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幸福
作:高橋熱


 今、俺はこうして煙草をふかしている。むき出しの手の甲が乾燥した真冬の風に晒されて痺れるように痛む。国道のバイパス沿いに先月オープンしたばかりの「ベビーマムマム」の駐車場。道路の片側車線を数十メートル塞ぐほどの渋滞を経て、ようやく車外に出ることができた。ディズニーランドにある某アトラクションのような外観をした店舗の入り口で往来する人々をぼんやり眺めながら、俺は肩身狭めて携帯用灰皿に灰を落とす。

 アップリカの最新型ベビーカーを押しながら全身ブランド品で身を固めている茶髪の女性。おんぶ紐と抱っこ紐、加えて両手に幼児を従える子沢山の母親。風船のように膨らんだ妻の腹をいたわる優しい夫。いかにも孫へのプレゼントを捜しに来たという感じの品のいい老夫婦。「ベビーマムマム」での買い物が週末のささやかな娯楽であるかのように皆一様に幸せそうに見える。

 それに比べて、俺の仏頂面はどうだ。鏡がなくても、今の自分がどれだけ酷い顔をしているか分かる。店のオープン以来、週末は必ずここにいる。安くて、品数豊富な大型ベビー用品店の進出は、買物好きの佳苗にとっては願ってもないことだ。車の免許を持っていない佳苗にとって俺を頼らざるを得ないのは仕方がないとはいえ、土日の休みのうちいずれか一日はここでの買い物で潰れてしまう。

 子供が産まれてからというもの、熟睡できたためしがない。赤ん坊は昼も夜もお構いなしに腹が減っては泣き、眠くなっては泣き、おしめが濡れては泣く。標準より小さめな体に似合わず、泣き声だけは人一倍大きい。いまだに理解できないのは「眠くて泣く」という習性だ。いちいち泣かないで眠ってしまえばいいじゃないか、と腹立たしささえ覚える。夜中も三時間おきに泣いている。理由の大半は母乳だ。赤ん坊が泣いても、俺は寝たふりをしている。頭から布団を被り、赤ん坊の腹が満たされて再び眠りに落ちるまで、俺はひたすら耐え忍ぶ。
 長く伸びた灰がアプローチのタイルに落ちる。死んだ蚕のような灰を見つめていると今の自分の姿にどことなく重なり合う。芯がない。潤いがない。英気も覇気もない。仕事はそれほど忙しい訳ではないのに身も心もくたくたである。
結婚して子供もできて、定職があって車もあって、こうして週末に家族で「ベビーマムマム」に買い物できるのだから十分幸せじゃないか、と思う人もいるかもしれない。
 口うるさくて神経質だが、そこそこ器量のよい女房がいる。子供も苦労なく授かることができた。お金のかかる不妊治療を何年も続けている友人の話を聞いていると、子供を授かるというは当たり前のことではなく奇跡的な人体の神秘なんだと言う。その奇跡が、結婚直後の我が家にはいとも簡単に起きたというわけだ。
 今の会社は、チラシ撒きを手伝っていたアルバイト先が、俺を社員として雇いたい、というので何も考えずに入ってしまったようなところだ。お陰で、俺は「免疫力がアップする魔法の力水」の年間購入契約を親戚中にお願いしなければならないはめになった。とはいえ、給料は少ないながらも毎月決まって銀行口座に振り込まれているし定時には家路につける。
 大したお金もないので、マイカーは軽自動車である。軽でも親子三人で乗る分には何ら不自由はない。隣町の「ベビーマムマム」まで、電車を乗り継ぎ、バスを乗り継いで自宅から一時間はかかるところを、軽なら十五分も走らせれば到着する。遠乗りを考えなければ軽で十分事足りる、と一応のやせ我慢も言ってみる。

 幸福。

 そう、俺は「俺より不幸だ」と思っている人から見れば十分過ぎる程幸福なのかもしれない。結婚したくてもできない人、子供が欲しくてもできない人、仕事に就きたくてもつけない人、車を持ちたくても持てない人。
しかし、俺は自分の生活を「幸福」だと感じたことは一度だってない。心の底から実感することがどうしてもできない。佳苗はどう思っているのかは知らないが。
 少なくとも、今よりずっと若かりし頃イメージしていた三十代の未来予想図は、胡散臭い健康食品を売り込み、育児と家事に奔走し、稼ぎの少なさに目くじらを立てられ、面倒見のいいパパのふりをしながら毎週「ベビーマムマム」の休憩室で赤ん坊のおしめ替えをしている、なんてものではなかったはずだ。

 俺の未来予想図。

 それはギタリストとしてデビューすること。憧れのエリック・クラプトンのように。あるいは、ネットベンチャーを立ち上げて東証一部上場を果たすこと。三十代前半で年収一千万円を超え、妻はテレビ局のアナウンサー、自宅は世田谷の一軒家、車はベンツ、自分の服も子供の服も外国の高級ブランドで固め、週末は都内の有名和牛専門店でジューシーなステーキに舌鼓を打っている、そんな生活。
 しかし、現実はどうだ。ギターは夏用のござと一緒にクローゼットの中。パソコンもいまだにペンチアム3のISDN回線。年収税込み三百万、妻はイケメン友達のナンパのおこぼれ、車は十年落ちのミラパルコ、自分の服も子供の服もベトナム産の激安品、最大限の贅沢はイトーヨーカドーの月一の売り出し「オージー産サイコロステーキ」。
自分でも嫌気がさすくらい、堂々巡りの後悔と絵空事の妄想ばかり。妄想してみたところでどうにかなるものではないと分かっているのに。
 ジーパンの後ろポケットに差し込んだ携帯が暴れ出す。大方、予想はついている。佳苗からだ。

送信者: 佳苗
件名: Re:
本文: 何してるの? コウのおむつ替えて欲しいんだけど

 お約束の送信者、お約束のメッセージ。やれやれ。俺はフィルターぎりぎりまで煙草を吸い尽くしてから、しぶしぶ覚悟を決める。

 「赤ちゃん休憩室」は多くの母親たちで賑わっている。さっと見渡したところ佳苗の姿はない。交換用のおしめとお尻ふきをベビーベッドに残したまま売り場へ戻っていったようだ。
 全くせっかちな母親だ。俺がくるまで待っていてくれてもいいだろうに。物騒な世の中、子供が連れ去られたらどうするというのだ。もっとも、我が家に身代金を要求されたところで、三か月分のおむつ代程度しか出せないわけだが。
 ロンパースのボタンをはずし、お尻ふきでさっと湿った部分を拭いてから、腰を浮かせて新しいおしめを挟み込んでテープで止め、再びロンパースのボタンをぱちぱちと留めていく。
 あまりの手際のよさに、隣のベッドで子供をあやしていた女性が俺のことを目を丸くして見ている。あるいは、あまりに乱暴な赤ん坊の扱い方に肝を潰しているだけなのかもしれない。いずれにせよ、俺にとってはどうでもいいことだ。
 
  こうして改めて我が子の顔を見るたび、一体どちらに似ているのだろう、と思う。本当に我が子なのか、と思うくらい、どちらにも似ていない。もう少し大きくなれば特徴が出てくるのかもしれないが、顔の中のどの部品を取り上げてみても二人に共通点はない。裏を返せば、我々二人に特徴がないだけのことなのかもしれないが。
 ぐずり始めたので俺は子供を抱き上げ、使用済みのおむつをゴミ箱に放り込み休憩室を後にする。おしめを取り替えても泣き止まないということは腹が減っているのだ。そういえば、大しておしめも濡れてはいなかったし。

 俺は必要以上にだだっ広い売り場の中を必要最低限に首を伸ばしながら佳苗を捜す。ここにいる母親はどの母親もそれなりにバイタリティがあるように見えるが、男性諸氏にはいまいち生彩がない。生彩というより男らしさというべきか。四十路はとうに越えていると思われる白髪混じりのいい男が、抱っこ紐の赤ん坊を必死な形相であやしている姿を見ると、一抹の物悲しさすら感じる。「ねえ、ちょっとおむつ安くなってるか見てきてくれる?」と言われて「うん、分かったぁ、4000円を切ってたら安いよねぇ?」なんて答えている姿においておや、だ。日本男児はどこにいってしまったのだろう。「父権」や「亭主関白」は死語なりや?

 皆、父親を演じさせられているだけなのだ。文句を言わないことをいいことに会社にこき使われ、文句を言わないことをいいことに家でもこき使われ。文句がないわけではない。言えないのだ。文句なんて言おうものなら、倍返しどころか数十倍にもなって跳ね返る。ただでさえ神経を消耗しているのに、またそんなことできりきりさせられたのでは本当に参ってしまう。
 かくして、育児も家事もそつなくこなす家政婦のような家政夫となって、毒気を抜かれ角を取られ、こじんまり平準化された平べったい男にさせられていく。
 染みだらけのフリースを着ながら、赤ん坊のよだれを胸にこびりつけて、最近韓国男優にぞっこんな我が愛しき妻を、うろうろきょろきょろ探し回る哀れな男の姿。そんな男に身の半分を埋めつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしですか。
 さりとて、平準化からの脱却を目指して、俺は何の努力をしているというのだ。血豆を潰すほどギターを掻き鳴らしているわけでもない。寝る間も惜しんでネットビジネスの研究をしているわけでもない。
 俺が自分のためにしている唯一の事といえば、好きな女子アナを思い浮かべてこっそり佳苗に隠れてトイレでマスターベーションをすることくらいだ。マスターベーションをした後は、お決まりの後味悪い自己嫌悪。こんなことでは箸にも棒にもかからない。世の大半の父親と同じように、俺もこじんまりした平準化男として生きていくより仕方がないのだろうか。
 と、堂々巡りの妄想の途中で、どん、と誰かにぶつかった気がして、とっさに「すいません」と答えると、相手は佳苗だった。
 「ちょっと、どこ見て歩いてんのよ。それよりトイレ行きたいから、これレジ通しておいて」
 「うん、分かったぁ。ポイントは使う? それとも溜めておくぅ?」

 その晩、佳苗が夕食の支度をしている間、代わりに子供を寝かしつけていた。一緒に横になっていると往々にして自分も眠たくなってしまうものだが、案の定、肘枕をしたままこくりこくりとやっていた。このまま子供と一緒に眠りにつけたらどれほど気持ちいいだろう、と何度も誘惑にかられたが、それを逐一察するかのように、がちゃん、とフライパンをレンジに落とす音ではっと目覚めさせられる。
 俺はともかくせっかく寝付いた赤ん坊まで、と思うが、赤ん坊というのは大人と違って一度眠りについてしまうと、ちょっとやそっとの物音じゃ目覚めないようである。
 何度目かの衝撃で、さすがの俺も今度は完全に目が覚める。赤ん坊は大の字になって首を横に向けたまま、気持ちよさそうに眠っている。俺はまじまじと彼の顔を見る。どの角度から見ても、相変わらず自分とわが子の共通点は皆無に等しい、と思う。

 ん?
 ふと感じた違和感について考える。いつものコウと、何かが違う。匂い? いや、そんな漠然としたものではない。
 黒子?

 この口の端にある小さな黒子。こんなところに黒子なんていつできたのだろう。たまたま今まで気付かなかっただけなのか。子供の口にこれほどはっきりした黒子が現れているのに気がつかない、なんてことがありうるだろうか。いくら子供に無頓着な俺だとしても。
 このまま布団を抜け出して料理に夢中な佳苗に確認してもよかったのだが、ただ俺が気付いていなかっただけだとすれば、またいつものように墓穴を掘ってしまう。
 「何をいまさら言っているの? 生まれた時からあるじゃない。女の子が生まれてこなかったからってがっかりしてるんでしょ? 所詮、あなたはコウに興味ないのよ。興味ないから見ようともしないのよ。コウだけじゃない。私に関してもね!」
 俺は身を起こす代わりに、ぐっと堪えて口に溜まった生唾をごくんと飲み込む。
 黒子だけではなく、気になるところはまだある。髪の毛。湿っているせいかもしれないが今日は随分とウェーブが激しい。コウに癖毛はなかったはずだ。それに何となく毛の量も多い気がする。
 もみあげの毛をそっとつまんでぎりぎりまで伸ばしてからぱっと指を離す。形状記憶合金のように、髪の毛はくるんと渦を巻きながら元の場所に納まっていく。ここにきて髪質も変わったというのか。
 「何をいまさら言っているの? そんなの生まれつきじゃない」
 佳苗はそれほど驚いた感じでもなく、箸を口に運びながら言う。「それより、このポテトサラダ食べてみて。評判のお店なのよ」
 予想通りの反応だったが、佳苗はそれ以上追及することなく、むしろいつも以上に穏やかそうな表情をしているのを見て俺は内心ほっとする。
 ポテトサラダの感想もそこそこに、機嫌のいいことを幸いに髪の毛の話も持ち出してみる。「私って昔はとても癖毛だったらしいのよ。今も少し残ってるけど。遺伝しちゃったのかな」
 佳苗が癖毛だったなんて話は、初めて聞いた。
 「最近、髪の毛増えた感じしない?」
 「成長する時期なのよ。大人の一年とは違って、子供の一年はその子の人生全てなんだから」と言って、特別意に介さない。今の佳苗にとっては、赤ん坊の変化より新しくチャレンジした惣菜の方が一番の関心事であるようだ。
 「いや、間違って違う子供を連れてきちゃったのかなと思ってね」
 冗談で言ったつもりだったが、「間違って」という言葉が後から妙なリアリティをもって頭の中を巡り始める。そういえば、隣のベビーベッドにも月齢の同じくらいの赤ん坊が横になっていたような気がする。あの時間、あの場所にいるということは、あの店で子供の服を買っている確率は高いわけだし、もし似たような顔をして、似たような服を着ていたら。
 「馬鹿ねえ。我が子を間違える親がいるわけないでしょう。相手さんもいることなのよ?」
 呆れたように佳苗は味噌汁をすする。そう言われてみれば確かにその通りだ。子供に対してそれほど執着を持っていない俺の感覚なんて、今の姿かたちになるずっと以前からコウと一緒にいる佳苗からしてみれば、あてにならないというよりそもそも彼女の眼中にない。
 「ねえ、そんなことよりポテトサラダはどうなの?」
 俺のつまらない妄想にはこれ以上付き合ってられないというように、佳苗は話題を引き戻す。
 「歯ごたえのいいレタスが一つのアクセントになっているね。甘味も酸味もちょうど好みに合うよ。惜しむらくは、グリーンピースが多過ぎるかな。こういうものは『ちょっと使い』がいい。でも、これまで食べた市販のポテトサラダの中ではじゃがいもの質はいいと思う。もちろん、佳苗の手作りにはかなわないけど」
 「あら、珍しく嬉しいこと言ってくれるじゃない。そうね、グリーンピースは私もそう思う。買う時はあまり気にしなかったけれど」
 俺の感想を聞いて、少し佳苗の機嫌は収まったようだ。我ながら模範解答だと思う。良い点、悪い点をバランスよく具体的に指摘しているし、最終的には妻を褒める、という礼儀も忘れていない。きちんと話を聞き、優しい言葉をかけてあげさえすれば、世の中の九割の夫婦喧嘩はなくなり離婚率も半減するだろう。実際、本当にそう思っているのかどうかなんてどうでもいい。グリーンピースが入っていようがいまいが、ポテトサラダなんてどこで食べたって大して変わりやしない。自由主義経済の競争原理の根幹は、模倣と平準化からスタートするのだ。
 やれやれ。

 佳苗にあっさりすかされたとはいえ、何となく気になったので、翌日仕事場からベビーマムマムへ電話を入れてみた。 
 「昨日そちらで買い物をした者ですが、『帰ってきたら、自分の子供じゃなかった』なんて連絡、入ってません?」
 「はい? ええと、申し訳ございませんが、もう一度伺ってよろしいですか?」
 突然そんなこと言われても学生アルバイトじゃ理解できないのは当然だ、俺はもう一度、今度は丁寧に昨日の状況を説明してみた。
 「いや、そういう連絡は特にいただいてはいないようなのですが」
 「そう、それならいいんだ。いや、別に何でもないからね。ではまた、きっと来週伺います。ありがとう」
 事が大きくなるのも嫌だったので、俺はそこで話を打ち切り、静かに受話器を置いた。
佳苗の言う通り、そんなことあるわけないじゃないか。俺はすっぱり気持ちを切り替え、それ以上コウについて妄想するのを止めた。

          *


 振り返れば、あれが一つのターニングポイントだったような気がする。それまでのうんざりするだけの毎日が、まるで夢のように輝き始めたのは。

 それは、こんな一本の電話から始まった。

 「お前、まだギターは弾いてるの?」
 大学時代、同じ軽音楽部でバンドを組んでいたリーダー格の友人だった。近々、都内でライブをすることになっていたのだが、ギタリストが交通事故で入院してしまった。チケットは完売しているし、出演料の一部も受け取っているのでキャンセルできない。心当たりのある人間に連絡をしてみたものの梨の礫。ということで、俺が最後の頼みの綱らしい。
 彼とは大学を卒業して間もなく、友達の結婚式の二次会で「矢沢栄吉」を演奏して以来会っていない。もう十年以上も前の話だ。ライブハウスで出演料をもらって演奏しているなんて、なかなか頑張っているじゃないか。
 「たまに弾いてるよ。昔ほど指は動かなくなったけどねえ」
 その返事は自分でも予想外なものだった。たまに弾いている? 馬鹿言っちゃいけない。あの矢沢栄吉ライブ以来、ギターもアンプもずっと押し入れの中だ。
 「ライブは来月なんだ。すぐに楽譜と曲を送るからさ。二、三回スタジオに来てもらうようになると思うけれど。やってもらえる?」
 「ところで、どんな曲やってるの?」
 勢いとは恐ろしい。俺はもうすっかりステージに上がっている気分でいた。
 「一言で説明しろと言われると難しい。とにかく聞いてくれれば分かるよ」
 二日後、早速彼から楽譜と楽曲の入ったCDが送られてきた。すぐに聴いてみたものの、これは何と表現していいのか、ミスチルとポルノグラフィティとスガシカオを足して中島みゆきで割ったような曲だった。メロディアスでドライブ感もありながら、全体的にアンニュイさが満ち満ちている、言葉にするとそんな音楽だった。
 少なくともエリック・クラプトンとは程遠いが、引き受けてしまった以上やるしかない。技術的に難しそうなところはなさそうだし。
 クローゼットから埃の積もったギターケースを悪戦苦闘しながら引っ張り出す。弦は少し錆びてはいたが何とか音を出すことはできそうだ。試しに名曲「愛しのレイラ」のイントロ部分を弾いてみる。昔取った杵柄、こうして十年ぶりにギターに触れても体が覚えている。フィンガリングもピッキングも思った以上にスムーズに動くことに我ながら驚いた。全盛期よりも綺麗に音が出ている気がする。
 側で黙って眺めていた佳苗は、思ってもいなかった俺の才能に目を丸くしている。そういえば、佳苗にギターを弾くところなんて見せたことはなかった。
 「こんなに上手にギター弾けたんだ。どうして今まで黙ってたの?」
 「黙ってたわけじゃないけれど、こんなもの、雑音になるだけだと」
 「もっと何か弾いてみて」
 居間の赤ん坊そっちのけで、珍しく佳苗が食いついてくる。
 「サンシャイン・オブ・ラブは?」
 「え? そんな古い曲、よく知ってるね」
 「私、ロックは大好きよ」
 「それ、初めて聞いた」
 結婚してこの方、俺たちは一体何を話してきたのだろう。佳苗の音楽の趣向も知らなかったなんて。いや、佳苗には以前「ロックなんてただうるさいだけで大嫌い」と言われた気がしたのだが。
 しかし、佳苗の顔は真剣だ。知ったかぶりをしている風でもない。俺は半信半疑ながら、例の有名なフレーズを弾き始めると、佳苗はにやにやしながら、俺の顔を感心したように眺めた。
 「あなたもやればできるんだ。素敵じゃない」

 素敵!

 今まで言われたことのない褒め言葉をいきなり言われると、全身に悪寒が走る。今日の佳苗はどこか気持ち悪い。下心でもあるのだろうか。しかしこれで多少は俺のことを見直したことだろう。ただ外から給料を持ってくるだけの家事手伝いではないってことを。
 気がつくと、俺はストラップを肩にかけ、立って弾いていた。気分はすっかりエリックだ。それにしても、自分でも信じられないくらい指がよく動く。まだまだプロを目指せるかな、と錯覚してしまうくらいに。
 佳苗も俺の奏でるメロディラインに合わせて頭を上下に動かしリズムを刻んだ。コウの泣き声が聞こえたような気がしたが、佳苗は曲に夢中で全く関心を示さない。
結婚以来初めて、俺は佳苗のことを、ちょっとだけ可愛い奴だな、と思った。


          *

 さらに、もう一つの出来事。

 佳苗には内緒で応募していた、とある自治体主催の「ビジネスアイデアコンテスト」でグランプリをとった、という連絡があった。これにはさすがの俺も驚いた。グランプリには賞金百万円が与えられるからだ。百万円なんてお金を一度に手にすることなんて、宝くじで三千円以上当たったことがない俺にとっては、もちろん初めての経験である。
 まず真っ先に思ったことは、これで伊勢丹や高島屋で「ベビーマムマム」の商品より数ランク上のベビー服が買える、ということだった。百万円を手にしてまでベビー服を連想してしまう俺も、相当佳苗に洗脳されている。
 ビジネスプランと言っても、本当にただのプランだけである。便利屋とお年寄りをサイト上でマッチングさせるというアイデアを少し整理して文章化しただけなのだ。今の時代マッチングサイトなんて星の数ほどあるので、それを高齢者向けに見やすくて使いやすいデザインにしたことと、いざという時の「お助けボタン」(近所の便利屋やボランティアにメールが飛ぶといういたって初歩的な仕組み)が審査員の評価を集めた、ということだった。
 「あなた、すごいじゃない!」
 それだけの大金をもらっておいて黙っているわけにもいかなかった。もし後でばれたら、間違いなく俺は彼女に刺されるだろう。
 「ベビーカーのいいものが欲しいって言ってたよね? それにたまには実家の両親も呼んでどこかうまいものでも食べにいく?」
 佳苗に話した以上、俺の金であって俺の金ではない。
 「何言ってるのよ。それはあなたが優勝したお金じゃない。好きなように使って」
 俺は耳を疑った。この前のギターのリアクションといい、最近の佳苗はまるで天使に見える。
そう思って改めて佳苗の顔を見ると、最近どことなく綺麗である。頬がすっきりしたせいなのか。化粧も前ほど濃くない。こうしてみると、佳苗もなかなか捨てたもんじゃない。
 「どうしたの? そんなにじろじろ見ないでよ」と佳苗は照れながら言う。
 「最近、綺麗になったね」
 こんな言葉が自然と口から出てきてしまうくらいだ。
 「それじゃ、今までが綺麗じゃなかったみたいじゃん」
 「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
 「これからが本当の人生じゃない、私たち。もっと楽しまなくちゃ。今度の土曜日はバンド練習でしょ? ベビーマムマム行きたかったけれど、どうしてもってわけじゃないから」
 と、これも気持ち悪いくらい優しい。どちらが本当の佳苗なのだろう。
いずれにしても今の佳苗がとても居心地のいいものであることは確かだった。次第に、佳苗から怒鳴られたり、文句を言われたり、絵文字も顔文字もないショートメールをもらうことはなくなっていった。

 それからの一年は、これまでの人生で経験したことのないとても中身の濃い一年だった。これほど一年が、いや一日一日が短く感じられた年はなかった。
 ライブは成功した。俺は彼から与えられた楽曲を忠実に、あまり目立たぬように隅っこで弾いた。ライブハウスで演奏するのは初めてだったが、ステージから観客一人一人の反応を見ることができるほど余裕があった。超満員の観客はとても盛り上がっていた。他のバンドも出演していたが、まるで俺たちだけを見に来ているかのような歓迎と歓声だった。
 そして、ライブを聞いていた大手レーベルのスカウトマンに声をかけられ、とんとん拍子に話が進み、ライブから半年後には、レコード店にCDが並べられた。
事があまりにも粛々と進められていくので、デビューした喜びというものがいまいちなかったが(楽曲が個人的にあまり好みの音楽ではない、というせいもあったが)、自分たちの曲が売れているということは、毎月振り込まれる印税がみるみる増えていくことで理解できた。ティーンエイジャーの心をたちまち掴んだ俺たちに「ミュージックステーション」の制作担当者から連絡が入るにはそれほど時間がかからなかった。

 そして、ビジネスの方も鳥肌が立つくらい順調だった。俺のビジネスアイデアに目をつけた投資会社から驚くほどの資金提供をしてもらえることになった。その資金を元に渋谷にオフィスを構え、社員も雇えるようになった。イメージ通りに作り上げることができたマッチングサイトは急激にアクセス数を伸ばし、登録者もうなぎのぼりに増えていった。

 一旦回り始めれば、あとはコンテンツの充実と課金システムのアイデアを考えていればいい。資金繰りに困ることはない。そんなに必要ない、と思っていても、メガバンクやら証券会社やら個人投資家やらがどんどん金を提供してくる。このままいくと、上場することも満更不可能なことではない。
 念願のベンツにもSLクラスに乗ることができるようなり、来月には世田谷に八十坪の家が建つ予定だ。

 と、あまりにも劇的な生活環境の変化に少々戸惑いを感じつつも、俺を黙殺し続けてきた世間からの開放感と、俺を馬鹿にしてきた者たちへの優越感を存分に味わっていた。正に手で触れることができそうなほどリアルな「幸福」に満ち溢れていた。
 子供もそろそろ一歳、最近では小さなテーブルのへりを伝ってつかまり立ちさえする。あの頭を突き刺すような真夜中の泣き声は一体何だったのだろうと思うくらい、今では大人と同じリズムで十時間近くも眠る。おしめ替えの回数も以前よりぐっと減った。我慢することを覚えているのだろう。
 運動量が増えてくると、顔や体の脂肪はそぎ落とされ、全体的にスマートな印象になる。いまだに「どっちに似ているか」と聞かれれば「どっちにも似ていない」と答えざるをえない。いや、親馬鹿かもしれないが、トンビが鷹を産んだ、と思うくらい、まるでハーフのように、目がくりくりとした愛くるしい顔立ちに変化している。その辺のCMで見る子役よりずっと可愛いとさえ思う。それには佳苗も同意見だ。

 モデル事務所の資料を取り寄せるように、と佳苗には言ってある。写真を送れば、即仕事の話が舞い込んでくるのは間違いない。最初は定番の「おしめ」がいいだろう。メジャーどころのおしめCМは、子供タレントの登竜門だ。自分の子供の写真でパッケージされているおしめを買うなんて、これほど優越感に浸れることはない。ベビーマムマムにいくことも少しは苦痛じゃなくなる。想像しただけで頬が緩む。

 「劇的な変化」といえば、佳苗も忘れてはいけない。月日を重ねるごとに若返るということが生物学的にありうるのだ、と思うほど、佳苗は綺麗になった。自慢ではなく、おそらく十人の男性に聞いたら、十人が「美人」と答えるほど、佳苗の容姿は変化した。
 昔と比べてどのくらい変わったのだろうと思って、結婚当時の写真を探し回ったのだが、どこを探しても出てこない。佳苗に聞いても、自分もクローゼットにあるものだと思っていた、と言うだけだった。きっと何か整理していた時に、どこかにまとめてしまったのだろう。
 唯一残っているのは、サイドボードに飾ってある出会った頃の写真だ。ディズニーランドでミニーマウスと撮ったもので、5年ほど前のものになるだろうか。
 しかしその写真の中の佳苗は、今と何も変わっていなかった。俺はもう一度日付を確かめる。確かに5年前のクリスマスであり、それ以来、ディズニーランドには一度も行っていない。
 ついこの間まで、俺は佳苗の容姿を全く取るに足らぬ、平々凡々の女だと思っていた。いつもぴりぴりしていて、そのぴりぴりはたちまち顔の眉間や目尻を侵食して、年齢以上に老けた顔になるのだ。佳苗とはそういう女性だと思っていた。ぶっきらぼうだし、自己中心的だし。
 俺は幻を見ていたのだろうか。写真の中の若い女性はミニーに寄り添いながら女神のような微笑みを湛えていた。
この笑顔、どこかで見たことがある。そう、フジテレビの今人気急上昇中のアナウンサーに似ているのだ。まさか本人と結婚したのか、と妄想したくなるくらい。
 仕事や趣味がうまくいき始めると、これほどまでに周りが違って見えるものなのだろうか。本当に夢のようだった。可愛い子供に美人の佳苗、欲しかったものもやりたかったこともたった一年の間に全て叶ってしまった。
 真っ当な意識で考えれば、「これは夢だ」と判断するに違いない。長い長い夢。これだけいいことばかりが続くはずがない。あまりにもでき過ぎである。
 もし仮に夢だったとしても、いいとさえ思う。これまで我慢も嫌な思いもたくさんしてきたのだ。ちょっとくらいいい思いをさせてもらってもバチはあたらないだろう。願い事がもう一つ叶うとしたら、ぜひ神様にお願いしたい。この夢、覚まさないでくれ、と。

 今、俺はこうして煙草をふかしている。言わずもがな、ベビーマムマムの駐車場だ。こういう場所にベンツを止めていると何となく違和感がある。駐車場の整理員の対応も以前の軽自動車の場合と違って、ブレーキランプが消灯するまで丁寧に誘導してもらえるようになった。
今年は暖冬なので、手袋をはめて煙草を吸う必要はない。顔に当たる日差しが少し痛く感じるくらいのぽかぽか陽気である。
 おそらく、ここにくるのはこれが最後になるかもしれない。来月にはいよいよ世田谷の一軒家が完成する。まさか世田谷からここに来たいとはさすがの佳苗も言うまい。側には百貨店もある。これだけ裕福になったのだ。わざわざ順番待ちをしてまで、庶民にまみれてこんなチープな店で買う必要はもうない。

送信者: 佳苗
件名: お待たせしてます
本文: そろそろ戻るからね。レジが渋滞してるの

 携帯を閉じながら、メールの内容も変わったなあとしみじみ感じる。早くこい、抱っこしろ、おしめを替えろ、服を着せろ、げっぷをさせろ、私じゃないわよ、当たり前でしょ、エロオヤジ、馬鹿みたい等々、少し前まではこんなメールばかりだったのに。件名に言葉を打ち込んでくることなど一度もなかった。俺の方から件名を打ち込まない限り、まるでムカデが成長していくように「RE:」ばかりが延々繋がっていった。
 ベビーマムマムは相変わらず、エントランスから次々に人々が吸い込まれ、重い荷物を両手一杯に抱えさせられて、ベルトコンベアのように吐き出されていった。
 そんな人込みの中に、俺の視線を強く捉えたものがあった。ベビーカーを押す女性。年の功は自分と同じ三十代半ば、ニット帽を目深にかぶり、白いタートル、カーキのカーゴパンツ姿でまるで人目を忍ぶようにうつむきながら歩いている。
 俺は彼女をとてもよく知っている気がする。同級生? いや、そんな次元の話ではない。

 佳苗!
 
 そう、妻の佳苗じゃないか。佳苗と言っても、今の佳苗ではない。出会った頃の、あの取り立てて特徴のない、むしろ不細工な部類に分類されていた頃の佳苗。ミニーマウスと一緒に映っていたはずの、俺の記憶にある昔の佳苗の姿だ。
ついこの間まで俺の側にいた佳苗が、まさに今目の前にいる。あれほど鬱陶しいと思っていた佳苗だが、今はなぜかとても懐かしい。うつろな目に神経質そうな顔。ちょっと猫背で、けだろうそうに歩くあの姿。
 ベビーカーの中の赤ん坊は「おくるみ」でほとんど隠されていたが、寝顔だけはばっちり露出していた。四六時中泣いて俺を苦しめていた、赤ん坊時代のコウ。青白い血管を瞼に走らせ、いつも頬をパンパンに膨らませている、ふてぶてしくて我がままなコウ。
 フィルターの焦げる匂いで我に返るまで、俺は一心にその親子を見詰めていた。幻でも見ているのだろうか。他人の空似なのか。一年前の佳苗と赤ん坊の姿を見るなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない。
 二人が店に消えた後、俺は頭を冷やそうと新しい煙草に火をつける。すると、ちょうど俺とは反対側に立っていた男が、俺と全く同じような動きをしているのに気がついた。ダウンの内ポケットからセーラムライトを一本取り出して、ジッポライターで火をつけている。穴の空いたジーンズ。アディダスのスニーカー。髪の毛はぼさぼさ。さも不味そうな顔をして一口深く吸い込み、そしてゆっくりと煙を吐く。
 一瞬、男と目が合う。と同時に、誰かに胸部を思い切り蹴り飛ばされたかのように俺はよろめき、体全体が火の出るように熱くなっていた。

 そこに立っていたのは「俺」だった。空似などというレベルではなく、正に俺は「俺」を見ていた。

 向こうの「俺」は、まるでこちらの存在など全くなかったように、すぐに目をそらして足元に目線を落とした。俺はあまりの怖さに一刻も早くこの場から逃げ出したかったが、足の筋肉がこわばって、最初の一歩が踏み出せない。佳苗もまだレジから戻ってくる気配がない。
 同じ店の西と東で、同じ人間が同じ顔をして煙草を吸っている。もちろん、格好は違う。向こうはダウンジャケットで、俺はロングコート。今の俺は短髪に刈り込んでいるが、以前はホルモンが異常ではないかと思うくらい髪の毛はあっという間に伸びた。
 向こうの「俺」はまもなく、携帯用灰皿に煙草をねじ込んで、さもつまらなそうにこちらにも聞こえるくらいの大きな舌打ちをしてから店内に入っていった。
 俺はたった今自分の目の前で起きたことについて、もう一度最初から頭の中で反芻した。考えれば考えるほど、それはあまりに非現実的で馬鹿馬鹿しいことのように思えた。ちょうど一年前のドッペルゲンガー。俺は本当に夢を見ているだけなのだろうか。
 レジが混んでいる、というメールを最後に、佳苗もコウも店の中から消えた。一年前の「俺」や当時の佳苗にも、それ以来会うことはなかった。
 閉店までの間に、俺は何度も店に入り、車に戻った。彼女が荷物とベビーカーを押して自力で家に帰ることなどとても考えられない。電話してもすぐに留守電に切り替わってしまう。メールにも何の応答もない。
 「そろそろ締めますが、よろしいですか?」
 夜の9時を過ぎ、俺は仕方なくエンジンを始動させ、ベビーマムマムを後にした。
 神隠し? いや、もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。しかし店の出入り口は正面しかないし、ずっと注意して見ていたのだ。店内を探していた時にすれ違ってしまったのだろうか。それにしても、あれだけの人間がいる中で、ベビーカーもろとも誘拐するとは考えられない。家に帰れば、ひょっこり電気をつけて待っているかもしれない。

 その期待も虚しく、帰宅しても佳苗の姿はなかった。俺の頭の中に「捜索願」という言葉が浮かんだ。けれども、今このタイミングで、そうしたトラブルを表ざたにするのはやや気が引けた。バンドのテレビ出演も決まり、会社の上場が見えている。
 きっと佳苗は何か特別な事情があって、今は連絡のとれない状況にあるのだ。明日になればきっと平気な顔をして帰ってくるに違いない。
 しかし、それから一週間が経過しても、佳苗からは何の連絡もなかった。佳苗がいなくても、世間の人々には何の支障もなく、いつも通り世界は回っていた。どう対応することがベストなのか、俺は混乱した。
 まさか、逃げられたのだろうか。いや、逃げる理由がない。今まで順調にいっていたじゃないか。経済的にも裕福になったし、DVに悩むような夫でもない。
 もう少し彼女を信じて待ってみよう。警察にアクションを起こすのはそれからだ。常識的な行動ではないのかもしれないが、自分の置かれた立場も考えて、俺はそうすることに決めた。
 いかにこれまで佳苗に負うところが大きかったか、いなくなってみるとよく分かる。俺一人では、家のことなど何一つできやしない。佳苗がいないので、新居への引っ越し作業は、俺一人でやらなければならなかった。一番難儀をしたのは、食器の養生。一人でやるにはかなりの作業量だった。まだ一度も使ったことのない食器の塊をいくつも眺めながら、これらが新居のテーブルに載る様子を、俺は想像することができなかった。


          *


 佳苗が消えてから、それまで順調だった俺の運はたちまち萎んでいった。俺のアイデアで立ち上げたマッチングサイトが特許侵害で訴えられたことに加え、投資会社は結局ただの乗っ取り屋で、一緒に仕事をしてきた仲間は、次々とよその会社に引き抜かれていった。
 バンド活動の方も、本来のギタリストの復帰に伴い、最近コードすら押さえられなくなっていた俺にとって代わった。指にまるで力が入らないのだ。ピックをつまんでいることすら容易ではなく、床に落とすこともしばしばだった。メンバーたちにこれ以上迷惑をかけ続けるわけにもいかず、俺は自らバンドを離れる決意をした。
 とどめは、引っ越しを数日後に控えていた新居が火事で燃えたことだ。周囲ではここ最近、連続不審火が発生しているということを後で聞いて知った。家は骨組みだけを残して綺麗さっぱり焼け落ちた。また一から、ここに家を建てようなんて気持ちは全く起きなかった。家族がいないのに一軒家なんて建てても、もてあますだけだ。それに、全ての収入の道が断たれてしまった今、家を建てること自体無謀なことだった。

 新居が燃え尽きた夜、あまりの運命の振幅に畏怖さえ覚えながら自宅に戻ると、誰もいないはずの居間に明かりが灯っているのが見えた。

 佳苗だ! 

 俺はとっさにそう思った。レースのカーテン越しに、ぼんやりとだが、お茶をすする女性の横顔が見える。そして、その隣に小さな子供がちょこんと座って、手をばたばたさせている様子も。
 帰ってきてくれたのだ。佳苗がいなくなってからのこの一ヶ月間はまさに悲劇の連続だった。佳苗は自分にとって幸運を呼ぶ女神。佳苗がいてくれないと、俺は何もできない。佳苗はお釈迦様のように、本当にありがたいものなのだ。
 と、俺は佳苗の向かいに座っているもう一人の男のことを危うく見過ごすところだった。佳苗と一緒に笑いながら俺の湯飲みを傾けている、あの男。
 俺はエンジンをかけ、自分の家を後にした。もちろんあてなどない。アパートの駐車場には、昔乗っていた、あの廃車寸前のミラが停まっていた。乳臭くて、狭苦しくて、コウの童謡ばかりがいつも流れていた、紺のミラパルコ。
 いよいよ、俺は住むところさえ失った。自身に乗っ取られたのだ。信じられないと言ってみても、これは厳然たる事実だ。このベンツもやがて失うことになるのは火を見るより明らかだった。

 コンビニで熱い缶コーヒーを買った後、駐車場に車を停めて俺は金勘定をした。俺に残されているのはこれが全てだ。ちゃんとキャッシュカードは入っているだろうな、俺はカード類を全部抜き出して、その一枚一枚を確認していたら、あることに気がついた。それぞれのカードに書いておいたはずの住所や名前の痕跡がなくなっているのだ。几帳面な性格な故署名できるものについては全てサインしてあったはずだが。
 俺はふと気になってベンツのカードホルダーに差してある免許証を見た。すると、ふてぶてしい罪人のような例の顔写真が、あるべき場所にない。名前も生年月日も本籍も住所も全て空白になっている。かすれて消えかけているということではない。まるで最初から印刷されていなかったように、カードの表面がつるつるしているのだ。
 名前も写真もない免許証。氏名。え? 
 氏名。氏名って自分の名前のことだよな。自分の姓。橋、橋、何だっけ。まさか、自分の姓を忘れている?
 橋、という字を使うことには間違いない。しかし橋とくっついていたはずのもう一つの言葉がどうしても思い出せない。下の名前はからきし駄目だった。文字どころか、音のイメージすら浮かんでこない。 
 名前を思い出せない自分に、さすがの俺も愕然とした。急性の若年性痴呆にでもなってしまったというのか。いや、他の記憶ならちゃんとある。車の運転もできるし、現在の総理大臣の名前や昨日の日経平均株価だって思い出せる。自分に関することだけが、どうしても思い出せないのだ。

 消される。

 俺は思った。このままでは、俺はこの世界から完全に抹殺される。生きたまま消されるのだ。もう一人の「俺」に。

数百メートルも離れていない自宅に向かうのに、俺は何度も曲がる角を間違えながら、ようやくたどり着くことができた。時間はすでに午前零時を回っていた。既にダイニングの明かりは消され、物音一つ聞こえてこない。
 車のエンジンを止め、工具入れから一番大きなスパナを手に持つ。自分の家に入るのに、まさかスパナを握り締めながら入ることになるなんて。
 幸い、チェーンロックはされていなかったので、鍵を開けるだけで難なく侵入ことができた。我が家に侵入するなんていうのもおかしな表現だ。家族が眠っているのは、玄関を入って左側の和室。きっと、「俺」もそこで眠っているに違いない。
 そっと襖を開ける。布団に包まるようにして眠っている佳苗の顔が見える。口を半開きにし、呼吸をするたびに鼻からぴぃぴぃ音をさせて。
 佳苗の寝顔をこんなに冷静に、しげしげ眺めることなどこれまでなかった。人の寝顔は、立っている時の顔と少し印象が変わる。日頃は強面の人でも穏やかに見える。それは重力のせいなのか、緊張が解かれているからなのか。
 その向こうに、半分以上布団を蹴飛ばして、大の字になって眠っている赤ん坊の姿。名前がどうしても思い出せない。名前は分からなくても、俺の子供だということは何となく分かる。この赤ん坊には、これまでずっと悩まされ続けてきたのだから。

 その部屋にはもう一人の「俺」の姿はなかった。俺は襖を閉めリビングに通じる扉を静かに開ける。フローリングの床は注意して歩いていてもみしみし泣いた。築十年にもなると、少しずつ緩みが出てくるのだ。
 スパナを握る右手が汗ばんでいるのが分かる。いつ「俺」が飛び掛かってきてもいいように、何度も握り直しながら、目前の暗闇に注意を払う。
 キッチンの流しの前に、黒い棒のような人影が見える。窓ガラスに反射する外灯の光が、男の横顔を白く照らす。男は何も身に着けてはいないようだ。俺は、身動き一つせずじっとこちらを見つめている「俺」を、しばらく睨み付けている。
 針金のように硬い髪。マジックを引いたような太い眉毛。いつでも寝不足のような奥二重の目。一日であっという間に伸びてしまう髭。たるみきった胸の肉に突き出した腹。そして、左曲がりに激しく勃起したペニス。
あまりに醜い自身の姿から俺は目をそらすことができない。奴のせいで、これまで俺はどれだけ嫌な思いをし、悔しい思いをし、つまらない生活を送ってきたか。

 悪の元凶が、今目の前にいる。しかし、俺は「俺」をやめるわけにはいかない。俺は「俺」以上でも「俺」以下でもない。自身を下りる時は即ち、死ぬ時だ。
 俺は奴の即頭部めがけて、思い切りスパナをくらわせる。全裸の「俺」は何の抵抗もせず、その場にがくんと倒れこむ。うずくまる奴に、俺は容赦なくスパナの嵐を浴びせ続ける。何度殴りつけても血が吹き出ることはない。赤くなったり、青痣ができたりすることもない。しかし雨で硬くなった土嚢を叩いているような鈍い感触だけは、確実に掌の神経を伝って俺の脳幹を貫く。
 もう、「俺」はぴくりとも動かない。あっけない幕切れだ。横になった「俺」の下半身だけはしかし、さきほど以上にいきり立っているが。
 服の中がまるで真夏のようにぐっしょりしている。心臓は激しく鼓動し息が上がっている。スパナを放り投げダイニングの床にごろんと仰向けになる。

 本当のところ、こいつは一体誰なんだ? 俺は何と戦っているのだ?

 長い夢。
 もうたくさんだった。当たり前の生活に戻りたかった。普通に朝起きて、会社に行って、子育てをして、佳苗を愛す。それがどれほど幸せなことだったか。
 途方もない疲労感が俺を襲う。俺は静かに目を閉じる。リビングの床がこんなにも冷たくて、固かったことに気付く。
投げ出した手が、微動だにしないもう一人の「俺」の手に触れる。甲の肌はざらついて重々しい。しかし掌にはまだ熱が残っていて、もぎたてのオレンジに触れるようにすべすべして張りがある。とても大の男のものには感じられない。
俺はまだ生きている。もう一人の「俺」はまだ死んではいない。
 睡魔が、瞬く間に俺を深い闇の中に引きずり込んでいく。俺はしっかりと「俺」の手を握り締める。気のせいか、一瞬握り返されたような気がする。だが、もう一度握り返してみるには、俺の体はあまりにも疲弊し過ぎていた。


          *


 今、俺はこうして煙草をふかしている。むき出しの手の甲が乾燥した真冬の風に晒されて痺れるように痛む。国道のバイパス沿いに先月オープンしたばかりの「ベビーマムマム」の駐車場。道路の片側車線を数十メートル塞ぐほどの渋滞を経て、ようやく車外に出ることができた。ディズニーランドにある某アトラクションのような外観をした店舗の入り口で往来する人々をぼんやり眺めながら、俺は肩身狭めて携帯用灰皿に灰を落とす。

差出人: 佳苗
件名: Re:
本文: 何してるの? コウのおむつ替えて欲しいんだけど

 お決まりの内容だが、こんな当たり前のメールが妙に嬉しい。確実に送信者と繋がっている、というリアルな実感。どれだけ他愛もない文章でも、それは間違いなく佳苗の携帯から送信され、俺の携帯で受信したものなのだ。口うるさくて神経質だが、そこそこ器量のよい女房と元気な子供が、俺にはいる。何といとおしい、俺の家族。俺の宝。

 休憩室はいつも通りごった返している。この光景だけを見ていると、わが国が「少子化」で悩んでいる、というのがとても信じられない。
 ベビーベッドにコウがいる。手足をばたつかせてご機嫌だ。周囲に佳苗の姿はない。枕元におしめとお尻拭きだけが残されている。全く、相変わらず無防備でせっかちだ。と、ここでいらいらしてはいけない。佳苗は一生懸命に頑張っている。何事にも真剣なだけなのだ。猪突猛進。そういえば今年は猪年、佳苗は年女だ。
 隣のベッドに、もう一人赤ん坊が寝かされている。偶然、息子と同じ柄のロンパース。しかしそちらのおむつ替えには母親がいる。おむつも、うちが使っているのと同じメーカーのもののようだ。顔の形から体の大きさまで、コウととても良く似ている。

 デジャブ?

 いやデジャブではない。間違いなく同じ状況のことがついこの間あったわけだ。思い返してみれば、平穏だった生活がおかしくなったのは正にあの日からだ。もう二度と騙されるもんか。
 俺は隣の赤ん坊のことは気にかけず、コウのおしめを取り替える。手際のよさなら俺も負けてはいない。服のボタンをはずし、濡れたおしめをはずし、綺麗なおしめを尻を持ち上げながら下に滑り込ませる。
 俺はじっと赤ん坊の顔を見る。違和感は特にない。髪の毛も、目も、鼻も、耳も、口も、全く、コウだ。毎日見ている、わがいとしき息子の、コウ。
だよな?
 一度ああいったことがあると、否が応でも慎重にならざるを得ない。間違いなくこの赤ん坊がうちの子だ、と言えるもの。 そうだ。大きな蒙古斑、そしてその真ん中にある小さなほくろ。
 俺はコウを静かにうつ伏せにする。そして、お尻の上の蒙古斑を確認する。
ない。蒙古斑どころか黒子もない、何とも美しい美白の桃尻だ。
 嘘だろ?
 隣のベビーベッドに居たはずの母子はもうそこにはいない。俺は慌ててコウを何度も転がす。どちらの方向に転がしても蒙古斑が浮き上がってくるようなことはない。斑と黒子を確認したのは、つい今朝のことじゃないか。
 それはもう恐怖を通り越して無感覚に近かった。判断停止。目の前の出来事を解釈しようとせず、ありのままに受け入れるのだ。そうでもしないと、真っ当な精神状態を保ち続けることができない。
俺は何か説明のつかない異次元のギャップにはまり込んでいる。これは一体夢なのか、現実なのか。頬をつねるとめちゃくちゃ痛い。いや、夢の中だって痛みを感じることはある。
 夢かどうか確かめることを、夢の中で実践する方法。どこか、高層マンションから飛び降りて死ぬかどうかを確かめてみるとか。いや、それはあくまで夢ということが前提の話だ。これが夢ではなく現実だとしたら、と考えると、とても恐ろしくてできることじゃない。
 俺は佳苗にメールを入れる。「ねえ、コウって、蒙古斑あったよね?」
 大方、どういう返事が返ってくるのか分かっていながら。

差出人: 佳苗
件名: Re:Re:Re:
本文: 蒙古斑? コウは黒子もアザもないお尻だって病院でも有名だったのよ。忘れちゃったの? それより、荷物持てないのよ。早

 俺はそれ以上画面をスクロールせずに携帯を畳み、コウを抱きかかえる。コウの身体は、また一回り重くなった気がする。でも、近くでよく見てみると、何となく眉毛の形なんて俺に似ている。そうやって口を時々尖らせるのは佳苗のよくやる仕草じゃないか。鼻が低いのは俺で、くりくりした黒い瞳とその目じりの雰囲気は佳苗の方だ。やっぱり、お前はうちの子なんだ。
 俺はここ数年したこともないような最上級の微笑みをコウに送る。
 ベビーマムマム。ここにくれば良いことも悪いことも、全てが振り出しに戻される。そして、俺は試される。
 真剣に佳苗を愛しているか? 息子を愛しているか? 自分のことばかり考えてやしないか? 誰かを傷つけてはいないか? これまでの不義理を詫びているか?
 まるで閻魔の裁きを受けるように。もしかしたら、俺は死ぬまで、もう現実の世界には戻れないのかもしれない。メビウスリングのように、ゴールのない同じ輪の中を延々回り続けるのだ。願い事が一つだけ叶ったとするならば、もう俺には単調で退屈な日々はない、ということだ。それが唯一、神様から与えられたご褒美なのかもしれない。

 コウは虚ろな目で俺を見る。まるで死ぬ間際の年寄りのような表情で。そのあまりの醜さに、俺はコウの顔を手で覆う。すると、コウは突然俺の手首を掴んで、恐ろしいほどの力で払いのけ、部屋中に響き渡る断末魔のような声で激しく嗚咽する。ポケットの中の携帯が嗚咽に反応したように暴れ出す。判断停止。どんなメールがこようとも、俺は抵抗せず甘んじて受け入れるのだ。

送信者: 佳苗
件名: 積み込み終了です^^
本文: ねえ、コウちゃんのおむつ終わったぁ?ちょっといいレストランが近所にできたの。早くいこうよぉ、愛しのダーリン♪








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