サラダ騒動の顛末
「宮さま? いかがなさいました?」
気づかわしげな声にリリー=ルートは慌てて顔を上げた。物思いにふけるうち、いつしか俯いていたらしい。
「ごめんなさい」
己らしからぬ振る舞いだった。ここ春の宮の主としては失態といっても過言でない。気の知れた人間しかいない時間なのが救いといえば救いか。
「テーブルクロスの刺繍の素晴らしさについ見入ってしまったの。もしかしてスピナの作かしら?」
適当に理由を見繕うのは、そのほうが周囲の心配を晴らすのに有効だからだ。
「まあ、さすが宮さま。そのとおりですわ。今日のお茶会のために作ってまいりましたの」
「あら大変! 神の指先と名高いスピナッチさまの芸術作品を下敷きにお茶を頂いてしまっているなんて、恐れ多いことですわ」
「ええ、ええ、本来なら塵ひとつつかないよう飾っておくべきですのに。こんな贅沢、よいのかしら」
「などと言いつつ、こっそりお持ち帰りになるのではないでしょうね? キャロットさま」
「あらあら、見抜かれてしまいましたわ。どうしましょう。みなさま、お耳に入れなかったことにして頂けません?」
茶目っ気たっぷりの伯爵令嬢の言葉にみな笑いさざめく。
今日はリリー=ルート主催による春の宮恒例茶会の日だった。
キューカンバー国王女という立場上、そう気軽に貴族たちの催しへ顔を出すわけにもいかない。リリー=ルートが王宮内に賜っている春の宮へ、信頼の置ける友人らを定期的に招くのには、社交界の最新の状況をつかむ目的があった。
「そうそう宮さま、バードック伯爵のご長男を覚えていらっしゃいます?」
「ええ、確かスクワッシュさんとおっしゃったわよね」
「ええ。あの方って根っからのコメディアンでいらっしゃるのですよ。詩合わせの宴で先日ご一緒したのですけれど、あれから毎日のように思い返しては笑っておりますわ」
「ペリーラさまったら! あの方は真剣でいらっしゃるのだから、笑ってはいけませんわよ、ふふ」
先ほどの不調法を流してもらえたことにリリー=ルートは胸を撫で下ろす。しかし不吉な予感がして部屋の扉付近に目をやり、あやうく動揺を露わにするところだった。失念するなど、自分は本当にどうかしている。今日の護衛騎士は彼なのだった。
客人を見送り室内へ戻ろうとしたリリー=ルートは、予想どおり呼び止められた。しかたがないので足を止め振り返る。
「今日はありがとう、ラディッシュ」
「務めを果たしたまでです。お許しさえ頂ければ一時たりと、お側を離れませんものを。いえ、それより」
当てこすったうえ、それに対する反論の余地も与えてくれない。常なら、宰相であらせられるビーンズ公のご子息にそのような、くらいは言い返す隙があるのに。これは厄介だ。
「このところ、お気が晴れないご様子ですが、何か懸念なさっていることがおありなのでは? 日に日に気鬱が強まっておいでなのを拝見するに、内に溜め込まれるばかりでは解決しない類のお悩みではないかと拝察致します。聞けば、気のおけない侍女にも相談されてはいないそうですね。お力になれるかはわかりませんが、話すだけでお心の平安が得られる場合も少なくありませんし、どうかこのラディッシュにお心のうちを明かしては頂けませんか。この命にかけて他言は致しません」
畳み掛けられ、彼がこの言葉をずっと溜め込んでいたことが窺い知れた。何しろこの数日間は徹底的に彼を避けた。問いただしたい事柄があったのなら、さぞ積もり積もっていたことだろう。しかし、議会に居合わせただけの彼に、この鬱屈を看破されていたとは思わなかった。この場合、未熟な己を恥じるべきか、次期公爵の目ざとさに恐れ入るべきか、リリー=ルートには判断しかねた。
「……あなたには隠せないわね。実は、王立の一般開放図書館で、蔵書の盗難が相次いでいるらしいの。わたくしに一任された事業だから自力でなんとかしたいけれど、民を疑うのは気持ちのいいことではないし、かといって野放しにもできないし、思い詰めていたみたい」
下手な言い逃れは通用するまい。リリー=ルートは事実を利用し隠れ蓑に仕立てる。目が合わぬよう不自然でない程度に下げた視界に、鍛えられた上半身がある。見るともなしにそれを見ながら自嘲ぎみに説明した。騎士の略装たる詰襟上着の左胸には、百合の意匠による徽章が鈍く光る。
納得したのか否か、ラディッシュは「なるほど」と呟いた。
「ときに、ご存知ですか。先だっての詩合わせの宴で、スクワッシュが何を吟じたのか」
思わぬ方向から質問が飛んできた。他愛のない話題で油断を誘う魂胆かもしれない。リリー=ルートは気を引き締めながら応える。
「先ほどの話の続き? あなた、聞いていたのね。バードック伯爵のご長男の詩の内容までは把握していないわ」
そもそも、特に詩の名手という話も聞かない。出席者がこぞって自作の詩を読み合い優劣を競ったというその宴で、最終勝利を収めたのは、主催者のタロ伯爵だったように記憶している。
「奴が敬愛してやまない崇高なるリリー=ルート王女殿下の比類なきお美しさとお優しさと聡明さを讃える、壮大かつ長大な意欲作だったそうです。なんでも、あまりに長いのでいつまで経っても読み終わらず、制止しようにも全員が笑い転げて収拾がつかなかったとか」
「まあ。なんなの、そのわたくしへの嫌がらせすれすれの一幕は。でも、ぜひ読んでみたいわ。近ごろ笑いに貪欲なの」
「では、日ごと奴に送りつけられる恋文に食傷気味でいらっしゃる、というわけでもないのですね。安心致しました」
そういう心配だったのか。面妖な美辞麗句を連ねた爆笑書簡が毎日届くのは事実だが、こっそり楽しみにしているらしい侍女の心の清涼剤以上の意味は見出だしていない。てっきり娯楽提供目的の贈り物だと信じていたので、お返しに秘蔵の『抱腹絶倒格言集』を第三集まで下賜したこともある。恋文とは知らず悪いことをしてしまった。きっと彼は崇高なるリリー=ルート王女殿下の素顔を見たことがないのだろう。そう考えるとさらに不憫だ。反省とともにリリー=ルートが気を抜いた瞬間だった。
「四日前、陛下からのお召しがあったそうですね」
不意打ちだった。ほんの一瞬だけ止まった呼吸にこの男が気づかないはずはない。まんまと罠にかかってしまった。
「ええ。わたくしが管理しているいくつかの王立施設に関して、ご報告申し上げたのよ。有意義な時間だったわ」
「それは喜ばしい限りです」
これでごまかせたなどとは微塵も思えない。彼の父であるビーンズ公爵は王を除けばこの国でもっとも実権を持つ宰相であり、彼自身も次期公爵として、あるいは高貴なる騎士として、独自の人脈を有している。その気になれば手に入らない情報はほとんどないだろう。彼がまずリリー=ルートに直接尋ねたのは、ひとえにラディッシュという人の誠実さによるものだ。
とまれ問題を解決するめども立っていない今は、分が悪すぎる。リリー=ルートは退却を選んだ。
「少しめまいがするの。申し訳ないけれど、そろそろ失礼しても構わないかしら」
こう言えばラディッシュが即座に追及の手を引っ込めるのを確信したうえで、実践する。案の定彼は血相を変えた。
「引き止めてしまい、申し訳ありません! すぐにお休みください」
潔く頭を下げたあと、侍女を呼ばわっている。
「お足元に不安はございませんか。もしよろしければ、私が抱き上げてお連れ致しますが」
よろしいわけがあるか。
「けっこうよ。あなたもお忙しいでしょう。お下がりくださいな」
明らかに逃げるための方便なのに、何を言い出すやら。この人、頭が切れるわりに、とんちんかんなところが玉に瑕よね。とリリー=ルートは思った。
裏のないまっすぐな言動に一喜一憂する己が疎ましい。
お心のうちを明かせだなんて。
あなたにだけは言えないのに。
春の宮を辞したラディッシュの足は、迷いなく王宮中央へ向かった。
「お忙しいところ失礼致します、ロータス=ルート殿下」
「お忙しいのがわかっているなら失礼するなよ。で、何ごとだ」
キューカンバー国の王太子は、執務室へやって来た友人の顔つきを見るなり人払いを命じた。
「四日前に届いたターニップ国からの書状の内容は、畏れ多くも宮さまに関するものだったのですか」
「いきなり核心をつくじゃないか」
かの王女殿下の神々しい美貌によぎる陰を見出だしたのが三日前の朝、彼女が国王陛下に呼び出されたと聞いたのが四日前の日暮れどき、隣国の使者との会談が行われたのが四日前の午前。疑わないほうがおかしい。
「一応、国家機密だぞ。まだ議会にも話を通していないというに」
「ですからこちらへ参りました」
「おまえ、宰相と俺とを天秤にかけて与しやすいほうを選んだな」
「いいえ、ゆめゆめそのようなことはございません」
お互い本音は、何を今さら、だ。
むろん国王国后両陛下は承知だろうが、さすがにすぐ目通りがかなう相手ではない。宰相も尋ねれば答えてくれようが、引き替えに雑事を押しつけられる予感がする。ラディッシュの選択肢は自ずから絞られた。
「まあ、来るだろうとは思っていた。少し遅いくらいだ」
これには黙秘を貫いた。本来、あくまでラディッシュは王女自身の口から聞きたかったのだ。さりげなく遠ざけられたこの数日間、彼の心は千々に乱れた。茶会の近衛任務を権力行使でねじこまなければ、今なおやきもきしていたことだろう。
「直接見たほうが早い」
手渡されたのは、くだんの書状の写しだった。
「拝見致します」
素早く書面に目を走らせた彼の眉根が不穏に寄せられた。
あろうことかそれは隣国ターニップ王弟からキューカンバー王女への縁談の申し入れだった。
強い不快感を抱くと同時に得心もした。こういう話であれば、かのお方の愁眉にも合点がゆく。
ここベジタリアン大陸の勢力図を二分する二大国、キューカンバー国とターニップ国とは有史以来宿敵の間柄だった。つい百年ほど前にも大陸全土を巻き込む大戦が一旦の終結を見たばかりだ。永らく続いた戦乱の時代は両者に相当の痛手を与えた。戦後百年ののちも未だ復興途上であり、傷痕が完全には癒えていない。両国がしばらく表面上の和平を取り繕うのは、ともに再戦の体力を取り戻していないがゆえだった。
そこにこの提案とは。胡乱な国の申し出だ、どれほど警戒しても警戒しすぎるということはなかろう。
だが一方で、悪い話でないのも確かだった。互いの動向を窺いつつ持ちつ持たれつの関係を保っている現在、ターニップとの結びつきを強化しておくことで得られる交易上の利は大きい。そして聡明な王女殿下がそこに思い至らないはずはないのだ。
「……宮さまは我が国になくてはならないお方です」
「その通り。だから、おそらくおまえの推測は誤っているぞ。早合点してターニップまでついて行くなどと言い出すなよ」
ラディッシュの思考は先回りされた。輿入れが避けられないのであれば、もとより自分の取るべき行動は定まっているのだった。
「縁談は断る。それは揺らがない方針だ」
ひとまずラディッシュは前のめりだった姿勢を正した。ことによっては、貴人誘拐の罪を被る覚悟を決めねばならないところだった。
「返答はこうだ。あいにく王女には将来を固く誓い合った仲の相手がすでにいる。添い遂げる覚悟で愛し合うふたりを引き裂くは忍びなく、またそのような愚かな娘は我々の親愛なる友ターニップの貴人に相応しくない。しかし貴国の信頼感に充ち満ちたこたびの提案はたいへんに光栄なことであり、キューカンバーは属国オニオンにおける商業通行権の共有をもってその友好に報いよう」
王太子の予想にたがわず、ラディッシュは愕然とした。
「初耳だろう。兄である俺もだ」
つまり、存在しない婚約者をでっちあげると言いたいのだろう。だが国家間で公式に発表する以上、口実では済まなくなる。
「それは、一体……」
「考えてもみろ。他国の王弟を袖にするんだ、滅多な相手では務まるまいよ」
息を飲む。だとすると、王女の、憂いの、原因は。
「陛下が引き合いに出したのは、ラディッシュ、おまえの名前だよ。次期ビーンズ公爵どの」
リリー=ルートは追い詰められていた。もはや一刻の猶予もない。正確には、二日の猶予しかない。
ターニップの使者の出立は明々後日早朝の予定だ。前日の夜、キューカンバーから正式な返答を行うと聞いた。
不可解だった。書状の内容ではなく国王らの決定にこそ納得がゆかない。上辺だけの融和とはいえ、隣国との関係改善政策は有益に働くと見てよい。即答が難しくとも、少なくとも回答を先送りにして検討する価値はあろう。にも関わらず、ありもしない婚約話を捏造してまで白紙化させようとしているのはなぜなのか。
人選にも難がある。軽んじられたと先方に感じさせることなく言い訳が立つ国内の独身貴族など、確かに彼をおいてほかにない。なんといっても大陸一の血統の古さを誇る名門中の名門一族だ。その歴史の長さはキューカンバー王家やターニップ王家にも匹敵する。しかし公爵家と王家のつながりが今以上に強まることを歓迎しない派閥は少なくない。宰相を歴任する公爵家は代々貴族院議会を束ね、ときに王家と対等に渡り合うことさえある。その公爵家が王家に取り込まれる可能性を、貴族たちが何より恐れるのは自明の成りゆきだ。あるいはそこに国王の狙いがあるのかもしれないが、貴族たちの反発は必至だろう。つまり問題は内政面にある。
陛下は何をお考えなのであろうか。
いずれにせよ、このままでは口実を事実にせねばならなくなる。リリー=ルートの最優先課題は、それを回避することだった。周囲の思惑がどうであれ彼女には彼女の筋がある。わがままに過ぎない自覚があるからこそ、八方が丸く収まる打開策を提示できなければおしまいだ。
今のところ思いつく手立てはひとつしかない。ひとつ、あるのだ。
リリー=ルートは腹を決めた。
ローテーブルに置かれた果物ナイフを手に取る。物心ついて以来伸ばし続けてきた蜂蜜色の髪をひとまとめにつかみ、銀色の刃物を喉元で構えた。ためらいを吐き出すように深く呼吸し、瞑目したそのときだった。
「お気を確かに、宮さま!」
背後から腕をつかみ上げられる。胴は自分のものではない腕に拘束されていた。心臓が飛び跳ねた。
扉の向こうから侍女の悲鳴が聞こえる。企てが失敗に終わったことを悟った。
「……ラディッシュ」
なんというタイミングだろう。そもそもなぜ、ここにいるのか。
「気は確かよ。暴れないから離して」
投げやりに言いながら振り返る。リリー=ルートは硬直した。未だかつて見たことのない鬼の形相がそこにあった。
「……それほどまでに、私をお厭いか」
激昂を押し殺した低音が恐ろしくて言葉が出ない。
「ならばなぜ! 私に死ねと一言おっしゃってくださらない! ご命令頂ければ喜んで、この命など即座に消滅せしめますものを……ご自身のお命の尊さをなんと心得ておいでか!」
何かとんでもない認識の齟齬があるようなのに気づいたが、唇の震えが止まらない。
「ちが、ごか」
違う、誤解だ。と言いたいのだった。当然ながら伝わらない。
「仕えるべき主君を失い一秒でも生き長らえた愚か者の烙印を私に押そうと? あなたの血に染まったナイフで私にこの左胸を突けと、そうおっしゃるのか!!」
リリー=ルートは、己以上に彼の遍身が震え続けているのを知った。百合の徽章の奥で衝撃の大きさを訴えかける鼓動を感じた。
自分はひどく獰猛な獣に、渾身の優しさで庇護されていたのか、と思った。
「さて、申し開きを聞こうか」
春の宮の椿事は即座に国家の最上層部へ伝わり、リリー=ルートとラディッシュは国王に召し出された。内謁用の小部屋には、国王のほかに宰相と王太子も同席している。
「余は、そなたが自刃を目論むほど愚かでないことを理解している。しかし聞く限り、疑われても致し方ない行動だったようだ」
リリー=ルートは努めて毅然とした態度を保ちながら、内心縮こまった。顔から火が出る思いだった。我に返ってみれば、明らかに計画性を欠いた衝動的な行為だった。短髪の貴女などありえない。前代未聞のゲテモノを輿入れさせるわけにもいかないだろうから、髪を切ってさえしまえばこっちのものだと急いてしまった。
隣に座する騎士から発せられる、今なお鎮まらない静かな激情が、彼女にさらなる緊迫を強いる。
「か、髪を断つ、つもりでおりました。尼になろうと」
「尼?」
「サラダ・デイズの乙女の祈りです」
真っ先に反応したのは宰相だった。
「それはまた……古い話を持ち出されましたな」
「はて、どこかで聞いたことがあるな。埃をかぶった伝説の類か」
「御意にございます、陛下。おそらく我が一族の所有する文献にのみ見られる記録でございましょう」
リリー=ルートはあとの説明を引き取った。
「建国当時の逸話であるようです。永の戦争に疲弊したキューカンバーを、王家の血を引く乙女の祈りによって癒そうと、時の王女がサラダ・デイズ塔に籠もり国の平らかなることを祈念し続け、やがて太平楽が訪れたという記録が残っています」
「体のいい人身御供だな、それは」
王太子は素朴な感想を述べた。
「祈りの呪文も載っていました。何やら不思議な響きの、古代語でしょうか、なんでも『ヤサイヨヤサイヨヤサイサン、オイシイサラダニナーアレ。イロトリドリノカンゼンチョウワ、ソノナモエイヨウマンテンサラダ! ドレッシングモカケチャウヨ』とか。かの王女は塔へ移る際、俗世との関わりを断ち切るために、断髪の儀式を行ったそうです」
国王は宰相のほうへ首を廻らせ、宰相は無言で首肯して王女の語った史実の正しさを保証した。
「そこまではわかった。して、そなたはその祈りの乙女とやらになろうとしているのか」
「御意にございます。近ごろは人の心をささくれ立たせるような事件が多いように思うのです。曲がりなりにも王家の一員として、何かわたくしにできることはないのか、かねてより模索しておりましたところ、かの事例を見つけました次第にございます」
「ほう?」
父と兄はやけにおもしろそうな表情を見せた。
「さらに、こういう事情であれば、ターニップからの申し出を理想的な形で穏便に退けることも可能ではないかと思料致します」
「なるほど」
国王は大仰に頷いた。
「どう思う? マッシュルーム」
突如名指しされた宰相マッシュルーム・ビーンズ公爵は面食らった様子で、遠慮がちに口をひらいた。
「宮さまは……陛下の決められた相手との婚姻にご不満を抱かれておいででしょうか?」
もっともな疑問であった。彼の息子の名誉に関わることでもある。
「不満などと、滅相もないことです。わたくしも王族のはしくれ。国のためならどこへなりと、どなたになりと、誠心誠意お仕え致しましょう。けれど、臣下の未来を踏みにじることは、避けられるものなら避けたいのです」
「臣下の未来、ですか?」
「ええ、そうです。宰相閣下は、ご子息の幸せを願っておいでではないのですか?」
心を込めて放った一言は、なぜか、室内の空気を妙なものにした。
「は? あ、いえ、失礼致しました。それはもちろん人の親として子の幸せを願わないはずはありませんが、そういう意味では、本件においてこの世の誰よりも大きな幸せを得ることになるのは、幸運にも、愚息にほかならないのではないかと……」
「だろうな」
「さよう」
大人三人の言い分に、リリー=ルートは苛立った。
「公にできない彼の秘密の恋人を、悲しませることになっても、ですか」
「秘密の恋人? この野暮天に?」
つい我慢ならず吹き出した宰相をにらみつける。
「人は忠義のみにて生くるにあらず。そうではありませんか?」
「待て妹。どうも話がおかしいようだ」
「ラディッシュよ。もしやおまえは、言葉が足りていないのではないか」
「……そのようですね」
ここに至って初めてラディッシュが言葉を発した。隣を見るのが怖いリリー=ルートは、彼の顔色を一切確認していないが、少なくとも上機嫌でないことはわかる。
「宮さま」
向き直られて、耳をふさごうかとまで考えた。
「あなたさまを唯一絶対の主君と思い定め、不惜身命の大任を果たすお許しを賜った日のことを、覚えておいででしょうか。私は一日たりと忘れたことなどございません。まさしく至上の瞬間でございました。あの日より、いいえ、そのはるか以前より、畏れ多くも我が心に住まうのは御身さまただひとり。分不相応な想いに焦がれる忠実なしもべを哀れと思し召さば、どうか。どうか、あなたさまの隣に並び立つ権利を有するこの世でもっとも幸福な男となる栄誉を、この身に頂戴したく存じます」
よくもぬけぬけと。
リリー=ルートは返事どころではなかった。怒りとも悔恨とも羞恥とも驚きとも怯懦ともつかぬ感情に襲われ、ただひたすらに絶句し、わなわなと身をふるわせている。
「どうもそなたらには腹を割った会話が必要なように思うぞ。まあよい、それはそれとして、決定は覆らないのでそのつもりでいるように」
「陛下!」
「ああそうだ、気にしているかもしれぬから、教えておこう。そなたを降嫁させるつもりはない」
「……今、なんと」
リリー=ルートは不敬にも聞き返した。
「結婚後もリリー=ルートは王族のままだ。公爵家に取り込まれることはないし、逆に公爵家を王室が取り込むこともない。どちらも独立した地位のまま、夫婦関係を築いていくわけだな」
リリー=ルートの思考は目まぐるしく回転した。王家と公爵家の癒着を否定するための、その場しのぎの措置だろうか。しかしそれならむしろ、この身から王族としての権利を根こそぎ剥奪したうえで公爵家に封じておけばよいだけの話だ。特例を作る必要などない。
「リリー=ルート。そなたが王女として、国家の顔として存在することの意味は大きい。民衆からの知名度と人気は目を見張るものがあり、次期公爵夫人とただ呼ばせるのは惜しい」
「国王陛下の懐刀、と密かに呼ばれているのを知らないだろう。俺はね、代替わりしてもおまえのその立ち位置を変えるつもりは毛頭ないのだよ、リリー」
「百合の徽章の件もある」
衝撃発言の連続でほとんど茫然自失だったリリー=ルートだが、その語には鋭く意識を向けた。
「ラディッシュ・ビーンズ。三年前、そなたは騎士叙任式を終えるが早いかリリー=ルートへの忠誠を誓ったそうだな」
「御意にございます」
「いやしくもビーンズ公爵家の次期当主と主従の誓いを交わしたリリー=ルートが、王族でなくなるというのは、いささか面目が立たぬと思わぬか」
「仰せのとおりかと。畏れながら、たとえ民草に身をやつそうとも宮さまの気高さ、高潔さに寸毫の曇りも生じ得ませんが、偉大なる両陛下の血を引く王族としてのお立場こそ、もっとも相応しいはずでございましょう」
「ふむ」
国王は満足げに破顔した。
「娘を任せよう。その百合に」
「光栄に存じます。生涯、この胸の百合の誓いを貫く所存にございます」
「百合の誓い?」
リリー=ルートはつい零した。小声であったが、宰相の耳には届いたらしい。
「ラディッシュ。我が一族の百合の誓いについて、よもやご説明申し上げていないなどとは言わせぬぞ」
「いえ、そのような、こと……は」
信念に生きる青年の声に初めて揺らぎが混じった。
「私から申し上げましょう。ビーンズ一族に伝わる慣習のひとつなのでございます。一族の者が主君と定めたただひとりのお方に生涯の忠誠を誓った場合、その証立てとして、このように左胸へ百合を飾るというものです」
リリー=ルートはすでに微動だにできない。浴びせかけられる言葉を受け止めるので精一杯だった。はしたないことだが、開いた口がふさがらない。
「とはいえ、国政に関わる発言権を与えたままにしておくのは都合が悪かろう、リリー=ルート。ビーンズ公爵家はいつの時代も、貴族の代表であると同時に、王権の抑止力であるべきだ。そこでそなたには王族として、一代限りの第三の権力を与えようと思う。政治への干渉権を持たない代わりに、福祉に関する事業全般を管理運用できる権限を許す。もともと王立施設を一任していたのだ、実に自然な流れだろう。さらに」
国王は会心の笑みを見せつけた。
「そなたがそれほどまでに風紀紊乱の是正へ心を砕いていたとは知らなんだ。その心意気やよし。かの祈りの乙女にあやかって、今後サラダ・デイズの乙女を名乗ることを許可しようではないか」
回廊を足早に進むリリー=ルートに半歩遅れてあとを追うラディッシュの心中は、気が気でない。主君の強張った両肩が、痛いくらいの緊張感を醸し出している。
と、リリー=ルートが突然立ち止まった。そして側柱の下に蹲るという奇行に走った。平時にはありえない姿に彼女の騎士は仰天した。
「宮さま!?」
殿中ですぞ。
「……穴があったら入りたい。むしろ掘ってでも埋まりたい。一年くらい埋まっていたい」
「なんということを。あなたさまが一年も姿を見せなくなれば世界の終わりです。真っ先に私が終わります。太陽の消失も同然です。どうか落ち着かれますよう」
ラディッシュは衷心から本気で告げたが、落ち着くどころかリリー=ルートは柱に頭を打ちつけた。すわ、乱心か。
「宮さま、お耳が真っ赤ではありませんか。もしや熱病では」
「……知らなかったのよ」
「はい?」
「知らなかったの! その百合の持つ真の意味なんて初耳もいいところよ!」
「と、おっしゃいますと、まさか私の忠誠をお疑いでしたか」
「そうではないの、そうではないけれど。ああ、己の愚かしさに向き合う覚悟がまだつかない」
「ありもしないものに宮さまが向き合う必要などございません。それよりは、こちらを向いて頂けませんか。どうかご尊顔を拝する名誉を賜りますよう」
「……少しだけ、待って」
「御意」
やがてそれなりの平静を取り戻したリリー=ルートは、まだ少し赤い顔で俯きがちに、彼女への生涯の忠誠を誓う騎士へ向き直った。
「見苦しいところをお見せしたわ。ごめんなさい」
「いついかなるときも宮さまは目映いばかりです」
「しばらく黙ってくれる? わたくしの審美眼と羞恥心は人並みなの」
彼は素直に口をつぐんだ。
「……いつからか貴族たちの間で流行している習慣があるの。今思えば、公爵家にあやかりたい者が始めたことなのでしょうね。左胸を、百合をかたどったブローチで飾るのよ。あなたのそれのように」
ふう。可憐な唇からため息がもれた。見とれたラディッシュは色の異なるため息をそのあとに続けそうになった。
「恋人がいます、という自己主張代わりなのですって。下世話な言い方をすると、それは、売約済みの印だそうよ」
ぴくりとラディッシュの眉が動いた。口を開く許可を求める視線を送られた彼女だが、それを受け止めないことで要求を却下した。
「わたくしはてっきり、あなたのそれも、同じ意味なのだと思い込んでいた。だから、陛下の一方的な提案を、受け入れるわけにはいかないと。だって、あなたの立場では、断れやしないでしょうから」
「私の心中を慮ってくださったのですか」
つい問いかけたラディッシュを眼差しで咎め、ついで諦めたように彼女はその両目をはっきり彼のそれに合わせた。
「違うわ。自分のためよ。好きな人を忠義で縛って、妻となりながら一生報われない片思いを続けるなんて、耐えられそうになかったから」
彼は耳を疑った。何か今、都合のよすぎる幻聴が聞こえた。しかし愛しい人のこの甘い熱を含んだ様子はどうだろう。幻聴ではないような気がする。
ならば夢かもしれない。むしろ間違いない。だとすれば、夢でも構わないから、降ってわいた幸福にひたらないでどうする。
ラディッシュはもう言葉を発さなかった。その代わり、彼女の背に腕を回した。抱き寄せることは禁止されなかったはずだから。
夢の姫君は逆らわなかった。それどころか身を任せるように、彼の胸に引き寄せられてくれる。
布越しにもわかる柔らかな肌に触れる畏れ多さを両腕の丁重さへ転化させながら、ラディッシュは幸福を現実のものにしたのだった。
使者は会談の内容を記した文書と返信にあたる書状を携え、意気揚々と帰国の途についた。当初の目的は果たせなかったが、それを上回る利権を約束されたのだ、さぞ鼻が高かろう。
王女リリー=ルートと公爵家の長男ラディッシュ・ビーンズの婚約は、その日のうちに正式発表された。市井に出回っている噂では、意に染まぬ結婚を打診された王女が世を儚んで自害を図りそうになり、心を打たれた国王がかねてより恋仲であった騎士との結婚を認めた、というものに人気が集まっているそうだ。
これを伝え聞いた王女は、間抜けすぎる筋書きに気が遠くなった。事実はさらに間抜けなので、何も言えなかった。騎士はひたすらこの世の春を謳歌している。
「宮さま。もしよろしければ、今宵は図書館にて私と寝ずの番などいかがでしょう」
「なんの番かしら。盗難事件のことなら、絶版本に目が眩んだ熱狂的な蒐集家が、出来心を反省して出頭したと聞いたけれど」
「さようでしたか。しかしながら、便乗犯が現れないとも限りませんから」
「警備隊の職務を奪うべきではないわ。これがデートの誘いなら、お受けしたいのだけれど、残念ね」
騎士の瞳に喜色が閃いた。
――サラダボウルはなべてこともなし。