第二十九章
「いいわね」
「いいことだけをですか」
「そうよ、死んだ人のことはいいことだけを思い出す」
ベッドに寝たままの彼女を静かに見ながらであった。
「それだけでいいのよ」
「わかりました。それでは」
「そろそろね」
沙耶香は部屋の扉に顔を向けた。そのダークブラウンの扉をである。
「御主人が帰って来られるわね、この部屋に」
「そうですね。少し外の風にあたりに行っただけですので」
「では私はこれで」
彼女に背を向けての言葉だった。
「帰らせてもらうわ」
「お名前は」
「名前?」
「ええ。貴女のお名前は」
それを沙耶香に問うのだった。彼女のその名前をである。
「何と仰るのですか?」
「名前。聞いて覚えてくれても忘れてくれてもどちらでもいいけれど」
「何と仰るのですか?」
「松本よ」
まずは姓から名乗るのだった。
「松本沙耶香。それが私の名前よ」
「そうですか。松本さんと仰るのですね」
「そう。機会があったらまた会いましょう」
扉に身体を向けている。今まさに部屋から去ろうというのだ。
「またね」
「ええ、有り難うございました」
彼女の顔は微笑んでいた。そのうえでの言葉だった。
「私も赤ちゃんも。そして姉さんまで救って頂いて」
「仕事だから当然よ」
これが沙耶香の返答だった。
「だからしたまでよ」
「仕事?」
「これは私の話よ」
このことについては語らなかった。当然といえば当然だがこれは話してもわからないことだと思ったからである。あくまで沙耶香が住んでいるその世界だけの話だからだ。
「だから。またね」
「はい。機会があればまた」
「会いましょう」
こう告げて扉を開けて部屋を後にする。その扉を彼女の夫が開けたのは暫く後になってからだ。沙耶香はまた一つ仕事を終えると今度は船の後ろの方に出た。そこでテーブルに座り演奏されるオーケストラを楽しんでいた。
曲はベルリオーズだった。幻想交響曲である。ベルリオーズが自殺を試みその昏睡状態の中で見たものを音楽にしたと言われている。そうした曲である。
その曲を聴いているとだった。不意に曲とは不釣合いの無粋な音が聞こえてきた。それは人の下劣な叫びだった。
「だから俺は違うって言ってるだろうがよ」
「そんな格好で信じられるものか」
「そうよ」
「あんたに決まってるわ」
「俺じゃない」
見れば上半身は正装だが何と下半身は丸裸の男が喚いていた。あの鶏声であった。
「俺がやったっていう証拠はあるのか」
悪人が自白する時に常に言う言葉だった。しかもかなり下劣な部類の悪人がである。
「ないだろうがよ」
「その丸出しの下半身で何を言ってるんだ」
「そうよ、あんたしかいないわ」
「御前しかいない」
「何かしら、あれは」
沙耶香もその光景を見て不快さを見せて言うのだった。
「このホテルはストリップショーもやっているのかしら」
こう丁度傍に来たウェイトレスに尋ねるのだった。
「それも男がベルリオーズをバックにして。独創的だけれど到底いい趣味とは言えないわね」
「いえ、そんなことはありません」
ウェイトレスは生真面目そのものの調子で彼女の言葉に応えた。そのうえでの言葉だった。
「あれはです」
「あれは?」
「何かウェイトレスやメイドの更衣室のロッカーに忍び込んでいたそうです」
「のぞきというわけね」
「はい、そして下半身を丸出しにして。その」
「下劣ね」
一言であった。
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