第六幕:再会 前編
喉が干上がった様に渇き、吐く息が熱を持って熱い。
そう云えば昔、凪が風邪を引いた時に似ているんじゃないかな、などと私はぼうっとした頭でぼんやりそんな事を考えていた。
妖異でも、具合が悪くなる事があるなんて知らなかった。人間と同じで、これは風邪なのだろうか?それとも、別な何かなのだろうか?
冷や汗が頬を伝い、顎の先から雫となって滴り落ちる。
私は明け方に自分の異変に気づいてから、出来るだけ人目の付かない場所へと移動して来た。いつもの様に凪を追い駆けて、街中にいては目立ってしまう。
「…っはぁ」
体が鉛のように重たく、だるい。瞼を動かすことさえ、酷く億劫に感じる。
正直、今、自分が何処に居るのかも良く分かっていない。ただひたすら、人の居ない方へ居ない方へと進む内に、現在の場所に辿り着いていた。
冷く湿った土の匂いが心地いい。もたれ掛かった石垣が、ヒンヤリと私の体を冷やしてくれる。
私は草の感触を頼りに辺りをゆっくりと見渡した。人の手が加わった様子があるから、恐らくここは古い山道だろう。
しかし、人の通っている感じがないところを見ると、荒れ放題に伸びる雑草も頷ける。今は、山の獣たちがしばしば利用しているようだ。
ふと目を遣ると、ちょうど私の座っている位置から、凪の居る町が草のを通して小さく覗いて見える。
「今…何を、してるのかなぁ…」
静かに瞼を閉じて、熱くなった息を吐き出す。苦しい筈なのに、何故か不思議と笑みが零れた。自分でも変だなと思う。この苦しさを、痛みを、凪が感じたことがあると思うと…今、自分がその苦しさを、痛みを、感じられていることに、喜びすら感じているのだから。
草木を揺らす風が、虫や鳥などの小動物の声を運んで来た。半ばまどろむ様に耳を傾け、身を委ねる。すると、時無しの沼ではないけれど、自然と時間の感覚が薄れていくのを感じた。
どれ位の時が経ったのか…私は天頂にあった太陽が傾き、山が静かになった事に気付いた。まだ閉じていたいと云う瞼を無理矢理押上げ、首を廻らして辺りを窺う。
山は昼間と少し様子を変え、夕日が木々の長い陰を落としていた。
シンと静まり返った山の中で耳を澄ますと、驚くほど自分の心臓の音が酷く大きく聞こえて来た。頭上の木の葉を揺らす風、飛び立つ鳥の羽音。全ての音が取り出して手で触れるのではないかと錯覚してしまう。
更に良く耳を済ませると、風の揺らす葉音に混じって別の音に気が付く。
「…い。おー…い…」
人の声?
草を踏み分ける足音、誰かに呼びか掛けているらしい声。私はじっと身構え、声がする方を凝視した。果たしてこのまま私に気付かず、通り過ぎてくれるだろうか。
「おーい、何処だよー?親父がカンカンだぞー?」
私の祈りとは裏腹に、声の主はどんどんと近づいてくる。
「なぁ?居るんだろー?おーい…あっ」
声の主は、自分の進んできた山道の端に私の姿を見付けると、驚いた顔のまま凍り付いた様に固まってしまった。私も同様に、驚きのあまり動く事が出来なかった。
「あ、貴方は、昨日の…」
「キミは…」
二人はほぼ同時に声を上げた。
「どうしたんですか?こんな所で。ちょっと、顔色が凄く悪いですよ!」
相手は殆んど悲鳴に近い声を上げた。
私は普段の倍以上に重くなった体を、どうにか気力で押上げた。
「大丈夫、だから…」
これ以上、近づかれないように距離をとる。もし…今の状態で昨日と同じ痛みに襲われたら、きっと耐えられない。
「大丈夫って…顔が真っ青を通りこして、真っ白じゃないですか!救急車呼びますか?あ、でも…こんな山ン中じゃ…。親父呼んで、車出してもらいます!とにかく、病院行きましょう!!」
幸人と名乗っていた少年は、私へ手を差し出すと躊躇わずに近づいて来た。
「本当に、だいじょう…」
私は本能的にその手を避けるように、後ろへと下がる。
「遠慮してる場合ですか!そんなんじゃ、死ンじゃいますよ!!さあ!」
強引に距離を縮められ、行き場を失いかけた私は、石垣に背中を押し付けた。何とかこの窮地を脱擦る為、言葉を捻り出そうと口を開きかける。
「本当に…」
と、その時、私の傍を懐かしい匂いを乗せた柔らかな風が通り過ぎていった。
「え…?」
この感じは…この感じは…。
私は体の痛みもだるさも忘れ、慌ただしく辺りを見回す。
「そんな、まさか…どうして…」
「どうしたんですか?」
少年の問いかけに答えられない。
震える手で口元を覆う。
この、体の隅々まで伝わってくる暖かな感情。風が運んでくる、甘く優しい香り。
それは…。
「な…ぎ…」
凪が近くに居る。どんどん私に近づいてくる。
「な…ぎ…なぎ…」
どうしよう、どうしよう、凪が近くに居る!
「凪!凪!何処に居るの?私は、私は…!!」
此処に居る。
その言葉が喉の奥に詰まって出てこない。声が出ない。
どうしよう、嬉しさで自分自身をコントロール出来ない。
「…なぎって、まさか、どうして…弟を、知ってるんですか?どう云うことなんですか?」
困惑気味に、少年は私を見た。恐らく聞きたいことが沢山、その頭の中に溢れているだろう。上手く言葉に出来ない気持ちは、彼の行動となって現れた。
「ねぇ!どう云うことなんですか!?」
少年は私との距離を一気に縮め、私の両肩を握る様に掴んだ。
「やっ…!」
私は直後に来るであろう、昨日の痛みに身構えて体を強張らせる。
「ねぇ!答えてください!どう云うことなんですか!?」
少年は力任せに私の肩を揺する。
「や…放し…」
私がその手を振り払おうとしたその瞬間、背後の石垣から幼い少年の声が響いた。
「その手を離せ!なに勝手に、俺のモンに触ってンだ!!」
私たちはほぼ同時に声の方へ釣られる様に視線を上げた。
すると、其処には夕日を背にし、キリッと引き締まった表情の少年がすっくと立っていた。
少し長く伸びた黒髪、日に焼けた肌、健康そのものにスラリと伸びた手足。そして、見るものを射抜いてしまうような、力強い、輝きに満ちた瞳。
「凪…」
「那岐!」
凪は私たちの声に答える様に、ふわりと軽やかに石垣を飛び降りる。
「京!」
少年はそう私の名を呼び、溢れんばかりの笑顔を浮かべると、子犬の様に私の胸へと飛び込んで来た。体にしっかりと、その軽い衝撃を感じる。
私は驚きの余り、膝と腰から力が抜け、地面にストンと座り込んでしまった。
夢じゃ…ない。
私を腕の中から見上げる強い眼差し、微笑みかける口元。震える手でそっとその頬に触れてみる。少年は目を閉じ、小首を傾げるように応えてくれた。滑らかな小麦色の肌、指先に触れる艶やかな黒髪。
夢じゃ、ない。
私の唇はわななきながら、掠れた声でその名を呼び、壊れ物を扱う慎重さで腕の中へと抱き締めた。
「な…ぎ…凪…!」
凪の、匂いだぁ…。
甘く、柔らかな、その太陽の様な香りは、枯れ掛けた私の心をひたひたと満たしていく。
私は今、この現実が数え切れないほど見た夢でない事を、確かめる様に何度も何度も凪の体を抱き締めた。小さな手が、力強く私の体を抱き締め返してくれる。お互いに力の限り、二度と離れないように、しっかりと抱き締め合う。
腕から伝わる凪の温もり、柔らかな体の感触。
張り詰めていた心の糸がプツリと切れた。涙が堰を切ったように溢れ出す。
「なぎ…!ずっと、ずっと、会いたかった…会いたかったんだよぉ…!!」
凪に会えたことが嬉しくて、嬉しすぎて、頭の中が真っ白になっている。もう何も考えられない、考えたくない。
ああ、神様。私がこんな事を言える存在ではない事は分かっています。それでも、それでも、この僥倖を誰かに感謝せずにはいられない…ありがとうございます、本当にありがとうございます。
「凪、凪、もう、何処にも行かないで。何処にも…!独りは嫌だ、もう、独りは嫌だ…」
凪の暖かな手が、そっと優しく私の頬に触れる。
「京。俺は居るよ、ずっと傍に居るから」
私の目を見詰め、凪はハッキリとそう言ってくれた。
「ずっと、傍に居る」
「凪…」
私は再び涙が溢れるのを感じた。嬉しくて、幸せで、それなのに涙が止まらなくて…。
凪が傍に居てくれるだけで、こんなに心が満たされる。こんなにも、安心できる。
「京、大丈夫か?顔色が悪い」
額に当てられた凪の小さな手、心配そうに眉根を寄せた顔。それが全部、気持ち良くて目を閉じた。
「うん、大丈夫。凪が居てくれれば、大丈夫」
一度、大きく息を吸い込んで吐き出した。何だか、さっきより頭がふらつく気がする。
「…馬鹿。こんなになって、大丈夫なモンか」
半分怒って、半分悲しそうな顔をして凪は私をそっと横に寝せた。
「今、楽にしてやるから」
凪はそう言うや否や、手早く己の左の親指を傷付け、私の額に何か描くと印を切り、呪を唱え始めた。
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