泥のように眠ってしまいたい…。貴子は自分の部屋のベッドがこれほど恋しいと思った事はなかった。
「さて…鈴木貴子さん。
そこにいらっしゃるのでしょう?
ドアは開けておきます。
貴女も早く教室に戻られる事ですわ」
柔らかさの中に有無を言わさぬ迫力で、一条明日香は高らかにそう告げた。
蜘蛛の巣にかかった獲物の気分は、恐らくはこんな感じではないだろうか。
何かしら取り返しのつかない過ちを侵してしまった気分になる…。貴子は氷のベッドに無理矢理押しつけられたように急速に、己の体温が冷えていくのを感じていた…。
…やはり今日は最低最悪の日だ。 |