紫の生ける森で
うさぎサボテン様の作品、『黒魔術師』(http://ncode.syosetu.com/n4111bq/)のクラシェイドくんと拙作『灰の花嫁と火炎の神殿』(http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/600541/)のヴェンリアでコラボさせていただきました。
内容を知らない方にもわかるよう心掛けて書きましたが、元のお話をご覧になっていただくとより楽しめると思います。
私は走っていた。
せめて、日が落ちきる前に森を抜けたい。その一心に駆り立てられていたせいで、辺りの景色が一変していたことに気付くのが遅れてしまった。
橙の光が差していたはずの森は、暗紫色に塗りつぶされていた。「惑いの森」だ。気付いたとしても、もう遅い。帰りの道など、とうに分からなくなってしまっていた。
「惑いの森」は生きている。草木の一本一本――いや、森そのものが、意思を持って動くのだ。それゆえ、「惑いの森」は地図には載らない。一体どれほどの広さがあるのか、把握している者すらいない。
森から抜けるには、“動かないこと”が重要と聞く。
一点にじっとしていれば、そのうち森が勝手に立ち去ってくれるからだ。ただし、森から抜けられるのはいつになるかわからない。
長丁場になることを覚悟して、私は休むことのできる場所を探すために「惑いの森」を歩いた。
行けども行けども、紫の景色は変わらない。同じペースで同じ方向へ森が移動しているのではないかという恐怖が込み上げた。
「……あれ? 君は?」
遠くで、少年の声がした。そんなはずはない、と頭を振って幻聴を振り払った。
「こっちへおいでよ」
少年の声が私を呼ぶ。心細さから逃れるため、足が勝手に声のする方へ向かって行った。
――もしこの声が本当に幻聴だったら。考えただけでぞっとした。
私の予感に反して、少年は実体を伴ってそこにいた。木の切り株に優雅に腰かけている。
右手にある空のグラスが、紫の光を反射させた。
「貴方は?」
いぶかりながら問いかけると、彼は立ち上がり恭しく礼をした。
「クラシェイド・コルースです」
「私はヴェンリア」
「迷ったのかな?」
見透かすような表情に、自然と警戒心が強まる。ずっと年下のはずなのに、底知れないものを孕んだ瞳をしている。
「警戒しないでよ」
微笑みながら、手が差し伸べられた。けれど、その手を取ることはしない。
私は一歩引いたところから彼を観察した。何とも不気味な雰囲気は、抑えきれない魔力に起因するもののようだ。この若さで醸し出すには、あまりに強大なものだった。
「貴方、どこから来たの?」
「どこ、と聞かれても困るな。言ってもわからないだろうし」
再び切り株に腰を掛けながら、思案する。
「別の世界とかかしら?」
まさか、と思いながら投げかけてみた。他の世界から人が来るなんて、花嫁以外には聞いたこともない。あり得るはずもないことだ。そう、信じていたのに――。
「そうだよ」
全面的な肯定を受け、私は絶句した。
「君だってそうだろ? ここは世界の狭間なんだから」
追い打ちをかけるような言葉に、理解がついて行かない。しかし、そう考えれば異様なこの空間も説明がつく。
視界の端に映った私の髪は、紫の光に浸食されて薄紫に染まっていた。
「ところで、貴方はどんな魔法を使うのかしら?」
興味本位で尋ねてみた。
これだけの魔力があるのだ。どれだけ強大な魔法を使うことができるのだろう。私には、想像もつかないことだった。
「え? なんでも使えますよ」
彼は怪訝な表情で答えた。そして、何やら呪文を唱え始める。
空中に何かが集まり始めていた。淡い水色の光だ。
「チェインバブル」
クラシェイドが呟くのとともに、光は次々と水泡となって弾けた。シャボン玉が次々に割れていくのを見ているような気分だった。
「こんな感じで。周りにある魔力を集めるんだよ。そうすればどんな魔法でも使える。君はどんな魔法を使うの?」
「私は……」
答えかけて戸惑った。彼のような大きな魔法は使えない。というより、そもそも魔力を集めるということができない。できてせいぜい、手のひらで炎を躍らせる程度だ。
そんな粗末なものを見せるくらいなら、と、私は近くに生えていた草を摘み取った。
意識を草に集中させ、成長を促す。するすると茎が伸び、蕾ができて花が咲いた。赤い花だ。
隣にいたクラシェイドが、目を見張っている。
「これくらいしかできないけど」
「すごいじゃないか。詠唱なしで魔法が使えるんだね」
「私のは魔法と呼べるかわからないもの。そのモノが持っている力を、全て発揮するための手伝いをする、といったらいいのかしらね。そんな感じだから」
咲いた花をクラシェイドに手渡したけれど、その時にはもう花弁がはらはらと落ち始めていた。
彼はそれを器用にグラスの中に収めていく。
クラシェイドは見れば見るほど不思議な少年だった。チェック柄のズボンと、揃いの帽子。鎖のついた洋服と靴。どれを取っても見慣れないものばかりだ。さらに、頬には十字架の絵が入れられている。
「貴方の頬にあるのは……」
「ああ」
彼はとっさに頬を押さえた。傷跡とは違う質感のそれを、確かめるように指でなぞる。考え込むような表情に、私の好奇心が顔をのぞかせた。
「話したくないことかしら?」
「いや……、そういうことじゃないよ。でも」
話しづらそうに視線を泳がせているのに気が付いて、私は話題を替えた。
「ところで、どうやったらここから抜け出せるかしら?」
クラシェイドは呆気にとられたように私の顔を見つめて、それからふき出した。
「何を言うかと思ったら、そんなの簡単じゃないか。転移魔法を使えば一瞬だよ」
「転移魔法ですって?」
そんなもの、おとぎ話の世界でしか聞いたことがなかった。この子は私のことをからかっているのだろうか。
疑いの目を向ける私とは正反対に、クラシェイドは至って真面目な顔をしていた。
彼のいた世界と私のいた世界は魔法の方式も大きく異なるようだった。だから、私の世界にはない魔法が彼の故郷には存在するということもあり得るのだろう。
私が長考を重ねていると、グラスを鼻に近づけて花弁の香りを嗅いでいたクラシェイドが顔を上げた。
「それじゃあ、僕はこれで」
彼は薄く笑うと、グラスを逆さにした。赤い花びらがひらひらと舞い落ちるとともに、白く淡い光球が生まれる。
呆気にとられる私をよそに、そのまま姿を消してしまった。支えを失ったグラスが、地面に落ちて砕けた。
――転移魔法だ。
子供の夢でしかないはずの魔法だが、こうして目の前で見せられては信じる他ない。本当に異世界の人だったのだと改めて実感した。
呆然としている私の前で、森が拓けた。木が、私の周りから抜けたのだ。あまりにもタイミングが良い。
寒くもないのに、鳥肌が立っていた。心臓が痛いほど収縮して、不規則に暴れはじめる。遠くに町の輪郭が見えた。
――帰ろう。帰ってみんなに会いたい。
転移魔法など使えない私は、足早に歩きだした。きっと、みんなに会いたいのは彼に出会ってしまったせいだ。クラシェイドがあんな話をするから、不安になってしまったのだ。生まれ故郷から遠く離れた土地へ迷い込んだのではないと実感したいのだろう。
町が近づくたびに私の心臓は落ち着きを取り戻していった。
惑いの森の支配者のような少年は、私の記憶に深く刻み込まれたまま消えはしなかった。
勝手にクラシェイドくんの呪文を作ってしまいました…。『黒魔術師』の作品中に類似の魔法が使われているシーンがありましたら正しい呪文を教えていただけると助かります。