Some forewords縦書き表示RDF


Some forewords
作:森本エリ





――暗い室内。
バターと香草の匂いが漂っている。
窓には憂鬱な夕日が燕脂色の日溜りを床に落とし、用もないのに溜息を吐かせる。

部屋の一番暗いところには、古ぼけた真紅のベルベットのカーテンがうなだれていた。

猫足のテーブルにはブリキのオルゴール。

鼠銀の麻のスーツ を身にまとった男が、頭に乗せていた白いヴォルサリーノをオルゴールの側に置いた。
きれいに撫付けられたオールバック、
整えられたもみあげと顎鬚は繋がっている。
端正な横顔はひどく疲れているようだった。


「オーガストおじさま?」

木製の簡素な扉が開き、赤地に白いドット柄のノースリーブワンピースを着た少女が、期待に輝く大きな瞳を男に向けた。

「レイチェル」

顔を上げたのと同時に、先ほどの疲労をかき消し、男――オーガストは微笑んだ。

「おかえりなさい!」

レイチェルは満面の笑みでオーガストに抱きつき、疎らに生え始めた髭の頬にキスを押しつけた。

男の端正な顔の右半分には、こめかみの辺りから口角にかけて引きつった傷跡がある。

レイチェルはその傷跡にも平等にキスを落とすと、一破片としてオーガストを逃さないように焦げ茶色の瞳をいっぱいに開く。

「どうした」

オーガストは少し困ったような微笑みを浮かべて首をかしげてみせた。

「今日もおじさまが無事、帰って来てくれたことに感謝しているの」


「何があっても、俺は君の処に帰ってくるさ」

オーガストはそう応えると、レイチェルに口づけた。
キスを終わらせ、つやつやとなめらかな髪に顔を埋めれば、甘いミルクのような、昼の日だまりのような匂いが、鼻孔に広がる。
その香りに、三日前から抱えていた疲労が溶けて流れるように感じられた。

「おじさま?」

胸に顔を埋めていたレイチェルが、楽しげに彼を呼ぶ。

「なんだい?」

「鼓動が早いわ」

「おかしいな。
とても安らかな気持ちでいるのに」

「ふふっ、変なおじさま」

互いに笑いあい、レイチェルは彼の腰に腕を巻き付かせて、更に頬を押し当てる。

「絞め殺されるのは勘弁だ」

オーガストは少し大袈裟に両手を上げた。

「そんなことするわけないでしょう?」

レイチェルは怒ったような口調で言ったが、目は笑っている。

「腹が減ったな」

「今夜は銀鱈のムニエルとミネストローネよ」


「えらく豪華なディナーだ」

「いつだっておじさまが知らないだけだわ」

「……すまない」

オーガストはレイチェルの頬を指でなぞった。

「あ……、シーツを取り入れなくちゃ」

なめらかな頬を赤らめたのが、夕映えの中でも分かった。逃げるように顔を背け、走り出した彼女の後ろを、のんびりとついていく。


テラスに放置した革張りのソファに腰を降ろし、オーガストは葉巻を取り出した。
白いシーツが潮風にはためいて、向こう側には黄金いろにきらめく海が見える。
オーガストは頬杖をつき、目を細めて眼前の情景を眺めた。

潮風がレイチェルの真っ直ぐな髪をなびかせる。

「今日は天気が良かったから、お日様の匂いがたくさんする。きっと素敵な夢が見られるわ」

レイチェルが振り向いて笑う。
オーガストはゆったりと頷いた。

「レイチェル、」

真っ白なシーツを両手に抱えた彼女に手を伸ばした。
「なぁに?」

レイチェルはシーツを抱えたままオーガストの隣に勢いよく腰を降ろした。

「この仕事が終わったら、南の方に行かないか?いつまでもこんな小さな所にいるのは退屈だろう」

レイチェルはオーガストの肩に横顔を預け、小さく息を吐いた。

「南の方に行ったら、おじさまはずっとあたしといてくれる?」

「あぁ、しばらくはのんびりできるだろうな」


指先でレイチェルの髪を弄びながらオーガストは答えた。

「しばらくは……、か」

「世界は広いんだ。きっと、見たこともないものがたくさんある。ここにいるよりは、ずっといいと思うが」

「おじさまがいないのなら、世界のどこにいたって同じだわ」

「泣かせる台詞だな」

オーガストは思わず照れた微苦笑をする。

「笑ってらっしゃるけど?」

レイチェルがふて腐れて、唇を尖らせた。
そのいじらしい様子に、笑いが止まらない。
オーガストは手の甲で唇を押さえた。

「でも、本当よ。おじさまがいないのなら、広いだけの世界なんて、あたしにとって、退屈極まりない、無意味な代物だわ」


覗きこむ真摯な眼差しは少女のそれではなく、もはや内側に潜めた情熱を流し込む女のようだった。

「レイチェル……」

――愛している。

その一言を風に乗せて告げるのが、酷く憚られた。



「君を幸せにしたい……」


微笑む瞳は汚れなく、太陽さえも、逃げるように海に沈んでいく。

「ワインを冷やしてあるの。安いやつだけど……」

「構わないよ」

「夕食はすぐに出来るわ!もうすこしだけ待っていてね」

シーツを抱えて走り出したレイチェルが振り向いて叫んだ。
オーガストは左手を上げた。
ばたばたと忙しい物音を立てて、レイチェルはワインを持って再び彼の元へ来る。

「慌てなくていい」

オーガストは苦笑してワインを受け取った。

「だって、おじさまがいるんだもの。少しでも長くくつろいで欲しいの。時間が勿体ないわ」

「君もゆっくりでいいんだよ」

コルクを抜くと、まだ新鮮な葡萄酒の匂いが香った。

「お腹も空いてるって言ってたじゃない」

レイチェルの笑顔が、傾きかけた夕暮れの中でも眩しく映る。

オーガストは軽く肩をすくめ、グラスにワインを注いだ。
時計という針と数字がなくなったとしても、困ることはない。
レイチェルといれば、自分が感じる時間の流れはゆっくりしていて、穏やかだ。
安らかな気持ちだと思う。
とりまく空気が穏やかで暖かい。
よく冷えたワインがするすると喉を通過していく。

数時間前まで、金属と火薬と血の匂いに塗れていたのを思い出しかけたが、すぐに薄れた。
波の音を聴きながら、小さな声で歌い出す。
もう朧気な故郷の唄だ。
顔も思い出せない母親の胸で聞いた、メロディだけのその曲を、覚えている限り口ずさんでみる。

懐かしく、哀しいメロディが酔いを誘う。
まどろみを切り裂くように電話のベルが響いた。
オーガストはすぐさまソファから飛び起きて、部屋に走った。

台所ではレイチェルが不安げな目差しで、電話とオーガストを互いに見た。


「ああ、俺だ。……何?ボスは?……ああ。何?……ポーが?」

オーガストは受話器を当てたまま、レイチェルに手を伸ばす。
体をすり寄せ、すっぽりと腕に収まる彼女の髪にキスを落とし、微笑みを浮かべる。

「……わかった。ああ。そのかわり、これが終わったら俺は抜けさせてもらうぜ。ボスがいなくなるならば、もうそこにいる意味はない」

無感情な声で、応えるとすぐに受話器を置いた。

「……もう……」

レイチェルが、言いかけの口を閉じた。

「……すまない。もう、行かなくちゃならない」

「……」

哀しげに揺れる瞳が、オーガストを見上げる。


「……愛してるわ。オーガスト……」

恐る恐る告げた唇が震えていた。

「俺もだよ。レイチェル」

オーガストは頭を少し下げてレイチェルに口づけた。


寝室で
白いヴォルサリーノを手に取り、黒いスーツに身を包んだオーガストは葉巻を咥えた。
銀鼠色のスーツを大事そうに抱えたレイチェルが、ドアの前に立っていた。

「クリーニングに出しといてくれ……どうした?」

「あなたの匂いがするから。スパイシーで金属的な……哀しい匂い……」

「……今度、帰ったら、君と同じ太陽の匂いになっていくさ」

「……本当に?」

「どうしたんだよ?俺は何があっても君の所に帰ってくる」

レイチェルの白くて柔らかな額を手のひらで撫で上げる。

レイチェルが少し無理に笑顔を作って見せた。

「ごめんなさい。久しぶりに明るいうちに会えたから甘えちゃったみたい。気にしないで」

まだ、あどけなさを残した少女には似合わない微笑みと強がり。
オーガストはヴォルサリーノの鍔を下げてレイチェルから目を逸らした。

「……言っただろう。君を幸せにしたいと」

「あたしは充分幸せよ。」

「なるべく早く帰るよ。日付が変わらないうちに。だから、無理に笑ったりしないでくれ」

「無理してないわ。ムニエルが上手に出来たから、残念だなってちょっと思っただけ」

二人は台所に戻る。
オーガストは冷めかけたフライパンの上でまだ暖かいムニエルを指でつまんだ。

「ワインが欲しくなる」

指を舐めてレイチェルを見やる。

「いつも俺が知らないうちに、成長したな」

「帰ってきたら、また作るわ。白ワインも冷やしておくから」

「楽しみだ」

軽くキスを交わし、部屋を出た。
レイチェルの笑顔に見送られ、オーガストは足早に歩いた。

路地裏から大通りに出て、タクシーを拾った。
行き先を告げると、葉巻に火を点け、シートに深くもたれかかり煙を吐いた。
忘却の子守歌を口ずさむ。

「……オーガストさん、クラブは終身制だってことをお忘れかい?」

タクシードライバーが感情のない声で言った。

オーガストが眼を大きく開いた瞬間、爆発音が轟いた。

「!!」


オーガストは懐からコルトを抜いてタクシードライバーの後頭部に突き付けた。

「……当の昔に魂を売っ払ったあんたに、おままごとなんて似合わないぜ」

「ポー……」

タクシードライバーは不敵に笑い、 オーガストは引き金を引いた。
フロントガラスに血が飛び散る。
事切れた男を押しのけ、ハンドルを奪った。
不安定な蛇行を繰り返すタクシー。

「……くそったれ!!」

オーガストは忌々しげに吐き捨て、死体の足の上からブレーキを踏みつける。
花屋の壁を半壊させて、車は止まった。
ポーの亡骸を放り捨て、花売り娘の悲鳴を無視して、フロントガラスを粉々に砕くと、ギアを入れ替え、アクセルを踏みこんだ。

フルスピードの風の中、涙は出る暇もなく蹴散らされる。
きつい火薬の匂いが鼻につく。
オーガストは歯を噛み締め、ハンドルを殴り付けた。車を引き返したかったが、遠くからサイレンが聞こえてきた。

港の第六倉庫でボス達が待っている。
迷っている暇はない。

涙の代わりに歌が 零れた。
子守歌が鎮魂歌に変わる。


“愛してるわ。オーガスト”

太陽が沈み、レイチェルの声を思い出す。
初めて名前を呼ばれた。

まるで最期を知っていたかのように。
いやに全てのタイミングがよすぎる。
なにか、あるはずだ。
さらにアクセルを踏み込みスピードを上げた。

唄も涙も闇に消えて行く。

暗黒が、オーガストを飲み込んだ。














ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう