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短編

あの紺藍の天つ空から

作者:彩芭つづり
 卒業式の前の晩、同じ天文部に所属する先輩と、空を仰ぎながら二人で話をした。
 粉々に砕けた透明なガラスが飛び散ったような、小さく細やかな星々の下。笑ったこと、泣いたこと、落ち込んだこと、嬉しかったこと。寄り添い過ごした二年間は、きっとどんな時間よりも尊いものだった。

「明日は卒業式ですね」
 ひとしきり思い出を話し終えると、あたりは静寂に包まれる。そんなとき、わたしはぽつりとそう呟いた。
 先輩と一緒に過ごせるのは今日までなんて、なんだかうそみたいだ。悪い冗談のようで、まだ信じられない。こんなに幸せな時間があっけなく終わりを迎えてしまうなんて嫌だった。こうして二人で他愛ない会話ができるのも、当たり前のように隣に座れるのも、寒いからと言って手をそっと握れるのも、あと数時間もすればすべてが思い出に変わってしまう。
 先輩に気づかれないように、震えるくちびるをそっと噛んだ。
「寂しくなります」
 先輩は視線を空からわたしに移し、静かに微笑む。
「ありがとう」
 夜風に揺れる、細くやわらかな髪。先輩はつらくないのだろうか。どうしてそんなふうに笑えるのだろう。わたしは胸が痛かった。離れなくてはならないと考えただけで、こんなにも悲しくて、こんなにも苦しい。そう思っているのはわたしだけなのだろうか。
 再び空へと視線を戻した先輩は、優しい瞳で星を見る。その穏やかな横顔にほんの少し腹が立ち、わたしは地面を睨みつけながら、くちびるをとがらせて言った。
「寂しい思いをするのは、いつだって残された側の人間です」
「旅立つ側の人間が寂しくないなんて誰が決めたの?」
 すぐに返ってきた言葉に目をみはる。そっと先輩に視線を向ければ、さっきまで星を見ていた優しげな瞳は、今度はわたしをじっと見つめていた。深い夜のような藍色の虹彩に、わたしの姿がはっきりと映し出される。
「……先輩も寂しいんですか」
「寂しいよ。寂しいに決まってる。ずっとここにいたいと思ってる」
「だったら、ずっとここにいてください。わたしの隣で一緒に星を眺めていてください」
「だめだよ。それはできない」
 どうして、とそこまで言って、続く言葉を飲み込んだ。吸い込まれそうな瞳の奥に、強い意志を感じた。
「時間は待ってはくれないんだ。わかるだろう。ぼくはここから旅立たなきゃいけない。……それがどんなに寂しいことであっても」
 そう言った先輩は、どこか儚げで、繊細で、まるで刹那の命である泡沫のようで。
 言わなければいけない。そう思った。ここで言わなければ、きっと一生伝えられずに終わってしまうような――そんな気がした。
 渇いたくちびるを舐める。静かに息を吸った。
 星。呼吸。心臓の音。すべてをひとつにして、わたしは言う。
「先輩のことが好きです」
 伝えることに恐れはなかった。いつかは必ず伝えようとしていた思いだったから。……それでも、やっぱり声は震えた。手だってわずかに震えていた。それはきっと寒いからなのだろうと、わたしは自分に言い聞かせた。
 ずいぶんと長いあいだ黙っていたような気がする。先輩から言葉が返ってきたときには、手の震えはもうすっかり止まっていた。
「ぼくも好きだよ」
 瞬く音が聞こえそうな星々を見上げながら、先輩はそう言った。優しい声だった。
 ここに来たときから繋がれていた手はあたたかい。指先にほんの少しだけ力を込める。同じ思いだと知ったのに、なぜかわたしは喜べなかった。嬉しい気持ちよりも、悲しい気持ちが膨らんだ。
「先輩もわたしのことを好いてくれていたんですね」
「うん。ずっと好きだった」
「それならわたしたち、これからも一緒にいられますか」
 その問いに答えが返ってくることはなかった。当然だと思った。最初から期待なんてしていなかった。わたしはただじっと、輝く星空を見上げる先輩の横顔を見つめていた。
「ずっと近づきたいと思っていました。だけど、先輩はいつだって届きそうで届かないところにいる。手を伸ばしたって掴めない。まるであの星みたいに」
 こんなに近くにいるのにどうして。
 空に向かって腕を伸ばす。指先すら届かない。
「星は綺麗だよね。ぼくも、きみの目にはあんなふうに映っているのかな」
 先輩はそう言いながら、わたしと同じように高い空へ腕を伸ばした。その指先は、わたしよりも星に近いところにある。もう少しで届いてしまいそうで、うらやましかった。
「うらやましいと思うかい」
 心の中を見透かした声。わたしはくちびるを引き結ぶ。
 そんなわたしに、先輩はささめくように「でもね」と言った。
「手が届かないから綺麗なんだ」
 うわ言のようなそれに、思わず先輩の顔を見る。星の光に照らされた肌は、透き通ったように白くて。
「近づきすぎると、見たくないものまで見えてしまう」
「……わたしは先輩に近づきたい」
「これ以上きみが近くに来たら、本当のぼくを知られてしまいそうで怖い」
 ふいに視界がぼやけていった。慌てて目をこすったけれど、景色はなにも変わらない。欠けた月も、無数の星も、先輩の横顔も、ぜんぶ涙に霞んで見えなくなっていく。
「……今わたしに見せている姿は、先輩の本当の姿じゃないんですか」
「本当の姿だよ。でも、誰にだって自分でも気づいていないもう一人の自分がいると思うんだ。暗くて、寂しくて、恐ろしい――影のような自分が」
 それでもかまわない。そんな先輩も好きでいたい。触れたい。抱きしめたい。近づきたい。……そんなふうに思うのに。
「ぼくはそれを、きみには見せたくない。怖いんだ、嫌われてしまいそうで」
 涙が頬を伝う。わたしはもう、なにも言えなかった。きっとなにを言ったって、先輩の思いは変わらない。この関係も変わらない。
 わたしたちの時間は、ここまでだ。
「だからぼくは、遠く離れた場所からきみを見守っていたい」
 そう言って、儚げに微笑む先輩の横顔は、あの瞬く星たちのように綺麗だった。




 次の日。わたしは体育館の中にいた。ずらりと並べられたパイプ椅子に座り、名前を呼ばれて次々と壇上に登っていく上級生たちをじっと見つめていた。途中、先輩の名前が呼ばれた。けれども、返事がない。先輩は卒業式に欠席した。
『ぼくはここから旅立たなきゃいけない』
 あの夜にその一言だけを残して、先輩は姿を消した。わたしの前から、友達の前から、先生の前から、家族の前から。
 ――この世界から、姿を消した。
 家に帰り、ベッドの上に寝転がる。眠れない。食欲もない。本を読む気にもなれない。ただぼんやりと天井を見上げていた。
 先輩は言っていた。「旅立つ側も寂しい」と。でも、わたしは思う。そんなのうそだと。寂しいと感じるのは、いつだって残された側の人間だ。
 触れたかった。
 近づきたかった。
 ずっとそばにいたかった。
 けれど、伸ばした手はいつだって虚しく空を掻くだけだ。届くわけなんてない。あの星までの距離は、こんなにも遠い。
 その背中を追いかけたら、先輩は怒るだろうか。いや、きっと悲しむだろう。だって、こうして離れているから好きでいられる。好きでいてくれる。これ以上近づいてしまったら、この関係は保てない。今の状態が、たぶん、いちばん近い距離だから。

 窓を開けて、空を見上げた。今宵も、粉々に砕けたガラスが飛び散ったような無数の星々があまそらを飾る。
 ――遠く離れた場所から見守っていたい。
 先輩はそう言ってくれた。だからきっと、今もわたしを見てくれているのだろう。
 あの紺藍こんあいの空から、光り輝く星となって。

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