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La lune froide - 凍れる月の唄 - 作者:浅海

二章 剣を求めて

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第一節 ミュスカデル

「本当にここまででいいのかい?」
「はい。……ありがとうございました」
 心配そうに確かめる年配の商人に深々と頭を下げ、リュヌは馬車の荷台を降りた。枝分かれした街道の左側は遥か平野の彼方へと消えているが、右側は程なくして高い城壁に突き当たる。その向こう側が、イヴェール『皇都』ミュスカデルだ。
「皇都まで送ってあげてもいいんだよ」
「いえ、ここまで乗せてもらっただけで十分ですから」
 後は歩いていきますと、浮かべた微笑がぎこちないものにしかならないのは自分でもよく理解していた。あれから三日――サリエットから西の山脈の麓へ向かうというヘルプストの行商人の馬車に同乗させてもらい、リュヌは皇都を目指していた。あの夜、どのようにして森を抜けたのかは最早定かでないのだが、恐らくは道なりに歩いて反対側に出たのだろう。朝になって気が付いた時には、サリエットの街の外壁に寄り掛かっていた。そこを、街を出ようとしていた行商人に発見されたのがこの馬車旅の始まりだった。
 聞けば、エーレル襲撃の報は瞬く間に小さな街を駆け巡ったという。それはエーレルから逃げてきた――そのほとんどは、サリエットで力尽きたそうだが――わずかな人間からの伝聞によるもので、何が起きているのかも分からぬまま、街人達は目の前の危機から逃げ出そうとパニックに陥った。皇都からの情報が入って来たのは、エーレル襲撃から実に二日が経過した後のことだ。
 気のよい外国商人が把握している所によると、あの日、エーレルを襲ったのはイヴェール皇国にとっては因縁深い『仇敵』、スプリング王国の軍であったらしい。
 スプリングの軍勢はイヴェールの東端を守るコワン砦に侵攻し、駐屯していた皇国軍第三師団を壊滅した。それがどのようにして成されたのか詳細は知る由もないが、敵はその勢いのままに北進し、進路上にあったエーレルを焼き討ちにした上、食糧を奪ったのだという。
「どうして今になって急にね」
 溜息を交えて、ヘルプスト人は言った。これにはリュヌも全く同感だった。いくら小さな村で薪を割り続けるだけの身とはいえ、最低限、自国と他国の大雑把な関係くらいは把握している。
 中央洋を挟んで北に位置するノルテ大陸と、その南部を統治する祖国イヴェール。一方南に広がるスール大陸は、東部をヘルプスト連邦、中央から西部をスプリング王国がそれぞれの国土としている。そしてその南の大国スプリングこそは、長年イヴェールと争いの歴史を繰り返してきた敵対国家なのである。
 とはいえここ数十年の間、イヴェールとスプリングとが本格的な衝突に至ったことはない。両国が最もその国土を接する大陸東部の海峡は季節によって地続きの『海の道』に変わるため、時には小競り合いが起きることもあったが――そして多くの場合、それらの紛争はスプリング側の行動に端を発しているのだが――第三師団壊滅ともなると、状況は『いつものこと』では済まされない。きっかけが何であるかは不明だが、スプリングは間違いなく、イヴェールへの本格侵攻に舵を切ったのだ。
 敵軍の次なる目的地は、恐らくミュスカデルであろう。皇都など生まれてこの方訪れたこともない少年には行く宛ても頼る相手もなかったものの、家を捨て逃げ出すサリエットの人々に追従するしかなかった。
 親切な行商人と別れの握手を交わしてから、リュヌは城壁へ向き直った。痛めた足は適切な治療を受けられずに青く鬱血していたが、今は我慢するしかない。
 城門の元へ辿り着くまでにはそこからしばらくの時間を要した。しかし着の身着のまま、片足を引きずって歩く少年に対して、城門を護る衛兵達は至極同情的だった。エーレルからの避難民であることを打ち明けると、誠実そうな衛兵は悔しげに表情を歪めた。
「気の毒に、辛かっただろう。万全の体制とは言えないが、街区の西側にキャンプを設けてある」
 まずはそこへ行ってみなさいと、そう言って衛兵は門を開いてくれた。背中で重い扉の閉まる音を聞くや、どっと疲労が押し寄せてくる。
 涙は出てこなかった。ひとまず助かったという安堵の他は、ただ只管に空虚だった。

 ◇

 門の衛兵が言っていた通り、街区西側の片隅には、小さな難民キャンプが設けられていた。と言っても、人の数はそう多くはない。サリエットから逃げてきた者の多くが皇都の縁者を頼っていることに加え、エーレルから逃げ出して生き延びた者がほとんどと言っていいほど存在しなかったからだ。
「あら……避難者の方ですか?」
 見慣れない顔に気付いてか、天幕の前で兵士と話をしていた女性が声を掛けてきた。年は二十台半ばほど、眼鏡を掛けた中々の美人で、身に着けた白衣から推察する
に医療関係者だろう。はい、と手短に頷くと、女性の視線が足元に落ちた。
「可哀想に……その足でよくここまで逃げていらっしゃいましたね。ええと……お名前は?」
「リュヌ!」
 しかして答えたのは、少年ではなかった。そして恐らく、答えたつもりもなかったであろうその声には、聞き覚えがあった。
 琥珀の瞳を見開いて、少年は声のした方を振り返る。天幕の傍らで放心したようにこちらを見詰めているのは、亜麻色の髪、群青の瞳――間違いなく、コレットだった。
「コレット……!」
 無事だったのか。しかし言葉を発する前に細い体がぶつかってきて、少年はその場に尻餅をついた。何をするんだと普段なら怒っている所だが、とてもそんな気になれなかった。目の前に蹲ったコレットはいつもの強気が嘘のように、ぼろぼろに泣きじゃくっていたからだ。
「よかった……無事でよかった……! あたし、もうみんな死んじゃったのかと思ったのよ!」
 こっちの台詞だと言いたいのを堪えて、地面についた手を握り締める。もう出ないものだと思っていた涙が溢れて、ぱたぱたと石畳に染みを作った。
「お祭の準備をしてたら、夕方、突然あの人達がやって来て……」
 漠然と想像はしていたものの、コレットが話すあの日の出来事は、やはり耳を塞ぎたくなるような代物だった。
 豊穣祭の準備に追われる村全体を炎が包み込んだのは、日暮れ近くになってのこと。突然のことで訳も分からず村人達は逃げ惑ったが、村の入り口は武装した兵士達によって固められ、刃向う者はおろか逃げる者も、助けを請う者も、分け隔てなく殺された。そんな中、花環作りのため納屋の中にいたコレットは、数人の村娘達と共に村の裏手へ逃げたのだが、そこにも兵士達が待ち構えていた。散り散りに逃げてどうにか彼女は森へと逃げ込んだが、他の娘達がどうなったのかは解らないままだという。
 嗚咽を交えて吐き出す少女の言葉を、リュヌは頷きながら聞いていた。彼女の無事は救いであり、喜びでもあったが、同時にその口から語られる真実には胸が痛んだ。
 その後サリエットを経由して、一人皇都までやってきたという一連の経緯を話し終えると、コレットはぐいと涙を拭った。――そして、少年が最も恐れていたことを口にした。
「ソレイユちゃんは? 一緒に来たんでしょ?」
 なりかけの瘡蓋を、一息に剥がされたような思いだった。遅かれ早かれ話すしかないことは解っていても、苦しいことに変わりはない。
 妹の最期を思い出す。
 血と煤の嫌な臭いが甦る。
 そしてあの男の――獣じみた声が、耳の中で木霊する。
「リュヌ? どうしたのよ? ……なんで黙るのよ」
 一緒に来たんでしょ。
 繰り返す声が震えていた。無言が何を意味するのか解らないほど、彼女も子供ではない。嘘でしょと零れる涙声を、止めることなどできなかった。
「……あの、すみません」
 泣き出したコレットを前にどうすることもできずにいると、白衣の女性がおずおずと声を掛けてきた。話の途中だったことを今更に思い出して、すみませんと慌てて侘びた。
 しかし彼女は、首を緩く横に振った。
「どうか気を強く持って下さい。このミュスカデルは、皇国軍第一師団が守りを固めています。きっと皆さんを守って下さいますから……どうか」
 菫色の瞳はいつの間にか、涙に潤んでいた。慰める言葉が見つからなかったのか、女医は先を継ぐことなく、深い溜息をついた。
 無理もないことだ、とリュヌは思う。自分が逆の立場であっても、慰めが意味を成さないことくらいは分かるだろう。
「落ち着いたら、あちらの天幕へいらして下さい。怪我の治療をさせて頂きますから」
 では、と小さく頭を下げて、女性はその場を去って行った。華やいだ皇都の風の中で、少女の嘆きだけが別世界のもののように聞こえていた。
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