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デジタルため息
作:えんぴつ


 陽子は疲れていた。疲れ切っていた。

 いつもの駅で降り、いつものバスに乗り込もうと並んでいるいまも、頭のなかはいくつもの心配ごとに支配されていた。

 そのどれひとつをとっても、陽子が考えて解決できるようなものではない。

 ただ、頭のなかにこびり付いている心配ごとのひとつひとつをなぞっては、深くため息を付くだけの陽子だった。

 そして、そのため息が一層、陽子を落ち込ませていった。

 前の女子高生3人組は「きゃっきゃきゃっきゃ」と笑い合っている。その前のOLは一心不乱にメールを打っていた。スポーツ新聞を読むサラリーマンもいる。いろいろな人がバスを待つ列を作っていた。

 みんなはきっと、楽しい1日が待っているんだろうなあ、とやっかむことが陽子の日常になっていた。

(それなのに、自分は……)

 また、ひとつ、陽子はため息を付いた。


 会社に着いた陽子は、それでも同僚らに努めて明るく朝のあいさつを済ますと、自分のデスクに座り、パソコンに向かった。

 これから1日、モニターとにらめっこだ。

 働くこと自体は、苦痛ではない。

 むしろ夢中でキーボードを叩いていると、その時だけはいくつもの心配ごとから解放されるので、気がラクでもある。

 課長さえ、近づいて来なければ−−。

「おはよう、今日も元気にガンバロー」

 早速、セクハラ課長が本日1回めの接近だ。

 陽子は反射的に身体を硬くし、課長の手を皮膚を使って拒絶した。

 思ったことをハッキリと伝えることのできない陽子にとって、それが精一杯のセクハラ防御策だった。

 いつものように課長は、陽子の後ろに立ち止まると、陽子の肩を揉みながら、「下の娘さん、今年入学なんだよね。なんかお祝いしなきゃね。どんなのがいい?」と話しかけて来た。

 それに対して陽子は、ただ引きつった笑顔で気のない返事をするだけだった。

 もっと強くならなきゃいけないことぐらい分かっているのだが、陽子にはなにもできない。


 午前中の仕事がひと段落する11時半になると、陽子は必ずメールを開く。

 メル友が、いまの陽子にとって心の支えになっていた。

 現実の陽子は、自分でもイヤになるくらいの臆病者だが、顔の見えない相手とのバーチャルな交際は、陽子を理想的な自分にしてくれる。

 知っている人には言えない悩みもストレートに相談できるし、ネットのなかでは泣いたりわめいたり素直な自分が出せるからだ。

 それに、下心ミエミエの男たちも含めて、とにかくネット上では女というだけでチヤホヤされた。

 ちょっと掲示板に悩みでもアップしようものなら、数十人の男たちが、やさしいメールを返してくれる。自分のことを心配してくれる男が世の中にこんなにいると思うと、それだけでなんとか自分を支えられた。
 
 特にここ1ヶ月ほど、毎日メールをくれる同じバツイチの仙台の男は、いつも楽しい文面で疲れた陽子の心を和ませてくれた。

 ただメールの交換だけなのだが、やさしい気配りが随所に感じられて、メールを読みながら泣いてしまうこともしばしばだった。

 こういう人と結婚していれば、自分の人生はこんな風にはならなかっただろうにと、何度、思ったことか。

 バーチャルだからこそ、陽子はなにも躊躇せず、つかの間の恋愛ごっこに逃避できた。
 
 
 今日の彼からのメールには、「昨日は暇を持て余してパチンコに行きました。久しぶりのパチンコで大勝利! おかげで夕飯は焼肉を奮発しました」とあった。

(パチンコかあ……)

 女は離婚すると、生活に追われる。しかし男は、暇を持て余す。

 陽子は理不尽だと常々、感じていた。

 今度、生まれて来るとしたら、陽子は絶対に男に生まれたかった。 


 その日の帰り道、家では娘2人がお腹を空かして陽子の帰りを持っているのだが、陽子は何かを振り払うかのように、パチンコ店に入った。

 自宅には「残業」との電話を入れて。

 陽子は10代の頃、よく彼氏にくっついてパチンコをした経験があった。

 ほとんどの時間、ただ黙って彼氏の隣りで見ていただけだったが。

 まさか自分ひとりでパチンコ店に入ろうとは夢にも思わなかったが、あまりにも辛すぎる現実へのささやかな抵抗のつもりだった。
 
 3000円のカードを買うときに、これだけあれば娘たちにおいしい物をたべさせてあげられるのにとの考えが頭をかすめた。

 それも今夜は振り払って、陽子はグルグルまわる絵柄を見つめはじめた−−。
 
 仕事でパソコンのモニターを見ているときは、いろんな心配ごとから解放されるが、ただ何も考えずに見ているパチンコのモニターでは、逆にいろんなことが頭に浮かんで来る。

 陽子は25歳で結婚した。

 相手は平凡なサラリーマンで、正直言って好きでも嫌いでもなかったが、積極的にアプローチされ、断り切れずにズルズルと付き合っているうちに妊娠してしまったのだった。
 
 当然の流れで結婚し、上の娘が生まれた。

 しかし一緒に暮らしはじめると、好きではなかった夫のことがたまらなく嫌いになっていった。

 一応はやさしい夫に、それは自分のワガママだと言い聞かせようとしたが、やはり自分の心にウソを付くことはできない。

 いつしか夫を拒否するようになり、家庭は冷え切っていった。
 
 結婚して5年後、無理やり夫に夜の生活を強要され、2人めの娘を妊娠した。

 その後は完全なセックスレスとなり、夫は次第に暴力を振るうようになった。

 3年もの長い間、家庭はボロボロの状態になり、やっと離婚が成立した。

 それから2年、陽子は女手ひとつでなんとか2人の娘を養っている。

 養育費はもらっていない。
 
 
 いま陽子の一番の心配ごとは、上の娘の不登校だ。

 10歳になる上の娘は、両親の醜い離婚劇を目の当たりにして、心を閉ざしてしまっている。

 原因が自分のワガママにあると思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 とても強く叱ることもできず、さりとて不登校をそのままにしていては、子供の将来が心配だった。

 朝、子供よりも早く出勤してしまう陽子は、子供がちゃんと学校に行っているのかどうかも分からない。

 一体、今日は学校に行ってくれたのか、どうか。

 陽子は毎日、そのことが頭から離れない。

 昨日の夜、そのことで娘と話したのだが、かたくなに口を閉ざすだけの娘に陽子は途方に暮れるしかなかった。

(まったくどうしたらいいのか、頭が痛い)

 ため息が、出た。


 メールの恋人は、「子供には子供の世界があるから、不登校の原因が全部、親の自分にあると責めてはいけない」と言ってくれてはいるが、陽子はやはり自分を責めてしまう。

 いま保育園に通っている下の娘への影響も心配だった。

 
 同じ敷地に住む両親のことも頭痛の種だ。

 心臓の弱い父が、来週、手術を受ける。

 手術自体はそれほど難しいものではないというのだが、父以上に取り乱している母が心配でたまらない。
 
 とにかく両親には離婚で心配をかけ、離婚してからもことあるごとに面倒をかけているので、いつになるか分からないが自分が親孝行できるような時が来るまで、元気でいてほしいと陽子は願っている。
 
 もしいま、父、母のどちらかになにかがあったら、陽子は支えられないだろう。

 
 そして、あのセクハラ課長。

 バツイチの陽子を落とそうと、入社したその日から、いやらしく近づいて来ては「ひとり寝は寂しいだろう。いろいろ大変だろう」と虫酸が走る言葉を投げかけて来る。

 離婚した女は、みんな欲求不満だと言わんばかりだ。

(ホント、心配ごとだらけでいやになっちゃう)

 パチンコをしながら、陽子は頭のなかにあるいくつもの悩み事を改めて整理し、そしてやっぱりため息を付いた。

 
 不幸の出発点は、すべて安易な結婚にあった。

 自分の責任だ。

(それにしてもいまの状況はまったく……)

 なにひとつ解決しないまま、もう2年、陽子の心は袋小路を彷徨っている。

 
 陽子は、3枚めのカードを使い切り、小1時間でパチンコ店を出た。

 離婚してから洋服の1枚も買ったことがないというのに、9000円もの散財は痛かった。

「仙台まで行っちゃおうかな」

 そう口に出して、また陽子は深いため息を付いた。

 そんな大胆な行動ができないことぐらい、自分が百も承知している陽子だった。

 できることといったら、今日付いたため息をデジタル信号に替えて、だれかのパソコンへ送信することぐらいだ。

 今宵も陽子のデジタルため息が宙を舞う。

 飛べない陽子の代わりに宙を舞う。

 そしてまた明日の朝、バス停の列に並んでため息を付く。

「でも、それでいいんだわ。それがいいんだわ。だって、心配事のひとつでも悪い方に転がったら、私、壊れちゃうもの。朝、バス停に並んでいるなら、大丈夫ってことでしょ?」

 今宵の陽子のデジタルため息は、こう締め括られていた。


 














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