殺鬼人
背中を押せば、死ぬだろう。
例えば、電車や地下鉄、モノレールで列車がやって来るのをスマートフォンを見ながらボーッと待つ人。もしくは、信号待ちの人でも良い。
彼らの背中を無性に押したくなったことはないかい?
彼らの背中を軽く押せば、きっと彼らはそれだけで容易く命を落とすんだ。あっさりとね。
例えば、電車でマスカラをしている女性を見ると、思わないかい?
電車の揺れで手元が狂って、そのまま目玉を抉ってくれないかなぁ、なんて思うだろう?
思わないなんて言わないでくれ。
きみは思うよ。
思わないとしても、きっと明日からはそう思うはずさ。じゃないと、寂しいからね。
本当はいっつも思っているはずさ。
きみにはきっと猛烈なまでの、最早、情熱的とまで言って良い程の破壊衝動があるに違いないんだ。
それは多分全員が持っているよ。
きみだけじゃない。
きみは決して変なんかじゃないんだ。きみは普通さ、正常さ。
ほら、楽しそうに、幸せそうに笑っている彼女を見てごらん。
彼女の嬉しそうに緩んだ口元を見てごらん。あぁ、なんて綺麗なんだろうね。羨ましいね。
じゃあ、彼女の口元から少しだけ視線を落として、白い柔肌を見てみようか。ほっそりとした雪のように純白な首筋を見てごらんよ。
真っ白だ。
傷一つなく、シワもシミも一つとしてない。
いやあ、若さって良いね。
あの幸せそうな彼女。
彼女の白い首筋に、不意にだよ? ナイフを突き立ててみたくはないかい? ナイフなんてない? なら、カッターナイフでも良いし、鉛筆でも良いんだ。
それもない? だったらもう想像するしかないね。
きみの、指を、見てみよう。
立派な凶器が、そこにはある。小指でも良い。
小指がない人はどうするかって?
きみには歯があるだろう?
歯がないなら?
それなら舌でも良いや。
尖っていれば、何でも良いよ。そこには立派な武器がある。
きみはいつでも、簡単に、彼女の笑みを曇らせることができるんだ。
きみは想像するよ。
きみの指先が、彼女の、穢れのない、首筋に、すんなりとめり込むんだ。
白は刹那のうちに深紅に染まり、鮮血となって地面に落ちる。それだけで、ああ、あっさりと彼女は死んでしまったよ。
あれ?
想像が追いついていないようだね。駄目じゃないか。これくらい、すんなりと想像してくれないと。きみは馬鹿じゃないんだ。
だから、きちんと想像してくれよ。
でも、今度はもっとわかりやすく言うね?
きみの前には、処女雪がある。さあ、そこに一歩踏み出してごらんよ。
きみという足跡が刻まれたね? 同じことだよ。
その征服感を忘れないで。その支配感と充足感、開放感を頭において。
さあ、きみの前には少女がいる。
きみとは似ても似つかないほどの美少女さ。そのような彼女の柔肌へと、きみは指を突き立てる。指は恐ろしい程簡単に、その柔肌を突き抜ける。
少女はさっきまで笑っていたというのに、呆然ときみの顔を見つめている。どうして、なんて言いたいのかもね。
少女が大きな血塊を吐き出す。
滝のように、嘘のように、ゴボゴボと血を吹き出すんだ。
彼女の宝石のように美しかった瞳は、魚の目のように乾いたものとなり、色を失う。
彼女の肉体は釣り上げられたばかりの魚のように、びくびくと激しい痙攣を繰り返す。
やがて、芯を抜かれたように、少女の肉体はその場に崩れ落ちて、ただただきみの足へと血を吐きかけてくる。
清々しなかったかい?
しなかった?
本当に?
まあ、いいさ。
少なくとも、満足した者がここに一人いるからね。
「きみは誰なんだ?」
おっと、ようやく喋ったね。でもね、その質問はおかしいよ。
あとね、きみのそれは独り言だよ。口にしてはいけない言葉さ。
ほらほらほら、きみが独り言何て言うものだから、みんなきみの方をぎょっと見てしまったね?
話が一瞬だけ止まって、それから彼らは、彼女らは再び話し始めるよ。
何て言っているか、聞こえるかい?
前の男女は、この前に行った飲み会のお話をしているようだね。
後ろにいる女子たちは、気持ち悪い上司の悪口で盛り上がっているね。
で、他は?
あれあれ、聞こえないって?
じゃあね、もしかしたらきみの悪口を言っているのかもしれないね。
ほら、耳を澄ませてごらんよ。
きみの悪口を、
言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってる言ってるよ。
じゃあ、それに対してきみは何をするべきなのかな?
だって、きみは悪くない。
だって、そうだろう? きみは彼らの悪口何て一言たりとも呟いていないんだ。だのに、彼らはきみの悪口を言うんだ。
だったらさ。
ほら、見てごらんよ。彼らの哀れな顔をさ。
自分は殺されないって思ってる。
自分は特別なんだと確信している。
きみがちょっと悪意を浴びせただけで死ぬ存在の癖に、彼らは偉そうにきみの悪口を言うんだ。
まずは想像からさ。
きみはいつもそうしてきただろう?
最初は、そうだなぁ。
前の男女からだ。きみは虚空からチェーンソーを取り出す。エンジン音がけたたましく上がる。
刃が高速で回転し始めるのをたっぷりと確認してから、きみは一気にチェーンソーで首を掻っ切るんだ! 一撃で、紙でも裂いたように、ぱっくりと首が吹き飛び、コロコロと地面を転がった。
首の断面からは絶えず血が流れるけど、そのようなことは些事だよ。
殺人はいけないこと?
違うよ。
人は人を殺していいんだ。
きみが毒キノコを食べたとしよう。きみの身体は必死に抗おうとして、嘔吐するかもしれない。もしくは、身体が耐えきれずに死んでしまうかもしれない。
でもね、人を殺しても、きみはそうならない。
人は毒キノコを食べられるようにはできていないけれども、人は殺せるようにできているんだ。
人を殺してはいけません、っていうのは、法律で決められただけのことなんだ。
きみは別に、殺してもいいんだ。
しかし、きみは馬鹿じゃないから、ルールは守る。そうだよね。ルールは守らなくちゃね。破ったら、大変だものね。きみはわかっているんだ。
人は別に殺してもいいけれども、殺したら大変だから殺さない。
そうだろう?
でもさ、一人くらいは良いなんて思わない?
老人が歩いている。
杖にすがって、必死に生きている。
ちょっとくらいは思ったことはない? その杖を蹴り飛ばして、倒れた老人の頭蓋を踏み砕きたいって。
「うるさい!」
それは独り言だよ。
みんな、きみの悪口を言っている。
「うるさいなあ!」
良いんだよ、別に。
きみはきみのしたいように、してもいいんだ。そうしたいと思っているのが、きみの本心なのだからね。
「じゃあ、お前が死ね!」
そう言うと、きみは顔を真っ赤にして、瞳を充血させて、けれどもその下には深い隈を刻みながら、首を絞めてくる。
首はがっちりと絞められている。
息はできないし、喋ることもできない。
でも、まだだ。
まだ甘い。弱い。
きみはもっと首を絞められる。まだまだ首は絞められる。きみの指が触れているコリコリとしたものは、のどぼとけ。
柔らかい筋肉を、きみは必死に締め上げる。
そして、今まで不安定だった手ごたえがある瞬間、しっかりとしたものに変わった。
まるで、中途半端に入っていたスイッチが、きっちりとはめこまれたときのような、感覚。
それが絞殺の感覚だ。
これからは毎日、きみは殺すことになるだろう。
きみはその理性でもって、殺し続けなければいけない。
「お前という――」
――鬼を。