4−1 加速的初春の陰謀
――なぜ夢は自分が寝ている最中の出来事でありながらも、夢だと感知することができるのだろうか。しかし、意識だけが覚めたままこれが夢であることは誰もが知っているのに、そのすべは誰も知ることができないのだろうか。そんな不思議なことは意外と沢山あるのかもしれない。
羊が一匹、羊が二匹。オリーブの匂い。
やけに角ばった方舟に吸い込まれそうになって変に躊躇する。ここから見える景色はやけに青白い景色だ。
「起きろ、起きるんだ」
なぜかこんなセリフを発してしまう。自分の頬をべしべしと叩くのは、寝てしまったら凍え死ぬような気がしていたからだった。
「ニライカナイはどこ? シャングリアはあるの? ユートピアはいずこ?」
女の子の声が聞こえて、
「だいじょーぶ」
また女の子の声が聞こえて、
「サブリミナルをかけました」
今度は男の声が聞こえた。そして、
「構ってくれないと怒るんだからね!」
これは、よく知っている俺の幼馴染の声だ。胸中で呆れ吐息をつく。
「ナルは弱弱しいんだから、あたしが鍛えてあげるのよ」
あーそうだよ。昔からそうだった。
小早川はおまえの母ちゃんでべそーみたいなガキ大将風を吹かしていたさ、俺にだけ。
他人とってはハタ迷惑な義務感を胸に秘め逞しく風の子元気な子に育てようとしていたのか、はたまた舎弟的な扱いができる存在が欲しかったからなのかは分からない。
ある時はこんなことがあった。
まだランドセルに傷一つ付けていないあの頃、俺がクラスメートの誰かと言い争いになり、でも腕っ節の弱さが露呈してやられているときに小早川がサッカーボールを蹴っ飛ばして戦場にかけつけてくれたことがあった。
まったくだな。少なくともユカリは関ヶ原の亡霊に悩まされた小早川 秀秋系列の先祖ではないことは確かだ。あの気の強さは。
まあ、今になって考えてみるとあいつらだって悪くはないとは思ってはいる。だって年端もいかぬガキの時ってあれだ。結局は腕力がものを言う世界だろう。そう、言葉よりも何よりも力である。だから今となっては許せるような気がしていた。
しかし、である。
みんな仲良く平等にしなさい。手を出すのは良くないことですよ。そんなことをいう大人達。なのにあんたらは法の下でもなんでも平気で鉄槌を下すし、そりの合わない人とは互いに無視し合うじゃないか。大人だから構わないってなんとなく世の中の不条理を感じた、子供心に。すっれからしな性格にならなかったものだな。いや、さすがにそこまでは思わなかったけど。
でも、ホントはそんなことどうでもよくって、なによりも俺を助けた小早川の心情のほうが一番の重大ごとだった。もしかしたらこの時から、力がないことに託つけてしまい、お姫様のナイトになれないか弱い自分に匙を投げていただけなのかもしれない。そうだ、ただ単に情けなく思ってしまっただけで男としての矜持を捨ててしまったんだ。あるいは、男のプライドを踏みにじるぐらいに力を持つ小早川がおかしいんだと、強迫観念的に思い込んでしまったのだろう。
悔しくて虚勢を張ってきたんだ、きっと。
「なんでおれを助けたりしたんだよ」
あのとき心の中ではそう叫んでいた。
だから今では見せかけだけのナルシストだったりとか、文学要素を盛り込んだ詩的な雰囲気をだして人と違うことを目指したりとか、夢なんて言い張ってありえない絵空事に終始したりとか、いろんなことを小賢しく考え過ぎて思い通りにならない現実から目をそむけてきたのだろう。劣等感に苛まれながらも、なんとか体裁だけをつけて日々を過ごしてきただけだ。でもそれは、取るに足らないなよなよとしたことで、ほんと些細でとてもつまらないことなのかもしれないのにな。
方舟に乗り込んだ瞬間に、世界はぐるぐると回り出した。というのは、今置かれている状況を正確に切り取って表現することができていないたちの悪い比喩であって、実際には遊園地なんかにあるコーヒカップみたく船が揺れているのであった。
ぐらぐら、ぐらら。
「ハルくん」
「えっ?!」
すると、誰もいなかったはずのこの方舟にユカリがいたのだ。
宵闇の景色に幽玄のごとく浮かび上がった小早川は、別段変りはないふうであったがその黒い瞳の奥がいつもと違う気がしてならなかった。
「ねぇ」
「あっ」
俺は小さく声を漏らした。それはなんでここにユカリがいるんだ、と思ったからである。さっきまでは確かに誰もいなかったはずだ。
「あたしはここにいるよ」
ユカリが言葉を続けた。
「小早川、いつもと雰囲気が違わないか?」
「そう? あたしはいつも一緒、変わらないよ」
「そうには見えないぜ。だってまだ春なのに、しかもこの場所は冬みたいに寒い場所じゃないか。なんで夏みたいな格好しているんだ?」
「そう? 別におかしくないよ」
「いいや、おかしいって」
「大丈夫だってハルくん。平気だから」
「いや、」
それにしても、と思う。不思議なことでやけにサイズが小さいのだ。どこもかしかもすべてが。
「おまえ、なんか変わったか?」
「なに言っているのハルくん、あたしはあたしなんだから。何の説明にもなってないんだけどあたしはずっとあたしのまんま」
「あっ……、まったく同じ言葉を、まったく同じ意味で繰り返すレトリック表現。どこかで聞いたことがある」
「ほらっ、それは入学式の日に食べていたさくらんぼのことだよ」
「そうか。あの時の俺は、サクランボが赤いのはトートロジーがなんとかかんとかなんて言ってたっけ」
「そうだよ」
「あー、思い出した。あの時のユカリはやたらぱくついていたもんな。もうこっちが呆けているにも関わらずどでかいジャンボパヘェなんかを食いやがって」
「ん、もぅ〜、そんなこと言わなくていいの、ハルくん。だってあの時はお腹がすいていたんだから」
「だからってあれは食いすぎだろーが」
「あ〜、たしかにそうだけど……面と向かっていわないでよー」
小早川が口を尖らして笑った。俺もにへら笑う。なんとも安寧とした雰囲気が漂う展開になっていた。
「ねぇハルくん」
「なんだ?」
「ちょっと恥ずかしい事を聞くけどいい?」
「なんだ、それ」
「ハルくんは初恋ってあった?」
「えっ? 初恋? 考えたことがないが」
「そうなんだ」
といって少し首をかしげた小早川だったが、やがてなにかを思いついたようにいたずらっぽく笑いこう言ったのだ。
「ねぇ、まさかお母さんとかじゃないよね」
「はっ? なに無粋なこと言っているんだ。そんなわけ――ってなにまたくすくす笑っているんだユカリ!」
「だって、だってそのうろたえ方が面白いんだもの」
「ったくそんなわけないだろーが。だったらまだどっかの幼馴染の方がマシだ」
「ふーん」
「なんだよ」
「べっつにー」
「なんだよそれ……」
「あっ、そういえばハルくん。どうしてハルくんがここにいるの?」
「ん? どうしてって言われても……」
「だってハルくんは――」
ふいにサブリミナルな光線が夜霧とともに過ぎさる。
目の前が強い光に包まれ、気づけば夜なのに昼間のように明るい。そもそもさっきまでの青白かった景色を夜と定義してよかったのだろうか、とふと思う。ところどころに濃い霧がかかり始めて前方の視界が悪くなる。けれども十字架のような太陽柱が辺りを照らしだし、ガラス玉よりも水素よりも光っている丸の粒が輝き、赤色と黄色と白色が輝くチューリップの詩に出てくる色の虹が見えてくる、そしてさらに、しっかりと裸眼で確認できるのはゆっくりと通過していく大きな流星群。しし座流星群的衝動。この神さびた光景に心を奪われ、なにか願い事を叶えるべきかほんの少しだけ逡巡する。銀河鉄道に乗ったジョバンニとカンパネルラもこんな光景を見ていたのだろうか。しかし、独特の淡く美しい色彩、その幻想的な世界が闇に覆われていって、隣にいた小早川が消えていたのだった。
「――ちゃん。――てば」
誰かが揺する。
「おにーちゃん地震だってばー」
ん? やはり俺の体がゆらゆらと動かされる。
だけど、なんていうか……。
俺自身が第三者の視点であってその様子を俯瞰してみているのだ。
ありていに言えば、俺は幽体離脱をしている状態であった。もしかして、もしかするとエクトプラズムみたいにどこへでも流動できる目に見えないヘンテコな物質なのか。
しかも、少しばかりだるそうにして横たわっている自分の体は、自由意思がまるで利かずだるく感じて動けない。おそらく金縛りだろうか、それとも抜け殻状態なのだろうか。うむ、後者の可能性が高い。
「ほーらぁー」
妹がぐらぐらとまた体を揺すり、それを眺めて思う。
まったく、アキのやつはなんだよ。人の体を動かすだけで地震だぁーなんて。クオリティの低さに関していえば、最高級クラスの秀逸なネタを仕込んできたな。このアホ兄貴はそんな程度のネタしか仕込めなかったのかと考えてしまい、ちょっとだけがっかりである。
ところが、そこまでいって思考が停止したのだ。
俺は先ほどのアキのセリフをリピートしてみる。
我が妹はおにーちゃんと呼ばなかったか? と。
そうだ。確かに第一声はおにーちゃんであった。
この耳で間違いなく聞いた。って今は変な丸い物体なんだけど。
しかし。あの、あの妹が、母さんに変で危ない人になっちゃうからおにーちゃんって呼ばないことって厳命されたアキが、兄貴を慕っておにーちゃんなんて。
自然と口元が、しゅるると笑いの形を司っていく。なんていうか、できそこないの悪魔みたいな形になる。
「じぃーしぃーん!」
「……」
「ねぇ、おにーちゃん! 起きてよー。寝顔激写しちゃうよっ」
それでも俺は起きられない。浮遊してアキのところまでいって何らかのアクションを起こしてみるが何の反応もない。あー霊感ないなこいつ。残念ながら、将来巫女さんにはなれないだろう。誠に残念のようなそうでもないような感じだ。
「ねぇーってば。地震! 地震、カミナリ、カジだって。あっ、急におもちがたべたくなってきちゃった」
脈絡性のない話にとうとう堪えられなくなった俺の体はだるそうに背を向けていた。だけど体は動いたようである。起きたいという意志とは真逆だけど。
「えっ?! なにそのたいどはー、おにーちゃん、てばー」
アキは一旦距離置いて、はてどうしたらいいものかと思案し始めたらしい。いっちょまえに胡坐なんか掻いている。
しかし、うーんと、えーとっ、どうしよう。あっそうだおにーちゃんが喜ぶことをすればいいんだ。ってそれさ。安政二年建築かというぐらいの家で、そこで雨漏れをしている屋根よりももっと酷いだだ漏れの声を聞こせてどうするんだ。
ただ、それでもいい案が浮かんだのか、くしゅくしゅと自分のパイナップルヘアーを撫でパサパサと音を立てて、
「しょうがないなぁー。じゃあ地球が第三小惑星と接触して隕石ができてしまうシミュレーションをするよ?」
何を言っているんだ我が妹は。ついにあの禁断の奇小説にでも手を出しちまったか。あれだけは触るなっていったのに、あの『ドグラ・マグラ』のチャカポコ行進曲か、『黒死館殺人事件』か『虚無への供物』か。それとも、俺が中二の時に書いた門外不出で永久不滅の読本、『殺愛デストラクティブ』なのか。って読めるわけねぇーよな。
「だいさんしょうわくせーせっきんちゅー」
しかし、そうやって俺が混乱している間にも、わが妹の様子は相変わらずおかしいのだ。
まるで機械のシュミレーターを真似た口調のたどたどしさ。いや、むしろわれわれはウチュージンだ、みたいな言い方である。
「そんでもって、せっぷんちゅー」
ガバッ。気がつけば瞬時に飛び跳ねていた。
「おい!」
「えっ、おにーちゃん唇が良かったの? それは駄目だってばー」
「なっ、アキ。冷蔵庫に冷えたウオータメロンがあるから……」
俺はなぜこの言葉を発しているのか分からない。そしてなぜか頬が緩んでいる。
「あ――――っ! その単語は嫌だって言ったでしょ。すいかって言ってよね、おにーちゃん。メロンなんてひどいっ。それ、あたしに向かってひんにょうって言いたいのを揶揄している言葉だよ、おにーちゃんのばか――――っ」
「……」
なんだそれ……、我が妹はいつからこんなにもブラコン気味になったんだ。しかも、老人ホームに十年間ぐらいは住まわれている偉大なる人生の先輩であるおばあちゃんでも言わなそうなセリフを吐いたな。
『あたしに向かって頻尿って言いたいのを揶揄している言葉かね? んーあ? あたしゃーまだまだ若いものにはまだまだ負けんよ。ほら若造、この胸だって――』
なぜだ? 俺がこう思考を遊ばせていた瞬間に、虚乳ばーさんが降臨して子猫よろしくと寝ころんで俺の上でゴロニャーゴをしていた。
いや、それはともかく(ともかくではない)。
だいたい揶揄なんて難解な言葉を使っている癖に頻尿とはなんぞや。
よもや、おまえは貧乳といいたかったのか。そうならしっかりとそう言え。
おにーちゃんとしてそこは情けなく思うぞ。
ていうよりか、まだ九歳の、数え年でも九歳のアキが何を言っているんだーか。
ってなんでアキがいなくなっているんだ? しかも登場したばーさんですら消えていたのだ。誰もいなくなったのはなぜなんだろうか。
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