出会ったのは、夜の町だった。凍てついた冬の繁華街。ネオンと細い足首の女たちが行き交い、千鳥足の酔客とそれを店に引き込んでいくキャッチの男たち。そんな人ごみの中で、彼はアスファルトにあぐらをかいて、小銭の投げ込まれたギターケースを広げて、ストーンズの歌を歌っていた。
通行人の邪魔にならないほどのほどよい大きさの声、それでも通る太い声に足を止めた。
「おーこんばんはお姉さん」
「お姉さん、じゃないわよ。あんた幾つ?」
「26歳」
「じゃあ私と一緒じゃない」
「そうなんだ。じゃあ初期ガンダム見た世代?」
「そうそう。シャアザクとか分かる」
なんとなく、話をして、あったかい缶コーヒーを置いた。
「いっつもここで歌ってるんだっけ?」
「ううん、違うよ。ここは初めて。いろんなとこに行ってるから。俺。流れ者だし」
「そう。どこに住んでるの?」
「公園!」と彼はにかっと笑って、また歌いだした。
私は学生の時、バンドでギターを弾いていた。
だから、ストリートの歌うたいの下手さには実は飽き飽きしていた。ほとんどの奴がまともにチューニングもできないような輩で、CDを家に10枚ぐらいしか持たず、練習せずに突然路上に出てきて歌う。練習とライブの区別もつかないような奴が多かった(それもすべてではなく、ちゃんとした人もやはりいるが)
でも、彼はずばぬけて演奏が上手かった。スライドバーで音をひずませ、ブルースのアレンジでストーンズを奏でていた。しかも、親指でベースをきざみながら。
ギターで歌を歌う人間には、二種類いる。バンドをやっていたか否か。バンド経験がなくフォークギターで歌っている連中には想像力がなくただのカッティングだけで終わっていて音の広がりが少ない者が多い。バンドの経験がある者はちゃんと、背後にバンドがいるかのような音をちゃんと出せる。私は後者のほうがずっと好きだ。
そして、この男は、後者だった。
「あんた、ベース弾きでしょ」
「なんで、わかるの?あんたバンドマン?」
「まあね。やめたんだけど、わかるよ。あんたのギターにはベース弾きの癖があるから。でも、私よりよっぽど上手い」
所詮、つきあっていたバンドマンの彼にほめてほしくて始めたバンド生活だったが、彼と別れると同時にギターもつまらなくなった。結局、タダの女だったってことだ。
男と女は違う。女は評価に溺れるが、男は行為に耽るのが好きだ。黙々と楽器に触って、ああでもない、こうでもないと一日中過ごせるのだ。
「何か面白い曲やってよ」
「えーっと、じゃあな…」次に彼が弾き出したのはジャズだった。
難しいリズムを取りながら、彼の指は信じられないほど自由だった。口でラッパのセッションをして、一人でひとつのバンドをやっているみたいに。
私は突然、家に帰るのが嫌になった。実家は母と二人暮らしの狭いアパートだ。基本的にはお互いの生活は干渉しないルール。母は今日も仕事だろう。帰ったって誰もいない。
「ねえ、どっか行かない?」
「いいよ。おごりなら」
二人で焼肉屋に入った。彼は分厚いセーターを着込んで、その下はコーデュロイのパンツを履いている。それでもこの寒さはこたえるだろう。
「ねえ、名前教えてよ。私は由梨」
「俺、拓真。百合ちゃん、焼肉食べたい」
「いいよ」
私たちは焼肉屋に入った。5人前がほとんど彼の胃袋に収まるのをびっくりしながら見た。
「うめーっ」といいながら彼はウーロン茶だけで白ごはんも大盛りでおかわりを頼んだ。
「久しぶりの食事だよ。約3日ぶりかな…そろそろやばかったんだけどな」
「ケースのお金は?」
「あれは見せ金。お札入れておかないとお札が降ってこないからね。でも路上生活も大変なんだよ。俺、なるべく風呂には入りたいから、友達んとこ行ったりとかもするけど、銭湯と飯代はばかにならんし」
「そっかあ」
文系大卒女子としては初めて出会う人種だった。
「あんた、どこでバンドやってたの?相当、上手いほうじゃないギターだって。ベースも上手いんでしょ?」
「ああ、そうだね。東京に居たんだけど、嫁と別れてこっちに来たんだ。何もかもめんどくさくなって、死んでもいっかーぐらいの感じでギターケースとリュック一個で南下してきたってとこよ。百合ちゃんは?」
「男と別れたばっかよ。」
私には小説を書いている彼がいた。とってもとっても愛し合っていたのだが、結局つまらないことで別れた。ありがちな話だった。
「男の傷は男で癒せば?」と彼は言った。
「だいいち、俺、風呂に入りたいんだよね」
彼はそう言って煙草を出してテーブルの上で紫煙を吐いた。
初めて会った男とベッドに入るのは私にとってよくある出来事だった。そうすることは、とても簡単だ。自分を守らなければ、いいのだ。男だって馬鹿な女より、知性ある女が乱れるほうが面白い筈だ。意外であればあるほど遊びは楽しくなる。
合コンなど、くだらない。ホワイトカラーの男たちと遊んで何が楽しいだろう。ルックスも年収も興味が無かった。私にとって重要なのはベッドでの相性、それだけだった。
彼は私の要求を満たしたし、私も応じた。これはとても稀有なことだった。幸福な時間を、私たちは共有した。
そして、驚くほど私たちは似ていた。好きな漫画家は西原理恵子。時代小説なら宮部みゆき。映画はバクダッド・カフェ。ストーンズのデッドフラワーを彼のギターで合唱した。私たちは仲よしになった。
私は服を着ながら言った。
「これからどうするの?」
「えっと、公園に戻ってひとねむりして、又、夜、出るよ」
「そっか…」
何となく離れがたく、喫茶店でモーニングのコーヒーとトーストをいただいて、彼を棲家に送ることになった。
繁華街の中にある大きな公園の木の下にひとはり、小さなロゴスのテントが建っていた。それが彼の現在の家だ。
「寒そうだね」
「うん、まあね。でも冬用寝袋でOKだよ」
「そっか」
彼は、キャンプを楽しむみたいにして暮らしていた。中は意外とキレイに整理されていて、床にはアジア雑貨のような染めの布が敷かれ、寝袋と新しい毛布とリュックとカンテラとカセットコンロが置いてあった。まるで遊牧民のようだと思った。
何となく女のカンというやつで、この装備の行き届きようは、女に買ってもらった物に間違いなかった。カンテラも、テントも、彼の今の生活で購入できるとはとても思えない。
「じゃあね」と私は言って、彼にくちづけをした。
携帯番号を教えあって、私たちは別れた。
彼にたびたび会うようになっていた。携帯にかけると、時々つながらないことがあった。それは、拓真が、他の女との逢瀬を楽しんでいる時だった。怒りと心寂しさでそのたびに血液が沸騰するほど頭にきたり、胸が凍りついたり、した。完全に私は情緒不安定になっていた。
彼には仲間が大勢いた。
その中のひとり、アクセサリー売りの楓ちゃんという女の子と友達になった。
楓ちゃんは、イギリス帰りの帰国子女だが、家を飛び出して、イスラエル人の彼氏と暮らしていた。手作りのアクセサリーを山ほど作ってうるのだった。彼女はきっぷのいい下町っ子で、酔客をうまくさばいて毎日高額の上がりを確保していた。いつも人がまわりに絶えず、やくざからスナックのママさんにまで愛されていた。
楓ちゃんは、拓真が女をとっかえひっかえ、貢がせて生きていることを十分知っていた。その上でお互いがお互いの生活を尊重するという関係だった。私たちのつきあいも、その中のひとつだった。
三人で、楓ちゃんのバスター(アクセサリーの路上の店)で遊んでいるとき、驚くべきことがわかった。
「はじめ、拓真がこっちに来たとき、うちに住んでいたんだよ」
「ええ?ホント?楓ちゃんのうちに?」
「そうだよ。だけど、彼氏が怒って結局追い出しちゃったんだ。普通、浮気相手を同棲中の家に呼ぶかっての。」といって楓ちゃんはぎゃはははと笑った。
そんな彼女は妊娠していた。イスラエル人の彼の子かどうかわからないと言う。(一ヶ月後に手術が決まっていた)
拓真は言った。
「だってさー、楓ちゃんがいないとき、弁当買いに行こうとしたら、リック(本名ではない)が凄い形相でおっかけてきてさー、自国で兵役受けてきたような奴とくだらん喧嘩するの嫌だからそのままバックレてきちゃったんだ」
それで、公園暮らしに戻ったのだという。一人は気楽でいいと彼は言った。
「寒いんじゃない。大丈夫なのかよ」と、楓ちゃん。
「一人のほうが気楽だよ。でも、さすがに、はたらいて、バンドがやりたいな」
ベースは、さすがに貴重品をテントに置いておくことはできかねるため、別れた奥さんのところにあるのだという。
「仕事、ないの?」と私。
「ありゃ、とっくにやってる。東京と違ってこっちは日雇いも少ないし、なんせ住所が無いからな…」
中学を出てからというもの社会に出て、たった一人で頑張ってきた彼を支え続けた奥さんのことを、彼は、いまでも惚れていると語った。
「だけど、俺、あんたのほうが好きだよ」といって人目もはばからずに私の頬に口付けた。
「うわっ、むかつく。商売の邪魔してんじゃねえよ、あんたたち」と楓ちゃんはむくれた。
なぜ、人はこんなにもひとりぼっちなのだろう。と私は思っていた。恋人一人のものになりきれずに楓ちゃんはいろんな男たちを渡り歩く。拓真は数人の女の子たちと遊ばないと生きていけない。そして、私は…骨の髄まで拓真に惚れていた。
たぶん、それは支配欲だった。
野生の獣みたいに自由な拓真を支配したかった。
私だけのものにしたかった。
お金も、時間もずいぶんつかった。
私は、見えないが彼を慕うほかの女の子たちと心の中で戦っていた。
どれだけ代償を払えば彼はわたしだけのものになるのだろう?彼がほしいというものは何でも買ってやった。タバコに食事に服に…。会うたびにお金も渡した。お金を払う時、何故か幸福感に満たされた。彼は大声でありがとうと言った。そんなふうに人に感謝されることが今まであっただろうか?仕事でも、家でも満たされないものを、彼は私に返した。
一分一秒を惜しむかのように、私は彼のところに通った。仕事はでたらめになっていった。遅刻さえしなかったが、連日の夜更かしは私の体を蝕んだ。彼がどんどん太っていくと同時に私はだんだん痩せていった。
仕事をつづけるのか、彼と一緒に堕ちるのか、私には迷いがあった。
そして、3月になって、私は冬のボーナスの貯金をはたいてアパートを借り、仕事を辞めた。その部屋に彼を呼び、二人で暮らすようになった。
「脱!ホームレス」といって彼は笑った。私たちは無職でお金がなく、彼はさまざまな女たちのしがらみを切って、私は実家から離れて、二人で住んだ。この世にわたしたちだけしかいないみたいに、よりそって暮らした。見かけよりボロいアパートで、6畳一間のワンルームだったが満足だった。彼の元嫁が、一度だけ遊びに来た。重い、彼のエレキベースを持って。長旅だったというのに、彼女は30分ほどうちにいて、すぐに帰った。とても、やさしい感じの、私とは正反対の女性だった。
それから、さまざまな困難と歳月を乗り越えて、私たちはまだ、やっぱり一緒に住んでいる。彼は音楽で、(あんまりお金を稼げないけど)、私も(そんなに高収入でもないけど)事務のお仕事で働いて、それなりに生きている。籍も入れた。楓ちゃんは本当にただ一人のパートナーをやっと見つけて普通に働いて遊んでいる。もう他の男と浮名を流すこともない。
初めて住んだアパートよりちょっと広いところに住むようになって、彼のバンドの人たちもよく出入りするようになった。
私たちは大人になるのに時間がかかっただけかもしれないと、思う。暮らしというものは一瞬にして崩れることもあるが、ひとつひとつ、つみかさねることによって得る幸せというものを大事にすることを、二人で喧嘩しながら学んで行った。年齢が大人になれば大人になるというわけではない。あのときの仲間たちの幾人かは大人にならずに、死んだ。
働いて、ご飯を朝・昼・晩と食べて、暇なときには散歩を楽しんで、本が読みたければ図書館に行って、時々ライブに行ったり、出たりする。
ひとつ、変わったことがあるとすれば、彼はもう歌をうたわなくなった。
世界でただのひとりぼっちの彼を、この世につなぎとめるための、地獄から這い上がるための、呪いと希望に満ちた、歌声。
もう、あの頃に戻りたいとは決して思わない。ただ、彼の歌を、もういちど、きいてみたい。
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