塾帰り、リョウコは静かな夜道を歩いていた。
左手には穏やかに流れる川があり、薄い月光を浴びて水面は朧げにその光を弾いている。そして僅かな光による銀色が、周りの闇色を際立たせていた。
右手には昼には大勢の人間がいた筈のビルが幾つも立っている。リョウコの遥か高くに位置するそれは、まるで辺りを睥倪しているかのような存在感を滲ませていた。
そんな中をリョウコは歩いている。
勉強に追われる毎日を過ごすリョウコにとって、強いストレスを感じるのはいつものことだ。
近頃は、母までもが娘の受験に神経をすり減らし、父との喧嘩が耐えない。家事こそこなすものの、家を開けることが多くなった。遅く帰ってくることも少なくない。
そのせいか家族全員に軋轢が生まれてしまっている。いつもはそんな家庭の状況のせいに辟易し、疲弊しているリョウコだが、今ばかりはそんなものを感じる余裕は無かった。
ここつ、ここつ、ここつ……
硬質な音が一定の間隔で鳴り響く。足音である。
音源はリョウコの革靴、そして後ろの男の靴。
この音楽が夜闇へ奏でられてもう十分は経っただろうか。
「お願いだから、曲がってよ……」
リョウコの前方には十字路が広がっている。そこで男が違う進路を取ってくれることを祈りながら、サキは十字路を直進した。
ここつ、ここつ、ここつ……
だが無情にも、音楽は止まない。分かれ道を過ぎる度に、男は同じ進路を取る。リョウコの中で疑念は確信に変わろうとしていた。
「私を、つけてるんだ……」
夜道で男が女をつけ回す理由を、リョウコは想像して身震いする。
一度考えてしまうと、頭の中ではこれから起こることが次々とイメージされる。その凄惨なイメージのせいで、リョウコは更に震えを大きくする。
ここつ、ここつ……こここつ、こここつ……
「ひっ……」
急に背後の圧迫感が強まる。男が歩調を速めたのだ。
「いやっ……」
追い付かれてはいけない。しかし恐怖で思ったように足は動かなくなっていた。駆け出したい衝動に駆られながらも、リョウコの足はもつれそうになる。それでも転ぶことなく、危なげながらも早足で男との距離を保ったことは賛嘆に値した。
後ろを窺えば、黒い外套を羽織った大柄な男が、うつむき加減に歩いていた。その姿も距離も先程と同じ筈なのに、その禍々しさは増しているようにリョウコは思った。
その外套は夜闇に溶け込むどころか、はっきりと闇から浮きたっている。
もし今男が走り出せば、一瞬でリョウコに追い付いてしまうだろう。それをしないのは、襲う場所を窺っているからなのか、それとも獲物を怯えさせ、暗い愉悦に浸っているのか。
その時、男がポケットから手を出した。その手に握られたものを見て、リョウコは大量の冷や汗が流れ出るのを感じた。
「あれは……ナイフ?」
男はすぐに手をポケットの中に戻す。リョウコはもう、男の方へ視線を向けることができない。
かちかち、かちかち、かちかち……
それが歯の根が合わなくなっている自分が出している音だということを、リョウコは暫く気が付かなかった。
同時に呼吸も乱れていることに気付く。
「やだやだやだ……やだよ。」
とにかく足を動かし、男との距離を保とうとする。それは蜘蛛の巣に捕らわれてもがく哀れな生贄に似ている。
こここつ、こここつ……こっこっこっこっ……
更に男が歩調を速めた。だがリョウコの足はこれ以上の速度を出すことは叶わない。
少しずつ、少しずつ二人の距離は縮まる。
リョウコの肌に現れた鳥肌は、全身を這い回りながら警鐘を鳴らしている。
リョウコは肩から提げた鞄から、震える手で一本のシャープペンシルを取り出し、胸の前で握りしめた。
「助けて……助けて……」
その祈りを聞き入れてくれるものはこの場にはいなかった。それでも、リョウコは呟き続ける。
祈りに気を傾ければ、恐怖に侵されずに済んだからだ。
だが、ふと、リョウコは気付く。
音が、聞こえない。
祈りに気を向けるばかり、リョウコは完全に周囲の音を遮断してしまっていた。足音だけが男との距離を知る情報である。それを遮断していた今、リョウコは男との距離を知ることができない。慌てて足音を拾おうと、聴覚を集中させようとしたとき、
ふーっ、ふーっ、ふーっ……
真後ろで、聞こえた。
「いやぁぁぁ!」
リョウコは背後へ向けてシャープペンシルを思い切り突き立てる。
皮膚を突き破る嫌な感触と共に、吹き出す鮮血と悲鳴。
「ぎゃあああ!」
男は刺された右腕を押さえながら、その場に倒れ込んだ。
自分の手に残るおぞましい感触と、目の前でのたうつ男を見て、リョウコは腰を抜かしてしまう。
その時、今の騒ぎを聞き付けたのか一人の女性が駆け寄ってきた。こんな時間帯に一人なのは、仕事の帰りだからだろう。
女性は苦しそうに呻き声を上げている男を見るなり、悲鳴を上げた。
リョウコは立ち上がれないまま女性に抱きついて助けを求めるが、女性も腰が抜けたのか地面に腰を下ろしてしまっていた。必然的に二人は抱き合う形になる。
男がふらつきながらも立ち上がると、こちらに目を向ける。
その顔には憎悪と怯えが浮かんでいた。
「良かったぁ。タクヤ大丈夫なんだね。」
女性が安堵しきったという表情で言う。
「あなたを殺すのは私なんだから。こんな娘に殺されないでよね。」
吊り上がった口から漏れるのは甘い笑い声。血の気を失った男は思わず後ずさりをする。
「こ、このストーカー女! この前からずっと俺についてきやがって!」
その怒声は、精一杯の虚勢なのだろう。
「だってタクヤが別れるだなんて言うからじゃない。」
「元々本気じゃ無かったんだ! なのにあんたが妻と別れろってうるさくなったからだ!」
「そう……だから殺すのよ。家に帰ってつまらない夫と顔を合わせるのはもううんざり。昔と違って彼にはもう殺意しか湧かないもの。」
女性は呆然とするリョウコを一瞥する。
「タクヤの血も肉も、私のものなんだから。あなたになんてあげないんだからね?」
その声色と表情は、隠し持っていた包丁でリョウコの背中を滅多刺しにしていなければ、まさに天使のようだった。
「ごぽっ……げ……が、ごぁ……」
血の波が喉を通る。口から溢れ出た血で、リョウコの体は赤黒く湿っていく。月光を浴び、リョウコの体は薄い銀色に染まる。悲鳴も上げずに、男は逃げていった。リョウコを抱いたまま女性はすこし残念そうな顔をしたがすぐにリョウコの方を向くと、愛しそうにその髪を撫でる。
リョウコは血の泉に溺れながら、虚空へと手を伸ばす。だが掴むものは何も、無い。
「お母さん、何で……?」
「リョウコ、私疲れちゃったのよ。あなたの受験も、お父さんとの生活も。」
「な……ごぼっ……おぉ」
最早リョウコは、一言も発することができない。
「でもタクヤがまた私に潤いを持たせてくれた……タクヤといれば私は安定するの。家にいる時とは違うの。……タクヤとの関係が終わるのは、私の世界の終わり。私の終わりは、私の家族の終わり……だから、一緒に死の? すぐ、私も行くから」
母はやはり娘を抱いたまま、優しく微笑む。そして握った包丁を、リョウコの首に突き立てた。
「また、後でね。リョウコ。」
完 |