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物忘れ家族

作者:沖田猫
 
「おい、俺のメガネどこにあるか知らんか?」

 また夫の声が聞こえてきた。このしわがれた声を耳にするのは一体これで何回目になるのだろう……。


 今年で八十歳になる夫の孝雄(たかお)は、さっきまで使っていたはずの老眼鏡をどこへ置いたのか忘れてしまったようだ。
 居間で朝刊を読もうと、座卓の前であぐらをかいたまではよかったものの、きっと、その字が小さすぎて読むことが困難だったのだろう。夫は、「メガネ、メガネ……」と呟きながら、その細い手を、乱雑なテーブルの上でせわしなく動かしていた。けれども結局、自力で老眼鏡を見つけ出すことはできなかったらしい。仕方なく、妻である私に助けを求めてきたというわけだろう。


 私は、そんな夫の様子を、庭で洗濯物を干しながら横目で見ていた。室内にいる夫の老眼鏡が今どこにあるのかを実は知っていたが、あえて本人には教えないでいた。面倒くさかったというのもある。それに、本人から訊かれたわけでもないのに、わざわざ教えてあげるというのも何だか癪に障る。けれども結局、本人から訊かれてしまったので、仕方なく私は教えてあげることにした。そうして、その問題はあっさりと解決するのだ。

「メガネ? メガネなら、あなたの頭にかかってるじゃないの」


 私は、洗濯物を乱暴にハンガーにかけ、シワになっていた部分を思い切り引っ張った。夫の顔は見たくなかったので、目線を合わせないまま返事をした。
 こんなことはしょっちゅうだった。夫は大雑把な性格も手伝ってか、老眼鏡、ハサミ、軍手などといった日常生活で使うものを、そこら辺の棚や座卓の上などに置きっぱなしにする癖があった。そして、次に使うときには必ずといっていいほど、それらをどこへやったのかを忘れているのだ。
 たいていのものは自力で見つけられないので、最終的には、唯一同じ家に住む私が、一緒に探してあげなければならないのだ。


 夫は、自分の頭にかかっていた老眼鏡を触ると、驚いたように口を半開きにさせていた。まさかそこにあったとは思わなかったのだろう。夫は、居心地悪そうに私を一瞥すると、「チッ」と舌打ちをしてから新聞を読みはじめた。

 訊かれたことに答えてあげても、夫は決してお礼を言ってくれない。それどころか、私に聞こえる声量で「気づいてたならもっと早く教えろよ、バカ」と文句を言ってくる。
 私は溜め息を一つ吐くと、洗濯かごからタオルをとり出し、空中で思い切り振っていた。



 家の中が静かになったのは、束の間だった。数分後、また夫の声が聞こえてきたのだ。

「おい、爪切りどこにやったか知らんか?」


 台所にいた私は、夫に聞こえるようにわざと溜め息を吐くと、顔を見ないまま答えていた。

「爪切りなら、そこの電話のそばの引き出しに入ってるでしょう」
「引き出し? あぁ、そうだった、そうだった」


 夫の物忘れはひどい。特に最近は、歳をとったせいか一日に何度も、私に「あれはどこいった?」などと質問してくる。若い頃なら笑顔で答えていただろうが、結婚してもう何十年も経つ今じゃ正直、返事をするのも面倒くさかった。

 私は苛立ちを抑えながら、夫が使った湯呑みを洗いはじめる。もう夫が話しかけてこないようにと願いながら、水道を出しっぱなしにしたまま食器を洗い続けた。


   ◇


 時計の針が十二時近くなったのを確認して、私は冷蔵庫の前に立った。夫と私の二人分の昼食を作ろうとするためだった。なぜ一日に三度も食事を作らなくてはならないのかと心の中で文句を呟きながら、冷蔵庫から野菜をとり出した。


 夫は定年退職をして以来、ほぼ毎日、一日中家に居る。これといった趣味もなく、一日中長椅子に座ってくつろぐ時間はあるというのに、夫は何も家事を手伝ってくれなかった。だから私はこう言うのだ。

「ちょっと、あなた。昼食作るの手伝ってちょうだいよ」
「あ? 昼食? あぁ……もうそんな時間か」


 夫は長椅子から立ち上がり、のろのろと台所へ寄ってくる。決して自分から手伝うことはしないが、頼めば何かしらやってくれる人だった。

 そんな夫に甘えて、私は台所から離れて居間に移動し、さっきまで夫が座っていた長椅子に腰を下ろした。私の手には湯呑みに入ったお茶がある。家事なんてする気は一切なかったのだ。だから、お茶を飲みながらテレビでも見て、今日の昼食作りは全て、夫に任せるという予定だった。

 夫はポカンと口を開けて私を見てきたが、特に文句も言わない。

「何をすればいい?」
「じゃあ……そこの野菜切って野菜炒めでも作ってちょうだい」

 私はお茶をすすりながら、適当に返事をしていた。夫もまた、「あぁ」と小さく返事をしていた。


 その数秒後、台所から夫の声が聞こえてきた。

「おい、包丁どこにしまったんだ?」

 夫の声に珍しく振り向いた私は、指をさして答えた。

「包丁? そこにあるじゃないの」

 私が指さしたのは、夫の腹部だった。
 夫は私を見た後で目線を下げた。自分のお腹に包丁が刺さっていることに、やっと気づいたようだ。


「何で、こんなところに包丁が刺さってあるんだ?」
「何でって、さっき私が刺したんでしょうよ」


 私は夫を殺すつもりだった。理由はと訊かれたら、ちゃんと答えられないかもしれない。ただ単に、夫のことが嫌になったのだ。結婚して何十年も一緒に暮らしているうちに、夫の言動一つ一つが許せなくなってしまった。夫の笑い方も、夫の小言も、夫の歩き方も、夫の寝息も、その全てが見ていて腹が立ってきた。
 あるとき、ふと思ったのだ。私は一体いつまでこの人と一緒にいなければならないのだろう……。そう思ったことは今までに何度もある。けれども今までは、それ以上深く考えないようにして誤魔化して過ごしてきた。

 けれど、あるとき私の中の何かが壊れてしまったのだ。
「おい、俺のメガネどこにあるか知らんか?」
 その日、何度目かの夫の物忘れに付き合わされた後、ついに我慢の限界がきてしまった。夫は、老眼鏡を見つけた私にお礼も言わず、舌打ちをしてから小言を言い放ったのだ。その言葉は、私の耳にいつまでも残り、忘れることができなかった。


 夫が死ぬまで、もしくは私が死ぬまでずっと二人で共に生きていかなくてはならないのかと思うと、もう耐えられなくなった。死んでからも一緒の墓に入らなきゃいけないなんて考えると、もっと嫌になった。

 最初は好きで結婚したはずなのに、いつからこうなってしまったのだろう。いや、もしかしたら私は、結婚当初から夫のことはあまり好きじゃなかったのかもしれない。もともとお見合いで出会って、夫のことはよく知らなかったし、結婚を決めたのも、私というより、私の両親の方が夫のことを気に入っていたからだったと思う。


 それでも夫と離婚せずここまでこられたのは、愛する一人息子がいたからだ。今は独立してこの家に暮らしていないが、それでも、いつでも息子が安心して帰ってこられるように、この家だけは残してあげたかった。そういえば最近、息子と会っていない。今は一体どこで何をしているのだろう……。


 料理を手伝ってと言えば、夫は必ず台所にきてくれる。それを利用して、私は、台所へ歩いてきた夫の腹部に包丁を突き刺したのだった。

 この家には、普段、鍵のかかっていない勝手口がある。『そこから泥棒が侵入してきて、そのときたまたま台所で料理を作っていた夫が、運悪く鉢合わせしてしまい、犯人の顔を見てしまったせいで口封じに殺された』という設定にするつもりだった。
 少々無理があるかもしれないが、警察には、『二十代くらいの若い男に、夫は刺されてしまった』と嘘の証言をする予定だった。私はそのとき居間でテレビを見ていてから、夫を庇うことも、逃げた犯人を捕まえることもできなかったのだ、とでも言っておこう。


「あぁ、そうだった、そうだった」

 夫は、血に染まった自分のお腹を見て、やっと先程の出来事を思い出してきたようだ。


「ちょっとあなた、物忘れひどすぎない? さすがに、ついさっき刺されたことくらい覚えているものなんじゃないの? あぁ……あなたも歳をとったのね。私と結婚した頃は、結婚記念日やはじめてキスをした日も忘れずに覚えていたのに……人って変わっちゃうのね」


 私はこれが最後だと思って、長椅子から立ち上がると、持っていた湯呑みを座卓に置き、台所の近くまで歩み寄った。夫の目を真っ直ぐ見つめた。

「フンッ……そ、そう言うあんたもな」
「?」

 夫は、腹部の痛みで立てなくなったのか、その場に膝をついて私を見上げていた。


「お、俺は、あんたの夫じゃないぞ。あんたの夫は一年前に病気で亡くなったじゃないか。ほら……あそこの仏壇にちゃんと遺影もある」


 私は、そう言われた後で振り返った。確かに、居間の横にある襖が開いたままの小さな和室には、夫の写真が飾られた仏壇があった。


「じゃあ、あなたは……」

 私は視線を元に戻して、唇を震わせながら目の前にいる人物を眺めた。


「お、俺はな、あんたの、息子の伸也だよ……」


 話している最中に、その人物は力尽きたのか身体を仰向けにして床の上に倒れていった。


 よく見てみれば、それは息子の伸也だった。
 その顔は夫に似ているが、夫にあるはずの首の大きなホクロがなかった。


 私は、自分のした過ちにやっと気づいた。全身から血の気が引いていくことだけがはっきりとわかっていた。

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