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鬼のユメ
作:狐狸川ゆうら



幕間・紅


 人を、ただ純粋に想うとはどんな感じなのだろう?
 人に、ただ純粋に想われるとはどんな感じなのだろう?
 私の手に入れるモノ全て、視界に入るモノ全て、自分自身の力で得たモノなどあるのだろうか?
 得られたモノなど、あっただろうか?
 いいや…それは全て父上の物。
 地位も名誉も全てを思うままに手に入れる男。
 私はその一部。
 父上の思い通りに動く駒。
 私は今まで一度も自分の意志など持った事などない。儚い私の存在など、いつでも父上の言葉一つで否定も肯定もされる。
 父上が私の全てであり、私は曖昧な自分の存在をそれに必死に縋って保とうとする。
 消えないように、消えないように、自分が消えないように…。
 でもある日、父上の美術品の中であるモノを見付けた。
 それは、私の目を開かせた。
 暗かった世界に、光を与えた。
 部屋の中にちょこんと座る人形。
 いや、違う…?
 長い睫毛に縁取られた瞼を静かに開閉し、小さく開いた桜色の唇がゆっくりと引き結ばれる。
 私はいけないと思いながらも、その人形に近付く。
 此処は父上の美術品の部屋だ。もし、万が一にも何かを壊すなどあってはいけない。着物のすそたもとに細心の注意を払う。
 近付けば近付く程、その繊細な美しさに驚かされる。
 真珠のように白く艶やかな肌、肩口に流れる緑の黒髪は自身が輝きを放っている様だ。
 そして、控えめで桜貝のように鮮やかな唇、美しく完璧な曲線で描かれた眉の下には、黒曜石の如く輝く瞳。
 どれを取っても紛い物など存在しない、完璧な美だ。
 息をするのさえもどかしく、その姿を見詰め続ける。時を止められるのならば、今この瞬間で永遠に止めてしまいたい。
 欲しい。
 私は心の底からそう願った。
 しかしこれは父上の物だ。私には決して手の届かない、遠くにあるモノだ。
 けれど…。
 途端に触れたいと強い衝動に駆られる。駄目だ、触ってはいけない。
 でも。
 ゴクリと唾を飲み込む。いけない、触りたい、駄目だ、触れたい、せめぎ合う心が一粒の汗となって米噛みをするりと伝い落ちた。
 着物の裾を、強く握り締めて己を抑制する。
 そうだ、父上の了解を得ればいい。この人形に触れることを前もって父上に言っておけば、怒られる事はない。
 嫌われる事はない。
 私の心は浮き立った。そうだ、そうすれば何も問題などない。私は急いで立ち上がると、抑え切れず興奮で熱くなった体を慎重に動かす。
 そう、此処にある物全て、この世に二つと存在しないとても貴重な美術品…壊すどころか傷の一つも許されない。
幸人ゆきひとそこでなにをして居るのだ?」
 ビクリと体が強張った。竜笛りゅうてきの様に空間を鋭く裂き、響き渡る声の主は父上だ。無断でこの部屋に入ってしまった…きっと怒られる…。
 喉の奥がギュッと締め上げられ、返事が返せない。
 人一人分、開いた障子の隙間から、父上の怪訝な顔が見える。
「どうしたのかと、聞いておる」
「…あ、あの、障子が少し開いていて…その、閉めようと…して…」
 チラリと後方に視線を落とす。
「ですから…あの、その、奥にある人形が、あまりにも美しかったものですから…つい、もっと良く見たくなって…む、無断で申し訳ございませんでした…!!」
 私は泣きそうになりながら、父上に向かってこうべを深々と垂れる。
 どうしよう、きっと怒らせてしまったに違いない。父上に嫌われたら、私は一体どうすれば良いのだろうか?どうすれば赦してもらえるのだろうか?
 緊張と恐怖が膝を震わせる。私は知らずと俯き、口元を左手で隠す仕草をしていた。
 するとそういう時、決まって父上は呆れたように溜め息を吐く。私にとってそれは…はっきりと情けない、使えない奴だ、と言われている様に聞こえる。
 汗ばんだ右手は、白くなるほど強く着物の裾を握り締めた。
 長い沈黙。いや、単に私が長く感じただけで、本当はほんの少しだったのかも知れない。
「幸人、お前が美術品に興味を示すとは珍しい。ふむ…その人形、気に入ったのならくれてやろう。私にはどうせ世話など出来んからな。ほれ、もって行くがよい」
「…!?」
 我が耳を疑う言葉。
 これは夢ではなかろうか?余りの驚きで伏せた顔を勢い良く父上へと向けた。
 だが目の前にあるその表情は、感心とは程遠く、慈しみを持っているでもなく…要らない物を処分する、ただそんな感じだった。
 私は一体何を期待したというのか…不思議と心の片隅で、苦い落胆をほんの少し噛み締めた。
「どうした、要るのか?要らんのか?もって行くならサッサとするがよい」
 私が直ぐに返事をしなかったせいで少し苛立った声音だ。
 しかし、私はそれでもなお天に昇る思いがして舞い上がっていた。
 この人形が私のモノになる?本当に?私だけのモノに…?
 震える唇が、自然と喜びで弓のように半円を描く。
 私だけの、モノ。
「ありがとうございます、父上。この幸人、父上から頂きましたこの大切な人形、生涯大切にしとう御座います」
 不思議と澱みなく言葉がつらつらと滑り出る。
 ついに手に入れた…私だけの、モノ。
「…ふむ。好きにするがよい」
 私はサッと踵を返すと、人形の冷たくなった手を取って立たせる。それは私の手の導くままに動き、抵抗をしない。
 嬉しさを隠す事が出来ない。そのせいか頭が真っ白で、まるで体がフワフワと宙に浮き、漂っている様だ。
 父上の前を深々と頭を垂れて神妙な面持ちで自室へと向かう。
 だが本心は大声で叫び、笑いたかった。
 願った物が手に入る。それはなんと素晴らしい事だろう。
 体中を喜びのむず痒さが駆け巡る。
 なんと言われようとも構わない、どんな目で見られようとも構わない、私はこの世で最も素晴らしいモノを…ついに手に入れた。
 私は自室に着くなり、障子を全て閉め切って侍女も全て下がらせた。
 目の前に居るのは私が今まで焦がれたモノの全て。
 その姿は幼女が着る様な衣装に包まれ、前髪は眉の辺りで、後ろ髪は肩より少し下で切り揃えられている。幼顔おさながおと小柄な体の所為で、その衣装に違和感はない。
 けれど、きっと本来の歳は私より幾分か下ぐらいではないだろうか?
 私はおもむろにその小さな体を力任せに抱き締め、全身で喜びを噛み締めた。
「名はなんと言う?歳は幾つだ?」
 腕の中で小さな頭が左右に力なく動いた。
「どうした?言葉が分からないのか?」
 再び、小さく振られる頭。
「…しゃべれないのか?」
 今度は小さく頷いた。
「そうか…」
 私は益々そのモノを愛しく感じた。
 私が居なければ、このモノは生きていけない。私が居なければ、何も出来ない。このモノは無条件で私を必要としている。
 そう…無条件で私を必要としている。
 胸の中から言いようのない震えが込み上がり、生み出される痛みと苦しさを私は満足の思いで受け止めた。
「名がないのは不便だ。べに…紅と言うのはどうだ?お前にきっと最も似合う色だよ」
 その夜は眠るのさえ惜しく、紅の寝顔を一晩中眺めていた。
 まさか私の人生の内で、こんなに素晴らしい日が訪れるとは夢にも思わなかった。喜びが生み出す充足感が、今まで無味乾燥だった私の世界に彩と潤いを与えた。
 そして、充足と輝きに溢れたその生活は私が死ぬまでずっと続くのだと、淡い期待で胸を高鳴らせた。
 そう……続く筈だった。
 しかし、夢の様な時間はその訪れと同じく、突然の終わりが待っている。
 紅を手に入れた私は、翌日から変わった。
 心に余裕が出来たからなのか、仕事も人付き合いにも張り合いがあり、全てが面白い程に上手く行った。それこそ、父上に頻繁にお褒めの言葉を掛けて貰える様にもなった。
 楽しかった。
 毎日が楽しくて、楽しくて、光に満ち溢れていた。
「よう、幸人!最近なんだか機嫌が良いな。さては、通う女でも出来たのか?」
 ニッと口角を吊り上げ、同僚がからかう。
「…まあ、そんな感じかな?」
 以前の私だったら、無視をするかピシャリと強い口調で撥ね付けていただろう。
 でも今は違う。
 やんわりと笑顔で受け流す。
 それを見ていた、私の唯一の友人が驚いた様に声を上げた。
「なんだ、そうなのか幸人?そんな大事な事、何で俺に言ってくれないんだ?」
 捨てられた犬の様な目をする。
 普段の彼は自信に満ち溢れ、誰からも一目置かれる存在だ。その上、父上に非常に気に入られ、いずれは妹の婿にと言われている。
「ごめんごめん、風凪かざなぎ。色々忙しくてつい言いそびれちゃって…」
 今度は心の篭った笑みを浮かべる。
 そうだ、風凪ならば紅の事を言っても良いだろう。きっと驚くに違いない。
 私は風凪に初めて勝った気がしていた。
 風凪は私の大切な友人であると共に、私の持って居ないもの全てを持っている憎むべき存在でもあった。
 私は風凪と共に居る事で多くの辛酸を舐めてきた。
 人を惹き付ける屈託のなさと、太陽の様に温かく力に満ち溢れた輝く瞳。男でも女でも、風凪を悪く言う奴など一人も居ない。
 書も歌も楽器の演奏も馬術も…どれを取っても人より全て抜きん出ていた。なのに、彼を妬むものは居なかった。
 …私を除いては。
 私は彼の素晴らしさを目の当たりにする度に、己の不甲斐なさを突きつけられて居るようで嫌だった。
 容姿ですら私は風凪に敵わない。
 逞しく肉厚な胸板、背が高い上に、精悍という表現が最も似合う整った顔立ち。どんなに背伸びしても追いつけない。きっと私は風凪の隣に並ぶ事すら赦されない。
 私など、家柄を除けば取るに足らない塵の様な存在だ。
 なのに、何故か風凪は私を友と呼んだ。また、私にとっても風凪は、家ではなく私個人を認めてくれる唯一の友である事には変わりなかった。
 だからこそ、私は風凪より何か一つでも、優越感を持てるモノが欲しかった。
 一言、風凪の口から羨ましいと言われたかった。
 そうすれば、どんなに負けていたとしても、救われる様な気がしていた。
 …しかし、結局どんなに足掻いた所で、所詮私は風凪に勝つ事は出来なかったのだ。
 何処までも人に真っ直ぐで優しい風凪、反対に己を曝け出せず劣等感の塊である私。
 所詮、初めから勝てる筈などなかったのだ。
 だから、風凪が私の紅を変えてしまった。
 どんなに私が紅を愛し、求め、尽くしても、一度たりとも紅は心を見せた事がなかった。私が紅を求めれば、紅はそれに応じる。しかし、紅が私を求める事は一度もなく、微笑みさえも向けてはくれなかった。
 なのに、風凪に対する態度は明らかに違った。
 頬を染め、俯く顔。
 風凪が紅に何かしたとは思えない。風凪はそんな男ではない。
 けれども、風凪にただ会っただけで紅は変わってしまった。
 その現場に足を踏み入れた私は、ガラガラと足元が崩れ、深く暗い奈落の底に落ちていく様な感覚に陥った。
 ど…う…し…て…?
 私には何も手に入れられないと言うのか?
 私にはその資格がないと言うのか?
 ならば、何故、私にそんな甘美な夢を味あわせた?
 夢の後に来る絶望は、心にあってはならない感情を生み出す。もう抑えられなかった。今まで押し殺してきた感情が、全て爆発した。
 あんなに愛しかった紅が、一瞬にして薄汚れた穢らわしいモノに変わった。
 赦せない。
 何故、私ではなく風凪を見る?何故、私を見てくれない?何故、私を求めてくれない?愛してくれない?
 私はこんなにも紅を想い、見詰め、愛し、求めているのに。
 私は紅を手に掛けた。
 …もう要らない。
 こんなに穢れたモノなど、もう要らない。
 あんなに愛した美しかった顔も、体も、滅茶苦茶に切り刻んでやった。
 紅が悪いんだ。
 悪いのは私じゃない。
 要らなくなったモノを私はそれに相応しい場所に運んで捨てた。そして翌日、仕事に行く前に風凪が私の部屋を訪れた。
 紅に約束していた椿を一枝手にして。
 しかし、風凪は紅に会うことは出来なかった。
 当然だ。
 私が昨日のうちに壊して捨てたのだから。
 風凪は私の部屋の惨状と、私の様子から何が起きたのか悟ったのだろう。私に何か言おうと口を開きかけたがそのまま噤み、踵を返した。
「ふ…ふふ…あはは…あはははは!!ひひっ…ひゃははは!」
 笑いが止まらなかった。
 そして、涙も。
 私の心はこの時に死んだのかもしれない。
 紅をなくし、唯一の友をなくし、心もなくした。
 もう、私には何も残っていない。
 あるのは底知れない心の闇。
 失ったものの大きさは、計り知れなかった。
 私はなんと愚かな事をしてしまったのか。もう取り返しがつかない、もう、取り返せない。
 紅、紅、紅…。
 私の愛しい紅。
 私の元に残ったのは大きな虚無と孤独。
 開け放たれた窓から見える夜明けの光さえ、もう私の心には届かない。
 私は永遠にこの罪の闇を彷徨うのだろう。












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