クリスマスの夜に必要なものが一つあるとすればそれは、ど根性だと思う。
恋人がいなかろうが朝から晩までバイトが入ろうが卒論が書き上がらなかろうが実の母が救急車で運ばれようが、それさえあればなんとかなる。赤い勝負下着も厚化粧も無駄毛の処理も高いばっかりのプレゼントも今年はいらない。
ついでに言うと、ディズニーランドのパレードもかくやというきらびやかな街を抜け、深夜料金のタクシーで病院に駆けつけたとき、財布の中身は三十五円と半年間入れっぱなしのコンドームひとつだった。
「おまえ、なんて格好を」
病院の玄関前で待っていた七つ上の兄貴にタクシー代を払わせ、無理やりこじあけるみたいに時間外通用口のドアをすり抜けると、バイト先のエロ店長のクリスマス自給アップ誘惑に釣られて着てしまったミニスカサンタ服をひらひらさせながら、あたしは暗い廊下をひた走る。
子供の頃に通ってた小児科の診察室の角を曲がり、良い子のみんなが飾りつけたモミの木を横目にエレベーターの上昇ボタンをぶん殴ったところで、兄貴があたしに追いついた。
「慌てんなって。おふくろ、大丈夫だよ。手術ももう済んだし」
なかなか降りてこないエレベーターとやけに落ち着き払った兄貴の態度にあたしは地団太を踏む。無人の廊下でがつんがつんとブーツのかかとが鳴った。
「……るさい」
あたしがつっぱねたとき、チンとエレベーターの扉が開いた。
その箱の中の眩しさにあたしは一瞬目がくらむ。
同じタイミングで足を踏み出したせいで、しかもお互い譲る気はさらさらないから、ぎゅうぎゅうと押し合いへし合い乗り込んで、まるで示し合わせたようにあたしは「閉」兄貴は「3」のボタンを同時に押した。
「おまえ、まだあの店でバイトしてんの?」
「そーだよ、悪い?」
エレベーターは重たげな音を立てながらゆっくりと上昇し始め、あたしと兄貴は同じしぐさで点滅する階数表示を見上げた。
うちの家族の間では高くてまずいって評判の、でも顔のいい店長とおしゃれな内装が人気のイタリア料理店のバイトは大学に入る前の春休みから始めた。
個人経営だからテーブルが五つしかなくて、ときどき店長の奥さんが手伝いに来る以外バイトはあたしともうひとりしかいない。平日はたいてい閑古鳥が鳴いてるのに、今日は商店街のご近所さんたちで満席だった。
その店で、あたしは父や兄貴からの幾度とない電話に気がつかず、朝の九時から夜の十一時までぶっ通しで働いていた。トイレ休憩をとることさえままならなかった。
扉が開くと、あたしは兄に続いて三階のフロアに降り立ち、非常灯の緑色の光が照らす闇の中を母の病室まで足早に歩いた。寝静まった病棟はしんと静まり返っている。
「おまえ、なんて格好を」
病室に足を踏み入れるやいなや、あたしは父のお腹に激突した。父は顔の半分を占めてるんじゃないかってほど巨大な眼鏡の奥からあたしを見下ろし、片頬をひくつかせた。
強面で無口な父は職場の部下に敬遠されないよう気を遣って、今日もわざと変なネクタイを着けてる。
そのパンダ柄のネクタイやでっぱったお腹から顔を上げ、あたしはベッドに駆け寄った。
「あんた、なんて格好を」
真っ白なシーツの中で、還暦を迎えたばかりの母は呆れかえったように眉根を寄せ、目と口を丸くした。普段きりっと結い上げた髪をほどき、パジャマ姿で横になっているものの、いつも通り平然としてる。
「そっちこそ、何やってんの」
言いながら、あたしは泣きだしてた。
魔法のように一瞬で解けた不安な気持ちが湧き上がるような怒りになって、頭の上から降ってきた気分だった。
恥ずかしさに母から顔を背けたあたしは、それに押しつぶされるかのように膝をつく。
ひんやりとした床に素足が触れた瞬間、忘れていた寒さが蘇ってきた。
堰を切ったように泣きじゃくりながら、あたしは母のがさがさな手をつぶれるほど握った。
久しぶりに触れた母の手は石のように硬くて、あったかくて日に焼けてて茶色いシミが浮き出ていて、死んだおばあちゃんの手にそっくりだった。
いつの間に、こんな歳、とったんだ。
「ばかだね、あんたは」
本気でうえーんと泣き喚くあたしに、母はそう言って笑った。
ほんとに馬鹿にしているようにも、しょうがないなあって風にも見えた。ありがとうにもごめんねにも聞こえた。
そのひとことに、なにもかもが詰まっているような気がした。
背後で扉が閉まる音がして、あたしは母と二人きり。シーツに顔を押しつけたあたしの背中をゆっくりと叩きながら、心の準備はしときなさいねと母が言った。それは、まるで寝かしつけるようなリズムだった。
「遅かれ早かれ、あたしは絶対、あんたより先に死ぬんだからね」
とん、とん、とん。母はあたしのサンタ服の背中を叩き続ける。
星明りのさす病室は海の底みたいに静かだった。
「やだよう」
泣き疲れたあたしはまどろみながら、子供みたいに駄々をこねる。
「あたし、だめだよう。そんなの、生きていかれないよう」
ぼろっと零れ落ちた涙はぬぐう暇もなくて、硬いシーツにじゅっと吸い込まれる。
「そんなこと言わないでよう」
「そうだね、こんな話」
とん、とん、とん。
「そうだよ、こんな話」
とん。
「でもね」
母は止めた手をあたしの背中に置いたまま、何かを思い出すようにしみじみと言った。
「人生だって、恋愛だって、仕事だって、旅行だって、親の庇護だってね、終わりがあると思うから悔いが残らないように大切にできるんだからね」
よく母が茹でてるほうれん草みたいにへなへなのあたしは、不思議なくらい何の反発もなく、母の話に耳を傾けていた。子供の頃、母が寝る前に毎晩本を読んでくれたことを思い出す。あたしが夢見がちな本好きになった所以も、もとをたどれば母だったんだ。
「青春だって終わりがあるんだから、あんな男とのばかみたいな不倫、やめて正解だったんだよ」
あたしはベッドに突っ伏したまま、濡れたまつげをゆっくりとしばたいて思う。
あたしは、どれだけ周りが心配してるかとか、どれだけおかあさんが心配してるかとか、あいつがあたしを有効活用してるだけで奥さんが一番大事だってこととか、ほんとは始めから全部ちゃんと承知してた。
それに、あいつが倒れて救急車で運ばれたって、たぶんあたしはぜんぜん平気だって、自分で分かってもいる。死ぬほど好きだって思う瞬間が何度あったって、産みの親と比べれば男なんてその程度だって、二十二にもなれば知ってる。ただ往生際が悪くて、いつまでもズルズルぐだぐだしてただけで、ちゃんと知ってたんだよ。
「人様のものをきちんと返した、あんたは偉かったんだよ。もう、春から社会人だもんねえ」
そうだ、あたし、しっかりしなきゃ。
あたしはシーツをぎゅっとつかみ、勇気を出してぐしゃぐしゃの顔を上げた。
母の目を真正面から見たのは何年ぶりだろう。
「あたし、お店やめる」
「そ」
あっさりと答えた母は窓の外へ視線を転じて穏やかに笑い、もう一度、あたしの背中に暖かい掌をのせた。 |