空飛び妻・その⑤
たぶんそうなるだろうと思ってはいたけど、実際に起こってみると、そのショックは大きかった。
これまで何人のα系の夫たちが、俺と同じやり場のない敗北感を味わったことだろう。区役所や市役所や町役場の会議室で。私はぬいぐるみもどきのクマもどきに負けたのだ、と。その足下にも及ばなかったのだ、と。当然のことマユミは俺の気持ちを知っていたわけだから。
でも考えてみればそれは致し方のないことではあった。相手はただのクマではないのだ。それだけが唯一我々α系夫たちに残された救いだ。
優しい斎藤さんの細い目が、あのときばかりは憐れみの視線を投げかけているように感じられた。もしかしたら彼も一度は俺と同じ敗北感に苛まれた経験があるのかもしれない。いいやきっとあるだろう。α系夫であるのなら。誰だって最初から異星人の子供を出産するのに諸手をあげて賛成する男などいないはずだ。だからこそあの日、斎藤さんは再会した俺に「同士」と呼びかけたのだ。たぶん俺を昔の自分と重ね合わせて。
その日も区役所主催の社会活動に参加する予定だったマユミを残して、一足先に帰宅した。まだ昼には時間があったけど、冷凍チャーハンをレンジでチンして一人寝室で食べた。モンスターマユミが留守でも用心のために台所では鼻栓にマスクをした。食事前に気分が悪くなるのだけは避けたかった。
食事中にマユミからメールがとどいた。スマホの画面をタッチして開いてみると、そこに彼女のコメントはなく、どこかのサイトのアドレスとそのパスワードらしい8桁の英数字が並んでいるだけだった。区役所でお互いに相反する意思確認のあとだったし、おまけにコメントがないのが余計に気になったから、すぐにそのアドレスをタッチしてみた。
そこには嬉しい情報があった。そこには俺がずっと探し求めていた空飛び妻の真実の声が詰まっていた。スマホ画面にあらたにあらわれたのは、空飛び妻専用の動画サイトだった。
これまで情報収集のために何度もネットで検索したけど、疑いなく空飛び妻自らが発信したと思える情報がヒットしたことは、海外のサイトを含めて、一度もなかった。あるのは噂レベル、憶測、偽情報ばかりで、正しい決断をしようにも信頼できる判断材料がまったく手に入らない状態だった。世界レベルで、あるいは宇宙レベルで、「空飛び妻」が検閲対象になっているのはまず間違いなかった。
それはグーグルで検索してもでてこない、パスワードを知っている空飛び妻とその近親者のみが入れるサイトだった。一見したところ動画は海外のものばかりで、文字もすべて英語表記になっていた。俺はとりあえず画面に一際大きく表示された、サイトの一番上にある動画を見てみることにした。たぶんマユミは俺にそうしろと言っているのだろうから。
画面に広い公園のような場所が映っていた。緑に囲まれた日当たりのいい郊外の広場らしかった。東京でもありそうな風景だったけど、空気が乾いている所為なのか、どこか淡い色に変色した古い記録フィルムを見ているような趣きがあった。
カメラが横移動すると、芝生に立っている一人の女性の姿を映しだした。英語の説明を耳にするまでもなく、彼女が海外の空飛び妻であることはすぐに分かった。ワンピースに黒いリュックは、空飛び妻万国共通のアイテムだから。虹色にプリントされたカラフルな袖から覗いた白い二の腕は、マユミのそれよりずっとたくましくて、淡い谷のナウシカのようだった。
たぶん歳はマユミと同じぐらいだろう。ニット帽が好きなところも似ていた。彼女が被っていたのは薄手のグレー色したニット帽だった。
ちょくちょく横から入るテンションの高い男性の声は、おそらくカメラマン役の彼女の旦那だろう。姿は見えないけど声の感じからして、彼も俺とそう歳が違わないように感じた。ニット帽を被った空飛び妻の名前はケイトというらしかった。場所はアメリカのボストン近郊と言っていた。
ケイトはカメラに笑み見せながらなにごとか喋っているけど(たぶんこれから自分がなにをしようとしているのか説明しているのだ)、英語なので残念ながらすべてを理解することはできない。
夫カメラマンがさらにカメラを横移動させると、今度そのレンズが映しだしたのは、日差しが降りそそぐ芝生の上に行儀良く一列に並んでいる子供たちの姿だった。
彼らは小学生の中学年から低学年の間ぐらいに見えた。年齢でいったら十歳から六歳までの間だろうか。パッとみた感じ十人ぐらいいた。やはり気温が高いのか、みんな半袖か長袖のTシャツ姿で、これから無料で配られるアイスクリームを待っているみたいに、ウキウキと自然に笑みがこぼれていた。まるで小動物のように一瞬でもジッとしてられない様子で、体のどこかしらが絶えず動いていた。夫カメラマンが手を振ると、待っていたかのようにカメラに向かって女の子も男の子も一斉に手を振りかえした。
ケイトが列の先頭にいる丸縁メガネをかけたおさげ髪の女の子に名前と歳を訊いていた。胸に大きくCREEPとプリントされたTシャツを着たその子が質問に答えると、ケイトは手を引いて彼女だけを広場の中央に連れていった。女の子は残された子供たちに小さく手を振る。
なんだか歳の離れた姉が、友達の輪の中にいる妹の手を引いて、一足先に家に帰ろうとしているかのような構図だったけど、ケイトが連れていったのはもちろん彼女たちの自宅ではなくて、芝生の真ん中に開けた場所だった。夫のカメラが並んだ二人をロングショットで撮らえている。
女の子の両腕にそっと手を置いてケイトがなにごとか囁いたみたいだった。女の子がそれに頷いて両腕を横にひろげると、ケイトは彼女を残して画面の外にいそいそと姿を消した。
レイディオヘッドのTシャツの女の子は、まるで大空を飛ぶ鳥になったような格好のまま瞳を閉じている。カメラが遠目に映している彼女の姿は、カリスマ奇術師の言葉を信じ切っているロック好きな少女のようでもあり、芝生に置き去りにされた少女のカカシのようでもあった。どちらもアメリカの郊外で流行ってる新しいタイプの若者たちの儀式みたいだ。
これからなにがはじまるのだろうかと見ていると、子供たちの悲鳴に近い歓声が飛び込んできた。その声の波はなにかに導かれているように、あるいはなにかを追いかけているかのように、アップダウンを繰り返しながら広場の隅々まで響き渡って、灯台の霧笛が海の底で眠っている生物を目覚めさせるかのように、近所の森に住む、おそらくグレゴリーのリュックサックを背負った、子供好きの魔女を呼びよせたようだった。
芝生に降り注ぐ乾いた日差しが、さっきまでおさげ髪の女の子が立っていた芝生の上を、ポッカリ空いたその空間を、祝福するかのように明るく照らしていた。
俺はすべてを理解したような気がしていた。残りの動画は見なくてもいいぐらいだった。それぐらいにマユミからのメッセージをダイレクトに受けとった。
きっとマユミはOGたちから、この空飛び動画サイトの存在とパスワードを教えてもらったのだろう。夢中になって様々な動画を見ていくうちケイト夫婦へとたどり着き、彼女は自分の未来と出会ったのだ。
子供たちの歓声とともに上空から急降下してきたケイトを、虹色のワンピースを着た自分と同じ歳の空飛び妻を、その裾をたなびかせながら、あっという間におさげ髪の少女をさらって、ふたたび子供たちの歓声とともに風のごとく空高く舞い上がっていった彼女の姿を、マユミはさぞかし羨望の眼差しで見つめていたことだろう。
彼女は空飛び妻となって、自分もケイトのように子供たちと一緒に空を飛ぶ夢をみているのに違いなかった。
不思議だったのは、子供には興味がないと思っていたマユミが、子供たちと一緒に飛行する外国人女性に共感を持ったことだった。しかもそれはかなり強い共感に違いなかった。自分の意見を覆してαを産もうとしているぐらいなのだから。
もしかしたらマユミはこれまで子供嫌いな俺に同調して、あえて関心がない振りをしていただけなのかもしれない。いままでずっと心の奥にしまっていたその想いが、ケイトの勇姿を目撃したことによって解放されたのかも。あるいはαを身ごもることによって思うところがあったのかもしれない。眠っていた母性本能みたいな感情が目覚めたのかもしれない。
どちらにしてもそれですべてが決まったも同然だった。俺にはもはやどうすることもできないし、選択権すらなかった。俺が出産に反対できたのは、マユミ自身が反対していたからこそなのだ。それを彼女が産みたいと言いだしたのに、夫である俺が相も変わらず反対すれば、俺は自称愛妻家から、ただのわがままで、旧式で、ひどく残念な夫へと、堕ちていくことになる。
しかし頭の中でそうと分かってはいても、心の中でそれを受け入れるのはひどく困難だった。他人の子供のために自ら異星の獣を産むなんてどうかしてるとしか思えなかった。頭がおかしくなったとしか。そう考えるのがその頃の俺にとっては自然であり正義でもあった。
その気持ちは世間の夫だけでなく、ほとんど国民の総意ですらあったはずだった。だから間違っているのは自分ではなく、彼女たちや彼らの方であり、わがままなのは彼女たちや彼らの方なのだと、俺が考えたとしてもそれはある程度仕方のないことではあった。
ただそんな夫の声がマユミの耳に届かないだろうことは、さすがに分かっていた。なぜなら彼女はもの凄く高い壁を一人で乗り越えたのであり、相変わらず壁のこちら側で安穏としている夫の声など、決して向こう側には届きはしないだろうから。それは厚い壁に弾き返されるだけだ。
それまでは別々の部屋で暮らしてはいても、仕事から帰ったら、その日あったことをスマホで語り合うのを日課にしていたのに、あの日からというもの俺も彼女も壁一枚隔てたきり、まるで赤の他人になってしまったように電話もメールもしなくなった。俺たちはいよいよ本当に家庭内別居中の夫婦になったみたいだった。
昼になると必ず着信していたマユミのマタニティ写真が来なくなった。ただその所為で俺が彼女の体調をことさら心配するような事態になることはなかった。マユミ自身、お腹が大きくなっていくたびにどんどん体調が良くなっていくと話してたし、普通に考えて体調が悪いのはむしろ俺の方だった。鼻に耳栓を突っ込み、人目を避けるように常時マスクをして、人に出会えば吐き気を催して、おまけに性的にはまったくの不能な状態に陥っている夫の方だった。
マユミは普通ならば妊娠につきものであるはずのつわりもなく、持病だった頭痛や肩こりも妊娠以降は嘘みたいにピタリと止まり、あらゆる肉体的な苦痛から解放されたらしかった。歩こうと思えばどこまでだって歩いていける気がすると、ちょっと前まで世の中のあらゆる運動にまったく自信がなかったはずの彼女は、スマホで俺に豪語してみせた。
それはそうだろうと俺も彼女の話に頷いてみせた。だってマユミはこれから空を飛ぼうとしているのだ。大昔に水の上を歩いた人間はいたかもしれないけど、自分の身体一つで自由に大空を舞った人間なんて、人がまだ猿だった頃を勘定に入れたとしても、人類史上一人もいなかったはずだ。彼女たち空飛び妻が大量生産されるようになるまでは。
それに比べれたら頭痛や肩こりなんて屁でもないのだろうし、休まず歩いて地球を一周したところで、近所をちょこっと散歩した程度のものだろう。金メダルのアスリートだって彼女にはついてこれないに違いない。
だから俺はマユミの体調を気遣う必要性をまったく感じなかった。逆にどうして彼女が俺の体調を気遣ってくれないのか、そっちの方を訊きたいぐらいだった。
それぐらいマユミとは裏腹に俺は健康を害していた。まるで残り少ない自分の大切な健康が、マユミのお腹の中に日々吸い取られていくようだった。もちろんそれは妄想に違いないだろうけども、そんなふうに考えずにはいられなかった。
あるいはそのとき、俺はひどい被害者意識に苛まれていたのかもしれない。いいやきっとそうなのだろう。なにしろ体調の悪い俺は、上司にお願いしてまで定時あがりにしてもらって毎日早く帰宅していたのに、マユミときたら仕事は勝手に辞めておきながら毎日遊び呆けて、帰りはいつだって夫より遅いときてたのだから。挙句の果てに「産みはります!」とこられたら、それは電話だってしなくなるものだ。
そんな被害者意識の下僕であってさえも、一人で寝室にいて、マユミが帰ってきた物音が聞こえてきたときには、やはり電話したものかどうか一応悩んだりはしたものだった。ベッド脇のテーブルに置いたスマホを横目にしながら。まるでウブな中学生みたいに。
でも結局電話はしなかった。俺がマユミを説得できるだけの言葉や経験を持ち合わせていないのは明らかだったし、壁を一枚隔てただけの距離ではあったけど、俺にとってマユミはすでに遠い手の届かない存在になりつつあったのだ。
それが電話をかけなくなったもう一つの理由だった。外から帰ってきても、意識高い系のマユミにはやるべきことが山ほどあるのに違いなかった。本を読んだり書いたり、人の子供を抱っこするために筋トレをやったり、いつかマザーシップがお迎えにくる日をイメージトレーニングしたりもしなければいけない。
ただしそのやるべきことリストの中には、夫を説得するという項目も入っているはずだった。αを出産するためには夫である俺の同意が必要だから。彼女にしてみたらなんとしても頭の古い夫を説得しなければならないところなのだ。しかもそのための時間はもうそんなには残されていない。客観的に考えれば、電話をかけてこなければいけないのは、むしろマユミの方であるはずだった。
そんなわけで俺は、マユミからの電話とメールをひたすら待ちつづける日々を送ることになった。思春期のウブな中学生みたいに。
そのどちらかが、三回目の意思確認の前に俺のスマホにとどくはずだった。区役所の会議室で夫が三たびNOと言えば、αを産みたくても、どんなに空飛び妻になりたくても、どちらも不可能になってしまう。俺があと一回「産みはらません!」と言えば、αは安定期に入る前に遠隔操作で自然消滅してしまい、当然お腹のαが消えれば、子供たちと空を飛ぶこともできなくなる。
そうして俺が悪臭の病から解放されたころには、マユミはすっかり運動不足気味の専業主婦にもどって、なんであのとき私は電話でもメールでもいいから旧式な夫を説得しようとしなかったのだろうと、夕焼け空を渡っていく鳥の群れを見上げながら後悔する日々を送ることになるだろう。
俺の知っているマユミはたとえ運動不足気味ではあっても、つまらない自尊心のために目の前にある夢をみすみす逃してしまうほどに愚かじゃなかった。だからそう遠くない日に、間違いなく彼女の方から電話がくると俺は信じて疑わなかった。
でも今回ばかりは違っていた。いいや今回もまた見事に引っ掛けられたと言うべきか。いつものように。会社の屋上の出来事のように。夫になんの相談もせずに独断で仕事を辞めてしまったように。もしもマユミがαからすべてを聞かされていたのならそういうことになる。
でもいったい彼女はどこまで知っていたのだろうか。それともまったくなにも知らなかったのだろうか。俺も忘れていたような夫の遠い過去の記憶を、彼女はお腹で耳打ちされてはいなかっただろうか。
それを知る術はない。妻がなにを知り、なにを知らなかったか。なぜなら俺自身が、彼女の口から真実を訊きたいとは思っていないから。
マユミは電話してこなかった。代わりにあとになって電話をかけてきたのは、遥か昔、俺がまだ母親と二人暮らしをしていた頃に、自宅の庭に置き去りにした人だった。
昼休みになると、打ち止めになったマユミからのマタニティメールを開く代わりに、パスワード必須な空飛び妻の動画サイトを眺めながら会社の倉庫で時間をつぶすようになった。
俺はスマホ画面に表示されたスタートボタンを押して次々に動画を再生させた。意外なことに自分の妻が空飛び妻になることを反対している男が、彼女たち空飛び妻の姿に魅了されるようになるまでに、それほどの時間はかからなかった。大気の流れに身をゆだねるようにして空に浮かぶ彼女たちの美しさに気がつくまでに。その丸みを帯びたワンピースのシルエットに。ありたいていに言ったなら俺は彼女たちのお腹に恋をした。
彼女たちはワンピースを着て悠々とした、新しい空の動物たちのようだった。南国の光を浴びながらピカソが描いてみせたリュックサックを背負った大女みたいだった。風と太陽と雲と、おまけに気まぐれな渡り鳥たちにまで祝福された女性たちだった。どんなに強力な武器や言葉でも彼女たちから自由を奪うことはできそうになかった。
しかし空飛び妻をめぐる現実の環境は、彼女たちの自然と調和したその姿とは対照的に、どこまでも歪だった。彼女たちは世界中の男たちから石を投げられ、ドローンをぶつけられ、跡をつけられ、脅迫されていた。地上の男たちは、いつかすべての地球の女たちがα星人のマザーシップに拐われてしまうことを潜在的に恐れているかのようだった。空飛び妻はそのマザーシップファンクラブの代表であり、だから空飛び妻であることは、決して大袈裟でなく身の危険と隣り合わせだったのだ。
それでも彼女たちが実際に事件に巻き込まれたというニュースが公になったことがないのは、情報そのものが遮断されているのか、あるいはお腹のαの超人的な力によって彼女たちが保護されているのか、そのどちらかだった。でも仮にαが守ってくれているとしたって、出産したあとはどうなるのか分かったものではない。
そんな環境も影響してか、パスワードで制限されているのにも関わらず、空飛び妻たちの動画は一人で空を飛んでいる姿を撮影したものがほとんどだった。撮影地もわざわざ場所が特定しにくい地方の僻地が選ばれているようだ。家族や友人たちですら、レンズの中に映り込んでくることは珍しく、ケイトみたいに他人の子供たちと一緒に街中で撮影された動画はかなり稀なケースだった。
それでもサイトに動画がアップされている国や地域はまだいい方で、北米とヨーロッパの一部の国以外はそもそも動画が存在しないか、あったとしてもすでに削除されているようだった。
そういえば俺が空飛び妻を街中で目撃したのは、いつも夕暮れ時の西の空と決まっていた。ほどなくして日が暮れると当然のように彼女たちの姿は肉眼では識別できなくなって、夜のしじまに消えていくのが常だった。
日が傾いた夕暮れから日没までのわずかなマジックアワーが、世間から許された彼女たちの自由時間のようだった。彼女たちはその時間を利用して電車に乗っている仕事帰りの夫を上空から出迎え、ついでに「目立ちませんけど、私たちはたしかに存在しています」と、ほかの帰宅途中の乗客たちに空飛び妻の宣伝をしているのかもしれなかった。とかく世間から無視されがちな自分たちの存在を。
俺は帰宅してからも寝室で空飛び動画を見つづけた。そこには好き嫌いを通り越して、ちょうどアスリートが自分よりも優れた選手のプレー中の動画を繰り返し見て研究するように、俺が解決しなければならない問題の答えとなるヒントが隠されているような気がしはじめていた。
もちろん俺にとっての自分よりも優れた選手は空飛び妻ではなかった。空飛び動画には空飛び妻以外に、もう一人だけ毎回決まった出演者がいたのだ。それは声だけの出演者であり、我が子の運動会でカメラを回す父親であり、空飛び妻にとって唯一にして最高のギャラリーであるところの、つまり彼女たち空飛び妻の夫らがそれだった。
姿は見えないし、言葉はよく分からないけども、カメラを回している彼らが空飛び妻の夫であることは間違いなかった。それ以外には考えられない。
夫カメラマンは、ケイトに抱かれて空を飛んだ子供たちと同じように、動画の中でも驚きや喜びを隠そうとはしなかった。上空にいる妻を、不安ながらも心から応援していた。彼らの震える声や弾む息が、カメラのマイクを通じて見ているこちら側にダイレクトに伝わってきた。
彼らの声を聞きながら、そういうことだったのかなと俺は思わずにはいられなかった。あるいはそれは考え過ぎなのかもしれないけど。マユミは百人のケイトだけでなく、百人のケイトの夫たちをも俺に見せたかったのだと。
夫カメラマンの存在は俺にしてみれば空飛び妻と同じぐらいに奇跡的だった。どうして彼らにはあれができて俺にはできないのか。どうして俺は「産んでくれるな、産んでくれるな」と嘆いているばかりなのか。俺はそれを知るために何度も何度も同じ空飛び動画をリピートした。
そうして一つだけ答えらしきものが思い浮かんだ。でもそれは空飛び妻の夫たちとはむしろ関係のないものだった。俺が動画を何度もリピートして見出したのは、ほかの夫たちとの関係性ではなくて、俺個人の独自性だった。もしかしたら俺が抱えている問題はほかのα系夫たちが抱えている一般的なものとは違う、一般論には還元できない個人的な問題なのかもしれない、と。
動画の中の彼らの声を聞くたびに、そんな胸騒ぎにがしてならなかった。そしてなぜだか斎藤さんならば、答えは分からなくても、その手掛かりぐらいは知っているような予感がした。
時間がないのはマユミではなく俺の方なのかもしれなかった。電話をしなければいけないのは。
どちらにしても、斎藤さんが答えを知っているにしても知らないにしても、こんな話を相談できる相手がいるとしたら、それは斎藤さん以外にはいなかった。同士である斎藤さん以外には。
緊急時用にと斎藤さんの電話番号とアドレスはすでにスマホの連絡先に登録してあった。それを開こうとしたとき、久しぶりに、本当に久しぶりに、スマホの着信音が鳴りだした。
最初はマユミからだと思った。ついに彼女が観念して電話してきたのだと。すぐ隣の居間から。ただし画面に表示されていたのは見知らぬ番号だった。それは斎藤さんの番号でもなかった。
着信音は鳴りつづけた。それでも俺は電話にでようとはしなかった。着信と同時にバイブが作動したとき、指先がつい習慣的に動いてしまいそうになったけども、寸前のところで理性でそれを押しとどめた。
もう一年ぐらい使っている機種のはずなのに、その夜はじめて手にしたような不思議な気持ちがした。
スマホは聞き覚えのない着信音を寝室に響かせていた。いいや正確にいえば、俺はその着信音をよく知ってはいた。それは間違いない。間違いなのは、そんな着信音を設定した憶えが俺にはまったくないということだった。そんなことってあるだろうか。
スマホのスピーカーは、俺が子供の頃に好きだったアニメの主題歌を飽きることなく歌いつづけていた。その懐かしくも勇ましいメロディは、俺に向かって「さあ思いだせ、思いだせ」と呼びかけているみたいだった。
つづく