かれこれ10分近く経つだろうか。
――――どうしよう。
思い切った決断もできないまま、下駄箱の影から激しく降る雨に足止めされている人物を盗み見る。
そのまま脇を素通りするのも気が引けるし、だからといって話しかけるのも……。
しかし雨脚が弱まるのを待っているだろう彼に救いの手を差し伸べる他の人影は見当たらない。帰宅部の連中は帰ってしまっているし、部活のある人はまだ部活中。ちょうど生徒が帰るピークの中間だ。
クロちゃんってば、また傘持ってこなかったんだ。
昔から朝に降ってないと邪魔だからって……今日の降水確率80%だったのに。
後ろ姿から幼馴染の顔は見えない。
幼馴染といっても高校生にもなると疎遠になりがちで、話しかけるのは躊躇われた。中学に入って照れ臭さから話さなくなり、高校に入ってからは幼い頃とはまるで違う相手にどういう反応をしたらいいのか分からず――最後にまともな会話をしたのは果たしていつだっただろうか。
……クロちゃんは人気があるからなぁ。
○○君っていいよね。
そんな会話の中に幼馴染の名前がよく出てくることくらい広いネットワークを持たない自分にも分かる。
格好良くてスポーツもできて頭もそれなりに良い。明るいからいつも彼の周りに人がいる。
それに比べてあたしは。
典型的な優等生で、髪は真っ黒で、地味で、委員長なんてあだ名がつけられてしまいそうなタイプ。
小学生の時みたいに並んで歩く自信がない。だって誰の目から見ても不釣合いで、惨めになるのはあたしだから。
……でもなぁ。
いつまでも止まない雨を眺めている幼馴染を放っておくなんて無理だ。
「クっ……」
クロちゃん、と呼ぼうとして躊躇した。
小学校の時のあだ名で呼ばれるのは嫌じゃないだろうか?
しかし時既に遅く、クロちゃんこと久朗は振り返って、こちらを見ていた。ばっちりと目が合う。
「……ちー」
こっちは躊躇したのにも関わらず、相手はさらりと幼い頃と変わらない愛称で呼んでくる。
懐かしいな――なんて感想が浮かんだのは、やっぱりお互いに名前を呼び合うようなことがなかったからだろうか。
「……これ、使っていいよ。また傘忘れたんでしょう? あたしロッカーに置き傘あるし」
ずいっと手を伸ばして傘を差し出す。
女子高生にしてみれば地味な水色の傘。
じゃあね、と言って校舎に戻ろうと踵を返す。
ロッカーにある傘を取りに行こうと――その頃にはたぶん彼はもう姿が見えなくなっているだろう。コンパスの差からいっても、足の速さからいっても。
「ちー、ちょっと」
大きな手が逃れようとした手を絡め取る。
昔は同じくらいの大きさだったのに。小さくて柔らかい手だったのに。
引き止めるために繋がれた手はごつごつしていて、自分の手をすっぽりと包み込んでいる。
「今からロッカーに行くわけ? どうせ帰る方向一緒じゃん。これで帰ろ」
大きな手は結局小さな手を逃がさなかった。
恋人同士のようにぴったりと寄り添うのも気恥ずかしくて――お互いに片方の肩を少し濡らしながらゆっくりと歩く。
「あのさぁ」
何を話せばいいのか分からずカチコチになっていると、上から声が落ちてくる。
「あんま寂しいこと言うなよ。昔っからどっちかが傘を忘れた時はこれで帰ったじゃん」
……傘を貸して、別々の傘で別々に帰ることを寂しいって言ってくれるんだ。
「どっちかって……クロちゃんがいつも傘持ってこなかったんじゃないの」
「だって邪魔じゃん?」
ああ、やっぱりそういうところは変わってないんだ。
「クロちゃんのそういうとこ、直した方がいいよ。誤解されちゃうでしょ」
小学生の頃だって二人で一つの傘を分け合うと次の日にはクラスメイトにからかわれたものだ。
それが高校生になった今なら――間違いなく、そういう関係に思われるだろう。
「今更だろ、それこそ。昔からそうだったじゃん」
「……そうだけど、昔と今じゃ少し違うよ」
「どう違うの? 俺とちーが幼馴染なのはもう変えられないことでしょ」
――そうだよ、そうだけど。
駄々をこねるみたいな言葉が出そうになって、黙り込んだ。
幼馴染なのはもう一生変わらない。小さい頃に一緒に遊んでたのは過去のことだから、塗り替えることはできない。
「俺は面倒だし邪魔だから傘なんて持ってこない。ガキの頃からそうだったんだから、もう直らないよ」
なんですか、開き直りですか。
「……あたしはクロちゃんの傘じゃないんだけど」
見上げながら睨みつけると、くすくすと笑い声が聞こえる。
「嫌なら無視すりゃいいのに。相変わらずお人よし。おまえもそういうとこ直した方いいよ」
「生まれついた性格は直らないよ」
「そうかもだけど――直さないとさ、こういう悪い人に利用されちゃうよってこと」
悪い人って、自分で言う?
そして暗にあたしが騙されやすいって言ってる?
「クロちゃんは別に悪い人じゃ――」
「悪い人なんです」
即答だった。
むぅ、と黙ると、真剣な声が耳元をくすぐる。
「昔から、ちーと相合傘で帰りたくてわざと傘を持ってこなかったんだ」
耳に触れる吐息に顔が熱くなった。
ちょ、それ、どういう意味ですか。
「だから、俺は悪い人なの。嫌なら今度からちゃんと無視するように」
そう言って傘を手渡される。
気がつけばもうクロちゃんの家の前まで来ていた。あたしの家はあと数メートル先。
じゃあね、と言うだけ言って逃げられた。
ズルイよ。そんな言い方。
肝心なことはなんにも言ってくれてないじゃない。
明日の降水確率20%。
また雨が降るように、逆さのてるてる坊主でも作ろうか。
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