バラスの決断
前面の敵に背を向ければ斬られる。生き延びる可能性があるのが、左右の味方兵士と共に戦って敵を打ち倒すこと。生き延びるために。勝利するために。両軍の兵士たちはそう心に堅く言い聞かせながら剣や盾を振るい続けて戦列を維持している。ただ、疲労や傷の痛みと共に、心が揺らいでいる。
アトラスはその状況を変えた。アトラスが手勢を率いて突入した箇所では、味方には新たな加勢が駆けつけたと勇気づけ、敵には生き延びる見込みが無くなったという衝撃的な動揺を与えたのである。
シュレーブ・フローイ軍の戦列の最も弱い部分、アトラスが指摘した薄い隙間をアトラス自身の部隊が食い破った。シュレーブ軍右翼は側面を突かれるのを恐れて後退し、ルージ軍は勢いづいてそれを追った。
シュレーブ軍右翼は前方からはヴェスター軍に攻め立てられ、側面から攻めるルージ軍に押されて後退するにつれて、戦列に生じた隙間は拡大し、更に多くのルージ軍兵士がなだれ込んでいった。
ルージ軍は敵の戦列の破れ目で二手に分かれた。ルージ軍右翼に位置したバラスは、前面のシュレーブ軍を突き崩しつつ、その側面から背後へと兵を進めている。戦に長けたバラスのこと、敵をカルネルギア川を背に包囲する体勢を作るだろう。
一方、敵の戦列を突破したアトラスは、勢いの赴くまま攻勢を左へと転じ、フローイ軍に挑みかかっていた。しかし、兵力の一部をシュレーブ軍攻撃に割かれて、フローイ軍と戦うルージ軍の兵数は少ない。
アトラスの様子を見れば、兵を退く気配もなくフローイ軍に突入する様相を見せていた。勇敢だが、この戦場では無謀な行為だった。このままでは、アトラスは勢いに任せて敵陣に突入し周囲を囲まれて孤立したあげく、討ち取られてしまうかも知れないのである。
サレノスは傍らを駆けるゴルススに、シュレーブ軍を追う味方を指さして怒鳴るように命じた。
「バラス殿の元へ行き、伝えよ。我らが王子がフローイ軍に突入した。戻って王子を支えよと。急げっ」
ゴルススは黙ったまま頷き、命じられた方向へ駆け始めた。
サレノスは自分が命じた内容がどんなに困難なことかを知っている。勢いづいて敵を追っているとはいえ、バラスの兵士たちに、いま戦っている敵に背を向けて、フローイ軍と戦う味方の加勢に駆けつけろというのである。ただ、事態は緊急を要する。
サレノス自身、安穏とはしていられなかった。彼の手勢で、孤立しかかっているアトラスの脱出路を確保せねばならないのである。
一方、バラス率いるルージ軍右翼部隊では、僅かな兵がその戦意のみ旺盛で、敵を圧倒し包囲しようとしていた。バラスの部隊はアトラスが敵陣に開けた穴から突入し、シュレーブ軍右翼を圧しつつその側面から後方に回り込みかけていたのである。理想的な戦況といえた。このまま敵を圧しつつ前進して、敵をカルネルギア川へと包囲できる。その包囲の最後の口を閉めるのがバラスの部隊である。包囲された敵は急速に戦意を失い、味方は敵を殲滅するという大勝利が得られるだろう。フローイ軍と戦う味方からバラスの将旗を目指して伝令が駆けてきたのは、これからバラスが部隊を進めて包囲を完了しようかというタイミングである。
バラスの傍らで父と共に戦う息子のラヌガンは、伝令の顔に記憶があった。サレノスの傍らに侍る若者ゴルススである。ゴルススは簡単に、しかし正確にルージ軍左翼の戦況とサレノスの命令を伝えた。バラスは遠目に左翼方面の状況を眺め、そして、自らの戦場の様子を眺めた。
「父上。間もなく、この方面での勝利も決まりましょう。その後、フローイ軍に向かっては?」
ラヌガンがそう言うのも常識的な判断といえる。敵を包囲殲滅するという完全な勝利を収めつつある。しかし、左翼方面へと兵を割けば、包囲は不完全になり、敵を取り逃がすだけではなく、背を向けて左翼方面に向かうバラスの部隊は、逆に敵に背後を襲われて大きな被害を被る危険性すらあった。しかし、バラスは迷わなかった。
「サレノス殿に、承知したと伝えよ」
伝令のゴルススにそう言い、サレノスの元に戻らせた。続いて信頼できる部下の名を呼んで命令を下した。
「マリドラス。儂に替わって、我が息子と共にこの戦列を支えよ」
眼前のシュレーブ軍との戦いの指揮を、息子のラヌガンに引き継ぐので、これを補佐せよというのである。
「承知」
マリドラスは短く答えて頷いたが、ラヌガンは承伏しかねるように尋ねた。
「では、父上は?」
「儂は二百の兵を率いて、フローイの者どもに目にもの見せてくれるわ」
この間にも戦場には敵味方の怒号と剣や盾が打ち鳴らされる音に満ちている。士気が旺盛なために敵を押しているが、バラスの兵はシュレーブ軍に比べれば数は少ない。そこから二百を引き抜くというのである。右翼の戦いは苦しくなるだろう。ただ、左翼側は、二千五百のフローイ軍の精兵を相手に、もっと苦戦している。そこへ僅か二百の兵で加勢するバラス自身も大きな危険を背負っていた。
「では、父上の代わりに、私が参ります」
「いや、ならぬ。これも運命の神の定め」
二分する役割を比べれば、フローイ軍との戦いは僅かな兵で味方に加勢するだけではなく、敵中に孤立しかかっている王子を救出するという任務も背負っている。よほど戦慣れした者でなければ果たすことは難しいだろう。
低く腹に響く兵士の怒号やうめき声、甲高く鼓膜を突く剣の音が溢れるこの場で、会話を長く続けることはできない。話を締めくくるように、バラスは一瞬、笑顔を息子に向けた。、憎しみや苦しみなど負の人生がバラスという一個の人格で濾過されて、残された真心のみに精製された笑顔のようだった。しかし、ラヌガンが父の心を推し量ろうと眺めた時には、既に父は武人の表情で叫んでいた。
「ルージの勇者どもよ。儂は今からフローイの討伐に行く。前面のシュレーブの弱兵との戦いに飽きた者は儂に続けいっ」
もちろん、この場に戦いに飽きた者など居るはずがない。しかし、戦いに疲れ果てて剣戟のやや後ろで呼吸を整えていた兵士たちが、剣を構えなおしてバラスの元に集まった。自らの役割を自覚していれば数が整うのを待つ時間もなく、バラスはその50名ばかりを率いて駆け始めた。マリドラスとラヌガンは戦列を駆け回って兵を抽出して、バラスの後を追わせた。