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鬼のユメ
作:狐狸川ゆうら



第十幕:慟哭


「僕、分かったんだよ。アイツに触られた時、僕が過去に何をしたのか…。全ての元凶は僕だったんだ」
 幸人くんはゆっくり私の腕を放した。目を伏せ、覚悟を決めたように言葉を続ける。
「…だから、京さんは僕を殺す権利がある。アイツに引き渡したって構わないよ。京さんの、好きにしていいよ…」
 弱々しく幸人くんは私に微笑みかけた。
 ギリリッと体が軋む。
 ソウダ、コイツダ。
 頭の中で声が響く。
 憎イ…苦シイ…赦サナイ…赦セナイ…。
 体はそれに呼応して急速に変化していく。
「う…あ…う、うわぁぁぁ!!いや…いやだぁぁぁ!!!」
 赤い閃光が私の目を塞ぎ、強制的にあの忌まわしい光景を見せ付ける。首を容赦なく締め上げる男の指、憎しみで煮え立つ熱く鋭い視線。
「ぐっ…はっ…あ、あ、あぁ!」
 首が痛い、息が出来ない、苦しい、苦しい、苦しい!無意識に喉を掻き毟る。焼け付いた針が体中を駆け巡る様な痛み、涙が頬を伝う。
「や、だ…」
 ドクン。
 胸を突き破って、今にも心臓が飛び出しそうだ。
 ドクン。
「かはっ…」
 膝が崩れ、両腕を地面に付く。
 汗なのか涙なのか…頬を伝い床に丸い後を残す。
「京さ…」
 戸惑いながら幸人くんが私へ手を伸ばす気配が伝わった。
 パリン。
 薄いガラスが砕け散った音が、耳の奥で大きく響く。
 それは、私の中で何かが砕けた音…均衡を保っていた天秤が大きく一方へと傾いた。
 鋭く伸びた私の爪が、幸人くんの胸へと空を切って向かう。
 切り裂かれた風が、小さな悲鳴を上げる。床に散った水滴が舞い上がり、私と幸人くんの周りに緩やかな半円を描く低い壁が数個生み出した。
 ザシュ…頬に生暖かい飛沫が振りかかる。
 幸人くんがその目を無言で大きく見開く。
 そして…。
「京、感情をぶつける相手を間違えてるぞ?お前の全ての感情は、喜びも、悲しみも、痛みも、苦しみも……憎しみも、全て俺が受け止めると言っただろう?」
「私は、貴方と約束したわ。京、貴方が暴走した時は…私が止めるって」
 凪が幸人くんの前に立ちはだかり、私の手をその胸へと導いている。そして、私の腕には芳華の放った糸が絡み付き、動きを完全に封じ込めていた。
 私にかかった飛沫は、己の物。不思議と安堵の思いが心に湧いた。
「京、くだらない事でお前の手を血に染めるな。コイツのつまらない自己満足に付き合う必要は、ない」
「那岐、違う!僕は…」
 鬼気迫る面持ちの幸人くんは、凪の肩に手を置き、自分の体をその前に出そうとする。だが、凪は頑として動かない。それどころか、幸人くんに顔すら向けようとしない。
 頬に朱が走るほど怒りに満ちた凪の顔は、子供とは思えないほど大人びている。
「何が、違うだと?まさか、お前、責任を取るとか言うんじゃないだろうな?京に殺されれば、お前が京を鬼にした責任を取れるというのか?ハッ…冗談言うな。それで京が人間に戻れるのか?違うだろう?そんな事は、前が自分の罪悪感から逃れたいだけの詭弁だ!いい加減にしろ!!お前は自分のつまらない格好の為に、また更に京へ苦しみを背負わせるつもりか!?もし……本当に償いたいなら、その気が少しでもあるんなら、自分の罪は自分で背負え。人に押し付けるな!!」
 凪の言葉は他のどんな凶器よりも鋭く私と幸人くんの心に深く突き刺さった。
「それと京、お前の手を染るのは俺だけだ。忘れるな…」
 凪が私の手に優しく口付け、滲んだ血を舐め取った。
「あ…」
 全身の力が抜け落ちる。腕に絡まっていた芳華の糸は、いつの間にか消えていた。
「驚いた?最近は用途によって、ワイヤーと糸を使い分けるのよ。ま、今のが凪なら迷わずワイヤーを使っていたけどね」
 芳華がさも面白そうにニヤリと笑った。
「安心しろ、その前に俺がお前を消してやる」
「あぁら、それはどうかしら?」
 睨み合う凪と芳華。何処までが本当で、何処までがふざけているのか時々分からなくなる。
 でも、そうだ。
 今、私が幸人くんを殺してどうなるというのだろう?
 結局、何も変わらない。
 しかし赦せるかと問われれば、私はきっと首を縦にも横にも振る事は出来ないだろう。
 あれはもう過去の事だ…そう割り切れる程、私は強くない。
 でも…もしかしたら、凪や芳華が居てくれる今なら、憎しみを少しずつ忘れる事ならば出来るかもしれない。
「…ありがとう」
 擦れて上手く声が出ない。瞼をゆっくり閉じると、涙が溢れた。
 そして幸人くんはその場に蹲る様に泣き崩れていた。
 きっと、彼は彼で私とは違う暗い闇を歩いて来たのだろう。
 …たった一人で。
 それはなんと悲しく、苦しい事か。そして、未だ彼の闇は底知れず果てなく続く。
 でも私はそれを知って居ながら、手を差し伸べる事をしない。
 ただ、遠くで眺めるだけ。
 これが私なりの復讐の仕方なのだろうか?だとするならば、こんなにも酷い仕打はない。
 少しだけ、私の胸のつかえは軽くなった。
 ふと、人と鬼の違いを考えてみる。
 一体外見以外の何処が違うのだろうか?己の快楽を己の満足を優先する…そこに違いは存在するのだろうか?
 きっと、微妙な差こそあれ違いはないのかも知れない。
 だから…人は鬼になれる。
 私は己の心を奮い立たせると同時に、立ち上がる。今はそんな事にかまけている暇などなかった筈だ。
 どれ位の時間を消費したのか、慌てて私はムジナの姿を探す。だが既に先程までムジナの居た場所は、大量の血痕を残すのみ。
「しまっ…」
 漠然とした不安は直ぐ形となって現れた。
「キ、キ、キ、残念だったな、え、チビ。キヒヒ」
 切り離された筈のムジナの腕は新たに生え変わり、既に傷も癒えていた。
「キ、キ、キ、面倒臭い事してくれるじゃねぇか、え?お前ら。急いだ所為で指の長さが変わっちまった。キヒ、責任を取って貰わなけりゃなぁ?え、キヒヒヒ!」
 ムジナの顔は今までの形相と変わっていた。白目である筈の部分は黒く染まり、瞳の色が赤くなっている。
 それだけではない、口は狐のように前にせり出し、ゾロリと鋭い鮫の様な牙が覗く。長く伸びた細長い舌が床へと唾液を滴らせ、今にも獲物を狙って伸びて来そうだ。
 冷や汗が頬を伝う。
 そして私は見落としてはならない重要な事を忘れていた。
 ガクン、私の足が何者かによって掬われる。大きく後ろへ均衡を欠いた私の体は尻餅を着いた。そして、すぐさまその何者かが、スルスルと私の喉元を目掛けて襲いかって来る。
 急いでそれを掴もうとするが間に合わない。
 辛うじて目で追う事が出来たその正体は、先ほど切り落とされたムジナの腕。しかし既にそれは腕と云うより、独立した意識を持った妖異そのもの。
 掌にバクリと真一文字に亀裂が走り、あろう事かそこから覗くのは鋭い牙と蛇の如くのたうつ長い舌。
「馬鹿な…!」
「キ、キ、キ、ヒャハハハ!!死ネェェ!」
「させるか!!」
 芳華の叫びと共にその指から無数の細いワイヤーが放たれる。反射的に凪が私の首元に覆いかぶさる。
 全てが一瞬の出来事だった。
 バラバラ…ビチャリ。
 嫌な音が耳の中に木魂する。気が付けば芳華のワイヤーがムジナの片腕を非常に細かい肉片に変えていた。
 また、それとほぼ同時にくぐもったうめき声が聞上がる。
「ぐ…うぅ…」
 確か、切り落とされた腕は二本。背筋に言いようのない、氷の様な感覚が走り抜ける。
 声の方を向くのが怖い。
 けれど見ずには居られなかった。
「ぬぅぅ…」
 ゴフリと翁の口から血が吐き出される。
 私は思わず口元を覆うと同時に青ざめた。
 低く折れ曲がり、背丈が小学校の低学年程しかない翁の喉元に、もう一本の切り落とされた手が食い込んでいた。
 ミチミチと更に奥深く食い込んでいく音が聞こえる。
 芳華がワイヤーでその手を切り刻むが、掌部分だけがどうしても離れない。
「キ、キ、キ、じじぃ得意の防御はどうしたんだ?え?キヒヒ!人間の餓鬼なんぞ守って何になる?え?」
「ふぇふぇ…。お主、には、…分からんじゃろうて、のぉ…」
 翁は、笑っていた。
「ふんしゅー…。分からん、じゃろうて…」
 己の喉へ食い込む掌を、翁は掴んだ。
「のぉう、京。わしゃぁ、これで良い。これで、いいんじゃぁ。これで、ようやく…」
 翁は私に向かい、穏やかな満面の笑みを浮かべる。
「そんな…翁、いやだ!駄目…!!」
「長い、長い…時間じゃったぁ…」
 過去を懐かしむ翁の声。それはとても穏やかで、満ち足りていて…。
「ふんしゅー……。ようやく……叶う…」
「翁ぁぁ!!」
 私の悲鳴が部屋中に響き渡った。












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