はあっ、はあっ。
項貴国の都、ラクキ。
その街角で、幼い姫が座り込み、息を切らせていた。
「あーあ、参っちゃうな」
着ている衣にそぐわない格好で、小さな少女は、道端に座り込む。
「どうしよう」
困って途方にくれている、と、はたからわかるほど、はっきりと表情に表れていた。
少女の名は、翠 麗華。
今を時めく十二貴人の一人、翠候の愛娘である。
十二貴人とは、皇帝陛下の側近である十二人の候の総称で、皇家とは建国当時、親戚にあたる家柄であった。
まだ国などなかった時代。
一人の青年が、傭兵として、各地の権力者の元を渡り歩き、華々しい手柄を立てた。
彼のおかげで、戦ばかりしていた地方同士が同盟を結び、だんだん一つの連合体として、まとまるようになってきた。
青年は、その中心人物として仰がれるようになり、各地に絶大な力を持つ十二人の勢力者達は、自ら膝を折り、彼に服従を誓い、ついに彼の元で一つの国を打ち立てた。
青年は、初代項貴国 皇帝となる。
見事国をまとめあげ、皇帝の座についたとき、彼は、その功に深く感謝し、十二人と縁戚関係を結び、権力をわかちあうことにした。
もともといた后のほかに、各家から姫を一人ずつ后とし、生まれた皇子たちに候の身分を与え、国政に関与できる特別な特権を与えたのだ。
その子孫が延々と候の身分を引き継ぎ、現在に至るまで、皇帝と共に国を治めている。
貴族の中の貴族、皇宮に殿上を許され、皇帝に直接話しかける権を持ち、その家の姫は皇后に立てるほどの身分。
そう、実は、この麗華姫も、皇帝陛下の遊び相手として――もしかしたら将来の后候補として、後宮に、すでに召し上げられている身であった。
それがどうして、こんな街中にいるかというと――。
「ええっ! お母様が病気?」
「はい」
後宮の、自分に与えられた館で、小さな姫は、目を大きく見開いた。
今日は、本当なら、母が後宮に訪ねてきてくれる予定であったのだが、使いが、今日は来れないと連絡してきたのだ。
「どうしよう、お母様……」
六歳の少女の胸は、焼けるように痛んだ。
「ね、宇亥。お母様は、一体どんなご病気なの? とっても大変なの?」
「さあ、わたしもそこまでは……」
側仕えの宇亥も、首をかしげる。
もののわかった女官なら、心配ありませんよ、と姫を慰めるものだが、宇亥とて、まだ十一歳の少女。
そんな気のきいたこと、言えるわけもなかった。
身を震わせながら、麗華は決心する。
(お母様に会わなくちゃ!)
後宮を出るのは、思ったより簡単だった。
よもやこんな小さな姫が、たった一人で出て行くなど、誰も思いつきもしない。
見張りの者が、交代で気を緩めたすきに、門のところに潜んでいた姫は、さっと走り出てしまった。
「こっちかな」
見つかると連れ戻されるぐらいのことはわかっていたから、出来るだけ早く、門から遠ざかる。
あちこち必死に走って、人の多い通りに出たが――。
「……」
いつも馬車に運ばれていた姫君に、道などわかるわけもなく。
誰かに聞こうと思ったが、もし自分の名や身分が知れたら、すぐに連れ戻されるかもしれないと怖くて、結局どうにも出来ないでいた。
散々歩きつかれて、ついに街角に座り込んでしまう。
「どうしよう」
泣きそうになりながら、それでもあきらめきれず、痛くなった足を休めていたとき――。
「お姫様。どうされました?」
俯いていた彼女は、はっと顔をあげる。
いつの間にか、人相の悪そうな男たちに囲まれていたのだ。
(何、この人たち)
にやにやと嫌な笑いを浮かべ、彼女が逃げないように囲んでくるごろつき達に、麗華は、おびえて声も出なくなった。
乱れ、汚れきっているが、彼女の衣は上等で、玉飾りだってつけている。
売れば相当な金になるだろうし、ひょっとして身代金だって手に入るかもしれない。
あこぎな稼ぎで生活している者たちには、格好の獲物だ。
「困ってるようだね、姫様」
「おれたちが面倒みてやるぜ」
じわじわと迫られ、麗華は、後ろに後ずさる。
後ろに店の壁を感じ、もう後がないことを知った彼女は、恐怖で泣きそうになった。
「ほらほら、そんな顔しないで」
「いい子にしてりゃ、痛い目にはあわせないからさ」
男達の一人が、彼女の襟元をつかみ上げる。
「痛いっ、離してっ」
少女は暴れ、やっと声を出した。
「暴れるなって。こら、おとなしくしろ」
腕をつかまれ、ぎゅっと引き寄せられ、麗華は、無我夢中で、自分をつかむ男の腕を咬んだ。
「いたああっ、このがきがあっ」
男は腕を押さえ、さっきよりもっと凶暴な顔になる。
「いやあーっ!」
少女は顔を抑え、うずくまった。
その時。
「その子から離れろ」
一人の少年が現れ、男たちの前に立ちはだかった。
「何だと、このがき」
「僕の妹だ。手を出したら承知しないぞ」
少年は、声高に叫ぶと、麗華の方を見た。
彼女は、思わずぽかんとしてしまう。
(妹? あたし、おにいさまなんて、いたっけ?)
ぼーっとしている暇はなく、今度は、寄ってきた少年に腕をつかまれる。
彼は、麗華を立たせると、男たちの間を通ろうとした。
「こいつ、何だってんだ」
「おい、待てよ」
男の一人が、少年を、にやにやと見る。
「こいつ、男だが、なかなかの器量だぜ。いけるかもな」
いやらしい笑みを向けられ、彼は怒りに燃え上がった。
自分に出された腕を振り払い、麗華の手を引いて、男たちの輪を抜けようとする。
「こいつ」
「俺達から、逃げられると思ってんのか。ひ弱な貴族の若様が」
少年と麗華は、また囲まれてしまう。
彼は肩をすくめ、麗華を背にかばい、身構えた。
「ほお、やろうってのか」
「いい度胸だ。少々痛い思いをさせてやらないといけないようだな」
男たちも構える。
「このやろうっ」
次々に、彼らは、少年に飛びかかってきた。
でも――。
(うわあっ、すごいっ)
麗華は、思わず見とれてしまった。
少年は、すばやい動きで、次々ごろつきどもを倒していく。
仕込まれた見事な体術で、彼は、あっという間に全員気絶させてしまった。
(かっこいい……)
ふん、と男たちに軽蔑のまなざしを向けると、少年は、麗華の手を取る。
「こっち、早く」
手をひいて、走り出した彼に、麗華は、あわててついていった。
何度か路地を曲がり、静かな通りに出る。
先ほどの喧騒はなく、落ち着いた高級そうな店が立ち並ぶ界隈で、少年は、やっと足を止めた。
振り向いて、彼女の方をじっと見る。
彼は、高価な衣ではなかったが、それなりの身なりをしていた。
とても整った顔立ちの、利発そうな少年で、彼女よりニつか三つほど年上に見える。
麗華は、綺麗な紫の瞳にどきどきした。
(紫水晶みたい)
少年は、そんな彼女に、はあっとため息をつく。
「で? 一体お前、どこの家の姫?」
「……」
「なんでまた、あんな危なそうなとこにいたんだ? 供はどうしたの? はぐれたのか?」
「あ……あたし……」
やつばやきに質問され、麗華は、頭がぐちゃぐちゃになった。
怖かったのと、どう説明していいかわからないのと――。
「お、おい」
少年は、身を震わせる少女にあわてた。
「おいってば、もう……泣くなよ」
「ううっ……ぐすっ……」
麗華は、少年に抱きつくと、うわああーっと激しく泣き出してしまった。
「ほら、これ、飲めよ」
少年は、麗華に甘い果実水を持ってきてくれる。
「ありがと」
麗華は、頭を下げると、杯を受け取って一口飲んだ。
街中にある、小さな宿。
少年は、泣き続ける彼女をここに連れてきて、食堂に座らせてくれた。
そして麗華が泣きやむのを待って、杯をくれたのだ。
向かいで、また小さなため息が聞こえ、麗華は、上目遣いに、そっちを見る。
少年が困りきった顔つきで、彼女を眺めていた。
「お前、家はどこ? 落ち着いたら、警羅に行こう。送ってもらえるよ」
「嫌っ」
麗華は声をあげた。
「どうして? 家に帰りたくないのか」
少年は、不思議そうに彼女を見る。
何と言ったらいいのかわからず、麗華は俯いた。
(あたしだって、家に帰りたい。でも)
もし警邏に行ったなら、家じゃなくて、後宮に連れ戻されてしまうだろう。
(そしたら、病気のお母様に会えなくなってしまう。そんなの、嫌……)
また涙がこぼれそうになって、麗華は、袖で目をこすった。
少年は、やさしく言う。
「でも、ここにいるわけにもいかないだろ? ここ、宿だし。お前、お金持ってないしな」
麗華は、もうどうして良いかわからず、震えていた。
その時。
「お? ここにいたのか」
誰かの声に、麗華は、はっとする。
身なりの整った貴族の男が、彼女たちの座っている卓に近づいてきたのだ。
「父上」
少年は、微笑みながら席を立つ。
「どこに行ってたんだ。都がめずらしいのはわかるが、一人で出歩くのは考えものだぞ」
にこにこしながら、少年の父は、彼の頭に手をやった。
「それが、父上。どこかの姫が」
「姫?」
「ええ。道で暴漢に襲われていたところを、僕が助けて、連れてきたのですが」
そう言って、彼は、麗華の方を見た。
「なっ!」
「どうかしたか。どこかの姫が」
(嘘……いない……)
少年は、あっけにとられてしまう。
麗華が、影も形も見えない。いなくなってしまったのだ。
「あ、その……」
「もしやお前、どこかの可愛い姫君と、仲良くなって遊んでいたのか。今から、すみにおけん奴め」
ははは、と、父は、大きな声で笑う。
「違います! そうじゃなくて」
真っ赤になって否定する彼に、父は、まあ、いいじゃないか、隠さなくても、と笑った。
(違うって。変な子なんだってば!)
あんなの好みじゃない。
少年は、先ほどの子どもっぽい少女を思い浮かべ、肩をすくめた。
「わたしはこれから、少し人と会う用がある。お前も来るか」
「いいえ、僕は……」
少年は答えた。
(父上の知り合いに会うなんて、面白くないや)
どうせ貴族の知り合いだろう。
屋敷についていけば、じっと座って、おとなしくしてないといけない。
彼はそう思い、父に言った。
「僕は、ここで待っています。少し、外に出てもいいでしょう?」
「ああ。喧嘩と揉め事はごめんだぞ。あと、夕方には戻るようにな」
「父上は?」
「わたしは遅くなるかもしれん。あれだったら、待ってないで先に休んでおけ」
「はい。お気をつけて」
「お前もな」
父は彼に微笑むと、足早に宿を出て行った。
ふう。
少年は、また椅子に座った。
(暇になっちゃったな)
さっきの少女がどうなったか、不思議でしょうがないが、まあ、いないものは、ほっといてもいいだろう。
彼は、からになった杯を手に、立ち上がろうとした。
すると。
「もう、行っちゃった?」
卓の下から、あの姫が顔を出したのだ。
「お……お前!」
そんなとこに隠れてたのか、と、少年はあきれた。
よいしょっと、姫は、また椅子に上がる。
ちょこんと腰掛け、にっこり微笑んだ。
「一体どうして、隠れたんだ」
目を丸くして少年が聞くと、麗華は俯いた。
「あたし、見つかりたくなかったの」
「誰に? 父上?」
「大人の人。だって……」
少女は、声を震わせてつぶやく。
「見つかったら、連れ戻されちゃうんだもの」
「……」
少年は、ため息をついた。
先ほどの父の言葉が、頭の中に浮かんで消える。
――喧嘩と揉め事はごめんだぞ。
(父上、もう……手遅れかもしれません)
「お前、ひょっとして家出してきたのか」
少年は、少女に問いただす。
「ううん、あたし、お家に帰りたいの」
「は? じゃ警邏に行って、送ってもらったほうがいいんじゃないのか」
「嫌!」
少年は、わけがわからなかった。
名を聞いても名乗らないし、わずかにわかったのは、行きたいところがあるという事だけ。
「あのね、あたし、大きな木と、井戸のあるとこに行きたいんだ」
麗華は、一生懸命、考えながら言った。
翠家の屋敷、だなんて言ったら、自分が何者かばれてしまう。
でも他に、家のまわりにありそうな物なんて、思いつけなかった。
「大きな木と、井戸?」
あまりに抽象的な場所に、少年はあきれかえった。
「そんなの、ここにはいっぱいあると思うけど。どうやって探すつもりなんだ?」
「そうなの? いっぱいあるの?」
目を大きく見開き、泣きそうになっている少女に、彼は、ため息をついた。
(しょうがないな)
どうせ暇だし。
このまま一人で行かせたら、またあんな連中に襲われるのがおちだろう。
「ほら、行くよ」
きょとんとしている少女に言った。
「僕も暇だし、つきあってやるよ」
「ほんと?」
麗華は、ぱあっと嬉しそうに笑う。
「ただし、僕も、昨日、都に来たばかり。どこがどうなってるのか、よくわからないのは、お前と一緒だよ」
「そうなんだ」
「でもまあ、一人で行くよりいいだろ? 早く、大きな木と井戸を見つけよう」
「うん」
麗華は、元気にうなずくと、少年について、歩いていった。
とは言ったものの。
さすがに二人の足では、大きな木と井戸を探すのは、むずかしかった。
「ふう」
「あ、足が痛い……」
太陽が西に沈みかけた頃、二人は、道端に座り込んだ。
これで十三箇所。
とりあえず町人に声をかけ、井戸のある場所を聞き、そこに大きな木があるかどうかも確認し、あると言われた場所を、しらみつぶしに当たってみたが。
「ここでもないのか?」
「……うん」
麗華は、悲しそうに俯いた。
(あーあ、井戸と木なんて、大抵どこにでもあるだろうに)
少年は、肩を落とす。
大体、井戸の側には大きな木を植え、日陰を作っておくものだ。
そこに集まる人々の、憩いの場となるように。
「他に思いつくものはないのか。建物とか、特徴のある塀とか」
少女は、顔をゆがめ、首を横に振った。
はあああっ。
少年は、大きなため息をつく。
「ねえ、もうあきらめて、警羅に行こうよ」
「……」
「だって、もう日が暮れる。暗くなったら、木や井戸なんて見えなくなるし、さっきのような悪い奴らが、うろついているかもしれない」
「そんな……そんなの……」
麗華の体が震えた。
少年は、やさしく彼女の肩に手をかけ、自分の方を向かせる。
「これ以上は危険だよ。大人の手を借りたほうがいい」
さ、行くよ、と、手を引っ張った。
「い……嫌っ!」
麗華は、その手を振り解き、ばっと走っていってしまう。
「お、おいっ! 待てったら」
少年が、あわてて追いかけようとした、その時――。
「きゃあああーっ」
少女の叫びが、路地にこだました。
(何だ)
彼は、走って、路地に飛び込む。
「いやっ、離してっ」
「このガキっ、おとなしくしろ」
先ほどの男の一人が、彼女の襟をつかんで、捕まえていた。
「やだっ、やだやだやだっ」
「えーいっ、少し痛めつけないと、駄目なようだな」
男が、こぶしを振りかざす。
少年は、あわててその腕をつかんだ。
「なっ、お前、さっきの」
「その子から、手を離せ」
彼は、腕をぐっと引っ張り、男の体制を崩させる。
少年に腕を取られ、男は、思わずころんでしまった。
「このがきっ。さっきは油断してたが、今度は容赦しねえぞ」
麗華の手を引き、逃げようとする少年に飛びかかる。
彼は振り向き、麗華をかばいながら身構えた。
しかし、勇敢な彼の目は、驚きで見開かれる。
男の手には、なんと刃物が握られていたのだ。
一瞬の隙をついて、少年のわき腹に、それは深々と突き刺さった。
「うっ」
わき腹を押さえ、少年は苦痛に顔をゆがめて、その場に膝をつく。
痛みで、もう動くことが出来ない。
「ふんっ、最初からおとなしくしてればいいんだ。この馬鹿が」
男は、そう叫ぶと、少年を蹴飛ばした。
民家の塀に、彼は、体をぶつけてしまう。
そのままうずくまると、動かなくなった。
辺りは血が飛び散り、見るも凄惨な様だ。
麗華は、顔から血の気が引いていく。
(嘘っ! あの人が……)
少年の側に駆け寄ると、顔が、もう青くなっている。
ぴくりとも動かない少年を見て、今度は男の方があわてた。
「ちっ、ほんとにやっちまったか。まずいな」
人に見咎められたら、警羅が駆けつけてくる。
舌打ちし、男は、すばやく姿を消してしまった。
(どうしよう。どうしたらいいの)
麗華は、どうしたものか途方にくれた。
(ねえ、本当に死んじゃったの? 返事をして)
少年の体に触れ、ゆすぶる。
しかし彼からの返事はない。
(どうしよう。あたしのせいね)
震え、泣き出しそうになる彼女の耳に、人の声が聞こえてきた。
「おかあちゃん、ほらあそこ」
「まあ、人が倒れてるよ」
母子の二人連れが、驚いてこっちを見ている。
麗華は涙をふき、助けを求めた。
「お願い、この人を助けて」
「……」
二人は、あまりのことにいぶかしみ、どうしようか戸惑っている。
(そうだ!)
麗華は、あることを思い出し、首に下げた玉飾りをはずした。
「お願い、これをあげるから助けて。お医者さんを呼んで」
「……」
「早くしないと、この人、死んじゃう! お願い」
叫ぶ少女の手から玉飾りを受け取り、母親は、うなずいた。
二人は、粗末なあばら家に連れてこられた。
途中、医者によって、彼の傷を見てもらう。
血はたくさん出たが、思ったより傷は深くないとのことで、麗華は、ほっとした。
手当てを終え、彼女たちは母子に連れられ、この家に来る。
たてつけも悪く、隙間風が入ってきたが、とりあえず屋根はあるし、身を隠すのにも丁度よい。
麗華は、すっかり安心して、かたわらの蓆に寝かされた少年を見た。
(ごめんなさい。あたしのせいで)
自分があきらめて、警羅に行っていれば、彼も、こんな目に会わずにすんだだろうに。
(あたし、なんて言って、あやまればいいのかな)
しょんぼりとしながら、麗華は、隙間から差し込む月の光を見つめていた。
母親は、玉飾りの効果か、二人に親切にしてくれた。
蕎麦をゆでて、出してくれる。
しかし、麗華は、それが喉を通らなかった。
横に眠る少年が、気がかりでどうしようもない。
まだ彼は、目を覚まさなかった。
(どうしよう。このまま目を覚まさなかったら……)
震えながら、麗華は、少年を見る。
彼は、ぴくりとも動かなかった。
「ねえ、お願い……起きて」
麗華は、少年の手を、そっと握って呼びかけた。
「お願いだから……うっ……えっ……ひっく……」
少女の目から、涙が溢れ、止まらなくなる。
彼に、がばっとしがみつき、麗華は、激しく泣き始めた。
月が、ゆっくり真上に移動する。
「……ん……っ」
少年は、静かに瞼を持ち上げた。
粗末な藁の天井が目に入る。
「ここ……は……?」
身を起こそうとして、はっとする。
何かが、自分の上に覆いかぶさっている。
(あ、この子……)
自分の上に倒れるように、あの姫が眠っていたのだ。
瞼を腫らし、銀の髪を乱しながら眠る少女のあどけない寝顔に、彼は、ほっと息をつく。
(なんとか助かったみたいだけど――一体ここは?)
彼女を、体の上からどかし、起き上がった。
「うっ」
彼は、わき腹を押さえ、うめく。
まだ傷が痛む。
包帯をしっかり巻かれたそこは、少しだけ血が滲み出ていた。
(ま、当然か)
彼は、はあっと息をはき、辺りを見回した。
明かりがなかったので、手探りであちこち探る。
(蓆に、藁を敷き詰めた床――下は砂かな、きっと)
どうやらここは、下町のあばら家らしい。
横を見ると、麗華がぐっすり眠っていた。
その平和そうな寝顔に、彼は大きなため息をつく。
(ったくもう! どうしてこんなことになったんだか)
父上に、なんて申し上げたらいいのか。
彼の顔が曇った。
もうこれ以上、つきあいきれない。
朝が来たら、ここを出て、警羅に行こう。
そう心に決めたとき――。
「お……かあ……さま……」
少女の唇から、言葉が漏れる。
(寝言?)
彼は、じっと麗華を見詰めた。
暗がりで、よくわからなかったが、差し込む月の光に、きらっと一瞬頬が光った。
彼は、そっと手を伸ばし、少女の頬に触れてみる。
(……泣いているのか)
触れた頬の温かさが、彼の心に、何か熱い感情を染みとおらせた。
「……」
少年は、またため息を一つ落とすと、横になって、身を休めた。
薄明るい光が、少しずつ差し込んできた。
(朝か)
少年は、ぼーっと覚めきらない頭で、そう思った。
少女は、まだ眠っている。
彼は、はっと身を硬くした。
誰かの近づいてくる足音がしたのだ。
がたがたっと小屋の戸が引かれ、中年の女が一人、顔を覗かせた。
彼は、顔だけ起こして、そちらを見る。
日に焼けた顔が、彼をとらえ、安堵の息をついた。
「おや、よかったこと。若様、起きたんだね」
「ここは……」
「ああ。下町のぼろやさ。ほれ、あんたの連れの姫様が、通りかかったあたしたちに、助けを求めたんだよ」
「そう」
彼は、横に眠る少女を見る。
「かわいそうに。変なやつらに襲われたんだって? まだ傷は痛むかい?」
「ええ……少し」
彼がうなずくと、女は気の毒そうに言った。
「しばらくゆっくりしておいで。なあに、ここには誰も来やしない。安心して、休んでいくといいよ」
「どうも」
首だけこくりと、彼はお辞儀をした。
女は、にいっと笑うと、戸を閉める。
とりあえず、しばらくは大丈夫そうだ。
彼は、ほっとして、緊張した体を緩めた。
「ん……」
麗華は、眩しい光に目を細める。
(ここは……あたし……)
しばらくぼーっとしていたが、やがて、がばっと起き上がった。
(ああっ! そうだわ!)
寝てる場合じゃない。
あわてて横を見ると、少年が、壁にもたれて座っている。
「あ、あの……」
彼は、少女を横目で睨むと、そっぽを向いた。
(どうしよう。怒ってるんだ)
麗華は、泣きそうになった。
(あたしのせいで……)
俯き、唇を噛みしめる少女に、彼の声がかかる。
「悪いけど、もう僕は、これ以上つきあえないよ」
「ごめんなさい」
「もう少ししたら、起き上がれると思う。そしたら警羅に行くからね」
「……うん……」
麗華は、やっと小さな声で、うなずいた。
おかゆと白湯を、さっきの女が運んでくれた。
「ありがとう」
麗華は、微笑んで、盆を受け取る。
「いいって。それより、もう少ししたら、医者が来るって言ってたから、ゆっくりしておいで」
少年は、無言でうなずいた。
ぼろぼろの歯を見せながら、女は笑って、戸を閉める。
(医者が――来るって?)
彼は、女の言葉を思い返し、少し驚いた。
こんなあばら家に、普通医者など来るはずがない。
こっちから相当の金を持っていかないと、平民の家では、医者にかかることも出来ないはずだ。
戸惑いながら、少女を凝視し、彼は気が付いた。
彼女の首から、玉飾りが消えている。
(そういうことか)
痛みに顔をしかめながら、彼は納得した。
彼女が差し出したのか、それとも取り上げられたのか。
自分と違って、彼女の着ている物は、汚れていても相当な値打ち物だ。
見かたによっては、さっきの女も下心があるやもしれない。
(ここも、もしかして安全ではないかも――)
彼は、不安になった。
少女は、そんな彼の心も知らぬげに、おいしそうにおかゆを食べている。
彼にも椀を差し出したが、首を横に振った。
(何が入ってるか、わかったもんじゃないし)
眠り薬でも入れられて、そのまま、どこかに売り飛ばされることだってある。
警戒を強めながら、彼は、少女が食事をするのを見守っていた。
「お前さ、本当はどこに行きたいんだ?」
「……」
「なあ、そろそろ教えてくれてもいいだろ?」
少女は少し俯いて、声を震わせる。
「お家。お母様に会いたくて……」
「じゃ、いつもはどこにいるんだ。家じゃなくて、別なとこなのか」
「うん」
麗華は、ゆっくりとうなずいた。
(この身なりで、奉公してるわけじゃないだろうし)
聞いても聞いても、少年には、さっぱりわからなかった。
麗華は顔をあげ、小首を傾けながら説明する。
「あたしね、小さいときから、あるお屋敷にいたの。そこの若君の遊び相手として――でも、お母様が病気だって聞いたから、どうしても会いたくて、そこを飛び出してきちゃったの。もし警邏に行ったら、お家じゃなくて、その若君のお屋敷に帰されてしまうと思ったから――だから行けなかったの。ごめんね」
「……」
「でも、もういいの。あなたに、こんな怪我させて、本当にごめんなさい。あたし、もうあきらめる。お母様には、きっとまた会えるし」
「……」
「あとで一緒に警邏に行こ? ね」
少年は、何かやるせない気持ちになって、少女を見た。
自分を気遣う瞳と目が合う。
どきっと心臓が高鳴り、彼は、あわててそっぽを向いた。
「どうしたの?」
不思議そうな声に、彼は、思わずどもる。
「なっ、なんでもないっ。それよりお前、貴族なのか?」
「え? うん」
「大きな木と井戸って、お前の家の側にあるのか?」
「うんっ」
少女は、元気よく答える。
「時々、お母様と散歩に行ったの。まわりはね、いっぱいお屋敷があって、とっても静かなんだよ。その井戸は、どこのお屋敷の人でも使っていいの。だからいつも、いっぱい下女や使用人たちが、水を汲みに来て――」
そう彼女が言ったとき。
「しっ!」
少年は、怪我をしているとは思えないすばやさで、麗華を抱きしめ、口を押さえた。
「誰か来る。静かにしてて」
口をもごもごさせていた少女は、こくんとうなずく。
彼の腕にしがみつき、身を震わせて、ちぢこまった。
しばらくすると、話し声がした。
「手配書にあった姫に、間違いないか」
「はい。間違いございません」
少年は、そっと気配をうかがう。
(この小屋――囲まれてる!)
あちこちに警戒する気配を感じ、彼は、全身に緊張を走らせた。
「あたしのこと、探しにきたのね」
少女の低い声がする。
彼を見て、にこっと微笑んだ。
「ありがと。あたし、とってもあなたに感謝してる。お母様のところに行けなかったけど、あなたに会えて良かった。あたしのために、こんなに一生懸命になってくれた人は、初めてだもん」
「……」
「警邏の人に、あたし、きちんとあやまるわ。もとのお屋敷に戻って、若君にもあやまらなくちゃ。あなたのことも、ちゃんとお話しして、宿まで送ってもらうわ。だから心配しないで」
「……いいの?」
「え?」
「それで、お前はいいわけ?」
少年は、ささやいた。
紫の瞳が、彼女を凝視する。
麗華は、うん、とうなずいた。
「もういいの。ありがとう」
「そんなの……そんなの……」
少年の唇が震える。
戸が揺すぶられた。
彼は、きっと戸を睨みつける。
「おいっ、開かないぞ」
「ああ、たてつけが悪くて――ちょっと、こっちを持ち上げてくださいな」
麗華が、身を固くしたのがわかった。
少年は、さっと立ち上がる。
傷が痛んだが、そんなことかまっていられず、少女の手を引いて、立ち上がらせる。
「ちょっと、どうするの?」
「ここを出るに決ってるだろ!」
少年はそう言うと、手近な壁に向く。
隙間があって、板と藁が薄く敷き詰められてる箇所に向かい、渾身の一撃を加えた。
バキッ。
あっけなく大きな穴が開き、子どもが通れるぐらいの隙間が出来る。
「さ、早く!」
彼は、麗華の手を引くと、外に逃げ出した。
「すみません」
少年は、麗華の手を引きながら、道行く人に尋ねる。
「貴族の屋敷街は、どっちですか」
人の良さそうな商人風の男が、丁寧に教えてくれた。
「ありがとう」
礼を言って、歩き出す。
「ねえ、どこ行くの?」
「……」
「もしかして、まだ探してくれるの?」
「……」
「もういいよ。さっきから、痛むんじゃないの?」
少女は、痛ましそうに、わき腹の傷を見つめる。
わずかだが、ちらりと見える包帯に、血が滲み出していた。
「いいよ、あたし。無理しないで――ね、お医者さんに行こ?」
「うるさい」
「でも」
「いいから、黙って来る」
少年は、ぶっきらぼうにそう言うと、麗華の手を強く引いた。
(あーあ、こんなことに、どうして気がつかなかったんだ)
少年は、自分自身がうらめしくてしょうがない。
最初に話したとき、彼女は家に帰りたい、と言ってなかったか。
(もっと早く気付いてれば――)
こんな下町をいくら探しても、目的の井戸と木はみつからないだろう。
家の側にある物なら、屋敷街に最初から行くべきだったのだ。
にぎやかな店の立ち並ぶ通りを抜け、静かな屋敷街に出る。
小さなものから、広大な塀に囲まれたものまで、様々に趣向を凝らした屋敷が立ち並んでいる。
ゆっくり道を進んでいくと――。
「あ……ここ!」
麗華が、突然声をあげた。
「知ってるのか」
「えーと、うん、たぶん……」
そう言うと、彼女は、彼とつないだ手を離し、ぱっと駆け出した。
「お、おいっ、待てよ……うっ」
少年は、思わず膝をつく。
激痛が、はしったのだ。
「大丈夫?」
顔をあげると、少女のやさしい手が差し出されていた。
「ごめんなさい。あたしったら、つい……」
少年は、ため息をつくと、彼女の手にすがって、起き上がる。
今度は、ゆっくりと歩いた。
麗華が彼の手を引いて、道を曲がり、少し開けた場所に出る。
「あったあ!」
麗華は、嬉しそうに、井戸に駆け寄った。
「ここよ、ここ」
辺りを見回し、彼女は嬉しくなる。
前方に、よく見知った道が伸びていた。
(あの道を、まっすぐ行けば、お家だわ)
麗華は、少年に微笑んだ。
彼は、井戸の淵に手をつき、ふうっと息をつく。
「ここで、間違いないか」
「うんっ、本当にありがとう」
少年は、体の力がふっと抜け、地面に座り込んだ。
「あ、大丈夫?」
「僕は平気さ。それより、さっさと行きなよ」
「え?」
「もうここからなら、一人で行けるんだろ。僕は、宿に帰らせてもらうよ。父上が心配してるから」
少女の目が、少しずつ潤み始めた。
「……もう会えないの?」
「そうだね。ここで、お別れだ」
彼は、微笑んで、少女の頭を撫でる。
「早く行って。僕は、一人で大丈夫」
「うん、でも……」
「早く行かないと、また見つかるかも。母上に会うんだろ」
「うん」
「じゃ、もう行って。僕は、少し休んだら、帰るから」
「でも……」
麗華は、うつむく。
涙が頬をつたって、地面に落ちた。
少年はあわてて、声をあげる。
「泣くなよ、もう、この泣き虫っ」
「……ぐずっ……あたし、泣き虫じゃないもん」
「じゃ、さっさと行けよ」
麗華は、顔をあげ、少年に笑顔を向けた。
「あのね、あたし……あたし、決めたの」
「何を」
「次に、あなたに会うときには、あたし、もっともっと、強くなるって」
「え?」
「あたしも剣とか習って、うんと強くなるわ。弱くて、守ってもらうしか出来ないなんて、もう嫌なの。だから――」
「あ……そう?」
少年は面食らった。
(お前が、剣を?)
どうすれば、か弱い姫から、そんな発想がでてくるのやら。
あきれて口も聞けない彼に、麗華は、自信ありげに続ける。
「そしてね。今度会うときは、あたしがあなたを守ってあげる。約束するわ」
真剣な瞳に、少年は、何も言えなかった。
「あのね、あなたにお礼をしたいけど、あたし、今、何にも持ってないの。ごめんね」
しゅんとした彼女に、彼は肩をすくめる。
「別にいいって。僕が勝手にやったことだし。君にお礼なんて、期待してるわけないじゃないか」
「あ、ひどい」
麗華は、ぷっと膨れた。
「それより早く行ってくれないか。僕だって、もう帰らないと」
そう言いかけた少年に、麗華は、ばっと腕を伸ばして、飛びついた。
「わっ」
驚く少年の首に、ぎゅっと抱きつく。
「あのね、本当にありがとう。あたし……あたし、あなたのこと、大好きよ」
次の瞬間。
麗華は、綺麗な瞳で彼を見つめると、少年の唇に自分の唇を押し当てたのだ。
「……」
思わぬことに、絶句している少年から離れ、麗華は、恥ずかしそうに頬を染めると、ばっと走り出して行った。
麗華は、後宮に、無事戻ってきた。
出迎えてくれた宇亥は、もう半泣きだ。
「ひ、姫様。よく……よく、ご無事で……」
「ごめんね、宇亥」
麗華は、しゅんとしてあやまった。
後宮を抜け出した罰として、一ヶ月の謹慎を命じられ、こってりと女官長に怒られて、さすがの彼女も、気分が滅入っていると思いきや――。
「あのね……あのね、宇亥」
「はい?」
少女は、もじもじしながら、頬を染めて、口ごもっている。
「どうされました?」
こんな麗華は初めてで、宇亥は面食らった。
「あ、あの……やっぱり、なんでもないっ」
「姫様?」
「あたし、疲れたから寝るね」
寝室に駆け込んでいく少女を、宇亥は、不思議そうに見守っていた。
(やっぱり、宇亥にも話せないや)
麗華は、真っ赤になった頬を、両手で押さえて、嬉しそうに窓の外を見る。
星が、やさしく瞬いていた。
(あの人、どうしてるかな)
思い出すだけで、胸がほんのり温かくなる。
(とっても素敵な若君だったな。名前ぐらい、聞いておけばよかった)
そうしたらまた会えたのに。
そっと唇に指で触れると、あのときのことが思い出される。
(あたしの、初めての接吻だったものね)
以前父と母が、偶然しているところを見て、聞いたことがあったのだ。
そのとき、母が、にっこり笑って、教えてくれた。
『大切な男の方に、好きですって言う意味で、するものなのよ』
(ふふっ、あたしもしちゃった)
麗華は、笑みが止まらず、上気した心で、布団にもぐりこんだ。
がらがらがら。
夜道を、馬車が南へ向かっていく。
馬車の中でふくれっつらをしている少年に、向かいに座った父が声をかけた。
「随分機嫌が悪いな。傷が痛むか?」
「え? あ、はい」
少年は、我に返って答えた。
「どうした。さっきから考え事か」
にやにや笑う父に、少年は、大きくため息をつく。
「都で、綺麗な姫君にでも、会ったとみえる。一目ぼれか? お前が、そこまで上の空とはな」
「違います。冗談じゃない」
彼は、真っ赤になって、否定した。
「あんなの……あんなの、僕は、ごめんです」
「は? お前、本当にどうしたんだ。むきになって」
冗談のわからん奴だ、と苦笑する父を、少年は睨んで、ぷいっとそっぽを向く。
父には本当のことを話さずに、ただ町で人買いに襲われたのだ、と言っておいた。
いらだつ心を静められず、彼は、膨れて外を見る。
(まったく……今回の都行きは、最悪だ)
人のこと、思う存分かきまわし、最後は唇まで奪っていった。
『今度会うときは、あたしがあなたを守ってあげる』
冗談じゃない。
もう二度と関わりたくない。
彼は、いらいらしながら、そう思っていた。
消しても消しても浮かんでくる、頭の中の彼女の残像。
(もう! うっとおしいから消えろ!)
そう心で叫んでも、無理のようで、更にいらだつ。
そんな彼を、父は、面白そうに見つめていた。
「お前、本当に何かあったな」
「え?」
「さきほどから、顔が赤いぞ」
「なっ!」
彼は、また叫ぼうとしたが、ばつが悪くなり、黙って外に向き直った。
(ったくもう! どうして僕が、こんな気持ちにならなきゃいけないんだ)
まだ唇に、初めての接吻の名残りがあるのを感じ、彼は更に憮然とする。
(もう嫌だ。早く忘れてやる)
「そう怒るな、龍焔。さ、もうすぐ家だぞ」
息子の不機嫌さを楽しみながら、父は言った。
馬車は、ゆっくりと、二人の屋敷に向かって、夜道を走っていった。
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