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La lune froide - 凍れる月の唄 - 作者:浅海

第一章 豊穣祭

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第一節 目覚め

挿絵(By みてみん)
「お兄ちゃん! ……お兄ちゃん、起きて!」
 頬に触れた指の冷たさで、少年は薄らと目を開いた。寝起きのぼんやりとした視界に、真っ先に飛び込んで来たのは天井の木目。琥珀の瞳を巡らせると、ベッドの上に身を乗り出したソレイユが困り顔で見詰めていた。
「うぅ……もう朝……?」
「そうだよ! もう起きて、お祭りの準備を手伝わなきゃ!」
 もだもだと抵抗する兄から無理矢理毛布を引き剥がし、ソレイユは呆れたように言った。
 今日は年に一度の豊穣祭――娯楽という娯楽のない農村にあって、村人達が心待ちにする数少ない行事だ。準備のために昨日は一日中薪を割っていた。それで疲れて、早々に眠ってしまったのではなかったかと少年は思い出す。
「起きた? 起きたよね。じゃあ、私はお料理の支度を手伝いに行ってくるけど……」
 朝ご飯は用意しておいたから、ちゃんと食べてね。
 食べ終わったら、お祭りの準備を手伝いに来てね。
 二度寝しちゃだめだからね!
 軽やかに三つ釘を刺して、妹は足取りも軽く少年の部屋を出て行った。寝癖のついた髪を掻いて、少年はのそのそとベッドから起き上がる。
 今から十六年前、少年は木こりの父と、村娘の母との間に生まれた。リュヌという名前は、黒髪に輝く琥珀色の瞳が夜空の月のようだから、と母がくれた。妹が生まれたのは、リュヌが六歳の時のことだ。母親譲りの燃えるような赤毛に因んで、ソレイユと名付けられた。
 それから数年と経たない内に、両親は性質の悪い病気をこじらせて他界してしまったが、以来、兄妹は互いに支え合いながら生きてきた。幸いこの小さな農村にあっては、親を亡くした幼い兄妹に差し伸べられる手は多く、衣食に困るということはなかった。幼い頃から自立した生活を余儀なくされたためか、ソレイユなどはまだ九歳になったばかりなのに、大人のようにしっかりしているとリュヌは思う。
 時に母のように世話を焼いてくる彼女のためにも、自分がしっかりしなくては。予々そう思ってはいるのだが、秋も入りの穏やかな気候と陽射しは抗い難い眠気を運んでくる。
(二度寝しちゃ駄目、か)
 普段なら一度は無視して毛布に潜り込んでいる所だが、今日は少し特別な日。一つ大きく伸びをして、リュヌはようやく立ち上がった。
 エーレルの村は、大陸東部に広がる平野の只中にある。農耕に適した豊かな土と、狩場に適した森と川。それ以外には何もない辺境の地だが、農民達が生きて行くのには十二分だ。階下へ続く梯子を降りると、食卓の上にはスクランブルエッグとバケットがきちんと並べられていた。大抵の場合、それらの朝食は――主に、リュヌの寝起きの悪さがゆえに――冷め切っているのだが、一日の始まりには欠かせないものとなっている。
(祭の準備って言ったって、もうほとんど終わってるじゃないか)
 とはいえ村中の女性達が料理に飾りつけにと奔走するのを、ぼうっと眺めているのも気が咎める。手短に食事を終え、汲み置きの水で顔を洗っていると、ドンドンと扉を叩く音がした。
「リュヌ! 起きてるー?」
 コレットだ、と、少年は嘆息した。声に覚えがあるのは言うに及ばないが、いくら小さな村とはいえ、太陽もまだ低い内からああも遠慮なく民家の扉を叩く人間はそういない。二度寝してるんじゃないでしょうね、と続く言葉に慌てて濡れた顔を拭き、リュヌは足早に扉へと向かった。
「もう、何してるのよ! ソレイユちゃんに起こされたんでしょ!?」
「うん、起こされた」
「あれからどんだけ経ったと思ってんの!?」
 紺色のエプロンドレスの腰に両手を当てて、少女は喚いた。肩につくほどの亜麻色の髪を両頬の脇で結った姿はいかにも歳頃の村娘だが、一方でくりくりと動く群青の瞳は快活で強気な印象を与える。家が隣ということもあり、特に両親が亡くなって以降、彼女とその両親とは家族ぐるみの付き合いであるのだが、いかんせん、その分遠慮がない。
「みんな忙しいんだから、早く手伝ってよ」
「薪なら昨日一生分割ったよ……」
「薪割だけが仕事じゃないの!」
 憤慨したようにもっともなことを言って、コレットはリュヌの手を引くや扉の外へ引っ張り出した。外気は窓ガラス越しに感じたよりもやや冷たく、北国の秋の訪れを思わせる。
「それじゃまずは水汲み! ソレイユちゃんの所に新しいお水を持って行ってあげて。うちの台所で、ママを手伝ってるから。それが終わったら薪運びとテーブルの準備よ!」
「えぇ……」
「嫌そうな顔しないの! しょうがないじゃない、男手が足りてないんだから!」
 しっかりね、と水汲み用の木桶を押し付けて、コレットは慌しく去って行った。彼女は料理下手だから、多分、納屋で花環を作っているのだろう。はぁ、と深い溜息をついて、リュヌは井戸に向かって歩き出した。

 ◇

 森を抜けて来る風は冷たく、青い匂いに溢れていた。半ば微睡の中にあった意識が覚醒してくると、実に様々なものが目に飛び込んでくる。テーブルにクロスを広げ、花を飾る女達に、狩で仕留めた獲物を提げ、調理場の扉を叩く男達。その誰もが、祭りの前のそわそわとした空気に浮かされて、その忙しなさを楽しんでいるように見える。手伝いに飽きた子供達は群れになり、棒切れをかざして騎士の真似事に興じていた。リュヌはといえば同性の遊び相手がいなかったせいで、彼らほどの年の頃はコレットのままごとに付き合わされていたものだが。
「われこそは神鳥の騎士――」
 幼い少年が棒切れをかざし、名乗りを上げた。しかしその名を聞き取ることはできなかった。おはようございます、という抑揚のない声が割り込んできたからだ。
「ルネ」
 意外そうに円くした瞳の中にはまた、別の少女が映っていた。
 腰まで届く艶やかな菫髪と涼やかな顔立ちが人目を引くのとは対照的に、寡黙で、どちらかといえば一人本を読むのを好む。ルネはそういう少女だった。しかし、だから驚いたという訳ではない。彼女がこの村にいること自体、リュヌにとっては驚きであったのだ。
「帰ってきてたの?」
「ええ、もう何日か前に。といっても、ほとんど家に籠っていましたから……」
 知らなくても無理はないですねと、感情の起伏に乏しい声でルネは言った。
 士官学校へ行くと告げ、彼女が村を出たのは四年も前のことだ。最初の一年目は長期休みに戻って来たが、移動の煩雑さもあってかそれきり姿を見なくなっていた。その彼女がいつの間にか村に戻って来ていたのだから、多少の驚きは禁じ得まい。
 彼女が皇都で何を学んでいるのかということについて然したる興味はなかったが、コレット達から聞くところでは、皇国軍戦略室への配属ををめざし、兵法を学んでいたというから人は見かけによらないものだ。
「でも、どうして? 卒業したら皇都で働くんじゃなかったの?」
「その予定ですよ。ただ、家に残した物もありますから……」
 小さい頃に一度だけ、ルネの自宅に入ったことがある。宮仕えの文官だった彼女の祖父が、隠居して移り住んだという村の南の一軒家だった。家中いたる所に築かれた本の山は、ろくに勉強もしていない少年にとっては物珍しく映ったものだ。彼女はきっと、そういう荷物を取りに帰ってきたのだろう。
「じゃあ、またここを出てくの?」
「ええ……そうですね。豊穣祭も、これが最後になると思います」
 そう言って、才媛は瞳のサファイアを細める。寂しくなるねと笑い掛けると、くすりと笑って『ええ』と繰り返した。会話はそれで終わりだった。

 ◇

 家に戻るというルネと分かれ、リュヌは井戸へ向かった。備え付けの小さな桶を水に沈めては引き上げ、コレットから預かった空の木桶を満たしていく。しかしいざ運ぼうと顔を上げた瞬間、目的の人物が道の向こうからやって来た。
「お兄ちゃん!」
 空に似た瞳を輝かせて、ソレイユが呼んだ。あれ、と呆けた声を零し、リュヌは駆け寄ってくる妹に向き直る。
「コレットのおばさんを手伝ってるんじゃなかったの?」
「うん、手伝ってたよ。それで、おばさんからお使いを頼まれたの!」
「お使いって?」
 コレットの母の恰幅のよい、人のよさそうな顔を思い浮かべながら、リュヌは尋ねる。すると元気一杯に頷いて、ソレイユは続けた。
「村長さんがいつも飲んでるお薬をね、サリエットまで取りに行かないといけないんだって。でも、大人はみんなお祭りの準備で手が離せないから、代わりに行ってきて欲しいって言われたの」
 サリエットというのは、西の森を挟んでエーレルとは反対側にある街の名前だ。自給自足で事足りている食料とは異なり、薬を含む日用品や雑貨などは森の向こうの辺鄙な村には届きにくいため、皇都側に位置するサリエットはエーレルの人々にとって重要な流通拠点となっている。とはいえ森には獣もいるし、十歳にも満たない少女を一人で行かせる道ではないのだが。
「一人じゃ危ないだろ?」
「もちろん、だからお兄ちゃんについてきてもらうのよ!」
 にっこりと笑って、ソレイユは兄の傍らに回り込むと、重たげに提げた水桶の持ち手に手を添えた。手伝ってあげる、と屈託のない笑顔を向けられては文句も言えず、少年は思わず苦笑いを返した。

 ◇

 隣町サリエットまでは、徒歩で往復に半日ほどの道程だ。片道の約半分はエーレルの西側に広がる森を縫うように行かねばならないが、爽やかな秋の陽気は人間に対して攻撃的な獣達をも大人しくさせるのか、道中は至極穏やかなものであった。森を抜ければ後は一本道だ。緩やかに登っては降りを繰り返す緑の平野には街道が敷かれており、西に向かってしばらく歩けば煉瓦の街並みが浮かび上がる。
「楽しそうだね」
「そう?」
 傍らで足取りを弾ませる妹を見やり、リュヌは言った。聞き返す声が朗らかなのはいつものことではあるが、それにしで今日は機嫌がいいらしい。何かいいことでもあったのかと尋ねると、妹は少し恥ずかしそうに笑った。
「前にね、パパとママにサリエットへ連れてきてもらった時のことを思い出してたの」
 病で両親を亡くす一年ほど前になるだろうか。木こりだった父が薪を売りに行くのに、家族揃ってついて行ったことがある。その日はソレイユの誕生日だったので、サリエットの酒場で食事をし、新しい服を買って家路についた。家族でささやかな贅沢をしたことと言えば、あれが最初で最後だったかもしれない。
「……なんか、ごめん」
 急に申し訳ない気持ちになって、リュヌは地面に視線を落とした。両親を失ってそれでも健気に生きる妹はこんなにしっかりしているのに――そう思うと、日々寝坊してばかりの自分の体たらくが途端に悲しくなってくる。
「どうしてお兄ちゃんが謝るのよ」
 お兄ちゃんのせいじゃないわと、ソレイユは笑って道の先へ駆け出した。赤い髪を結ったリボンと若草色のスカートが、ひらりと揺れて像を残す。足早に後を追う兄に向けて、少女は満面の笑みで言った。
「パパとママを懐かしく思うことはあっても、寂しいって思ったことはないのよ。だって、私にはお兄ちゃんがいるもの」
 幼さゆえに向けられる真っ直ぐな言葉と好意は、思春期の少年には少々こそばゆい。上手い言葉を見つけられずに、リュヌは妹の手を握った。サリエットの街は、もう目前にまで迫っていた。
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