ヒトツノハジマリ 05
*
組織からの命令で俺が、山吹九音とともに行動をするようになって、九ヶ月が過ぎた頃だった。
夏が終わり秋口にさしかかったばかりだと言うのに、いやに夜風が冷たかった。
その日の仕事は、ある家族を皆殺しにすることだった。
裕福な家だった。
幸福を絵に描いたような家だった。
しかしその一家には幸福に見合う量の、黒い噂も絶えず付き纏っていた。
――だから殺されることになった。
俺と山吹九音は家族構成、現場状況等々、必要な事を全て調べ現場へと赴いた。
その家の居間には、家族の肖像画がかかっていた。
どこかの国の権力者の壁画のように、無駄に美化された一家の顔は皆、どこか滑稽だった。
幸せそうに微笑む家族達。
切り出された張りぼての日常の一コマ。
嘘っぱちな幸福。
そんなどうでも良いものに、ほんの一瞬目が止まる。
ありもしない幸福を描いた絵画の一角だけ、黒く深く沈んでいた。
そこだけ明らかにトーンが違う。
絵画の一角に黒い天使がいた。
幸福などこれっぽっちも持っていない、憂鬱な顔。
黒い翼と黒い衣、
頭には黒い天使の輪。
そこに目を留めながらも、すぐに視線を逸らせた。
これ以上あの絵を観てはいけない。
道具として作られた男が、初めて抱いた危機感だった。
あの絵を、きっと九音も観ただろう。
きっと、その時から――
*
――数日後。
消毒液の匂いが漂う地方の病院。
黒髪に黒いスーツに黒いサングラスをかけた青年が、ゆっくり廊下を進む。
受付の台帳に「山寺」と書き込み、この病院で一番上等な個室へ向かう。
そして、ノックもせずに病室に入る。
無言のまま、奥へと進み、そこで包帯が本体なのかと思えるくらい、包帯ぐるぐる巻きにされている少女のベッド脇に立った。
少女は青年が目前にいることに気付いていない。
蒼香は、独りベットの上で、伏し目がちで虚ろな視線でボーっとしていた。
意識が戻ってから、彼女は常にそうしている。
他にする事が何も思いつかない。
やりたい事がない。
やるべき事も見当たらない。
何もかもが、
終わってしまったみたいだ。
ただ、記憶――想い出だけは、無情に、冷徹に、残酷に、形を変えることなく脳裏に横たわる。
しばらくボーっとしていると、白い病室に声が響いた。
「どうなってんだ……」
どこかで聴きなれた声だった。
そして、その人物とは違う口調だった。
それはまるで――死んだ殺し屋のような口調だ。
「あの時、あれだけの力を発揮した人間と同じ人間だとは思えない……」
「……」蒼香は彼の言う時の事をほとんど覚えていない。
九音を守りたい。
ただそれだけを念じていたら瞳が熱くなって、気付いた時には何人もの人が自分の足元で倒れていた、それだけだ。
「そうしていれば年相応のお嬢ちゃんにしか見えないのに……いや、そうでもないか。年相応のお嬢ちゃんなら、こんな傷は負わないか」
自分でやっておいて何を言う、と言おうと思ったが口から出てきたのは別の言葉だった。
「一馬さん、生きて……いたの?」無表情のまま、相手の方を向かずに蒼香は返事した。
少しだけ、声が震えていた。
「あぁ、まだ生きてた。本当は生きていたらいけないんだがな。だから一応変装ってことで、九音さんみたいな格好をしてきた。そもそも、俺がお前をここまで運んだんだぞ。ちゃんとお前が死んだような偽装工作までしてな。そういうのは得意分野だ。このしゃべり方も含めてな」と九音のような口調で青年は微笑む。
「どうして……私の前に出てきたの?」蒼香は一馬を見ない。
「最後にお前の疑問にだけ答えてやろうと思ってな。最後にサービスって奴だ」青年はいつもと同じ作り物の笑みを浮かべる。
「疑問なんて……ない」
そんなものはない。
疑問は全て解けてしまっている。
「そうなのか?」演技というには不自然過ぎる程自然に、一馬は驚いた風に言った。
少女は頷く。
「俺が、九音さんを殺すために、傍にいたことも」
「ええ」
「俺が、お前の義兄を殺したことも」青年は淡々と、まるでそれが、作業であるかのように続ける。
「…えぇ」
「俺が、九音さんに止めを刺したことも」
「……ぇぇ」喉が圧迫されたみたいで、しっかりと声が出ない。
「俺が――」
「……もう……いい」
どうして、この青年は、こんなにも簡単に話すのだろう。
「俺には全うな感情がない。そういう風に作られたからな」と一馬は言う。
「嘘よ」少女は漸く、蒼い瞳を青年に真っ直ぐに向けて、彼を見据えた。
「嘘じゃない」男は横に首を振る。
「そんなの嘘。ならどうしてあなたは今、そんな悲しそうな顔をしているの?」
「えっ?」
男は部屋に置いてあった鏡を覗く。
そこに映っていたのは、
いつもの作られた笑顔ではなく、
泣きそうな顔をした青年だった。
静寂が病室に漂う。
「……そうか」
呆れたように、
諦めたように、
悲しそうに、
でもどこか嬉しそうに一馬は言った。
「俺はどこか、壊れちまったみたいだ。
お前や九音さんが俺を壊したんだ」
道具として作られ。
道具として使われた。
――でも、
道具として死ねなかった。
「だったら……私たちは、会わなければ良かったのにね」
――本当に。
心の底からそう思う。
どうして、私たちは出会ってしまったのか。
出会わなければ、こんな結末にはならなかったのに。
「俺はそうは思わないな。いや、そう思うにはまだ早い、の方が正確か。それを判断するのは全てが終わってからだ」
「全てが……終わってから?」
「俺はね、お前の事が好きだし、九音さんも好きだ」青年は少女の質問には答えず、話し出した。
「感情の無かった俺が今更だが、壊れた今だから言い切れる。俺は二人とも好きだったんだろう」青年は真面目な顔をしている。
多分、生まれて初めての表情だろう。
「だから、きっちり言っておきたいことがある」
ふぅっとため息を吐き、一馬は続ける。
「お前は恐いな。本当に九音さんを殺せた。たった三ヶ月そこらで。あの人は、最強の中の最強だったのにな」
「……私が殺したんじゃない」
「お前が殺したようなもんだろ。俺はお前が現れるまで、半年以上九音さんと一緒に行動していたが、あの人を殺すことは、どんな策を持ってどんな人間が挑もうと、不可能だと思っていた……でもそこにお前が現れた……全く予想外だった。お前の家族を殺す依頼を受けて、行ってみたら調べにはない、子供が一人いたんだからな」
それはそうだ。
蒼香は思う。
私はいない人間として、あの家族に飼われていたのだから。
少しくらいの調べでは、私に辿り着くわけがない。
「その子供を九音さんが連れてきた時はさすがに驚いた。全く最強ってのは何考えているかわからない。でも結果的にそれが良かった。お前が来てからの九音さんは、隙だらけだった。策と機さえ揃えば、いつでも殺せた」
一馬は頬が引きつっている。
「――だが、すぐにはできなかった。あの時は何で出来なかったかわからなかったが……今思えば、楽しかったんだろうな」
少女を見ていた青年の視界の端が滲む。
「だが、組織から催促されてな。期限も迫ってたし、これ以上手こずるなら増援を向かわせるってな。増援がくればあの時の隙だらけの九音さんなら一発で死んだろうな。それでどうせ殺されるなら俺が殺そうと思って、ああしたわけだ。お前がいる限り、殺す事は難しくなかったからな」
「別に私がいなくても……一馬さんなら九音さんを殺せたでしょ」
一馬は九音の口調で、何かに耐えるように続ける。
「無理だな……あの人は、九音さんは俺が出会った時には既に死んでいた。恐い物もない、失うものも無い、目的も無い。生きているけど生きていなかった。過去を失った事で一度死んだのかもな。だから躊躇も容赦もなく人を殺せるし、誰にも九音さんを殺せない。
――だが、
お前が、生き返らせた。守りたいものを作らせたんだ」
「……わからない理屈だね」
静かに、無言の間が続いた。
「まあ九音さんは人として死んだんだろうな。後悔したり、心配したり、未練を残して死んだんだ。全く、とんでもなく残酷な復讐だ」
「……狙ってやったわけじゃないよ。いや……うん、そうだね」
最初から死んでいたのでは殺せない。
殺すためには生き返らせなければいけなかった。
わからないなりに蒼香はそれを考えて行動していた。
わからないなりに正解に辿り着いていた。
「本心から……お前は九音さんの事を慕ってたんだろうな。上っ面じゃない。だから余計に残酷だ」
優しさは時に残忍な凶器となる。
愛は非情な牙を剥く。
怨嗟の憎悪を向けることよりも、残虐な暴力を与えることよりも、少女の微笑みという手段は凶悪非道なものとなる。
だから、彼女は全ての悪意も憎悪も消し去り、ただ無邪気に、九音に寄り添った。
失う痛手を知らない者に、大切な何かを与える。
奪う為に愛を。
亡くしてしまう為の愛を。
だから、蒼香はあの時、死ぬつもりでいた。
九音の心に刻まれるために、想い出となるために。
何よりも大好きだった。あの塵溜めのような家で、たった一つの心のより所だった、義義兄を失った悲しみを、ほんの少しでもあの殺し屋に与えたい、ただそれだけだった。
「何で……何で、あなたはそんな事言うの?」
「俺が生きてるとわかった今、お前は俺も殺したいんだろ? きっと、やり遂げるだろうな。お前ならそれが出来るだろう。だが俺は、死ぬ気はない。せっかく壊れて得れた感情だ。それを奪われたくはない。だから逃げ続ける。お前からも組織の奴からも、その他の奴からも。お前に殺されるまで、俺は誰にも殺されない。永遠にな」
「っ……そんなの……言わなきゃ良いじゃない。死んだと思ってたよ! ずっと隠れてれば良かったじゃない! 何で? 何でわざわざ出てくるの!?」
半ば半狂乱となって叫ぶ蒼香に一馬は優しく言う。
「だって、お前も死んでた、だろ? どうだ? 目的あるか? 失うものあるか? どうでも良くなっているだろ?」
「……」
「言っただろ、俺はお前の事が好きなんだって。だからお前に生きてて欲しいんでな。これは俺と九音さんからの復讐だ。いや、本当に復讐されるべき立場なのは俺なんだけどな」
苦笑いして頬を掻く一馬。
「……ありがとう」蒼香は泣き笑いのような顔になる。
「ああ、その顔だ……あの絵を描いた絵描きも、本当はその顔を描きたかったんだろうな」
青年はふっと、どこか気の抜けたような安心した顔をした。
「――本物の方が、絵なんかよりずっと良いでしょう?」蒼香は精一杯の強がりをした。
もう、少女は泣かない。
「そうだな……あとこれは、お見舞いだ。置いておくぞ」
そう言って青年は、ベッド脇にあるサイドボードに見舞いの品を置いた。
「じゃあな。今頃組織の奴らが俺を追っているだろうが、俺はそいつらに殺されなんかしない。お前にも捕まる気はない」
青年は少女が寝ているベッドから遠ざかる。
カツカツと革靴の足音が病室内に木霊する。
一馬は、ドアノブに手をかけたところで、蒼香の方に振り返った。
そして、いつもの調子で笑いながら言った。
「まぁどうなるか、わからないっすけどね」
その笑顔は本当に楽しそうで、嬉しそうで、
そして、もう作り物のそれではなかった。
少女も微笑み返す。
うっすら涙を浮かべた満面の笑みで。
青年が病室から去ると、
見舞いの品として渡された、純白のナイフと古ぼけたオルゴールを胸に抱きしめて、謡うように言った。
「私は、あなたをずっと追うよ。
地平の果てまで、
地獄の底まで、
追いつくまで永遠に。
だから、
いつかきっと、
殺してみせる」
天使は微笑んだ。
いつか辿り着く、殺戮を夢見て。
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