七のニ 兄と妹
大気中に漂う霊子は色濃く、それにより濃い霧が視界を遮断する。
霊子の受け皿となる霊力が、他生物より高い人間であっても、尋常でないこの山の霊子濃度は応える。
山を三合目ほどまで登り着つくと、視界の広がる見晴らしの良い平地に出た。とりあえず、目についた手頃な岩場に腰を下ろし、三度笠の紐を緩め、横に転がす。
「地神玉は確か……」
楓は、ぼそりとつぶやくと、背の高い山を見上げた。濃霧は視界を塞ぎ、山の全景は確認できない。
その状況に深くため息をついた。
行く先の見えない状況に落ち込んだり、嫌気がさすのは、人間であれば誰しも感じるモノだろう。
楓は、立ち上がると両手を組み、頭上にググッと上げ背筋を伸ばす。
「山の背が低いのが、唯一の救い、だな」
三度笠を被ると、気合いを入れ直すように紐を強く締めた。
――――――
小石の転がる歩きにくい山道を、疲労を抱えながら歩く事しばし。五合目付近に洞窟が口を開く。
荒く開いた洞窟は、人力によるものではない。
たどり着いた目的地を見るや、思わず息がもれる。 しかし、ここで気は抜けない。
なぜなら、たどり着くまでの道で一度も生きているモノを見てはいない。変わりに、死体が転がる。
つまり、何者かが山の生き物や、山を登る者を殺している。
一歩、洞窟に足を踏み入れた瞬間、背後から突き刺さる殺気を感じ、瞬時に振り向く。
「女…?女だてらに刀を持つとは、勇ましいな」
両手から伸びる三本の爪。七寸ほどある長いそれには血がしたたる。
山の獣、妖魔や訪れた武士を殺して回っている妖魔だろう。
陽を背にしているため、暗く陰を被り、顔を確認できない。
「お前が山を荒らしている妖魔か。地神玉を破壊するついでに、貴様も斬ってやろう」
「……聞き覚えのある声だ。妹を思い出す」
近付く妖魔の顔をようやく確認すると、楓は体中の力が抜け出るのを感じた。 様々な感情が思考を支配し、自然と目から涙が零れた。
「兄…様……!」
「楓、なのか?」
妖魔に成り果てた兄と、妖魔を狩る妹の再開。
志郎は、優しく微笑み、楓に近付く。
昔のままの暖かい微笑みに、楓は駆け寄り抱き着いた。
「兄様!こうして出会える日をどれほど待ったか」
子供のように泣き出す楓をあやすように、頭を優しく撫でる。
「随分髪が伸びたな。それに胴着姿だったからな、わからなかったぞ?」
優しい声に、志郎の胸に埋めた顔を上げる。
「妖魔退治をしている人の噂を聞いて、兄様だと思ったから」
「俺の手伝いをしようと刀を取ったのか?あまり無茶するなよ」
首もとまでは黒く侵食され、ほぼ妖魔化してはいるが、楓の目に映る全ての表情が昔のまま。
先程までの勇ましさはまるでなく、その姿は兄に甘える妹。
「兄様はここで何を?」
志郎は、楓の頭をグリグリと悪戯っぽく撫でると、後ろを向き、眼下を見る。
「楓、見ろ。この世は地獄だ。妖魔が人を殺し、人が人を殺す」
志郎の横に立つと、眼下に広がる景色を見る。
「兄様は、どうされるおつもりですか?」
楓はうつむき、暗い表情を浮かべる。
志郎は腰を屈め、目線を楓と同じにすると、うつむく楓の頬に触れる。
「この世を救う方法は、地神玉を破壊するしかない。でもな、そう簡単じゃない」
志郎は少し悲しい表情で、楓を見つめる。
「地神玉を完全に破壊するには、それに力を与える負の感情を絶つしかない。だから…」
屈めた体を起こすと、険しい表情で、遠くにぼんやり見える都に目を向ける。
「争いを好む人間を斬る」
その意見に対し否定するように、楓は首を横に振る。
「難しい事はよくわかりませんが、もう止めて下さい!このままでは、殺しを楽しむ妖魔になってしまいます!」
志郎は、涙を流し訴えるように叫ぶ楓の左頬に、右手の爪先を当て、ゆっくり引く。
浅く切られ、三本の血の筋が浮かぶ。
「兄、様…?」
頬の傷に手を当て、呆然とした表情でつぶやく。
「楓、俺の邪魔をしないでくれ。お前を殺したくはない」
「嫌です!兄様を止めます!兄様を元に戻します!」
志郎は呆れたようにため息をつくと、楓に冷たい視線を送る。
「元に戻す、か。どうやって戻すつもりだ?」
楓は、震える唇を噛むと、首を横に振る。
志郎を人間に戻す方法は、結局人や獣を殺すしかない。
「わかりません!でも!」
志郎を睨みつける。
楓の思いに、笑みを浮かべ、そして爪先を向ける。
「人間を守りたいなら、俺を止めたいなら、刀を抜け!」
言い終わると、瞬時に楓の前に現れ、右爪を振り下ろす。
それに反応し、刀を抜くと、横腹で受け止める。
「兄様!止めて下さい!」
「楓!迷えば死ぬぞ!」
右手に力を込め、楓ごと薙ぎ払う。
楓は地面に倒れ、視線だけを志郎に向けると、喉元に黒い爪が突き付けられた。
「ここで、死にたくはないだろう?」
突き付けられた爪を払うと、よろけながら立ち上がる。
「だからと言って!」
勢いよく踏み込み、左下段から斬り上げる。
しかし、志郎は避けもせず、刃を右腕に受ける。
腕に食い込む刃を見ると、鼻で笑う。
「なぜ、首を狙わない?右腕を切り落として戦意を削ぐつもりだったか?甘いぞ、楓!」
左爪を横に振ると、空気の衝撃が楓を遅い、それにより後方に吹き飛ばされ、背後の大岩に体を打ち付け、その場に膝をつく。
志郎は、腕に食い込む刀を引き抜き、楓の前に放り投げる。
「俺が本気なら、今ので死んでいたぞ?」
楓は、目の前に転がる刀を手に取ると、呼吸を整え、構える。
「死にません!私は、帰る約束をしたから!」
その言葉に、志郎は微笑むと、地面を蹴る。
振り払われた右爪を、楓は刀で受け止めた。
金属のぶつかり合う音だけが、山に響く。
《続く》 |