伊号第八潜水艦 〜形にして残せる記憶〜
今回の外伝は、潜水艦です。
地球を半周しなければいけなかったほどに地理的に遠く離れていた日本とドイツ。日本は遠い同盟国への連絡路を模索し、潜水艦によるドイツ派遣という無謀な提案を立てました。
ドイツに行くまでの途中には連合国の支配下に置かれているため、その海域を突破するなんてほとんど成功が見えない作戦。そういう意味で無謀な作戦でした。
実際に初の出撃した潜水艦は撃沈され、第一便は失敗。
そして第二便が、伊号第八潜水艦に受け継がれて再度作戦は行われます。
果たして彼ら、そして彼女は遠いドイツまで辿り着くことができるのか?
初の潜水艦物語。戦闘シーンは期待なさらないでください。
※2017.01.07 修正。
昭和十八(一九四三)年六月一日。
一隻のフネ――いや、潜水艦、伊号第八潜水艦は、密かに呉軍港を出港した。他にも伊号第一〇潜水艦と潜水母艦『日枝丸』が同航していた。
出航を見送られる事すら許されない、その潜水艦の目的――それは、約四万キロも彼方の同盟国ドイツへ回航する事だった。
遣独潜水艦作戦。
強固な同盟関係を結んでいたにも関わらず、地理的に遠く離れていた日独両国は、お互いの連絡網打開のために、潜水艦による両国間の輸送作戦を画策した。
戦争に必要な軍用資材のために南方資源を欲するドイツと、最新の軍事技術を得たい日本の利害が一致したこの輸送作戦は、日本から第一便として伊号第三〇潜水艦の派遣によって開始された。
しかし、第一便の伊号第三〇潜水艦はドイツへの途上、制海権を有する英軍の攻撃に曝され沈没。第一便は失敗に終わった。
そしてまた、世界情勢が変貌を遂げていく最中、日本側はドイツ派遣の第二便を決行。
その第二便に選ばれたのが、伊号第八潜水艦であった。
●
時間は一定じゃない
記憶には矛盾がある
――――――――
それなら留めておこう
私の思い出はいつまでも形に残すから
sovereignty of fear natumegumi.
●
一九四一年末から戦火が広まった太平洋戦域では、日本軍に対する連合軍の反撃は激化していた。
日本陸海軍はその反撃に押されながらも必死に戦い続けた。しかし、その努力は報われないまま、戦況は日本側に続く坂道をころころと下に転がるばかりであった。
ミッドウェー海戦の敗北とガタルカナル島撤退を始め、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が戦死した海軍甲事件、太平洋各地の島や地域で日本軍の玉砕などが相次ぎ、日本の勢力圏は徐々に縮小していった。
またヨーロッパ戦線でも連合軍の反攻は激化し、北アフリカではドイツ、イタリア軍が敗北を喫して降伏。これらの経緯からドイツ軍は大西洋のほとんどの制海権を連合軍に奪われ、その下を掻い潜ってドイツに向かう事は至難の業だった。
それでも、作戦は決行され、伊号第八潜水艦は地球の裏側にある同盟国を目指した。
伊号第八潜水艦――伊八は、途中潜航訓練などを重ねながら進んだが、訓練中メインタンクの破損という不慮の事故を起こして、やむなく当初向かう先であったペナンを変更してシンガポールに入港。そこで修理を受けた。
六月二十二日、伊号第八潜水艦は修理を終え、ようやくペナンに到着。
独潜水艦もよく立ち寄る同港では、伊八の狭い艦内に大量のキニーネ、錫、生ゴムが積載された。それは南方資源の枯渇したドイツ側からの強い要望に基づくものであった。
また少しでも不要の乗員を減らすため、必要がなくなった飛行機員五名が伊八から退艦した。
伊号第八潜水艦――
艦内では修理作業の甲高い音、溶接の火花が散る音などが錯綜していた。窮屈な構造が止む得ない潜水艦特有の艦内は反響する音がうるさく響くが、腰を落ち着かせた彼女には聞き慣れたものであり、さほどの障害ではなかった。
小さな本に、ペンを走らせているそれは、少女。
長い前髪が片目を隠し、外見は高等小学校生並みの幼さだったが、その丸見えになっている太ももは白く綺麗で、女らしい煌めきがあった。
片目は明らかに長い前髪に隠され、もう片方だけの目で物を見ているみたいだった。
少女は――この艦の乗員ではない。
艦魂。
それが彼女の正体だ。
一隻の艦船には、一人の少女の姿をした魂が存在する。それが艦魂だ。
一部の者にしかその姿は見えず、大昔から海の伝説として囁かれてきた、正に神秘的な存在。
見かけは普通の女の子と大して変わらない姿。
幼い小柄な身体は、水兵服に纏われ、はたから見れば年少兵に見えなくもない。だが、短パンから伸びた艶やかな生足は、女のそれそのものだ。そして彼女は何故かその身丈に明らかに合っていないような水兵服を着ており、その長すぎる丈が下を隠してしまっているのだから、まるで水兵服から足が伸びているような――もとい、履いてないように見えるのだった。
しかし少女は気にしない。ただ黙々と小さな紙面にペンを走らせるだけだった。
「夜宵」
ハッチが開き、若い男の声が少女の耳に届いた。少女はゆっくりと、片方だけの瞳で、顔を上げた。開いたハッチから、所々に油が染み付いたツナギ姿の男が入ってきた。
「やっぱりここにいたか。いやぁ、こっちは作業が続いて骨が折れるよ」
そう言って、男はへらへらと笑いながら、手に持っていたスパナで、腰をトントンと叩いた。
「いて」
スパナで叩いたのが痛かったのか、彼の口から一瞬の呻き声が漏れた。
「………………」
少女はジッと彼を見詰めた。
「まぁでも安心しろ。修理は順調に進んでるからさ。修理が終われば早速出港できるって機関長が言ってたよ」
男の言葉を黙って聞いていた少女は、その言葉に小さな頷きを返し、手元の本に視線を戻した。
「なんだ、日記書いてたのか」
「……はい」
小さくて、蚊が鳴いたような細い声が紡がれた。
航海日誌ではない、ごく普通の日記を表した小さな本を手に持つ、夜宵と呼ばれた少女。彼女の名前は、その本体である艦の艦名なのだが、潜水艦の場合は番号なので、愛称で呼ばれる事が多い。因みに当初、彼女は目の前にいる男から、艦の番号から「はち」と呼ばれた事があり、その呼び方がまるで犬の名前のようで気に入らず、一晩かけて考えた渾身の呼び名である「夜宵」という名を呼ぶように言いつけていた。
「……伏見君」
そんな彼女の口から、男の名が紡がれる。
伊号第八潜水艦の機関兵・伏見千紀は「ん?」と少女――この潜水艦の艦魂である彼女の方に顔を向けた。
夜宵は一度、視線を逸らして少し戸惑うような仕草を見せたが、すぐに視線を戻して口を開いた。
「具合とか、悪くないですか……?」
伏見は思わず目を見開いたが、すぐに口を開いて言葉を返した。
「悪いな、もう少し待ってくれ。確かにまだ完全ではないけど、ちゃんと責任持って、修理に臨ませて頂きます故」
「そ、そうじゃなくて……その…」
「?」
呆けたような顔を向ける伏見に、夜宵はあうあうと顔を赤くさせて狼狽した。
そこまで緊張する事もないだろうに……。
思えば初めて会った時から、彼女はずっとこんな調子だった。どうやら彼女は口数も少ない、結構な恥ずかしがり屋らしい。他人と会話するのもきっと苦手なんだろう。自分の前だけなのかと思って他の艦魂にも聞いてみたが、やっぱり彼女は誰に対しても同じらしい。
日本海軍が誇る伊号潜水艦の一隻が、こんないたいけな女の子だなんて、艦長たちは果たして信じるだろうか。
この艦で彼女が見えるのは自分だけだが。
「ふ、伏見君が……」
「俺?」
夜宵が小さく、頷く。
「だって……その……、す、すごく気持ち悪そうにしている人もいたから……」
伏見はその言葉から、ふと、入港までの間に、一人の甲板士官が船酔いに弱っている所を見たのを思い出した。その士官は、今回初めて乗艦した人物だった。
潜水艦というのは、潜航している時なら揺れはないが、水上航行を行うと、揺れはかなり酷くなる。水上艦とはワケが違う潜水艦の揺れに慣れない新人の甲板士官が、様々な方法を使って酔いを醒めようと試みていたが、その顔は青白く、そしてその行動は見ていて、その士官には悪いが滑稽だった。伏見は他の乗員たちと一緒になって、その士官の姿に陰で笑っていた。もしバレたら一士官に対する無礼。お灸を据えられた事だろう。
非情な伏見たちとは違い、この少女としか形容し切れない艦魂は本気で心配していたようだった。
「ああ、心配するな。俺ならこの通り大丈夫だよ」
「そうですか」
夜宵はほっとした雰囲気を見せた。
伏見はそんな少女の些細な優しさにジンと胸に染みるのを感じた。この子は恥ずかしがり屋だけど、本当はとても良い子なのだと。
その頃、停泊中の伊八潜艦内は、乗員を不審がらせる動きが相次いでいた。
艦内の改造、予備魚雷の陸揚げ、洋上補給訓練、回航員の乗艦など。伏見も機関兵として作業に従事する一方、他の乗員同様に活発な艦内の動きに敏感に反応していた。それもそのはず、伊八潜の内野信二艦長は機密保持の配慮から、乗員にさえ任務の内容を「重要任務につくため」と述べるに留め、詳細は話していないのだから、今回の動きは何も知らない乗員にとっては不審にしか映らなかった。
しかし六月二十七日午後六時半、内野艦長は乗員を桟橋に集合させると、初めてドイツ派遣の任務を発表し、乗員たちを大いに喜ばせた。その彼らの目は、まだ見たこともない異国の地。そして遠く離れた同盟国に向かうという任務にふつふつと熱く沸き上がる使命感を抱いていたのだった。
訓示を終えた内野艦長は、午後七時出港を命じた。伊八は伊一〇潜に続いて桟橋を静かに離れた。
桟橋の上には、ペナン根拠地隊司令官と『日枝丸』の艦長がいつまでも帽を振り続けていた。
伊八は港外に出ると燃料補給艦の伊一〇に続航して、狭いマラッカ海峡を抜けてインド洋に出た。そして十二ノットから十六ノットで増速し南下した。
「やよちゃん。やっほー」
兎のように跳ねながら伊八の甲板にやって来たのは、水兵服にスカートを履いた少女。その笑顔は無邪気な子供そのもので、ピョンピョンと跳ねながら夜宵の方へと近づいた。縛ったサイドポニーテールが跳ねる拍子に上下に揺れ、短すぎるスカートがチラチラと眩い太ももを照らした。
「千脊さん……」
「調子はどうだい?」
「うん。大丈夫……」
「そっか! うんうん良かった。 まぁここでバテたら先行き不安だよね。まだまだ目的地は先なんだからさっ!」
「うん……」
控え目な夜宵に対して、あまりにも余りすぎる元気を持って笑う少女。彼女はドイツを目指す伊八潜の燃料補給艦として随伴した、伊号第一〇潜水艦の艦魂であった。
「それでさ、ここらでちょいと燃料を送るつもりなんだけど、いいかにゃ?」
「……えっ?」
夜宵は驚いたように目を見開いた。
千脊と呼ばれた彼女――伊号第一〇潜水艦はドイツに向かう伊八の燃料を補給するために付いてきているのだから当然なのだが、その事ではなく、夜宵は現海域の状況を知っているからこそ驚きを隠せなかった。
航海は確かに順調に進んでいる。赤道付近を通り、針路を南西に向け、燃料を補給できる静かな海面を求めて航行している。だが、七月四日早朝、伊一〇潜に乗っていた第八潜水戦隊司令官の石崎昇少将から、伊八に向けて補給作業を実施する意志があるかを問う信号が送られてきた。
この時の周辺海域の状況は、波高は三メートルから四メートル、国内の伊予灘とは比較にならない悪条件だった。しかし内野艦長は機関長・田淵了少佐と相談した結果、他に平穏な海面はあるとは考えられず、作業を強行する事を決定した。
「で、でも大丈夫なのかな……」
「いやぁ、大丈夫じゃない? 艦長たちが決めた事だし、あたしたちがとやかく言っても仕方ないよ」
それはそうだが、夜宵の不安も理解できた。
普通なら洋上作業など不可能な条件下で作業を強行するという事は如何に危険か。海の怖さを熟知しているからこそ、不安は拭いきれない。
「で、でも……」
「ま、心配なのはわかるけどさ。信じようよ」
しかしだからこそ、作業の決行を決めた艦長たちも、乗員たちも、わかっているはずだ。
この艦の艦魂として、乗り込んでいる大勢の乗組員を信じる。
夜宵は、一人の男を想い、コクリと頷いていた。
「……うん」
伊八及び伊一〇両艦は、直ちに艦首を接近させて導索を渡し、燃料を補給する送油管が伊一〇潜から伊八潜に引き込まれ、送油が開始された。艦は高い波によって大きく揺れていたが、補給作業は円滑に進められ、四時間を費やして一一五トンの油が伊八潜内に送られた。ここで伊八の燃料タンクは満載になった。
その後、無事に作業を終えた二隻はさらに五日間南下を続け、マダカスカル島東方の海上で停止、ここで再び燃料の送油作業を行い、八十トンの燃料が伊八に送り込まれ、彼女のタンクは再び満載状態になった。
これにより二回に渡った燃料補給は無事終了し、いよいよ伊八潜は単独でドイツへ向かう事になった。
「それじゃあ、やよちゃん。 元気でいってらっしゃい!」
ニヒヒと笑って、千脊はピッと敬礼した。
「うん。 千脊さんも、ご無事で……」
これから向かう先は、敵が制海権を握る海。敵地である。
しかしここで別れる彼女――伊一〇もまた、敵の通商破壊が盛んになっている海の中を引き返す事になるのである。
互いの無事を祈り。
夜宵も答礼して、微笑み返した。
「ドイツから帰ってきたらさ、向こうの話を聞かせてね! あたし、楽しみにしてるから!」
明るく笑って言うも、その言葉の一つ一つには彼女の優しさが染みわたっていた。夜宵はジンと胸に何かを感じるも、微笑みをやめなかった。微かに緩む唇。遠い彼方にある友邦に辿りつけるかどうかもわからない、すでに第一便が沈んでいる、成功率が限りなく低いこの作戦に、彼女はまるで必ず成功すると信じているかのように、笑って言ってくれた。
必ず帰ろう、という気持ちを、持たせてくれた。
「うん。 必ず、日本に帰るから……」
控え目で内気だった少女は微かに微笑み、元気で活発な少女は満面な笑顔で見送った。
伊八潜は伊一〇潜と別れを告げると、両艦は互いに離れていった。伊一〇から「予メ成功ヲ祈ル」という手旗信号が送られ、伊八からも「誓ッテ成功ヲ期ス」と応えた。
両艦は南と北へと動き出し、甲板上で乗員たちが帽を振り続けた。その互いの距離は徐々に離れ、やがて伊八の視界から、伊一〇の姿は北方の水平線に没していった。
伊一〇潜と別れた伊八潜はアフリカ大陸南方を目指していた。酸素魚雷が積まれた一室で、夜宵は膝を抱えていた。
先ほど別れた友人の笑顔を思い出し、誓いを心の中で復唱していた。
「どうしたんだ? 夜宵」
「――ッ! ふ、伏見君……」
気が付くと、すぐ隣に腰を落とした伏見がいて、ドキリとした。
「い、いつからそこに……」
「気がつかなかったのか? さっきからいたんだけど」
「ご、ごめんなさい……」
「いやいや、謝る事はないよ」
「………………」
黙って俯く夜宵を見て、伏見はふと気がついた。
「あれ。 日記、書かないの?」
「……今日は、これから書きます」
「ふぅん……」
伏見は夜宵の事を、すこし変わった子だなと思っている。
彼女はいつも日記を書いている。それ自体は変ではない。ただ、伏見は夜宵を見て感じたものが、ちょっと変わっているな、ということだけだ。
夜宵はその控え目で恥ずかしがり屋の性格だからか、自分の前で日記を書く時は、恥ずかしいのか頬を赤らめていそいそと日記を書いている。なら、自分が離れるか日記を書かなければ良いのだが、そのどちらもできない。一度、自分の前で日記を書いている彼女は恥ずかしそうにチラチラとこちらを見ていたので、邪魔かなと思いその場を離れようとしたら、「あ……。も、もう行ってしまうんですか……?」と声をかけられて引き留められた覚えもある。そして彼女は自分から日記を書く事をやめようとはしない。自分がいても、彼女は恥ずかしながらも日記を書き続ける。
もちろん自分も彼女の日記の内容を覗こうだなんて、誘惑がなかったと言えば嘘になるが、とりあえず今の所はそれを実行した事はない。
だけど、そんなに日記を書く彼女が、ちょっと変わっている印象を与えてくれる。
前に一度だけ、何故日記を書いているのか問いかけた事があった。その時、夜宵はえっと驚いていたが、話してくれた。
「日記って……『形にして残せる記憶』だと思うんです」
「形にして残せる記憶?」
「記憶は、頭の中に覚えるものじゃないですか。でも、時間が経てば少しずつ、断片的に覚えているものが失われ、最後には完全に忘れ去られてしまうものもあります。 もちろん、よほど大切な記憶だったら忘れることもないでしょう。 でも、こうして日記として形に残せたら、どんなに大切な記憶も、確かな形として残すことができ、そして忘れてしまうような些細な記憶さえ形として残すことができます。 ……私、忘れてしまうような些細な記憶も大事だと思うんです」
日記を胸に抱え、瞼を閉じて、その桜色の小さな口から言葉が紡がれる。
「些細な記憶も、自分が覚えた大切な思い出です……。 大切な記憶はいつでも思い返せるけど、些細な記憶はすぐに忘れてしまって、そんなことはできません。 些細な記憶って、逆に結構胸に染みることがあるんですよ。 些細なことも日記で読み返してみたら、こんなこともあったなってクスリと微笑んで……」
初めて、彼女の多言を聞いた瞬間だった。
やがて、言葉を紡いでいた夜宵はハッと我に帰ったように顔を上げ、呆けている伏見を見て、カァッと顔を赤くして俯いた。
「ごめんなさい。わ、忘れてください……」
そんな彼女が、とても可愛らしかった事も、日記を書かずとも伏見は鮮明に覚えている。
彼女を見ていると、いつの間にか日記帳を手に持って、そして頁を開いていた。ペンを走らせて、またいつものように日記を書き始めた。
今、書くのか。
伏見に見えないように、いそいそと日記を書いている。その頬はまた赤らんでいる。だったら自分がいなくなった後に書けば良いのにと思うのだが、先ほど思い返した通り、今に始まった事ではないのだ。
「だけど、偉いよな」
伏見はもう一つの思い、素直な感想を漏らした。
「な、なにがですか?」
「いや、毎日欠かさず日記書いてるからさ。 俺だったらすぐに飽きるよ。こういうのって三日坊主って言うんだっけ」
伏見は、ははっと笑って言うと、夜宵もクスリと微笑んだ。
「伏見君も、書いてみてはどうですか?」
「俺には無理だ。 飽きっぽいからね」
「楽しいですよ?」
「すまん、その感覚は理解できない」
「そ、そうですか……。 そ、そうですよね……」
よほどショックだったのか、ズゥンと影を落とす夜宵。しまったと、伏見は慌てて口を開いた。
「い、いやっ! だ、大事だと思うぞ日記は! うん! だから夜宵は偉いんだよ! あはは……」
「……だったら。――そうだ…!」
夜宵は閃いたと言わんばかりに、その瞳に一瞬の光を宿した。初めて見た光景に伏見は驚いたが、その視界は日記の表紙に埋められた。
「伏見君! それだったら、えっと…。 交換日記、は、どうです、かっ?!」
言葉が途切れ途切れ、しかも裏返った声に、伏見はその勢いに押されてしまった。しかもあの内気な少女がこんなに積極的に来るなんて、驚きの連続だった。
「こ、交換日記?」
「は、はい! これだったら二人で大切な記憶を形として残せます!」
「待て、落ち着け。夜宵」
「あ、あ、あの……!」
「まず、深呼吸」
本当に深呼吸を始める夜宵。つくづく素直な娘である。
「どうだ、落ち着いたか?」
「は、はい……。 ――ッ!!」
落ち着いて、一気に恥ずかしさがこみあげてきたらしい。頭からボンッと湯気を立たせて顔を真っ赤にした夜宵は、そのまま顔を俯けてしまった。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、でもあれだ……。やっぱり、そういうのって、あれだ。 そういうのは、それをするに値する二人がするべき行為であってだな。俺たちは違うだろ?それに……それは俺なんかより、夜宵一人が書くべきだよ」
「……そんなこと、ないです」
ボソリと呟いた夜宵の言葉に、伏見は「え?」と声を漏らした。
「あ、いえ。 そ、そうですよね……。 な、なんでもないです……」
夜宵は再び、日記にペンを走らせた。背を向けた彼女を見詰め、伏見はなにか罪悪感のようなものを感じたが、二人は黙って、しばらくの間、そのままだった。
インド洋から単艦で航海を始めた伊八は、敵に気付かれないように、密かにアフリカ大陸南端の喜望峰南方海域にまで辿り着いた。しかし、この時の伊八潜艦内には思わぬ病人が発生していた。
「清水少佐、容体は如何でしょうか」
「……はっきり言って、芳しくありませんな」
寝台に横になった水兵を前に、軍医として乗艦していた清水正貴少佐が難しい表情を浮かべた。
彼の前で苦しそうに寝かされているのは、回航員の一人として乗り込んだ上等水兵だった。
彼はインド洋上に出た辺りから、連日、四十度を超える高熱を出していた。
「小林少佐、そちらはどうですか」
清水少佐は同じく軍医として乗艦した小林一郎少佐に声を掛けた。小林少佐はドイツ駐在を命じられ、伊八潜内に乗り込んでいた。実は他にも症状を訴える兵がおり、小林少佐も治療に協力していた。
「肝炎を発病した兵もいたが、何とかやってみます」
「頼みます」
「その兵は、どうですか」
「……熱が一向に下がる様子がない。小林少佐、すまないが手伝ってほしい」
「わかりました」
何人か体調を崩した乗員が続出する中、特にこの上等水兵の症状が思わしくなかった。ドイツに着いたら、譲渡されるUボートの軍医長になる予定で乗り込んでいた清水少佐も、いよいよ小林少佐に助力を仰いだ。
しかし――
「……糞、おい。しっかりしろ!」
「駄目です。息が……」
懸命な治療も虚しく、水兵は昏睡状態のまま、死亡した。
その夜は、立錐の余地もない下部発射管室でしめやかに通夜が営まれ、翌日遺体をおさめた棺の下部に十五センチ練習用砲弾が入れられ、甲板上に運び込まれた。
甲板上には内野艦長以下乗組員が整列し、天空に向けて銃の引き金を引いた。同時に『命をすてて』の葬送ラッパが吹かれ、軍艦旗に覆われた棺は、水しぶきをあげて海面下に沈んでいった。
青い海面の下へと徐々に没していく棺を悲愴の瞳で見詰める夜宵は、伏見の胸の中に顔を隠した。
乗組員が一人死亡した事実に、艦の雰囲気は悲しみに包まれていた。
伊八潜は、ケープタウンにあるイギリス軍航空基地の哨戒圏を避けて、喜望峰沖三〇〇海里以上の海面を進み、荒天海域である世界屈指のローリングフォーティーズに突入した。
ローリングフォーティーズとは、一年中荒天が続く世界の海で最も危険な海域の呼び名である。
まるで嵐のように荒れ狂う波に襲われながらも、伊八は苦戦しつつ前進した。しかしあまりの荒々しさに、艦の故障を恐れ、突入を断念した。よって、イギリス空軍の哨戒圏を進むのをやむなしとして、荒天海域を離脱した。
喜望峰沖を通過し、伊八は遂に大西洋に入った。このまま敵本国のアメリカ本土まで行けそうだが、今回の目的地は日本の同盟国ドイツである。
「艦長! ドイツから、電文です」
「!」
北上する伊八に、ドイツ海軍通信所からの第一電が入電した。それはドイツ駐在海軍武官からの電文で、航路途上に張り巡らされた敵側の哨戒状況についての情報と、ドイツ潜水艦が伊八潜出迎えに向かうとの報せだった。
内野艦長以下乗組員はその電文に喜び、任務達成の確信を持った。
その後もドイツからの電文は届いたが、どれも海域の危険を報せる内容で、艦内の緊張感は一層高まりを増し続けていた。
ドイツからの第一電から数日、数週間と刻々と日が経ち、時間が過ぎていった。伊八潜は大西洋を北上し、ドイツ駐在海軍武官の報告を聞き続け、度重なる針路変更と航海を続けた。途中で敵側に行動を悟られぬために一切の無電発信を行わず、通信を途絶えたが、独潜と会合するには予定日時を示さなければならないので、予定会合日時を計算し、ドイツ側へと報告した。
「八月十一日一八〇〇アゾレス西方会合点着。二十日ブレスト着ノ予定」
と、呉を出る前に軍令部から与えられた『トーゴー』という特殊暗号を用いた短文の電文を発信させた。
ある日、伊八潜は澄みわたった海上を浮上した状態で航行していた。天気にも恵まれていたので、ハッチを開き、換気を行っていた。乗員たちは艦内に入ってくる新鮮な空気を楽しんでいたが、伏見もまたその一人だった。
「ふぁー。久しぶりの新鮮な空気だ」
「嬉しいですね……」
油など様々なもので染み付き、所々が変色したシャツ姿の伏見が体を伸ばした。ついでに他の乗員同様、その身からは何とも表現し切れない悪臭が漂っている。だが、そのような汚濁に塗れた存在が傍にいようと、夜宵の様子はまるで変わらない。むしろ、夜宵も自身に侵入してくる美味しい空気を、存分に味わい尽くしている最中だった。
潜水艦はその特有の構造故、艦内の空気が非常に悪い。水上艦にある舷窓や通風孔もないので、このように換気をする機会もなく、艦内の空気が淀んでしまうのが常である。更にディーゼルエンジンから発する熱、壁や配水管からは、結露によって湿気が物凄く高くなる。
そんな小さくて狭い潜水艦の内部事情が、乗員たちにとって劣悪……厳しい環境を作り出してしまうのは仕方のない事とも言える。
風呂もないので、乗員たちから生じる悪臭などが、更に拍車をかける。
だが、見た目は少女でも、彼女は潜水艦の艦魂。そのような状況は普通だし、気にする問題でもないのだった。
「……………」
伏見は密かに、夜宵の横顔を眺めた。その表情は、新鮮な空気を感じているからか、いつもより穏やかに見える。
乗員が一人道半ばで亡くなってしまったのは彼女にとってもショックな出来事だっただろう。だが、今の様子を見る限り、もう心配をかける必要はなさそうだった。
「……あの、私の顔に何か付いていますか?」
気付かれていたようだ。顔を赤く染めた夜宵が、恥ずかしそうに伏見の方を見る。
「いや、何でもな――」
その時だった。伏見が心からその返答をしようとした時、頭上から響いた声がそれを遮った。
「敵影確認ッ!」
艦上から見張りをしていた兵の声だった。その声を聞いた途端、伏見はすぐに立ち上がっていた。
艦橋では、その報告を聞いた内野艦長が即座に号令をかけていた。
「急速潜航!」
艦内に警報と共に艦長の号令が伝わり、乗員たちが直ちに配置へと走る。
号令から直ぐに、伊八は海面下に潜った。
迅速に潜航したために幸い、伊八潜は敵機の攻撃を受ける事はなかった。
こちらが発した電文が、敵に補足されていたのだろう。
敵の攻撃を回避することはできたが、敵側の警戒が極めて厳重であることが発覚し、伊八は緊張感に包まれながら、敵に発見されないように慎重な航海を始めた。
敵機に補足される事なく、伊八は熱帯圏へと入った。艦上は、強い陽光にさらされて熱気が生じるものの、吹かれる潮風によって耐える事ができた。しかし艦内は悲惨だった。数名の見張り員が甲板上に交代する以外、大半の者が艦内に閉じ込められたまま、激しい猛暑に加え、一〇〇パーセントに近い湿度に蝕まれていたのだから、全身は汗と脂にまみれていた。
「うぅ……」
魚雷発射管室の一室で、伏見はぐったりと項垂れていた。上半身裸になるも、その肌には汗の玉がふつふつと浮き出ており、ねっとりと脂がまみれていた。口からは水分を求め、擦れた呼吸が鳴る。
艦内の真水は、極度に制限されている。水浴はもちろん洗面も普段から許されない。わずかに少量の飲用水が与えられるだけで、着替えられた衣服はそのまま放置され、乗員たちの何ヶ月も風呂にも入ってない身体から出る異臭が、艦内を地獄へと変えていた。暑さと匂いがたちこめ、まさに生き地獄だった。
そっと頬に柔らかい感触が触れた。ゆっくりと目線を移すと、白いタオルで優しく肌の汗と垢を拭ってくれている夜宵の姿があった。
伏見の虚ろな瞳とは相反して、夜宵の瞳は心配そうに揺れていた。
「大丈夫、ですか……?」
「あ、ああ。 今、何時かわかる……?」
「えっと、もうすこしで一七〇〇です」
「飯はまだ、か。まぁ、こんな状態で食欲なんてないが……」
「どんなに食欲がなくても、食べないといけませんよ……」
「飯も粗末なものだけどなぁ……」
外界から遮断された艦内で時間を知る手段は、食事だった。副食物はほとんど缶詰で補われ、野菜も乾燥されたものが使われたが、ビタミン不足を補うためにエビオスが置かれ、乗員たちはそれらを口の中に放り込んでいた。
乗員たちの唯一の楽しみは、時間が過ぎる事。
既に、伊八の正確な目的地が決定していた。
ドイツ海軍の潜水艦と会合し、そしてドイツ占領地のブレスト港(フランス大西洋岸)に入る。入港すれば異国の地に立って、新鮮な空気を吸う事ができる。自由にベッドに寝て、大地を踏んで歩くことも可能だ。それらが伏見たち伊八潜乗員一同の極上の楽しみだった。
伏見は、乗組員たちと同様、艦内から脱出できるまでの生活を思い耽りつつ過ごしていた。
内野艦長以下士官・下士官たちも同じ思いだった。
しかし八月四日、日本の呉を出港してから二ヶ月と、会合が一週間に近付いたある日。駐独武官からの電文が彼らを失望させた。
それは会合日を一週間も遅らせる変更内容だった。一日も早く解放感を得たい乗員にとっては残酷な報せであり、同時に食糧や飲料水が尽きるまでの期日を考慮しなければいかなかった。
早くても八月十日と発信してきているが、もしまた更なる延期があったら艦は危機に陥る。
その後、艦は大西洋上を北上し、厳重な警戒を維持したまま航行を続けた。艦内の生活は更なる息苦しさを強いられたが、乗員は目的地に到達する瞬間を思いながら必死に耐え続けた。
そして、八月二十日の夜が明けた。
結局想像以上に延期してしまった会合日は、ようやく当日となった。あいにく視界は悪く、悪天候だったが、伊八潜はドイツ潜水艦との会合位置に到達した。
内野艦長たちは四方の海を双眼鏡で見詰めていたが、艦影はいつまで経っても現れなかった。
こちらから移動して捜そうという声も上がったが、ドイツ潜水艦もこちらを探し求めているはずなので、この位置から動かない方が良いと内村艦長は判断した。
そして長い間、見張りの目を光らせてようやく、午後三時十分、一六〇度の方向の海面に、微かに浮かぶ黒点を認めた。
それは会合予定のドイツ潜水艦か、敵艦か、判断しかねた。独潜との無電を発した事は、それを傍受した敵側が攻撃してくる恐れも意味している。
「総員、急速潜航準備! 総員配置に就けッ! 警戒は『厳』と為せ!」
もし敵艦だったら、即逃げられるように乗員たちを配置に就かせる。独潜か敵艦かもわからない黒い物体が徐々に近づいてくるのを、内野艦長たちは緊張の面持ちで見詰め続けた。
緊迫した状況の中、点状のものはやがて近づいて形を帯び始め、艦型もおぼろげながら見えてきた。
「独潜!」
艦橋から見張り員の上ずった声が響いた。
伊八に接近するそれは、明らかに天蓋のない艦型をしたドイツ海軍の、大西洋を支配するUボートであった。
「ドイツ国旗を確認」
近付いてくる潜水艦からは、鉤十字の旗が掲げられているのが見えた。それはあらかじめドイツ潜水艦を敵艦として誤認しないように指定していた処置だった。
伊八も日が昇る軍艦旗を掲げ、国際信号法による発光信号を送った。
乗員たちは歓喜した。呉出港二ヶ月、ペナン出港五十五日に、計画通りドイツ潜水艦と会合する事に成功したのだ。
Uボートは次第に近づくと、伊八と隣り合わせの位置で停止した。Uボートの甲板上にもドイツ人たちが伊八に向かって手を振っていた。
海上は時化ていて、波のうねりは高かった。
やがて両艦は互いにロープを結びつけ、伊八からゴムボートがロープに結び付けられて送られた。激浪によってゴムボートを送るのに困難を極めたが、Uボートから乗員が一人海上に飛び込み、自力でゴムボートをUボートに届けさせた。
そして伊八から送られたゴムボートに乗って、ドイツ側の連絡将校が伊八側にやって来た。内野艦長と握手をして挨拶すると、通訳を通じて会談を始めた。
そして――もう一人、伊八潜に来訪者がやって来た。
伊八の甲板上には、艦長以下士官たちとドイツの連絡将校が艦内に消えた後、一人立つ少女がいた。
水兵服を身に纏い、『大日本帝国海軍』と書かれた水兵帽をかぶった夜宵は、普段の控え目な性格には滅多に見せない、引き締めた表情――緊張していると言ったほうが正しい――で立っていた。
やがて、夜宵の前に淡い光が出現した。光は徐々に人の形を形成していく。
緊張した片目の瞳で見詰める先、光は弾けて消えた。
そして姿を現したのは、バサリと降りた金髪。
「……!」
夜宵は、息を呑んだ。
身に引き締めた黒に染まった軍服、首元にキラリと輝く鉄十字。自分よりずっと背が高い長身と、流れた金色の長髪、そして紺碧の瞳に、夜宵は一瞬だけ硬直した。
目の前に現れた異国の少女は、翼を広げた鷲が宿った帽子の鍔を摘まんで深くかぶり直し、真正面に夜宵を見据えた。
「…………」
「…………」
束の間、互いに無言で見詰めあった。
最初に口火を切ったのは、夜宵だった。
「は、初めまして! 私は伊号第八潜水艦といいます……! ……そ、その。 みんなからは……夜宵と呼ばれております」
「……私はU161。よろしく」
簡潔に自己紹介を終えた少女は、黙してそれ以上口を開く事はなかった。夜宵は困り果てたが、そもそも夜宵は元々控え目で内気な性格だ。相手がこうして黙ってしまうと、自分からも中々声をかけるにかけられない。
しかもドイツ人は見るのも会うのも初めてだ。だが、このままでは埒が明かない。
「……と、とりあえず。その……」
夜宵は勇気を振り絞って、顔を真っ赤にさせながらも、声を上げた。
「な、中まで、ご案内します!」
夜宵はバッと口元を手で隠した。自分でも驚くくらい声を上げてしまった夜宵は、目の前に立つ少女を見ることもできずに顔を俯けてしまった。
「……顔を、上げて」
そっと頬に触れた、長くて白い指。そして綺麗な手に、夜宵は顔を上げた。
「……案内、するんでしょう?」
「……は、はい」
その紺碧な瞳はどこまでも美しく、そして吸い込まれそうな錯覚を覚えさせられた。夜宵は慌てて彼女の手を引いて、艦内へと案内した。
艦内に案内した夜宵は、とりあえずU161の艦魂である少女を招き入れた。
「コーヒーとお茶がありますけど……コーヒーですよね」
「……お茶」
「えっ?」
「日本のお茶、飲んでみたい……」
「い、いいんですか?」
頷いた彼女を見て、夜宵は戸惑いを覚えたが、望み通りにお茶を用意した。
「こんなものしかご用意できませんが……」
コトリと目の前に置かれたお茶を、U161はジッと見詰めた。
「その……そちらでは紅茶でしたっけ。せめて紅茶があれば良かったのですが……」
それではどちらかと言えばイギリスだが、U161はそれを指摘するような事はなかった。
「……構わないよ。日本のお茶は、初めてだ」
そう言うと、U161は目の前に置かれたお茶を両手に持つと、そのまま口に運びこもうとした。
「あ。お暑いので、お気をつけください……」
お茶を口に流し込もうとした手前で、U161は動きを止め、忠告通りにお茶の暑さを確認し、ふぅふぅと息を吹きかけた。そしてゆっくりと、そのままお茶を口の中へと流し込んだ。
「……どうですか?」
啜った程度に喉の奥へと流し込んだU161は、その色のない顔からは表情も感想も推察することができない。
上を向いていた紺碧の瞳が、やがて緊張する夜宵を映し出した。
「……不思議な味」
微妙な感想を漏らしたU161は、再びお茶をすこしずつ口に流し込むことを再開した。飲み続けているという事は、少なくとも口に合わなかったわけではないらしい。
「お、なんだなんだ。 ここにもお客さんか」
声がした方へ振り返ると、ハッチをくぐって入ってきた伏見の姿があった。
「伏見君」
「艦橋もお客さんがいてさ、立ち入り禁止なんだよ。 どこにいても暇だからさ、来ちゃったよ。 …って、おお?」
伏見は夜宵の傍にいた、もう一人の異国の少女を見て目を丸くした。
「おおー。もしかしてそちらはUボートのお譲ちゃん? なかなかの美少女じゃないか」
「…………」
むっとなる夜宵に気付く事はなく、伏見は夜宵の傍に寄って、初めて見る異国の少女をまじまじと観察した。
「へぇ~、ほぉ~。金髪、碧眼。はぁ~」
「……伏見君、あまりそんなに見ては失礼です」
「あ、悪い悪い」
悪気はなかったんだと言って、伏見はあははと笑ってみせた。
ジッと伏見を見詰めるU161に気付いた伏見は、ニッと笑顔を向けた。
「俺は伏見千紀上等機関兵。 よろしく」
握手を求める伏見の手を、U161はジッと見下ろしていた。
「あ、あれ? はは、夜宵みたいに変わった子だなぁ」
「……私、変わってるのですか?」
「あ、いや。ごめん、嘘だ。忘れてくれ」
「…………」
夜宵は眉間に皺を寄せながら見詰めたが、伏見はとぼけるように視線を逸らした。
「なんで視線を逸らすんですか」
「べ、別に」
「……やっぱり、私って変わってますよね」
「あ、いや。 違うぞ夜宵」
「どこも違わないです……。 私、いつも内気だから……」
「あー、えーと。ご、ごめん! だけどそんなことないよ、夜宵。全然変なんかじゃないって!」
「今更遅いです……。 ぷんっ」
ふいっと頬を膨らませて、僅かに緑に雫を浮かばせた夜宵に、伏見はオロオロとする。そんな二人を、黙って見詰める双眸の紺碧があった。
「……痴話喧嘩?」
「「違う(います)!」」
同時に言い放たれた二人の声に、二人は次の瞬間、顔を見合わせたが、やがてどこともなく吹いてしまった。二人は笑い、それにつられるかのように、今まで無表情だったU161も、微かに口元を緩ませていた。
夜が明けた大西洋の海。敵に見つからないために潜航していた両艦は浮上した。
波は静まっていたので、会合目的の一つ、U161から伊八潜への電波探知機の移乗作業が開始された。
作業は二時間後に終了し、伊八潜内には新たにドイツ製の電波探知機が加わり、探知機の取扱いに習熟した下士官、兵二名の移乗も終わった。
内野艦長は、ドイツ国内でコーヒーが不足していると聞いて、コーヒーを贈った。この寄贈はU161の乗組員を大いに喜ばせた。
作業はすべて終了し、別れの時が来た。
伊八の艦上では、夜宵と伏見、そして二人の正面にU161が立っていた。
「それでは……お元気で」
「……ああ」
「私、今日のことはずっと忘れませんよ……」
夜宵はそう言って、首を傾げて静かに微笑んだ。
「……私も、忘れない」
「日記に書くんだもんな」
横で伏見が言う。
ハッとした顔で、夜宵が声を上げる。
「伏見君……ッ!」
「das Tagebuch?(日記?)」
「恥ずかしがる事なんてないさ。この子はいつも毎日欠かさず日記を書いてるんだ。大切な記憶や思い出を、『形にして残せる記憶』として残すんだよ」
「Gedächtnis……(記憶……)」
「えっと……変、ですよね。あはは……」
「……まったく変じゃない。素敵な事だと思う」
「え……?」
「……私も、今日の事は忘れないから」
U161は、優しげに微笑んで、敬礼した。その金色に輝く長髪が、潮風に揺られて靡いた。
「Viel Erfolg. die Sonne reich Mensch(頑張って、太陽の国の人)」
夜宵も、優しくこめられたドイツ語に返すように、ピッと敬礼して微笑んだ。
「……はい。 さようなら、十字を掲げし国の人」
両艦の甲板上では互いに別れの帽が振られた。U161は、単独での大西洋上の通商破壊戦に向かうのだった。
やがてU161が水平線に没すると、伊八は北上を開始し、艦内で電波探知機が取り付けられた。
乗り込んだドイツ軍の連絡将校の説明に、内野艦長たちは驚きを隠せなかった。ドイツ最新式の電波探知機は、日本製のと比べてずっと優秀だった。明かされた構造は日本製より簡単なはずなのに、その性能は日本製を遥かに凌いでいた。構造の容易、そして日本製とは比べ物にならないほど、鮮明に像を浮かび上がらせた。この差が、内野艦長たちに祖国への不安を募らせた。世界はこれほどまでに進歩しているというのに、日本はどんどん置いていかれ、技術力の差がどんどん広がっていく。そして技術の差は戦争の勝敗を決めてしまう重要なものだ。
ドイツ最新式の電波探知機を有した伊八は一路目標の港へと向かった。
伊八潜はドイツ海軍本部電信所からの発信を受信し、その指示に従った。ヨーロッパ大陸のスペイン領沿岸からオルテガル岬沖合を通過して、ビスケー湾を北上、最終的にはドイツ占領地のフランス・ブレスト港に向かう。
しかしヨーロッパ大陸の沿岸を進むにつれて電波探知機がイギリス軍の電波を傍受する事が多くなり、警戒はますます厳重になった。頻繁に、イギリス軍のレーダーに捕捉されないように、何度も急速潜航を繰り返していた。
ある日、電波探知機が強烈な電波を感知した。その次の瞬間、強烈な振動が艦を襲った。
水中航走を続けていた伊八に爆雷の爆発が襲いかかった。眠っていた乗員は跳ね起き、爆雷の衝撃が艦を大きく揺さぶった。
伏見は狭い艦内で、他の乗員たちと同様、傍にある物に掴まりながら、逐一襲い掛かる衝撃に耐えていた。
頭に夜宵の事が過るが、艦に異常は見られない。
ズズン、と揺れる衝撃が何度も繰り返される。しかし艦に損傷はない。彼女は無事だ。だがいつ爆雷が命中してこの艦が沈んでしまってもおかしくない。第一便が撃沈されたのは知っている。目的地はもうすぐなのに、ここで沈んでたまるかという思いだった。
夜宵の方は、伏見の想像していた通り、どこにも変化は見られなかった。
だが、その時の彼女は、普段とはまるで別人のようだった。
「……沈んで、たまるもんか。ここまで来て、やられるものか」
その瞳には、恐怖ではなく、闘志のようなものが宿っていた。普段は内気だが、彼女もやはり日本を守る潜水艦の魂だった。
やがて、衝撃はおさまった。爆雷の炸裂音も聞こえなくなり、静寂が艦内に降りた。
「……終わった、か」
伏見は天井を仰ぎ、そして安堵した。
警戒が解かれるや、伏見はすぐに夜宵の下に向かった。
「大丈夫だったか、夜宵」
伏見はいつも彼女が居る場所に入った。だが、目の前にあった光景に、伏見は思わず驚いた。
ぐったりと項垂れたように、身を壁に預けた夜宵がいた。
「おい、夜宵!?」
まさか先程の攻撃で、どこか異変が?
伏見は慌てて、彼女の傍に駆け寄り、名前を呼びかけた。
しかし、夜宵は動かない。不審に思って顔を覗き込んでみると、寝息が聞こえた。
「……なんだ、眠ってるだけかよ」
緊張の糸が途切れたのだろうか。確かに先程の敵の爆雷攻撃は凄まじかった。
彼女も必死に耐えていたのだろう。
半ば呆れるように笑みを零す伏見だったが、ふと、視界の端に何かが落ちているのを見つけた。
それは、夜宵がいつも持ち歩いている日記帳だった。
「これは、夜宵の……」
伏見は眠っている夜宵の傍に落ちていた日記を拾い上げるが、頁が開いていたために中身の文字が見えてしまった。
「……他人の日記を覗き見するのはいただけないよな」
なるべく見ないようにしたが、つい視線が開いた頁に向けられてしまっていた。いけないと思いつつも、自然と目が文字を追ってしまう。
今日も伏見君と会いました。
同じ艦内だからまた会うのは当然ですが、私はいつも伏見君と会うたびに、嬉しいです。
「……ははっ」
ちょっとくすぐったい気分を感じつつ、綺麗に走った文字を追いかけた。
今日の伏見君は意地悪でした。
いつも私は毎日伏見君と会ってから、今日の伏見君は優しい伏見君だった。今日は意地悪な伏見君だった、と。いつも~~~~の伏見君と付けています。
意地悪なときのほうが多いですけどね。
また今日も揺れがひどいせいで、船酔いしている人もたくさんです。でも、不思議と伏見君はいつもぴんゝです。船酔いとは『慣れ』だそうですが、伏見君はその域を越えているようにも思えます。私の気のせいでしょうか?
それより、今日も元気で意地悪な伏見君は、私をまた子供扱いしました。頭を撫でないでほしいです。私は子供じゃありません。でも……正直嬉しくもありました。……こんなこと思うから子供扱いされるのでしょうか。わかりません。
今日は伏見君とアイスを食べました。伏見君が特配でもらったカルピスを、冷凍庫で冷やしてつくったそうです。とっても冷たかったですけど、美味しかったです。でも伏見君、キ~ンとした感覚に悶える私をまたからかいました。もうやめてください。意地悪です。でも、美味しかったな。伏見君のアイス。また食べたいです。
伏見はチラと、自分のすぐ傍で眠っているお姫様を見詰めた。
「『形にして残せる記憶』ねぇ……」
伏見は、ふふっと笑った。それは、優しげに。
伏見はまた、日記の頁を捲った。
「……ん?」
今日はドイツのかたと会いました。
最初はちょっと怖そうな人だなと思いましたが、とても優しいかたでした。
外国人のかたと会ったのは初めてでしたが、貴重な経験になりました。
でも、伏見君が鼻の下を伸ばしていたことは気になります。
ひどいです、伏見君。
「……誰が鼻の下伸ばしてたんだよ」
その時、私はちょっと。いえ、かなりむっとしました。
なんなのでしょう、この気持ちは。
伏見君が他の女の子と話していると、なんだか寂しくて、悲しいような気がします。
やっぱり私は
――その瞬間、目の前の文字が瞬間移動で消えてしまった。あれっと日記の行方を捜すと、代わりに夜宵のこれ以上ない笑顔、彼女の背後からゴゴゴと地鳴りが聞こえてくるそうな、恐ろしすぎる笑顔を持って、しかしその片目は笑っていない、夜宵の顔が眼前にあった。
「や、夜宵ッ!」
「伏見君……なにを見ていたんですか……?」
「いや、それはだな……」
「人の日記を見るなんて、非常識です!」
「す、すまん! 話を聞いて――」
爆雷の炸裂音が聞こえなくなったと思うと、次は伏見の悲鳴が艦内に響き渡った。
顔を床にこすりつけて悶える伏見を横目に、夜宵はパンパンと日記を叩いた。
「ぐおお。 の、脳天に…角は……駄目だろ……」
「伏見君戦死、と。 ふん、伏見君が悪いんです……」
頬を赤らめてチラリと、倒れ伏した伏見を見詰め、夜宵はギュッと日記を胸に抱き寄せた。
「(よりによって、あそこの頁を。 よ、読まれてないよね……?)」
夜宵はドキドキと、高鳴る胸を抑えるのに必死で、伏見は脳天の痛みに悶えるばかりであった。
あわや沈没とも思われた激しい爆雷攻撃を潜り抜けた伊八だったが、後にあの攻撃は爆雷によるものではない事がわかった。
ドイツ軍の連絡将校の説明によると、イギリス空軍は筏のようなものに時限爆雷を取り付け、海中に投下し、炸裂させる。それはドイツ潜水艦の乗組員を威嚇する心理作戦を目的にしたものだと言う。
そして更に長い航路を経て、途中、敵艦を発見して慌てて潜航したり、様々な苦難に遭遇するも、伊八潜は遂に、目的地を目前とした。
海上を進む伊八の見張り員が、前方から近付く艦影を見つけた。
「――ドイツ海軍です!」
その瞬間、艦内は歓喜に沸いた。
伊八は迎えに来たドイツ海軍の艦艇に合流。ドイツ艦に誘導され、伊八はようやくドイツ占領地のブレスト港へと入港を果たした。
入港する際、伊八は曳船に引かれてブンカーに向かった。
乗員は大いに喜びに満ちた。長い航海を経て、ようやく目的地に到達したのだ。これ以上の感動はなかった。
しかし彼らの感動は終わらない。
甲板上に士官以下全員が第一種軍装に着替えて整列していた。疲弊しきっていたが、彼らは日本海軍が情けないところを見せてはいけないと強気だった。
ブンカーの屋上には大勢の市民で賑わっていた。伊八を迎える市民たちが手を振り、日本とドイツの旗を振る。そして伊八がブンカーの入口に近付くと、ドイツ海軍儀仗隊が日本国歌の『君が代』とドイツ国歌を演奏した。
甲板上に並ぶ乗員たちの目に光るものがあった。身体の疲れが徐々に癒え、その胸に熱さがこみあげてきたのだ。
「やっと、ここまで辿りついた……」
夜宵は、盛大に迎える市民たちとドイツ海軍を見渡し、喜びに満ちた笑顔で手を振り返した。
夜宵は瞳の奥底から湧き出るものを抑え、ジンと胸に染みわたる感激を抱いた。
それは、決して忘れる事がないだろう形にして残す記憶。それは永遠に残せると確信を持って言える、遥かに大きなものだった。
伊号第八潜水艦のドイツ派遣の目的は、ドイツ側からのUボート譲渡だった。二隻のUボートを日本まで回航するため、Uボートに乗り込む予定の乗員たちをドイツ側に送り、そして伊八潜側からは日本製の酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置の図面と、錫、天然ゴム、雲母、キニーネなどの南方資源がドイツ側に提供された。
そして一方のドイツ側からは、ダイムラー・ベンツ製の高速艇用ディーゼルエンジンMB501、電波探知機『メトックス』、エリコン20ミリ機銃等が提供された。
また、後甲板にはドイツから譲渡された、20ミリ四連装対空機銃が装備された。
伊八潜は十月五日にブレスト港を出港し、大西洋で哨戒機に発見され至近弾を受け損傷するも航海に支障なく航行を続け、十二月五日、シンガポールに到着。十二月二十一日に日本・呉に到着した。遂に日独の往復を成功させ、後に、日本とドイツの完全往復に成功したのはこの伊号第八潜水艦のみとなった。
日独の往復を完遂させた後、昭和十九(一九四四)年七月には日本へ回航中の呂号第五〇一潜水艦(ドイツ側から譲渡されたUボート)との会合に向かうも、同艦が五月に米駆逐艦の攻撃により沈没してしまったためやむなく帰還。その後、インド洋で通商破壊の任務につき、五隻の船を撃沈した。
そして昭和二十(一九四五)年三月三十一日。
米軍の沖縄来攻を受け、伊八潜は佐伯湾から出航。三月二十八日の敵情報報告後、消息不明となる。
彼女はこの日、沖縄本島沖で油槽船、輸送艦及び駆逐艦を含む敵船団に見つかった。
沖縄を攻撃する機動部隊の一隻として慶良間諸島に向かう途中の米駆逐艦『ストックトン』のレーダーが、この見慣れない艦を発見すると、敵味方を識別するために話しかけようとした。
そこは米軍の友軍船団が集結する予定の海域だったからである。しかし応答がなかったため、米駆逐艦『ストックトン』が追跡した所、潜航する潜水艦を発見した。
それこそが、伊八であった。
「急速潜航!」
敵駆逐艦に発見された伊八潜は慌ただしく潜航した。昨年十二月から艦長に赴任した篠原茂夫少佐が潜航を命じ、深度深くまで潜り始める。
夜闇が支配する中、米駆逐艦『ストックトン』は潜航中の伊八に対し、激しい爆雷攻撃を行った。その攻撃は三時間にわたって行われた。
伊八は必死に海中を潜り、夜闇に乗じて攻撃を避けていたが、艦首付近を損傷し重油が海面に漏れ出た。やがて後からやって来た敵機から照明弾を投下され、更に友軍の援護に駆け付けた駆逐艦が加わり、伊八はたまらず浮上した――
「急速浮上! 砲戦! メンタンクブロー!」
篠原艦長の命令により、伊八は敵艦が待ち受ける海上へと向かった。
「浮上ります!」
発令所から響く声。
伊八は、艦首から浮上――敵駆逐艦の後方、わずか823メートルの海上だった。
甲板上に出た乗員の目には、すぐ右側に敵艦の姿が見えた。
「撃て、撃てぇッ!」
開いたハッチから現れた乗員たちは、一目散に連装砲などに飛び込んだ。敵側も転舵し避けようとしても、衝突させるにも近過ぎるため、両者の間でたちまち銃撃戦が始まった。
伊八は連装砲や機銃などで砲戦を行ったが、敵駆逐艦二隻からの猛射を浴びて、その艦体は傷だらけになっていった。
敵艦から放たれた砲弾、銃弾が伊八の身を削り、甲板上に居た乗員たちの体も抉り取っていく。
そして、砲弾が艦橋を直撃。人が通れる程の大穴が開いた。
乗員の肉片が散らばり、主砲も破壊され、それでも戦い続ける伊八の開いた穴から、一人の兵が這い上がる。
伏見だった。
敵艦の攻撃により砲員が欠け、伏見は地獄と化した甲板上を走る。
既にその体は負傷していたが、手足は問題なかった。動く手で、後方に備えられた機銃座に駆け込む。
血の海になっていた機銃座に飛び込み、伏見は敵艦に向かって射撃を行った。
「まだだ。まだ、やられねえぞ。俺は、この艦は、テメェらなんかにやられたりしねぇ」
近距離にいる二隻の敵艦の挟撃を受け、砲弾や機銃弾が撃ちこまれ、全甲板を剥ぎ取っていく。
伏見は撃ち続けた。
無我夢中に。
既に、応戦し、銃口から火を噴いているのはこのドイツ土産の機銃だけになっていた。
艦の全身が、剥がされる。
その時だった。伏見は最後に見た彼女の顔を思い出した。
艦の損傷を表すように頭から血を流した少女が、心配する自分に微笑みかけるその顔を。
伏見はその時に手渡された日記帳を、服の内ポケットに入れていた。
「お守りです」
そう言って、譲り受けた彼女の日記帳。
これを後で返すためにも、そして、彼女が日記を書き続けるためにも――
「やられねえ、やられない。 必ず、届く! 届く!!」
艦が傾く。撃ち続ける伏見の周囲にも、波が押し寄せてきた。
全身を蜂の巣にされた伊八潜は、艦尾から沈み始めた。伊八は四十分間の激闘の末、遂に沈没した。伊八が一瞬の間に海中へ突っ込む間に、最後の最後まで、その銃口からは火が噴いていた。
伊号第八潜水艦、沖縄本島沖にて沈没――
日本潜水艦の中で唯一、遣独潜水艦作戦を成功させた伊八潜はこうしてその生涯を終えた。沈む最期の瞬間まで敵艦に向かって火を噴いていたと言う、壮絶な最期だったと伝えられている。因みに、伊八を撃沈した米駆逐艦の一隻、『モリソン』は後に特攻機によって撃沈されている。
夜が明けると共に、重油と破壊された残骸が混ざって大量に海面に現れた。漂流物の中には、二人の日本人の遺体も浮遊していた。
その日本人の遺体の傍で、漂流物の回収に当たっていた米兵がとある漂流物を拾った。
それは、日記帳だった。
血や油、水などに濡れていたが、頁に浮かんだ文字はなんとか無事だった。
しかし、拾った人間に異国の文字は読めなかった。
機密書類でもなく、単なる日記だろう事だけは、わかった。
だから、すぐに海へ戻した。
直後、海面を泳ぐ生存者を見つけたと言う声が別の所から上がる。
船は、浮かぶ遺体と日記を素通りし、泳いでいる生存者の方へと向かった。
日記は、海面に浸かり、少しずつ溶けていくかのように、その遺体の傍でいつまでも漂っていた。
伊号第八潜水艦は沈没し、艦長以下一三〇名の乗員が戦死、捕虜として一名が救助された。
その一三〇名の中で、一人の機関兵と少女が共に寄り添って、静かに永遠の眠りに入ったというのは、また別の話である。
「そういえば俺が夜宵の日記を見た時……。ドイツのUボートのお譲ちゃんと出会った日の日記なんだけど、途中までしか読めなかったんだよ。最後、なんて書いてあったんだ?」
「ひ、秘密です! 教えてあげないです……!」
「え~、なんでだよ。いいじゃんか~」
「ダメです~! 勝手に人の日記をのぞき見する人なんかに、教えられません」
「そんなぁ」
言えるわけないじゃないですか。
だって……
あんなこと、言えるわけないじゃないですか…。
言ったら、私、恥ずかしくて死んじゃうじゃないですか……。
私はやっぱり、伏見君のことが好きなんだ。って……。
終
作中に出てきたドイツ語、たぶん間違えている部分もあると思いますが、どうなんでしょう(汗
もし間違えてましたら、ごめんなさい!そしてわかる人はぜひご一報ください!
ドイツへと派遣された潜水艦を、遣欧艦隊と呼ばれています。数次にわたって行われましたが、日独間の往復に成功したのはこの伊号第八潜水艦だけで、他の潜水艦はみんな途中で撃沈されてしまい、失敗に終わりました。
それほど、遠いドイツへと向かうのは想像以上に厳しかったそうです。
普通に考えて、まぁ……連合国が支配している海域を突破して何万キロも離れている欧州まで向かうなんて難しい話ですよね…。
連合国は互いに連絡を取り合えましたが、枢軸国側も努力はしたようです。日伊間では、航空機による渡航を成功させた例もありましたが、やはり続かなかったそうです。
だいたい、極東の日本と、欧州のドイツとイタリアでは遠すぎますよね。
その点、アメリカやイギリスなんてお隣さんですから会いたいときに会えるし、ソ連に関しても、枢軸国側に比べたらそれほど難しくもなかったのかも。
大変身勝手なことですが、申し訳ありません。今回は艦魂ラジオ、お休みです。
諸々な事情があるのですが、今回はお休みです。ごめんなさい。
では。艦魂ラジオ休止で、こんな独り言オチでごめんなさい。
では、また〜。
あ、次回作はまたまた未定です。本当にすみません…。
そ、それでは…。
皆さんも体調にお気をつけてください。特にインフルエンザなど。映画観ましたけど、あんなのが感染したら本当にたまったものじゃありませんよ…。