狐を嫁にとる
もういいよ、と夏の緑生い茂る林の中に鈴の音のような声が響く。
その声に応えて、少年の声が林の中に響く。
「じゃあ探すぞ!」
丸刈りで、形の良い事が解るごましお頭で、半そで半ズボンの、ちょっと厳つい顔の少年。
顔は少年にしては厳ついが、その声はやはり少年特有の高さを含んだものだった。
閉じていた瞳を開いて、キョロキョロと周囲の茂みや木の上を等しき入り見回す少年。
彼は樹林 正太郎、林業を営む母方の祖父母と同居するサラリーマンの父、専業主婦の母と暮らしている。
この正太郎は数週間前、あまり奥にはいるなといわれていた山のふもとの雑木林に一人で探検に来て、一人の少女と出会った。
少女の名前は銀子と教わったが、苗字は何故か教えてもらえなかった。
家に帰ってから母や祖父母に少女の名前をだしてどこの家の子か聞いたが、正太郎に答えは返ってこなかった。
あまり大きな町ではないので、家族の誰かしらが知っているかなと思っていたのだが正太郎の当ては外れたのだ。
ただ、祖父母と母は明るく笑ってそのうち分かるというばかり。
父だけはどこの子か分からん子供とあまり遊ぶなよと釘を刺してきた。
それでも正太郎は銀子と遊ぶことを選んだ。
父には釘を刺されたが、相手は女の子で、母と祖父母は特に注意を促すこともないので、大丈夫だと思ったから。
そして今は丁寧に茂みを掻き分け、隠れているはずの銀子を探す。
彼女は黒髪をおかっぱにしたちょっとした美少女で、少し高めのすっと通った鼻筋、色素の薄い薄い唇。
少し釣り目気味になった瞳とそれらが合わさって、少し気位の高そうな印象を与えるが、実際はかなり人懐っこい性格だった。
その証拠に、正太郎が少し探すと、ちらちらと木立の間から銀子が着る浴衣の袖がチラリと見える。
彼女はかくれんぼを好む、それも一度隠れて何十分も見付からないような隠れ方ではなく、鬼である正太郎が注意深く七、八分も探せば見付かるような。
見つけてもらうかくれんぼが好きなのだ。
正太郎は裾が見えてるよとは言わずに、ゆっくり近づいて、木と茂みの間に隠れてしゃがんでいる銀子に声を掛けた。
「みーつけた。今度は銀子が鬼」
「あやー、見付かっちゃった」
「まぁ、この辺り隠れる場所そんなないしな。林の奥の山には隠れんていうルールだし」
「そだね。そこまでいくと正ちゃんきっと迷子になってしまうから」
くすくすと口元を隠して笑う銀子の頭を両手で抑える正太郎。
彼はそのまま軽く髪をくしゃりと掻く様に手を動かすと銀子に言った。
「お前は迷わないのかよー。お前だって危なかろーが!」
笑いを含んだ声で正太郎が銀子の髪を弄っていると、銀子がわたわたとその手を止めようとする。
「あ、あ、ダメぇ。出ちゃうよ正ちゃん」
「なんが?なんが出る?」
「それは……その……」
「ほれほれ、いわんと出るまでやっぞ」
からからと笑いながら、さらに続ける正太郎に、おずおずと銀子は言った。
その声には少しの遠慮と怯えが入り混じっていた。
「あのさ、実は秘密なんだけど」
「ん?秘密か」
「うん……」
「そっかぁ。それはすまん。やめる」
秘密だといわれて、ぴたりと手を止め艶やかな黒髪から手を放す正太郎の手を、銀子ははしっと掴む。
そして、正太郎にちょっと怒らせたかな?と思わせるような、目を細めて見上げるような硬い表情で言った。
「正ちゃん。これを聞いたらあたし正ちゃんにお嫁に貰ってもらわなきゃならないよ」
「お、およめ?」
「うん。お嫁さん」
「そんな大事な秘密なら、俺なんかにいったらいかんて」
「そう?」
「ん」
正太郎の手を取って、首を傾げる銀子と、子供にしては厳しい顔で頷く正太郎。
だが、銀子はより一層強く正太郎の手を握って言った。
その細めた瞳には、怒りではなく甘えるような、おねだりをするような光が宿っていた。
「でも、私は正ちゃんに聞いてもらってお嫁さんにして欲しい」
「そっか」
正太郎の様子を伺う銀子の手を、正太郎は振りほどかなかった。
また、やめろとも言わなかった。
そんな二人がしばらく向かい合った後、銀子は一度目を瞑ってから、正太郎の顔をかすかに見上げながら言った。
「あのね正ちゃん。あたし狐なんだ」
「狐?」
「うん、ほら」
銀子は証拠とばかりに、正太郎の両手から手を離し、頭と腰を一撫でする。
すると彼女の頭と腰に、それぞれ耳と尻尾が現れた。
だが正太郎は驚く前にむっと難しい顔になる。
それを見て銀子は少し眉根を寄せて、不安げな顔になる。
「しょ、正ちゃん?やっぱりダメだった?気持ち悪い?」
そう言っておどおどと耳と尻尾を隠すように手で覆う銀子の、耳を隠す手を正太郎はさっとどかして言う。
「銀子。こりゃ狐か?犬と見分けがつかん」
「な、なんで!?犬が化けるかぁ!」
「お、おう。そう言われればそうだな」
一転、噛み付くような勢いで正太郎の肩辺りを細腕で精一杯叩く銀子の様子に、正太郎は少々気後れする。
だが、そんな状態でもその目は耳と尻尾に釘付けにされている。
ぴくぴくぱたぱたと動くソレが、手品やマジックでつけた偽者ではないという確信が徐々に正太郎の心の中を満たして行った。
だからつい正太郎の手は好奇心に導かれるまま、銀子のぴょこんと立った茶毛の耳をやんわり揉んだ。
そんなことをされれば銀子の方も思わず飛び上がってしまう。
小さく跳ねた銀子の反応に、正太郎は手を放す。
「しょ、正ちゃん耳触った!」
「ん、ああ、触ったけど。こりゃ正真正銘、動物の耳だな」
「そ、そうだけど!それより触ったね正ちゃん!」
「ん?触ったがどした?」
離した手のやり場が無くて、中途半端に宙に浮かせている正太郎を銀子が頬を染めながらキッと睨みつける。
その視線の強さに、思わず正太郎が身を軽く引く。
「耳、触った!」
「お、おう。なんか悪いか?」
「耳も尻尾も、大切な人にしか触らせるなってかか様に言われてる!」
「え?あの、その、それは……すまね」
「んとね、お嫁さんにしてくれるならいいよ」
「へ?」
唐突な耳の後では再び唐突に聞こえるお嫁さんの一言に、正太郎はぽかんとする。
きりっとしていれば男前と祖母に言われる太目の眉をへにゃりとまげて、だらしなく八の字にして、口もかくんと顎を落とす。
そんな正太郎にすっと前かがみ気味に近づいて、じっとりと暑さに汗を掻く正太郎に言った。
「お嫁さんにしてくれるなら触っても良いの。許してあげる」
悪戯っぽく頬を緩めながら放たれた銀子の言葉に、正太郎は今度こそ尻餅をついて叫びを上げた。
「ええええええぇ!?お前、いいのかよ!?」
「むっ。私は正ちゃんのお嫁さんになりたいってさっきから言ってる」
「え?言ってたか」
少し目の前の少女に気圧されながら、正太郎が問う。
するとぷくっと頬を膨らませて銀子は言った。
「言ってるよ」
「いや……うん、お嫁さんにしたら許してあげるで上書きされそうになったけど、言ってるな」
「でしょ?」
ちゃんと話を聞いてもらえた事に満足したのか、銀子の顔に笑顔が戻る。
それを見ながら正太郎は小さくぼやいた。
「ごっこじゃ、ないよなぁ」
生来の真面目さから発されたその言葉に、銀子は頷く。
「ごっこじゃなくて、私本当の正ちゃんのお嫁さんになりたい」
これには正太郎も困った。
何せ小学生だ。
おままごとでお父さん役をやったことはあっても、お嫁さんにして欲しいと言われたことはない。
それで、正太郎はすっかり考え込んでしまった。
そんな正太郎の決心を後押しするように、というか、自分の不安をかき消したかったのだろう。
銀子がそっと正太郎の半袖の服の裾を引きながら言った。
「お願い正ちゃん。私の事お嫁さんにして」
この後押しに、しばらく難しい顔をしていた正太郎がため息をつきながら。
腕を組んではぁっと息を吐くと、腕を解いて胡麻塩頭をざらざらと掻くと言った。
「分かったよ。そこまでいうなら嫁に来い!」
「やったぁ!正ちゃん、大好き!」
「う……ん」
「正ちゃんは、私の事好き?」
「言わんといかんか?」
腕に絡みつかれて、むすっとしたように口を引き結ぶ正太郎に、銀子はきゃらきゃらと笑いながら言った。
「言って欲しいなあ」
甘えてしなだれかかる銀子の少し低い体温が、暑い盛りの中でも涼しげな森の中にいる正太郎に熱を感じさせる。
まだ成熟しきっていないとはいえ、確かに感じる膨らみなどが正太郎の心をかき乱す。
どちらかと言えばお堅い性格とは言え、正太郎だって男で、少なからず相手に好意を持っている。
そんな状態で好きだと言って欲しいと言われれば、思わず固まる。
だが、正太郎はごくりとつばを飲み込んだ後で言う。
「俺も銀子のこと、好きだ」
「……えへへ、嬉しいよぅ。正ちゃん」
ぺたりと、僅かに汗ばむ肩口に頬をつける銀子をどうすればいいのか分からず、そのままにさせる正太郎。
その後、日が暮れて正太郎の家に帰るまで、その状態は続いた。
しかし、やや時間が経ってから逆に正太郎の方から銀子に尋ねた。
「なんか好きだと言わされた感があるが、銀子は、アレだよ、俺のどこがいいんだ?」
「正ちゃんが私の好きなところ言ってくれたら教えるよ」
「な、お前な。俺には好きって言わせておいて」
「どうしても聞きたい?」
「……言いたくないならいわんでもいい」
さりげなく空いた手で銀子の髪をなでながらいう正太郎に、ほんわりと柔らかい微笑を浮かべた銀子は言った。
「そういう、無理やりしない所と……」
「ん?結局いうんか」
「うん。それとね、いつでも私の事を見つけてくれるところが好き」
「なんでそれが好きになる?」
「私はね、いつも隠れる時、本気で探してくれる人じゃないと見つけられないおまじないしてたの。でも正ちゃんは毎度見つけてくれたでしょ?いつも本気で私の事探してくれる、そういうところ、好きよ」
「そんなおまじないしとったんか……俺にすりゃお前はいつも見つけて欲しそうな緩い隠れ方しかしとらんようにしか見えんかった」
正太郎の言葉に、くすくすと笑いながら銀子は言った。
そんなのは当たり前、とでも言うように。
「だって、本気で私を見つけようとしてくれなきゃ見付からないおまじないをかけてて、その上本気で隠れたらおまじないで見付からないのかわからないじゃない」
「あ、あー……そういう事か。なるほどなぁ」
「いつも真面目に私の事探してくれた正ちゃんが私は大好き」
「分かった。分かったからもういわんでいい!恥ずかしいやっちゃ」
「えへへ」
恥ずかしさを紛らわすような正太郎の悪口も、今の銀子には通じないのか。
汗ばむ正太郎の腕にぴったりと寄り添った銀子の顔には笑顔がある。
彼女の尻尾はゆらゆら揺する。
その後、正太郎の両親に挨拶がしたいという銀子を連れて家に帰った正太郎を待っていたのは、母のやっぱりねぇという言葉だった。
その言葉に、正太郎が母に銀子が狐だと気づいていたのかと聞くと、お茶を入れながら軽い様子で返された。
「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、よく二人のお祖父ちゃんお祖母ちゃん……曾々お祖父ちゃん達くらいの時はよくあった話だったって聞いてたから」
「かーちゃんそんなんでいいのか」
「いいのよ。それにこのあたりで狐のお嫁さんは山神様って言ってね。とってもおめでたい事ことなのよ」
母にそういわれて話の飲み込めない正太郎に、銀子が囁きかける。
「私はお婿さんになった人に山での安全のおまじないをかけるの。それが昔はとっても重宝されたのよ」
耳元で言われた言葉に、ああ、そういう事が出来るなら祖父ちゃんに掛けてあげて欲しいなぁと思うのだが。
それを察したかのような銀子はさらに正太郎に言った。
「お呪いは始めての交尾の時にするから、正ちゃん以外には掛けないよ」
「こ……!?おまっ、かーちゃんの前でなにいうか!?」
「まぁちょっと生臭い話だけど、正太郎はどうせお祖父ちゃんに呪いを掛けてもらおうとか思ったんでしょ。そう思うんだったらお祖父ちゃんの後を継いで上げてね」
「ん、むぅ」
なんだかやり込められてしまった正太郎。
確かに祖父からは後継者不足を嘆く声をなんとなしに聞いているが、今まで自分が後を継ごうというビジョンは無かった。
ただ、銀子の言葉で林業を継ぐという、新しい道が現れたような気がする。
普通の人達は呪いなんてなくてもそういう仕事に就くのだろうが、自分は少し有利な条件でそういう仕事が出来るとなれば、それもいいかなと思いつく。
実を言えば父と同じ会社に勤めたい、なんて思っていたりはしていたが、それもなんとなくレベルだ。
そんなところで好条件を出されればついつい気持ちが流れるのが人間と言うもの。
正太郎の気持ちも、ぐらりと揺れた。
そこに銀子からさらに追い討ちが掛かる。
無邪気な口調で、ぴたりと正太郎の背中に張り付いたままで言うのだ。
「正ちゃんには山の仕事してもらいたいなぁ。山がどんどん削れてるから……正ちゃんに私達の山を守ってもらいたい」
山は正太郎の物ではなく、関連した仕事に就いたからと言って何が出来るかなど分からない。
しかし、『お嫁さん』になるという銀子のお願いは、聞いてやりたいなぁというのが正太郎の気持ちだった。
そんな話をしている内に祖母も近所の茶飲み友達との会合から帰ってきてめでたいめでたいと明るく笑った。
この空気が壊れるのは父と祖父が帰ってきてからだった。
祖父は笑ってもてはやす、だが父は違った。
外から入り婿としてやってきて、勤めも林業からは離れていた父は銀子を拒絶した。
彼には銀子はオカルティックな事を言って息子を惑わすおかしな少女に見えたのだ。
理性のそこにある怪異への恐怖からか、執拗に銀子を追い出そうとする父を止めたのは正太郎だった。
「父ちゃん、聞いてくれ。俺が将来何になるかは、まぁ置いとく。でもな、もう銀子を嫁にするのは約束したんだ。狐だろうと人だろと、それは変わらん。父ちゃんは俺を嘘吐きにしたいのか」
「馬鹿!お前はそんな馬鹿正直だからこんな得たいの知れない女にひっかかるんだ!約束なんかやぶっていいんだ、こういう時は!」
「父ちゃんはそう思うかもしれん。でも俺ぁ嫌だ。だから頼む。父ちゃん」
幼さゆえの頑固さが出たのか、ぽかりと一発殴られても意思を変えない正太郎の頑固さ。
そして妻とその両親からのそれと無いとりなしに、最後は父のほうが折れた。
ただ、条件はつけたが。
正太郎も先々保健体育で習うと思うが、セックスは十八になるまで禁止。
子作りなどはもってのほかで、セックスできる年齢になっても正太郎が稼げるまで赦さない。
この条件で、本格的に付き合えるようになるまで二人の気持ちが続けば父も二人の仲を認める。
正太郎達、一家が住む田舎特有の早く連れ合いを作って子供を作るのがいい、できるならできるだけ早ければいいと言う慣わしになれた母と祖父母も、父の言う子供作っても養えん男は息子ではないという持論には負けた。
そういうわけでなんとか条件つきで、銀子と正太郎の交際は認められたのだった。
こうして、正太郎には狐の嫁入りが決まったんだとさ。