既婚同士で話しませんか?縦書き表示RDF


一部、性描写を含む場面がありますのでご了承ください。
既婚同士で話しませんか?
作:高橋熱


 この数ヶ月、駅のホームに立つと身体が硬直し、肋骨を取り巻く筋肉が痙攣を始める。列の先頭時には特に甚だしく、背後に人がいると考えただけで、背中を刃物でなぞられるような恐怖を感じるのだ。
 寝不足で神経が疲弊しているのかもしれない。しかしそれは妄想ではなく具体的な痛痒を伴ってわが身に切迫する。行き過ぎた日焼けの後に襲われる寒気のようでもある。
 ホームの向かいには、評判の悪い産婦人科の看板。執拗に髪の毛を気にしている女子高生。足元の視覚障害者用点字ブロック。風化したガムが悪性腫瘍のようにブロックの隙間を埋めている。そして、電車の入線を知らせるアナウンス。

 「間もなく1番線に電車がまいります。黄色い線の内側にお下がりください」

 鼓動が徐々に激しくなる。鞄を握っていない方の手のひらにも湿った分泌液が滲み出す。
 後方確認。大きな真珠のネックレスを下げた喪服の女性が、派手なハンカチで口元を押さえながら電車の来るべき方向を睨みつけている。彼女に悪気はないにしても、彼女の背後で何らかのトラブルが発生し間接的に関わってくる可能性は十分ある。喪服もろとも線路に突き飛ばされ、混然一体のミンチと化すことだってありえない話ではない。  
 電車のヘッドライトが緩やかな勾配を駆け上がる。もう一度後ろを振り返る。喪服はずっと首をひねり続けている。そして歯軋り。頬骨がチックのように定期的にびくんと動く。喪服の後ろにも、黒や茶やグレーや光沢のある丸い頂が不規則に、抗いがたい独特の圧力を持って聳え立つ。
 全身に緊張が走る。膝小僧が震え出す。見慣れたオレンジ色の車体が、湾曲したホームの縁をファスナーのように縫い込む。
 残り、十メートル。喪服の挙動は?
 背中に全神経を集中する。あと五メートル。気配なし。殺気なし。言葉もなく目を閉じ、歯を食いしばる。左足を前方にずらして重心を落とす。足の指と下腹に力を込め、一度大きく息を吸い、ぐっと飲み込む。 天地に引き伸ばされた一陣の風。鼓膜を突き刺すブレーキ音。車軸の轟き。世界の時間が白く固まる。風は間もなく弱まり、やがて巨大な鉄の塊はゆっくりと、静かにその動きを停止する。
 ふう。
 溜めていた呼気を口と鼻から一気に抜き、下半身の緊張を解く。意識が朦朧としている。幸い席が一つ空いていたので導かれるように座る。ネクタイとワイシャツのボタンを緩め、ハンカチで額に浮いた脂汗を拭う。この瞬間だけで、仕事の何十倍ものエネルギーを浪費する。座席に深く腰を埋めながら、非生産的な毎度の通過儀礼にうんざりする。
 正面に座っているОL風の女性は、スカートの裾をぴたりと合わせ直し、わざとらしく社内広告を眺め始める。隣の男は英字新聞をこれ見よがしに広げているが、その手の甲には異常なまでの体毛が茂っていて指の方まで続いている。反対の扉には、ヤクルトスワローズの帽子を被った大きな体の男。路線図を見ながら何かぶつぶつと呟いている。時々、彼は頓狂な奇声を発したが、誰一人気にする者はいない。いつものことなのだ。
 鉄橋越しに細く蛇行した川が流れ、手つかずのブッシュが横切り、遠くの山々は一番遅く視界から消えていく。  脈拍がようやく落ち着きを取り戻しつつある虚脱の中で今日の成すべき事を考える。それは午前中だけで十分片付けられる程度の仕事。残りの時間をどう過ごすべきか。仕事のことより、仕事以外のことを考える時間の方がよっぽど多い。そもそも午前中で終えられる仕事が果たして仕事と言えるのかどうか。
 税金泥棒。
 携帯を取り出し、着信履歴とメールをチェック。そして、そのまま一時間程、目的の駅に着くまでセメントのように眠り続ける。
 会社は神田駅から歩いてすぐの場所にある。老朽化した建物は、三十年分の排気ガスを吸って完膚なまでに煤けている。職員数二十三名。区の外郭団体のさらにまた外郭団体のような会社だ。 そんな会社を選んだのは本意ではなかったが、何より交際相手に子供ができてしまったので仕方がなかった。
 他にやりたいことがなくもなかったが、居酒屋のアルバイトの分際で「子供ができたから結婚させてくれ」などと勢いだけで説得できるほど、彼女の親は甘くはなかった。 彼女の妊娠が分かった最初の週の新聞広告でそこを見つけて応募をしたら、すぐに採用された。簿記一級の資格と、「公共事業費縮減の功罪」をテーマにした論文が評価されたのだ、と入社してからマキに聞かされた。

 「三十過ぎで『新人』なんだもんねぇ」

 社内で「新人」は自分だけだ。聞こえないふりをして、各デスクの紙くずを集め続ける。

 「今年で三十? 三十一だっけ? あなたが入社してくるまで、何年の空白期間があったのかしら。民間の会社はリストラの嵐なのに、こういうところはどこ吹く風。平社員より、役職ついてる人間の方が多い、ってありえる? ねえ、一枚頂戴」

 そう言って、彼女はゴミ袋をひったくるようにして抜き取り給湯室へ向かう。つんと張り出したマキの豊かな尻をしばらく眺めている。 マキは勤続二十年の既婚者だ。子供がいないせいか、とても四十近いような年齢には見えない。ファッションもメイクも若々しいし、仕草もどこか誘惑的である。やっかみなのかもしれないが、外に男を作って遊び回っている、という噂が社内では常に絶えない。個人的にも容姿は嫌いではないし、仕事のこなし方もそつがなく感心するが、どんな男でも落とせる、という高飛車な自信と人事をも掌握する社内での存在感が、いまいち好きになれない。
 予定通り、仕事は十一時前に終了。簡単な伝票整理と文書作成。仕事は他にもあるが、明日の仕事がなくなるので、それには手を付けない。 熱いコーヒーを入れ、デスクで飲む。一時間に一杯の割合で、一日の所定労働時間分、つまり最低八杯。そんなにカフェインを取れば、夜なかなか寝付けないのも当然かもしれない。しかしコーヒーでも飲んでいなければ、仕事のないデスクワークで半日潰すのはとても苦痛なことだ。 一つだけ幸いなことは、光ファイバーと無線LANが整備され、ノートパソコンも各人に割り当てられていることである。箱物の見た目によらず、通信環境だけは抜群だ。会計ソフトとワープロソフトを使うだけでどうしてこれだけの設備が必要なのか理解できないが。

 出張や上部団体へのお伺いで役職者の大半は出払っている。椅子に腰掛けながらぼんやり時計を眺める。
 11時7分。それから残った職員をさっと見渡す。マキは片足だけパンプスを脱いで足を組み、つま先を小刻みに揺らしながら、隠れてファッション雑誌をめくっている。この位置からは彼女の様子がよく見える。
 メールチェックといくつかの情報サイトに目を通した後、インターネットエクスプローラを開き、「お気に入り」の「マイクロソフト」フォルダにあるお馴染みのページを開く。
 空室ゼロ。
 最近はこんな時間でも部屋が埋まっている。暇な人間は大勢いるものだ。しばらく「更新」ボタンを押し続けるがなかなか部屋が空かないので、諦めてコーヒーを入れ直す。そこは地域限定の二人用チャットルームだった。

 ルーム1 「ひろ こんな時間だけどまったりしよう(主婦・熟女の方限定)」
 ルーム2 「翔  お小遣い欲しい子、渋谷で会わない?」
 ルーム3 満室
 ルーム4 「ミチル TELで感じてみない? 初心者の方も気軽にどうぞ」
 ルーム5 「けん 初体験してみたい十代の女の子おいで(世田谷・三十代)」
 ルーム6 満室
 ルーム7 「ゆきこ としさん、ここです」
 ルーム8 「なお 露出好きな方。じっくり見てあげるよ」
 ルーム9 「俊之 家事、育児でストレスの溜まっている奥様♪」
 ルーム10 「調教部屋。じらされたり恥ずかしい格好させられたりするのが好きな淫乱M女」
 
 「今どきこの一角だけは喫煙オーケーだし。どこまで呑気な会社なんだろうね。ま、自分も吸うくせにあまり言えないけど」と言ってマキが灰皿を差し出す。別に吸うつもりはなかったが、仕方なく煙草に火を点ける。
 マキは独り言のように話し続けているが、真剣に返事をせず、ひたすら「更新」ボタンを押す。部屋の一つが「空室」になったが、次にボタンを押した時にはもう違う人間で埋まっている。
 やれやれ。
 画面をスクロールさせ、刹那の出会いにその場しのぎの満足を求める懲りない面々をゆっくり眺める。

 ルーム11 「TOSHI 楽しく電話で話しませんか。気が合えば会いたいです」
 ルーム12 「はるき 軽く雑談」
 ルーム13 「ろっきぃ チャHしませんか?」
 ルーム14 「瞬 あなたの写真でイカせてください(三十歳、童貞)」
 ルーム15 満室
 ルーム16 「BB 母親のあなた・・下着泥棒を繰り返す私をおもいきり叱ってください!(イメチャ)」
 ルーム17 「けん おっぱいの大きい方とお話したいな♪」
 ルーム18 「漣 近所では良妻賢母の幸せな家庭を演出する貴女☆実態は家事や育児に追われ旦那からはただの家政婦扱い☆夫婦生活もなく女としてのときめきも刺激もない日々☆そんな日常が嫌になりませんか☆ありのままの自分をさらけ出す解放感☆一枚ずつその偽りの衣を剥ぎ取り素直な貴女を語ってください☆きっとそこには魅力的で素敵な本当の貴女の姿が☆自分再発見の旅お手伝いします(五十代・総務部長)」
 ルーム19 満室
 ルーム20 「まる 近親相姦の経験のある者同士で話さない?」

 「そう思うでしょ?」と机越しにマキ。 「その年でゴミ拾いさせられてる自分が惨めに思わない?」
 しつこいな、と喉元まで出かかるが、直前で言葉を飲む。マキへの口答えは人事考課にも影響を与えかねない。本当にそうですよね、とさしあたり答えておく。それよりチャットルームが一向に空かない。目の奥にやるせない鈍痛が走る。

 「本当にそうですよね、って何?」
 「え?」
 「あなたって、何考えてるか分からないね。いつもぼんやりして」
 「そうですか?」

 フリスクを机の上でいじりながら、マキは不思議そうに眉をひそめる。マキのような既婚女性は、こういうところでチャットなんてするのだろうか、とふと思う。タイピングの速さでは社内で彼女の右に出る者はいない。
 いよいよ諦めてブラウザを閉じ、冷めたコーヒーに口をつける。「我が社唯一の六大学出身。三十過ぎの期待のホープかぁ」とぽつり呟いてから、マキも雑誌をばたんと閉じて自身の仕事にとりかかる。

間もなく、部長が戻ってきた。髪の毛が薄いわりに、一本一本が針金のように固く伸び波打っている。その痩せぎすで神経質そうな顔に刻まれた細かい皺を「長年の労苦」と受け止める者は誰もいない。そこには入社以来、四十年分の寿命が縮まったという事実があるだけだった。

 「明日の資料二部できてるか?」

部長はぶっきらぼうに言う。三日前に仕上げておいたパワーポイントのスライド資料を差し出す。彼はそれにさっと目を通してから表情を変えずに赤いボールペンでチェックを入れる。上部余白をあと7ミリ詰めろということと、「いただきたい」を「賜りたい」に書き直せという指示。仰せの通りすぐに修正して再プリントアウト。部長はそれを丁寧にクリップに止めてから机に仕舞い、再び席を立つ。チェックを入れられた紙は即シュレッダー行き。個人情報保護法やら情報漏えいやらの関係で、不要な紙は何でもかんでもシュレッダーだ。漏れて困るような重要情報なんてないと思うが、部長の決め事は絶対である。
 途中、停止ランプがついたので袋を交換し、下に散らかった紙くずを拾う。それから、トイレに行き用足し。なぜか頭の中に、先程のチャットルームで待機していた「漣」という人物のメッセージが思い浮かぶ。

 五十代、総務部長。

まさかな、あまりにも愉快だったので、それ以上想像するのは後の楽しみにして、チャックを締めた。

 「今年、七五三をすべきだと思う?」と帰宅するなり妻が言う。子供はリビングでテレビを見ている。
 「実家に聞いたら、数え年でやるのが普通だって言うの。でも、来月になったってまだ二歳半でしょう?着物、買うか借りるか分からないけれど、せっかく着るのなら、もう少し本人が分かるようになってからでも遅くはないと思うのよ。最終的には任せる、とは言ってるんだけど」
 「任せられてもね。そういうことは分からないな」
 「ちょっと、分からないなんて他人事みたいに言わないでよ。あ、ちょっと待って」
 くしゃみの音がすると、妻は子供の元へ飛んでいく。シャツのボタンをはずすのに手間取りながら、いずれはやることなんだしどっちでもいいよ、と思う。

 食欲はなかったが、何も食べないと「何も食べない理由」を説明しなくてはならないのが面倒なので、仕方なくテーブルに座り白飯ばかりを無理やり口に押し込む。炊き上がったばかりのその匂いに、むせ返るような吐き気が何度も襲う。妻はビデオを見ながら、密度の薄い娘の髪の毛をゴムで束ねている。とっとる、とっとる、と、子供はブラウン管を指差す。

 「そう、トトロよ。上手に言えるようになったねぇ」と言って、妻は微笑む。何か応答しようにも口の中の物が邪魔をして、うまく声を出すことができない。本当は「年の割りにやけに言葉の覚えが遅い」と、ずっと思っているのだが。

 その夜、妻が求めてきた。しかしこちらにそんな気力はなく、妻に背を向けた状態で意識の端境を彷徨っていた。今日はちょっと疲れているんだ、ごめん、と言って妻の手を軽く握り返す。いつもそうじゃない、妻は手を払いのけ、熟睡している子供の方へ体を向ける。
 妻への愛情云々の話ではなく、肉体的にも精神的にも本格的に疲れ切っていた。こんな状態で試みたところで、相手を失望させることは目に見えている。地の底に引きずり込まれるような睡魔。気力を振り絞って、もう一度、目覚しが所定の時間にちゃんとセットされているかを確認してから、毛布を首まで上げ直す。

 四時、起床。アラームは三回以内で必ず止める。寝室からそっと抜け出し、リビングと和室とを結ぶガラスの引き戸を慎重に閉める。用を済ませ、防寒対策にユニクロのフリース。そしてリビングの一角にあるデスクトップのパソコンが立ち上がるまでの間に、コーヒーメーカーに二杯分の水を入れ、ドリップスイッチを押す。
 これが最近の日課だ。不思議と、早朝だけは頭がはっきりとしていて、目覚めもいい。自分だけの世界に漬かることのできる、唯一の時間。スリッパを履き直し、キーを叩く。休前日の徹夜組が多く手間取ったが、ひとまず部屋を確保する事ができた。

 「こうじ 既婚同士で話しませんか?(都内・30代)」

 いつものハンドルネーム、いつもの待機メッセージ。「無言閉鎖」されないよう適当に文字を打ち込み更新ボタンを押しながら誰かの入室を待つ。一分もたたないうちに、一つの反応。

お知らせ> エリさん(女)が入室しました。
エリ>おはよーー
こうじ>おはよう。初めまして
エリ>いまね、シャワー浴びてバスタオル一枚なの。そしたら、とてもエッチな気分になってきて、きちゃいました♪
こうじ>そうなんだ
エリ>乳首がすっごく敏感なの・・エリ
こうじ>今すぐそこに飛んでいきたいな
エリ>ねえ、エリのこと、想像してる?
こうじ>すごく、魅力的にね
エリ>勃起してんじゃねーよ 
エリ>ばーか 
エリ>変態野郎 
お知らせ>エリさん(女)が退室しました。

 ふう、と溜め息をついて、コーヒーをすする。これでは、男女の区別さえできない。少し手が震えている。こういう輩は何度経験しても後味悪い。
 部屋の西側のカーテンレールにぶら下げられた洗濯物はタオルやガーゼばかりだ。一度使って汚れたものはすぐに濯いで洗濯籠に放り込まれる。潔癖症というか、神経質というか。子供が生まれてからさらにその性格は洗練されている。
 自動車のヘッドライトが台所の窓を黄色く照らし、路面の水を巻き込みながら急勾配の生活道路を駆け登っていく。車の後には、再び厳かに回り続けるCPUクーラーと雨音がユニゾンで響く。仕方なく別のウィンドウを開いて、サイトの掲示板を眺める。
 そして、再び入室を知らせる合図。

お知らせ>鉄槌天使さん(男)が入室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が退室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が入室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が退室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が入室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が退室しました。
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が入室しました。
鉄槌天使>死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
お知らせ>鉄槌天使さん(男)が退室しました。

 やれやれ、今日は荒れ過ぎだ。ハンドルネームとメッセージを変更しようかとも考えたが、そういう問題でもないようだ。こんな時はおとなしく「荒らし」が通り過ぎるのを待つしかない。世の中には自分とは全く違ったタイプの人間がごまんといるのだ。
 「強制退室」ボタンを押して画面をクリア。制限時間、残り三時間十三分。
長年の猫背が崇り、腰には針を刺すような痛みが定期的に走る。声が勝手に漏れるくらいの大きな伸びをして背筋を伸ばし椅子に深く腰掛ける。襖が開いたような音がしたので咄嗟に振り向くが、どうやら空耳だったようだ。
 別ウィンドウで部屋の様子を見る。もう半分以上が空室になっている。徹夜の若者はそろそろ寝る準備に入る頃だ。反対に、夫の目覚める前、あるいは出勤を見送った後の主婦たちが、家事や育児からのささやかな解放感を求めてどこからともなくやってくる。
 彼女が入室するまでの三十分間は、先程の「荒らし」が懐かしくなるくらい平穏に過ぎ、画面のカウンターだけが淡々と減っていった。こちらは携帯電話の請求書を眺めていて、彼女が入室したことにしばらく気付かないでいた。
 
お知らせ>みうさん(女)が入室しました。
みう>おはよ♪
みう>・・・
みう>いる?
みう>落ちてるかな?
こうじ>おはよ。ごめん
みう>あ、いた!
こうじ>よそ見してた(笑)
みう>え?
こうじ>この前は盛り上がったね
みう>うん。覚えていてくれた? 
こうじ>もちろんだよ。とても魅力的だった、みう
みう>改めて言われると、恥ずかしい

 「平成十七年度事業報告書」と題されたワードファイル以外のウィンドウを全て閉じて、キーボードを手前に引き寄せる。雨は徐々に激しくなっているようだ。

みう>今日は一日雨ね
こうじ>旦那さんは?
みう>仕事。夜も遅いの
こうじ>子供はいないんだっけ? みう、三十一だったよね?
みう>そうよ。なかなか子供できないの。こうじは?
こうじ>二歳の女の子が一人
みう>いいなぁ、女の子じゃ可愛くてしょうがないでしょ?
こうじ>いろいろと大変だよ。ネットだって朝しかできないし
みう>それは既婚者の宿命ね。仕方のないこと
こうじ>みうは一日中チャットしてるの?
みう>ちょっと、一日中なんてチャットしてないわ。一応正社員として仕事してるし、家事もしなければいけないし
こうじ>両立は大変だね
みう>でも男の人ってそうは思わないんでしょう? いつも「自分が一番大変」て思ってる。お前の仕事はアルバイトみたいなものだって
こうじ>それはひどいね
みう>でもね、アルバイトなら多少なりともお金もらえるけど、家事は無報酬労働よ。専業主婦はそれを毎日繰り返してるの。地獄だと思わない?
こうじ>何となく
みう>ううん、本当の苦痛は男性には分からないと思う。食べさせてもらってるんだからって割り切る人もいるけど自分にはできないなぁ。だってさ、私は食べさせてもらうためにその人と結婚したわけじゃないもん。食べさせてもらうだけなら、結婚しないで実家にいた方がよっぽど楽じゃない
こうじ>まあ、確かに
みう>あ、ごめんね、何か私ばかりしゃべってる
こうじ>いいよ。気にしないで
みう>こうじって、優しいよね。だから安心して話できるの

 六時四十分。炊飯器の蓋から蒸気が昇り始める。2DKの狭い部屋の中で、もう一度聞き耳を立てる。炊飯器。外の雨。CPUクーラー。時々の自動車に、素早いキータッチ。お願いだから、もう少しだけゆっくり眠っていてほしい、と祈る。

みう>昨日、一昨日と、こうじ、いなかった
こうじ>寝坊したり、子供が起きてきたり。でもずっと、みうのことは気になってたよ
みう>本当? 嘘でも嬉しいわ
こうじ>嘘じゃないよ。仕事してても、この間のこと思い出したりして
みう>私もよ。あの後シャワー浴びながら、ずっと余韻に浸ってたの。恥ずかしいけど
こうじ>みう
みう>ん?
こうじ>いや・・何でもない
みう>なにぃ? 気持ち悪い

 今までに味わった事のない不思議な感覚が胸一杯に広がる。寒くもないのに身震いし、「何でもない」という言葉を打つのに三度もタイプミスをする。
 胸が痛いとは、この感じを言うのだろうか。どこの誰かも分からない人妻にここまで魅せられるなんて。いや、相手の姿が見えない文字だけのチャットにあっては、「みう」が男である可能性さえ否定できないというのに。
 しかしこの一週間、時あるごとに彼女を思い出していたという事実を考えると、それは、手で握りこめられるほどの現実的な質量と形を持った確かな心象として自身の領域にしっかり根を生やしていた。

こうじ>ねえ、みう
みう>ん?
こうじ>次はいつ会えるのかな
みう>ねえ、会ったばかりでもう次の約束してる
こうじ>明日は会える?
みう>明日は出勤なのよ。空調工事に立ち会わなければならないの。全然効かなくなってきちゃってて。建物が古いから維持するのも大変なの
こうじ>妻が実家に帰るんだ
みう>え、そうなの?
こうじ>明日なら一日時間とれるから、みうの都合さえつけばたくさん話せるかなって思っただけ
みう>多分夕方には終わると思うから、それから帰って十時くらいまでだったら時間取れるよ
こうじ>会ってくれる?
みう>もちろん私も会いたい・・ねえ、私たち、大切なこと忘れてた
こうじ>ん?
みう>お互いのメアド知らない

 画面に、彼女の携帯のメールアドレス。同じドコモ同士、ショートメールを遠慮なくし合えたらどんなに楽しいだろう。フリーメールを立ち上げ「開通記念」とタイトル欄に打って送信ボタンを押す。

みう>きた、きた!
こうじ>フリーメールでごめんね。自宅のメールと携帯はうちのが時々チェックするから。今時この携帯、シークレット機能ない
みう>私はかまわないわ。連絡取れれば問題なし
こうじ>みうは、チェックされないの?
みう>それがチェック魔でね。でも毎日、送受信の履歴は削除しちゃうから。そのへんはぬかりないわ
こうじ>悪い人妻だ(笑)
みう>^^
こうじ>みうを思い切り抱きしめたい
みう>うん、抱いて
こうじ>今、みうの胸がぴったりとくっついてる・・鼓動を感じるよ
みう>私も、とてもどきどきしてる

 かちゃりと、扉が開く。条件反射のように慌ててマウスを握り、「最小化」していたワード文書を開く。
 「仕事?」と、妻は目をこする。
 「昨日やりきれなかったんだ」
 「事業報告書、っていうんだ。なんだか難しそうな仕事ね」
 「難しいことなんて何もないよ。前年の雛型に基づいて、日時と中身を少し替えるだけ。毎年同じ事しかしてないから単純作業」
 妻がどこを見ているのかとても気になる。ツールバーに「2SHOT」の文字が残っているが、ここで削除するのはかえって危険だ。
 「ねえ、真子の様子が少しおかしいのよ」
 「どうしたの?」
 「何だか熱っぽい感じなの。見てくれる?」

 仕方なく椅子を引き、布団と布団の間に挟まっている真子の額に手を当てる。真子はじっとこちらの顔を見つめたまま親指をしゃぶっている。
 「それほど熱いとは感じないけどな。計ってみた?」
 「ううん。ただ抱いた時、ぐったりしていて熱いって思ったから」
 小さな上着のボタンをはずし、妻は枕元の体温計を差す。正座をしたまま子供の表情を見ていたら、無意識のうちに奥歯を鳴らしていたようだ。
 「ねえ、その癖なんとかならない?」と妻は心底嫌いだというような顔をして言う。
 「ならないんだよ。歯軋りって、本人の意思ではどうにもならない」

 体温計の電子音が三十秒もたたないうちに鳴る。三十六度三分。念のためもう一度計り直す。今度は五分以上何の反応もなかったので抜いてみると、三十六度四分だった。「気のせいだったみたいね」
 妻がトイレに入るのを確認してから、すぐにチャットルームに戻ってみたが、既に部屋は閉鎖されていた。フリーメールにも繋いでみたものの、ログインに時間がかかり、その間に妻が戻ってきたので画面を閉じパソコンを終了する。奥歯をぎゅっと噛み、流しに冷めたコーヒーの残りを捨てる。

 一分以上会話が途切れたら、お互いそういうことだと判断しよう、と約束していた。しかし実際にその状況になってみると辛いものだ。切断されていることも知らずに返事を待っている相手のことを考えると不憫でならない。メールを送ることすらできないなんて。こんな気持ちになったのは、彼女が初めてだ。

 翌日、妻と子供は自動車で大月の実家へ帰っていった。
 「お願いね」とシートベルトを締めながら妻は言った。「チルド室にお肉とかいろいろ買っておいたから、適当に作って食べて」
 「よろしく伝えといて」と言って、チャイルドシートの子供の頬にそっと手を当てる。
 「たいした怪我じゃないって言ってたけど、顔を見るまでは私も心配だし」
 「一緒に行ってあげたいけど、早急に仕上げなければいけないんだ」
 「いいのよ、明日の午前中には帰ってくるから」

 ヘアカラーのとれかけた妻の髪の毛。昔に比べて少し硬くなった気がする。「ごめんね」
 テールランプが坂の下に消えていくのを見届けてから、玄関の鍵を閉め、パソコンのメインスイッチを入れる。ぶうんという通電音。パワーランプ点灯。クーラーが回り、CPUが忙しく働き出す。その間に、約束のコーヒー、そして今日は付け添えにグリコのアーモンドチョコレート。

 彼女のいない今朝のチャットは、レスポンスの異常に遅い関西の女性と、「荒らし」予備軍の男の入室があっただけ。彼女あてに、昨日のお詫びメールを入れておく。

 フリーメールのユーザー認証。パスワード、19740921。単純明快、自分の生年月日。

 受信箱、一件。九時二十八分。携帯電話から。
 「既婚同士は、お互いの事情を理解できるからいいんでしょう? 私は全然気にしてないわ。そういう時は容赦なく落ちてね(笑) さてさて、これから業者がくるの。またメルするね」
 今日は一日妻子がいないので暇ならメールして欲しい、と返信。メールチェッカーを起動させ、一分ごとにチェックをかけるように設定すると、間もなく二通目を受信する。
 「おっけー♪ 今日はずっと一緒にいられるんだね。嬉しい。何だかメールでチャット状態になってる(笑) あまりコーヒー飲み過ぎないでね♪」
 それから、パソコンを立ち上げたまま、部屋中の窓の鍵とガスの元栓をチェックする。洗濯物を箪笥にしまい、カーペットに散らばっていたスナック菓子とぬいぐるみを片付ける。長い間一緒にいると、性格は似てくるのだ。
 
 ベランダの桟に積もった埃が、陽の光に反射して白く輝いている。少し寒気がしたのでフリースを羽織り、換気扇を止め食器棚から粉末の風邪薬を一つ出して飲む。熱があるのかも知れないが、だからといって何かをするわけでもないのでそれ以降はなるべく気にしないようにする。
 正午近くまで、みうからのメールはない。その間に、コーヒーを三杯飲み、新聞を熟読し、折り込みチラシを眺め、画像掲示板を見ながらマスターベーション。

 「ごめんねー。やっとメルできたぁ。まったく手際の悪い業者です(笑)もう少しでお昼休憩。何食べようかなぁ。でも、一人じゃ寂しいね」
 待ちに待ったみうからの受信を知らせるポップアップウィンドが立ち上がった時には、自分も立ち上がって喜ぶ。
 「一緒に食べたいな。みうとランチ」
 二分後、受信。
  「本当? 嬉しいな。じゃあ、いますぐ来て。美味しいイタリアンが近所にあるの。こうじはスパゲティ好き?」
 返信。「スパゲティは大好き。トマトベースの物がいいね。でも残念なことに家を空けることはできないんだ」
 一分三十秒後、受信。
 「あはは、冗談よ。本気にしたの?(笑) トマトベース、私も大好き♪ パルミジャーノいっぱいかけてさ。こうじとは食の好みが合いそうだね。デートしたら楽しいだろうな。そろそろ、食事行ってきまーす」
 返信。「いってらっしゃい。ランチセットをもう一つ、飲み物はホットコーヒーで頼んでおいて」

 みうと二人で食事をしている風景を想像する。こぎれいなレースのテーブルクロスにランチョンマット。磨き抜かれた銀食器。かぼちゃのスープ。シーザーサラダ。ほうれん草とベーコンのポモドーロ。
 みうはアスパラを口に運びながら、優しく微笑んでいる。何か小さく呟いているが、よく聞き取れない。ワインを継ぎ足しながらじっと彼女の顔を見つめている。顔? みうの顔。顔。顔。
冷凍ピラフを皿に開け、レンジに突っ込む。みうのこと知ってるようで、実はまだ何も知らない。
 十二時五十七分、受信。
 「ランチはボンゴレだったけど、美味しかったよ〜♪ でもやっぱり一人で食事するのって寂しいね。こうじがいたらなあって本気で思った ^^ さてさて、もうひと踏ん張りです。って、私が何かしているわけじゃないんだけどね」
 返信。「自分も総務課なのでよく分かるよ。仕事の半分は雑用だもんね。頑張ってね」

 午後は、間違い電話が一本と、卑怯な新聞勧誘の対応。「宅急便です」と相手が言ったので、ドアを開けたのだ。
 「半年後からの契約でいいから、お考えいただけませんか。半年分の購読料はこっちで持ちますから。ビールお飲みになるでしょう?」と若いセールスは言った。「ビールは飲まないし、『長島監督がもう一度ジャイアンツで優勝するまで他紙は契約するな』と父の遺言で言われてるから」と言って、玄関についてる三つの鍵を全てかけた。
二時四十分、受信。

 「暇だー。こうじ、今、何してる?」
返信。「新聞の勧誘追い払うのに一苦労してたよ。ところで、みうってどこの大学出身? 突然ごめんね。前に自分の大学聞かれたでしょ? みうの大学聞いてなかったなあと思って」
受信。「卒業したのン十年前のことなんで忘れました(笑)。ウソウソ。じゃあ、当ててみてね。第一ヒント。女子大です。第二ヒント。千代田、多摩、あと埼玉の方にもキャンパスがあります。ネットで調べてはいけませんよぉ」
返信。「あ、分かっちゃった。昔、エッチ系の深夜番組に出てた女の子、そこの出身者が多かったよね」
受信。「そうなの? こうじって、女子大マニア?(笑) イメージの時代だっていうのに、深夜番組なんてあまりいい印象ないんだなあ」
返信。「まあ、二十年以上も昔の話だから」
受信。「黒木香が横浜国立大学出身っていうと、横国の女の子がみんな腋の毛を剃っていないって思われるのと一緒ね」
返信。「あはは(笑) 黒木香かあ、懐かしいね。みうもなかなか知ってる」

 空は厚い雲に覆われ、キーを叩く音だけが、薄暗いリビングに響く。郵便受けには知らない間に夕刊とピザのチラシが投げ込まれている。玄関の靴箱の上に、ボールペンで書かれた真子の絵。大きな逆三角形の顔から、手足が宇宙人のように伸びていて、下の方に小さく「パパ」と記されている。これはうちのやつの字だな、その小さな紙きれを冷蔵庫のマグネットに挟む。

 三時五十二分。受信。
「ふぅ、もうすぐ終わりだー。早く帰って、こうじと話がしたいよー。飛んで帰るから、待っててね♪」
返信。「お疲れさま。気を付けてね。身を清めて待ってるから」

 バスタブに熱い湯をはり、着替えを用意する。職場は中央線沿線と聞いていたが自宅まではどのくらいかかるのだろう。午前中からずっと椅子に座りっぱなしだったので腰は抜けそうに痛く、目もしみるようにひりひりしている。湯が溜まると真っ先に腰を鎮め顔をごしごしこする。タオルを冷水で濡らし目頭を押さえながら、これからのみうとの会話について考える。みうの顔を想像し、体を想像する。きっと声もいい感じなんだろうな。頭がのぼせてくるまで、なかなか腰を上げることができずにいた。

お知らせ>こうじさん(男)が入室しました。
こうじ>3
こうじ>2
こうじ>1
お知らせ>みうさん(女)が入室しました。
みう>お待たせ!
こうじ>お疲れさま。どんぴしゃりだ
みう>ごめんね。待たせちゃって
こうじ>いいよ。今、部屋とったばかりだから
みう>あんまり焦って、マンションの玄関でころんじゃった
こうじ>大丈夫?
みう>うん。ちょっとすりむいちゃったけど
こうじ>悪い事しちゃったかな
みう>何で? 自分で勝手に転んだだけだから。こうじは何も悪い事なんてしてないよ
こうじ>ゆっくり落ち着いてからでいいよ
みう>うん。とりあえず、着替えてくるね。ちょっと待ってて

 洗い立てのジーンズに薄手のタートル、白を基調としたベーシックなカーディガン(あるいはシャツ)、ジッパー付きのショートブーツ、茶系のマニキュアを入れた長い髪、細い唇、淡いルージュ。
 思いに任せて勝手に想像していると、まるで自分の目の前に彼女が立っているようだった。衣擦れの音と口から漏れる息遣いが、ケーブルを伝わってモニターからこぼれてくる。指先が熱くなり、身がきゅっとこわばる。

 みうはどんな女性なのだろう。どんな下着をつけて、どんな胸をして、どんな陰毛をしているのだろう。
 膨張しつつある下腹部を押さえるように手を当てる。そして、年甲斐もなく溢れ出る自身の性欲が世間一般からみて妥当なのかどうかということについて、真剣に思いを巡らせる。

こうじ>ジーンズ、タートル、白のカーディガン
みう>ん? 
こうじ>今の格好
みう>当たりだわ
こうじ>本当?
みう>ほとんどね。一つだけね、カーディガンは黒です
こうじ>嘘みたい(笑)
みう>カーテン開いてるのかと思った
こうじ>^^
みう>それじゃ、今つけてる下着の色を当ててみて
こうじ>うーん、黒
みう>ぶぶー
こうじ>赤
みう>違いまーす
こうじ>青?
みう>ううん
こうじ>白!
みう>困りましたねぇ
こうじ>ピンク、茶色、黄色、オレンジ、グレー、紺
みう>そんなにたくさん言ったらだめだよぉ。でも、はずれてるし(笑)
こうじ>降参・・答えは?
みう>はいてません
こうじ>ずるい
みう>^^
みう>旦那のことが嫌いだとか、現状に不満があるとか、そういうことじゃなくてね。「幸せ過ぎて退屈」って感じなの。分かる?
こうじ>うん。自分もそういう感覚はあるから
みう>少しどきどきしたいだけ。結婚しちゃうとそういうことってなくなるでしょ? 家庭を壊すつもりはないし、今の主人がいなくなってしまったら生きていけないと思ってる。そのくらい、彼のことは愛してる。でも、愛してるからこそ、本音で語り合えないこともある
こうじ>よく、分かるよ
みう>ありのままの自分をさらけ出しても受け入れてくれる相手が必要なの。それもリアルな私の姿なんだって最近気付いた
こうじ>誰だってそうだよ。本音だけでは生きていけないから
みう>こうじはネットに何を求めてるの?
こうじ>限りなくリアルに近いヴァーチャルセックス
みう>まったく、もう。聞いた私が馬鹿でした(笑)
こうじ>^^

 それから我々はお互いのぬくもりと愛情を激しく求め合う。まるで一週間何の食料も口にしていなかった孤児のように、相手の体を貪り食べる。みうはいつになく敏感で即座に反応する。キーボードは今や彼女の体の一部だ。滑らかで軽快なタッチが、彼女の首筋を背筋を脇腹を大腿をソフトになぞる。時の経つのも忘れ、ただひたすらにキーを打ち続ける。時間制限で何度か部屋が落ちたが、その都度適当な名前をつけて新しく取り直す。一人の女性と、こんなに長い時間話をしたのはいつ以来だろう。みうには「愛」という言葉を遠慮なく口にできるのに、妻に「愛している」という言葉をかけなくなって、一体どのくらい経つのだろう。

 時刻は既に十時を回っていた。妻から明日の帰宅時間を確認する電話で一度中断をしたものの、残りの時間は全て二人だけの時間だった。

みう>主人からあと少しで仕事終わるからって連絡あったの。食事の仕度をしなきゃ
こうじ>そろそろかなって思ってた
みう>今日はいっぱいしゃべって、いっぱい愛し合ったね
こうじ>すごく感じたよ。ありがとう
みう>こちらこそ。また、いっぱい愛し合おうね
こうじ>みう・・愛してるよ
みう>主人と比較するのはフェアじゃないけど・・違う次元で、私も明らかにこうじのことを愛してる
こうじ>みうをもっと近くに感じたい
みう>うん、とても近くに感じている
こうじ>このままみうに対する思いが募っていくと、一体どうなるんだろうって思う。リアルで会いたくなってしまうかもしれない
みう>私もよ。今ここにこうじがいて、一緒に食事できたらって、お昼食べてて本気で思った
こうじ>いつか、そんな日がくるのかな
みう>実際に会ったらって想像しただけでもどきどきする
こうじ>俺もだよ。ねえ、みう
みう>ん?
こうじ>何か、みうを感じることのできる写真ない?
みう>写真は・・・恥ずかしいよ
こうじ>みうの雰囲気を感じたい
みう>顔は、今はまだ・・・
こうじ>もちろん、無理は言わないから
みう>ねえ、こうじって何フェチ?
こうじ>フェチ?
みう>うん。女性のどこに一番魅力を感じるの?
こうじ>脚・・かな
みう>私のこんな足でよければ撮ってみようか?
こうじ>本当?
みう>うん。こうじの望みだから聞いてあげるの。純粋に、こうじが好きだから。本当はこんなのじゃ満足できないでしょうけど
こうじ>そんなことないよ。嬉しい
みう>明日までにはメルできると思うから待っててね。でも、あまり期待しないで。大根足のボンレスハムだから
こうじ>次はいつ会える?
みう>明日は主人が早く会社いかなければならないの
こうじ>じゃあ、明後日は?
みう>いいわ。時間はいつも通りね
こうじ>そうだね。4時半にここで待ってる
みう>こうじと知り合ってからめちゃめちゃ早起きになっちゃった。お陰で昼間は仕事になりません(笑)
こうじ>^^
みう>それじゃ、ね
こうじ>うん。おやすみ
みう>ばいばい! ちゅ!
お知らせ>みうさん(女)が退出しました。

 チャットが終了してからも、しばらく「雑談部屋」の待機メッセージを眺めている。疲れているはずなのに、すぐに電源を落とすことができない。閉鎖したばかりの二人の部屋は既に、露骨に援交を希望する「色事師」というハンドルネームの男に占領されている。画像交換を希望したがっている男がいたので、からかい半分に女子高生のふりをして入室。男は二十代前半の大学生だ。

 「俺のあそこ見たい?」と大学生は聞いてくる。あそこだけじゃつまらない、彼女とエッチしてるところがみたい、とこちらも煽る。大学生がアップした画像は、どこかのホテルの一室で撮影したもので、フラッシュが弱く結合部分が不明瞭なものだった。女性の顔にはモザイクも目線もなく、画像全体がセピアがかっていて、画質も荒い。何年も前にポラロイドカメラで撮影したものをスキャンしただけの、既出画像。

 「これ、本当にあなたの彼女?」
 「そうだよ。昔付き合ってたSF」
 知恵のない奴だな、そのまま黙ってブラウザを閉鎖。けれどもこれじゃ、この間の「荒らし」と一緒だ。
みうとの充実した時を過ごしたはずのに、酷い徒労感に襲われている。訳もなく苛立っているのが、自分でもよく分かる。空腹のせいかもしれない。

 いよいよ決意を固めてPCの電源を落とし、インスタントラーメンを食べる。それから乾燥器の中の食器を片付け、布団を敷く。夕刊にも目を通そうと思ったが、見出しの一行すら目で追うことができない。まるで眼球全体がソフトボールくらいに腫れているようだ。
 布団にごろんと横たわり、目を閉じる。みうが裸で脚の写真を撮っている様子を妄想する。いたたまれず寝返りを打つ。布団の下に、ちょっとした違和感を感じたので起きてめくってみると、真子のビデオテープ。つい最近までよく見ていた歌のビデオだ。
 パッケージに描かれた河童のイラストを見ながら、その曲を思い出してみる。それは妻の一番のお気に入りでもあり、サビの部分の節回しがとても印象深かったはずだが、いつまでたっても、イントロすら頭に流れてこない。
テープを放り投げ、再び布団の中にもぐりこむ。体中が、これから実験を控えたモルモットのようにぶるぶる震えている。時折、地震かと思うくらい大きく体がぶれる。そのうちの一つくらいは、本当に地震があったのかもしれなかったが。
みうの脚。妻の歌。そして真子の笑顔。
それから眠りにつくまでどれくらいの時間を要したのだろう。その間、一度用を足し、二度冷水を飲み、数え切れないほどの寝返りを打った。

 翌日、目覚めたのはもう昼近くだった。留守電には、これから大月インターチェンジに入る、という妻のメッセージが入っていた。あと二十分くらいで到着する計算だ。
鉄芯のような体躯を起こし、洗面台で髭を剃る。酷い顔だ。頬はこけ、唇は乾燥し、剃ったばかりの顎のラインは白く粉が葺いたように荒れている。
 帰宅するや、妻は早速そのことを指摘する。

 「昨日は遅くまで起きてたの?」
 「そんなに遅くはないよ。十一時には寝たから」
 「でも、何かすごく疲れた顔してる。ちゃんと夕飯食べなかったのね」
三角コーナーに捨てられたラーメンのかすを見つめながら、「これだから、一人にするの、嫌」とうんざりしたように冷蔵庫の中を漁る。
 「まだ、食事してないんでしょう?」
 「うん」
頷きながら答えるが、その声が妻まで届いたのか自信がない。
 「パパ」と、今度は真子がパジャマの裾をひっぱりながら、手にしていたおもちゃをこちらに差し出す。
 「ばあば、ばあば」
 それは携帯電話のおもちゃで、ボタンを押すといろいろな効果音が鳴るようにできている。
 「ねえ、聞いて。この子、二語文しゃべったのよ、実家で」
 「二語文?」
 「そう。『あめ、食べる』って。単語が二つ並んで、文章みたいでしょう?」
 「そうなんだ」
 おもちゃを子供の手に戻し、ダイニングのカーテンを開けて外を眺める。アパートの駐車場で主婦同士が立ち話をしている。会話の内容が全て聞こえてしまうほどの大きな声で。
 「ねえ、あなた、聞いてる?」と妻。
 「聞いてるよ」
 「じゃあ、何て言った?」
 「真子が、二語文しゃべったって」
 「どんな言葉?」
 「ママ、食べる」
 「ママじゃなくて、あめ、よ」
 妻の語気が荒くなってきているのを感じる。危険な兆候。
 「言おうかどうか、少し迷ってたけど」
 妻は一呼吸置いてから極めて冷静にこう言う。「あなた、最近、おかしい」
 「おかしい?」
 「話しかけても、いつも違うこと考えてる。私の話、上の空で聞いてる」
 「そんなことないよ」
 包丁を動かす手を止めた妻の背中。エプロンの紐が半分ほどけている。
 「朝、あんなに早く起きて本当は何をしているの?」
 「何って、仕事してるんだよ」
 「会社で残業すればいいんじゃない?」
 「残業なんてしたって、給料は変わらない。逆に残ってまで仕事する奴は能力ないって見られるから」
 「私たちに対する関心が、もうなくなってしまったのかなって」
 包丁を再び動かし始める妻の肩は小さく揺れていた。

 その日の夜、いつものようになかなか寝付けないでいた。床に就いてからもう一時間以上その状態だった。首の周りに粘着性のある汗をたっぷりとかき、シーツのどこにも冷えた場所は残されていなかった。妻は何も変わっていない。これは自分自身の問題なのだ。
  妻は背を向けて眠っている。少なくとも自分の知っている限りはずしたところを見たことがないイエローゴールドの結婚指輪が妻の左手に同化している。軽く握った妻の手は粘土細工のように冷たく重い。もう一度、目覚まし時計を見る。二時。アラームが四時五分前にセットされていることを確認してから、妻の手に触れたまま目を閉じる。これで眠れなければ寝ない方がましだ。

 「あなた、七時半だけど、大丈夫なの?」
 妻がとんとんと頬をはたく。目覚し時計のボタンはしっかりと押されている。無意識のうちにまた眠ってしまったのだ。慌てて跳ね起きて髭を剃り、整髪料をつける。この時間となってはどうあがいても完全に遅刻だ。もちろん、食事などしてる余裕はない。

 「途中で、サンドイッチでも買って食べて」
玄関で靴を履いていると、妻は腫れぼったい目をして言う。
 「こんなに深く眠ってしまったのはいつ以来だろう。大体、遅刻なんて」
 「私が昨日、あんなこと言ってしまったから?」
 妻の落ち込んだ顔を見るのは、正直辛い。
 「それは関係ないよ。気にしなくていいから」
 「いってらっしゃい」
 「いってきます」
 妻の頬に口づけをする。妻は表情一つ変えず、俯いたまま受け入れる。「残業しないなら、早めに帰ってきて」
 駅まで小走りしながら、会社に遅刻をする旨の連絡を入れる。電話に出たのはマキだった。
 「へえ、珍しい。遅刻なんて」とマキはからかうように言った。「夜更かしでもしたの?」
 「子供が熱を出してしまって」
 「あら、それは大変ね。あなたも、父親なのねえ」
 「どういう意味?」
 「ううん、ごめん。全然からかってるんだからね。ウソよ。部長には伝えておくから。何かしておくことはある?」
 「してもらったら、今日の仕事、何もなくなってしまう」
 「仕事、もっと探してきてあげようか?」
 「余計なこと、しなくていいです」
 「生意気な新人」
 「それじゃ、よろしく」
 「了解」

 ホームの最後尾はほとんど人がいない。出勤時間がちょっとずれるだけでこんなにも違うものなのか。フレックスタイムのある会社がうらやましい、と正直に思う。同じ鉄道料金を払っているのに。
 久しぶりに背後を気にすることなく電車に乗り、閑散とした座席に座る。車両はざっと見渡しても十人程度で、脚の長い女性も、剛毛な英字新聞も、スワローズ帽の贖罪者もいない。まるで行き先の違う電車に乗り込んでいるようだ。抜けるような青空から差し込む日差しのせいか、いつもの退屈な景色までもが、今日は立体的で鮮やかだ。
たまには遅刻も悪くない。規則正しい脈拍の中で、重たい瞼を静かに閉じる。

 幸福。生活。退屈。日常。平穏。破壊。妻。真子。ネット。愛人。

 そんな言葉の断片ばかりが頭に浮んでは消えている。留保すべきポイントを何も見出せないまま、それらはまるでただの記号のように車窓の景色と共に流れ去っていった。これからの身の処し方を明確にイメージするためには、通勤電車はあまりにも日常と癒着し過ぎていた。

 一時間の遅刻は仕事の進捗に何の影響もなく午後二時には予定のノルマを完了した。部長は出張、マキは銀行回り。一回り年の違う隣の席の先輩は新婚旅行のため長期不在中だ。
 今朝の約束を破ったお詫びをしなければいけない。みうと出会ってから、会話の途中で切断することはあっても、約束を守らなかったことはない。
 ブラウザを起動し、フリーメールに繋なぐ。ログインするまでの時間がやけに長く感じる。
 受信、三件。送信者はすべて「miu」。
 一通目。送信時間は、四時十一分。
 「こうじ、どこ? まだ夢の中かな・・もう少し待ってみます」
 二通目。四時三十二分。
 「今日は無理かな・・・二日酔いですかぁ?(笑) 次の機会を楽しみにしています」
 最後の一通。十三時五十五分。ついさっき届いたばかりだ。
 「こうじへ 写真、送ります。本当に恥ずかしいんだけど、大好きなこうじのために勇気を出しました。うまく撮れてるかな・・・見たらすぐに削除してね。約束だよ。くれぐれもネットに流出させたり、悪用しないように(って、誰がこんな大根足の写真を悪用する?(笑) こうじが少しでも私を感じてくれれば、嬉しいです」

 メールの末尾をスクロール。添付されたJPEG画像。

 それは、ストッキングを履いた細い両足の写真だった。斜め上方から見下ろすような角度で、彼女はベッドに浅く腰掛けて脚を組んでいる。大根足なんて全くの謙遜、逆に華奢過ぎるくらいだ。ベージュでチェック地の丈の短いスカート。薄手のストッキングを通して、色白な彼女の肌が透けて見える。
 右足の内股の黒子に気がついた時には、彼女の大事な秘密を発見したようだった。恥ずかしがりながら撮影しているみうの様子を想像する。改めて、彼女をとてもいとおしく思う。無性に、彼女と話がしたかった。すぐに返事のメール。今朝のこと、写真のこと。そして、明日の約束。

 それから、写真をパソコンに保存し、画像編集ソフトで開く。内股の黒子を拡大したり縮小したり。上司とマキが同時に帰社するのを確認すると、諦めて事業報告書のファイルを開く。開いた後で、既に修正を加えるべきところは一つもなかったことに気が付く。

 夜、久しぶりに妻を抱いた。すぐ側で子供が寝ていたので、お互いに声を押し殺して抱き合った。最中に一度、妻が何かささやいたが、自分にはその言葉がよく聞き取れなかった。真子は我々の動きに反応して何度も寝返りを打った。それでも我々はもうこれを逃すと後がないといったように、ただ黙々とお互いの体を触り合った。
 行為の後は、いつもながら異常に喉が渇く。水出しのウーロン茶を何杯飲んでもなかなか乾きは癒えない。
静かな夜。家具のきしむ音がたびたび鳴る。妻にも飲み物を持っていくと、既に寝息を立てて眠り込んでいる。何度か呼びかけてみるが反応はない。妻も自分に負けず劣らず、疲労している。
 すぐにでも眠りたかったが、眠気そのものが湧いてこない。いつものことだ。目を通したはずの夕刊を再び広げながら、みうのことを少し考える。そして、今更ながら、思う。彼女にもこうして体を重ねる旦那がいるのだ。
 顔が火照るように熱い。大きく伸びをしながら心呼吸する。それから洗面所のぬるい水を一口飲み、ついでに顔を洗う。頭の中は空っぽだった。タオルで顔を拭い、下着を履き替えた。

こうじ>おはよう。よかった、会えて
みう>おはよー。今日は会えたね(笑) お詫びなんていいのに
こうじ>寝坊なんて三歳の頃以来だよ。約束しておいて、本当にごめん
みう>いいのよ、そういうことは、私だってあるんだから

 いつもの朝。いつものコーヒー。いつものサイト。
 結局、その後寝室には戻らず、ソファに腰掛けたままうとうとしているうちに、約束の時間になっていた。体は筋肉痛のように痛かったが、PCを立ち上げると、なぜか眠気は消えてしまった。

こうじ>写真ありがとう
みう>脚だけ写すのにどうしてあんなに緊張したのか、今でも不思議なの
こうじ>写真は、相手を身近に感じることができるからいいよね。とても素敵だったよ。会社でずっと眺めてた
みう>恥ずかしいわ、会社でなんて。他の誰にも見せないでね。こうじだけにして
こうじ>もちろん。誰にも見せたくない
みう>うん
こうじ>^^
みう>ねえ、写真見て、どう思った?
こうじ>どうって?
みう>勃起した?
こうじ>うん
みう>会社で?
こうじ>そうだよ
みう>そういう時、どうするの?
こう>どうって、困るね
みう>あは。可愛い♪

 遠くでサイレンの音が聞こえる。つま先が酷く冷える。畳んだ洗濯物の山の中から靴下を探し出して履く。それから、モニターの上を這う小さな赤い蜘蛛をティッシュで潰す。

みう>こうじ
こうじ>ん?
みう>奥さんと何かあった?
こうじ>どうして?
みう>何か今日は元気ないなと思ったから
こうじ>そんなことないよ。いつも通りだよ
みう>そう、それならいいの。実は、昨日ね
こうじ>うん
みう>奥さんに何か気づかれて、それでチャットできないのかなぁなんて思ったから
こうじ>そんなことないよ、心配しないで。気付かれた時は気付かれたって言うから(笑)
みう>毎日、こんなに早起きしてパソコンしてたら、誰だって怪しむわ
こうじ>SОHОの人たちなんて毎日だよ
みう>あなたはSОHОじゃないでしょ?
こうじ>みうこそ、大丈夫?
みう>私はうまくやってるわ。神経質なのよ。潔癖って言うのかな
こうじ>罪悪感は?
みう>え?
こうじ>感じてる?
みう>それを考え始めてしまったら、何もできないわ。私たちには子供いないから分からないけど、子供がいると余計に感じるんじゃない?
こうじ>まだ何も分からないから、子供は
みう>今、レス少し遅かった。感じてるのね
こうじ>本当に、そんなことないって。ねえ、みう
みう>うん?
こうじ>これからどうなっていくんだろう
みう>どうしたの、急に
こうじ>毎日朝会って、チャットして、それから?
みう>先のことなんて考えたことない。毎朝を楽しみにしてるだけだから
こうじ>会いたい、みう
みう>こうじ・・
こうじ>会ってくれる?
みう>会いたい気持ちも、もちろんあるけれど、リアルで会ってしまったら、この関係が崩れてしまうかもしれないと思うと
こうじ>崩れるって、どうして?
みう>バーチャルにはバーチャルとしての愛の育み方っていうのがある気がする。リアルとバーチャルでは必ずギャップはあるし、ギャップを埋めようとして、みんな失敗する。それは永遠に埋められない溝のような気がするの
こうじ>ネットで知り合った人と会ったこと、ある?
みう>ううん、ないわ。前にも言ったでしょう? ここまで深くチャットしたのは、こうじが初めてだから
こうじ>リアルでみうの温もりを確かめたい
みう>うん、すごく嬉しい。私もそうは言いながら、こうも思う・・実際に会って、自分のイメージがどこまで正確か、確かめてみたいって。矛盾してるけど
こうじ>みうはすごく近くにいる。もう、すぐ側にいて、呼吸の音まで聞こえているんだよ
みう>私もこうじの熱を感じてる・・ねえ、しっかり抱いて
こうじ>みう、愛してるよ
みう>・・こうじ・・

 それからどうにかみうを説得し、週末に会う約束をする。もちろん、チャット相手と会うことなんて初めての経験だ。会ったところで何かが解決するとは思えない。むしろ、今より状況が悪化する予感さえ孕んでいる。みうの言う通り、バーチャルの出会いはバーチャルだけで留めておいた方がいいのかもしれない。けれども、みうと会わずには居られない。顔すら知らない相手とリアルで会って、リアルで抱き合って、どれだけ妄想が自分勝手で恣意的なものなのかを確かめなくてはいけない。
 やけになっているな、と自分でも思う。失望することは目に見えている。しかし今の自分には失望体験が必要だった。これまでの平和な生活には二度ともどれないくらいの、致命的な失望が。
三十二歳、妻子持ち。本能と欲望だけで生きるにはもう遅く、堅実に生きる決意をするにはまだ早い。自分で撒いた種。自己責任。人生おそらく最初で最後の危ない冒険。
 
 渋谷の東急前、午後2時。
 目印は黒のセーターにヴィトンのショルダー。携帯のアドレスを伝えてあるので、うまく会えないようならメールを入れる。履歴なんて彼女の言う通り削除すればいいだけの話だ。
 家には、休日出勤ということになっている。手当は出るのか、と聞くので手当ではなく代休が一日取れる、と答えた。

 「久しぶりにショッピングしようと思ってたのに」と残念そうに妻は言った。
 「急で悪いね」
 「週末は天気いいみたいだし、散歩がわりに、ヨーカドーまで歩いていってみようかな」
 「ベビーカー押して?」
 「うん」
 「三十分以上はかかるよ?」
 白くて華奢な腕を思い切り伸ばしながらベビーカーを押す妻の丸い背中。大型ダンプが唸りをあげて疾駆する傍らの歩道で、彼女の姿は弱々しく、徐々に小さくなる。途中の公園で小休止。子供を乗せたベビーカーを外に置いたまま、卑猥な落書きだらけのトイレで用を足す。公園の管理人が、ごみを拾いながら、トイレの方をちょくちょく見ている。

 「しまじろうショーがあるのよ。あの子、大好きだから。あんまり遅くなるようだったら、連絡して」

 布団をみんな足で蹴飛ばしながら、真子はぐっすりと眠っている。寝顔からは、まるでよその子供のようにどちらの特徴も探し出すことができない。
休日だというのに、昼の渋谷は閑散としている。朝から冷たい風が吹き、若者はそれぞれの凍える手を異性の温もりで温める。目に映る全てのものは、まるでシルクスクリーンのように柔らかく、そして悲しく見える。
 坂を登り、待ち合わせ場所に着いたのは、約束の二十分前。店のトイレで髪型を整えてから、みうが来るのを待つ。
 いつも想像するしかなかった彼女に会える、そう思うと興奮した。みうがきたら、最初に何を話したらいいのだろう。いきなりホテルに誘うわけにもいかない。どこかの喫茶店で、まずはお茶でも飲もう。学生時代よく使った、東急ハンズ通りの喫茶店はいまでもあるのだろうか。

 そんな想像をしている間に約束の時間となるが彼女は現れない。メールにも何の連絡もない。アドレス、間違って教えてしまったのだろうか。
足元には半ダースほどの煙草の吸殻。何度もメールを送るが返事はない。どうしたのだろう。外出できず、メールも打てない状況にあるのだろうか。例えば、旦那にばれてしまったとか。
 それから、さらに三十分待つが、何一つ状況は変わらない。

 内股の黒子。

 あと、十分待ってこなかったら、諦めよう。足元の吸殻を丹念に拾い、火が確実に消えていることを確認してから灰皿に捨てる。こんなことなら、一本ずつ灰皿で消せばよかった、と後悔。
 道玄坂の人並みは、日が傾き始めるのを待っていたかのように、急激にその人口密度を増している。

 「期待の新人君」
 声をかけたのはマキだった。シネタワーの前。細いメンソールをくわえながら。
 「こんなところで意外ね。最愛の奥様とお子さんは?」
 「自宅です」
 「妻子を家においてきて、旦那は愛人と密会ですか?」
 「愛人なんて、まさか」
ずばり指摘されると、後ろめたく思っていなくてもどきり、とする。「大学時代のゼミの友達が上京してるので会う約束をしてたんだけど、急用でこれなくなったって。今、帰るところ」
 「奥さんには遅くなるって行ってきてるんでしょう?」とマキは煙草を足で消す。エナメルのヒール。白のワンピース。
 「映画、一緒に見てくれない? 一人じゃ寂しくてさ」
 「旦那さんは?」
 「あの人は休日いつも仕事だから」
 寂しげな素振りも見せずあっさりそう言うと、マキは腕時計をちらと見ながら、何のためらいもなく手を引く。「あと十分で始まるの。ねえ、付き合って。お願い」
 「チケット買わないと」
 「二枚あるわ」マキはショルダーバッグを開ける。
 「誰かと待ち合わせだったんじゃない?」
 「違う」
 「一人で映画を見に来てるのに、どうして二枚持ってるの?」
 「なぜか知りたい?」
 「いや、別に」
 「意地」

 エレベーターを降りると、彼女は売店で生ビールを買った。長い一日になりそうだな、他にすることもないので、差し出された好意を仕方なくあおる。
 映画を観た後、我々は宇田川町で食事をする。キャスティングミスについてマキは指摘するが、何も答えることができない。映画はろくに見ていなかったからだ。意識はスクリーンのもっと向こう側にあった。自分はただ、映画館で三杯のビールを飲み、全てその場で小便として出しただけだった。
 マキは酔って、店を出ると自分の足に躓いていた。あまりにも危ないので、マキの腕をちょっと抱え、腰に手を当てる。
 「ちょっと休んでいってもいい?」とマキは言う。「終電までには帰るから・・・私の方がここからは遠いんだよね」
 「どこで休むの?」
 「ホテル」と彼女は臆することなく言う。
 「参ったな」
 時間を確認する。駅へ引き上げていく人の波を羨む。
 「熱いシャワーを浴びればすっきりするから。一人で入るなんて勇気いるでしょ? まさか置き去りなんて酷いことしないわよね、会社の先輩に対して」
 どんなに酔っていても、口調だけはしっかりとしている。会社、という言葉が、頭の中で大きくうねる。
 「電話だけしておいてもいい?」
 「もちろんよ」
 妻に少し遅くなりそうなので先に眠っていていいから、と伝える。電話の向こうで、真子が激しく泣いている声が聞こえたが、電話越しの妻はまるで子供などいないかのように落ち着いていた。
 「どうしたの? 奥さん、怒ってる?」
 「別に。何も怒ってないよ」
 みうからのメールが入っていないことも、ついでに確認。

 そして我々は人波とは反対の方向へ歩き始める。その間ずっと、マキの手の甲を親指で撫で続ける。彼女の指は思ったより華奢でちょっと強く握ったら壊れてしまいそうだった。マキは何も言わず、嬉しそうにこちらの顔ばかりを見ている。時々、マキの腰を強く自分の元へ引く。ん、彼女はその都度足がついてこなくてよろめいている。どうしたの、とマキに聞かれても、聞こえないふりをしている。

 どうしようもなく、やけになっている。
 「あなた、本当に私のこと、嫌いなのね」
 ベッドの中で、マキは寂しそうに呟く。
 「そんなことないよ」
 頭の中がぼんやりしていて、しゃべったした後にその意味を考えなくてはならない状態になっていた。早く家に帰って、何も考えずにぐっすり眠りたい。
 「前から感じていたけどさ」
 マキは布団をはいで、裸のまま煙草を咥えている。つい先ほど、男をくわえたその同じ口で。口紅の剥げた彼女の唇は少し荒れていてささくれている。胸は会社の制服の上から見るとかなり大きく見えるが、行為の後ではそれほどでもなかった。
 「素敵な脚。そんなところに黒子あるんだ。何だかいやらしいね」
 「脚は脂肪ばかりで恥ずかしいわ。この黒子、結構気に入ってるのよ。でも、そんなにじろじろ見ないで」
 マキの左手はいつまでも萎えた下半身の上に置かれている。無性にみうと話したかった。明日の朝、彼女はきてくれるだろうか。
 「一つ、忠告」とマキは突然言う。「仕事中の私的なパソコン使用は止めましょう」
 「え?」
 「仕事中のネットは厳禁よ。あなた、ちょっとやり過ぎ」
 「知ってるの?」
 気付かれないように気を使っていたつもりだが。
 「ログ管理始めたのよ」と、マキは心配そうにこちらの顔を覗き込む。
 「そんな管理、誰がしてるの?」
 「私」
 ゆっくり煙を吐きながら、マキは灰皿をこんこんと叩く。「前職、SEだって言わなかったっけ?」
 「それは知らなかったな。誰かに報告でも?」
 「部長にね」
 「随分、信頼されてるんだね」
 「二十年もあの部長の下でやってるのよ。私とあの人くらいしかいないから、会社でネットワークわかる人。業務命令。あなたの履歴は削除してから報告するから安心して。もう一人、真田君は新婚旅行なんて行ってる場合じゃない。帰ってきたら、すぐにお呼びかかるわ。あの部長、要注意人物その一だから、気をつけた方がいい。いつか刺されるわよ、油断してると」
 「これからは繋なげないな」
 「プライベートなネットは駄目ってことよ」
 別にどうなったって構いやしない。会社に行かない生活。それならそれで、事態は好転するような気もする。何よりも、朝のあの脂汗をかかずに済むのだから。
 「ところで、あれはチャットサイト?」
 「そう」と、素直に認める。
 「どうせ、いやらしい話ばかりしてるんでしょう?」
 「分かる?」
 「分かるわよ」彼女はくすっと笑った。
 「会話のログまで見られてるみたい」
 「うふふ。それは内緒」
 彼女は一時たりとも、下半身から手を退けようとはしない。灰皿に置きっぱなしの煙草の煙が目にしみる。
 「そんな顔しないでよ」とマキはこちらの目を見て言った。「もう二度と、誘わないから」
 空気は二人分の大人の汗と息で重く澱んでいる。酒はもう完全に抜けてしまった。ソファに脱ぎ捨てられたままのストッキングが、プレスされたニシキヘビのように見える。
 時間が経てば経つほど、マキと寝たことへの後悔は大きくなっていった。

 次の日、いつも通り四時に起きるものの、体が死んだセイウチのように重い。その日は先に髭を剃り、洗顔クリームをつけて顔を洗う。それからPCを立ち上げ、メーラーを起動。受信一通。みうからだった。送信日時は夜中の一時。

 「昨日はごめんなさい。最近、夫の体が少しおかしくて今度精密検査を受けることになりました。仕事ばかりでかなり無理してたから。もしかしたら私も覚悟しなければいけなくなるような重い病気かもしれません。私は彼を愛してるし、彼を支えるのは私しかいないと思っています。昨日はとても落ち込んでいて・・・。こうじも、奥さんや子供が悲しんでいたら、辛いでしょう?
 一方的な話でごめんなさい。でも、こうじと出会ってから毎日が楽しくて、どきどきして、こんな経験はもう二度とできないかもしれない。こうじは、とても素敵な人でした。こうじと知り合うことができて、本当に良かったと思ってるよ。
私はネットの世界にしか住めないようです。ネットの世界でしか、こうじに愛してもらえない。奥さんとお子さん、大切にしてあげてね。こうじも、体には気をつけて。若い人の成人病、流行ってるみたいだから。

 追伸 こうじに誉めてもらった脚の写真、最後に送るね。内股の黒子のところ、少しピンク色なんだけど、どうしてか分かる? 写真は後で必ず削除しといてね。 みう」

 内股の黒子?

 みうからのメールを何度も読み返す。ぼやけたわだかまりの澱が、少しずつ肥大していくのを感じる。写真をモニター一杯に拡大しながら、昨日のマキとのことを思い返す。心臓が激しく鼓動する。興奮というより、動悸に近い。
 襖を開ける音。妻だ。眩しそうに瞼を半分開けながら、「毎朝大変ね」と言って、トイレに向かう。カップをもう一つ出してコーヒーを注ぐ。「飲む?」と手を洗っている妻に聞く。「うん」と妻は答える。

 「昨日は遅かったのね」
 「追い込みの時期だからね」心臓の震えはまだ止まらない。
 「休日出勤の後くらい、一息つきたいよね」
 粉ミルクを入れてぐるぐると掻き混ぜる妻。ブラジルコーヒーが瞬く間に明るいキャラメル色に変わる。
 「会社を辞めたいって言ったら、どうする?」

 自分で言ったくせに、自分で驚いている。こんな早朝に、ちゃんと目覚めてもいない起き抜けの相手に言うべきことではない。
 けれども、妻は表情を変えず、いつまでもコーヒーを掻き混ぜている。こちらも、彼女の言葉をじっと待つ。それからじゃないと、どこにも行けない気がした。やがて妻は一度顔を上げてこちらを見、それからスプーンを置いて、ねじれ模様の結婚指輪を指の中で回す。

 「本当にいやなのね」と妻は言う。「でも、あなたが今のところを辞めて、それで私たちが幸せになれるなら。私も働けば何とかなるわ。真子のことは大丈夫、心配しないで」
 それだけ言って、妻は口を噤む。意外な言葉に、言おうと思っていたことを忘れてしまう。頭の中の血液がさっと下に下がり、余分な体の力が抜けていく。妻はここで初めてカップに口をつける。コーヒーはもう冷めている。さっきカップに入れたばかりなのに。

 いつもより一時間も早い電車に乗り、駅の売店で買った封筒と便箋に「一身上の都合」とだけ書いて、部長の机に置く。誰もいない事務所の中は、ОA機器の匂いがひときわ強調されている。マキの机の足元には様々なファッション雑誌が無造作に積まれている。何かメモでも置いておくべきか悩んだが、これ以上かかわらない方がお互いのためにも良いと思い止めにする。ただ一つの懸念は、離職票を作成してくれるかどうかだけだ。

 それからオフィスを出て、駅前にある二十四時間営業のインターネットカフェへ向かう。こんな時間でも、多くの人々が簡易に仕切られたブースの中で思い思いにパソコンやテレビに向かっている。学生やスーツ姿、なかには白髪交じりの老人や若い中学生くらいの女の子もいる。

 無料の紙カップのコーヒーを入れ、一番端の席に座る。チェーン店にしてはずいぶんスペックのいいデスクトップだ。回線もストレスを全く感じさせない。検索サイトから、例のチャットルームに接続。雑談部屋には、はるきというハンドルネームの男以外だれもいない。待機メッセージ「軽く雑談」。彼は4時に起きて繋ぐといつもいる男だ。一体どういう生活をしているのだろう。「入室」とかかれたボタンをクリックして、自分のハンドルネームを入れる。
リセットボタンは押された。自分の人生。妻の人生。子供の人生。最初にすべきこと、それは昼間の月が白いということと同じくらい明らかだ。

 職探し。

 カーソルを待機メッセージの入力欄に移動。指が手癖のように勝手に動き出す。エンターキー。

 ルーム1 「こうじ 既婚同士で話しませんか?(都内・30代)」

 もう一つブラウザを開いて、自分の待機メッセージを確認。雑談部屋には、自分以外もう誰一人いない。たった今いたはずのはるきでさえ。水のように薄いコーヒーを啜る。液晶モニターに手垢がたくさんついていたので、ウェットティッシュで拭く。隣の部屋から独り言が聞こえる。それは呻き声といってもおかしくない。しかし、他の誰も彼に関わりあおうとはしない。まるで彼の存在など、最初からないかのように。

 モニターには何の変化もない。ただ、自分一人が待機している。次に一体どんな相手が入ってくるのかは検討もつかないが、最初の一人でお終い。それだけは絶対に守らなくてはならないルールだ。
 カフェの中は全くといっていいほど物音がしない。マウスをクリックしたり、キーボードを叩いたり、大きくあくびをする音さえ。








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