半年前まで、あたしは普通のなかにいた。普通というよりは『幸せ』のなか。
身内の見解を差し引いてもカッコいい旦那さま、皓はちょっとつっけんどんな人だけれど、それでもさり気なく優しい。
例えば、寝ているときに布団からはみ出してると、そっと肩まで掛け戻してくれたり。
あたしはちょっとのことで目を覚ます。それを知らない皓はそうしながら、
「瞳、愛してるよ」
とそっと囁く。
起きているときには絶対に云ってくれない言葉。
あたしはそれを聞いて気づかれないように笑みを零す。
その普通が突然、剥がれ落ち、あたしは狂った。
以前から頭痛持ちではあったけれど、それが頻繁に起きるようになった頃、視野が狭くなっているのに気づいた。徐々に進行したせいで気づくのが遅れたんだと医者から云われた。
医者からの宣告が『よーい、どん』の笛だったかのように、進行は速度を増していった。
あたしは治療する気力さえなく、それに負けた。
皓は『愛してる』という言葉が嘘なのかと思うくらいに冷静だった。あたしはそれが許せなくて云っちゃいけない言葉をどんどん吐いた。
それでも皓は怒ることなく、ただつっけんどんに、
「どうしたいんだ? どうしてほしい?」
と何度も訊ねた。
視野がだんだんと狭くなっていくなかで、真夜中に気づく「愛してるよ」という言葉を聞く度に零れるのは、「ごめんなさい」という涙にすり替わっていた。
そして気づいた体調の変化。
そういう毎日を繰り返していたある日、皓はあたしの前にたくさんの写真を散りばめた。
「写真なら、視界狭くてもきれいな風景が一面に見えるだろうと思ってさ」
写真を見ると、あまりきれいな風景じゃない。というより、風景はきれいなんだろうけれど、どれもピンボケしている。
「これ……皓が撮ったの?」
「なんだよ」
ぶっきらぼうな返事に、あたしはあの日以来はじめて笑った。なんでも器用にこなす皓の不器用さがはじめて露呈した日だった。
「全然きれいじゃないよ」
そう云ってケラケラとあたしは笑いだし、皓はこれまでに見たことのない顔を見せた。
まるで、愛してるよ、と語りかけているような。
皓の手が伸びてあたしの頬を包んだ。
「どうしたい? どうしてほしい?」
「……赤ちゃん、産んでいい?」
黒く丸いぼかしが入った枠の中に、驚いた皓がいっぱいになった。驚いた、より動転している。
これもまた、はじめて見た顔。
「…というか…産むよ。半年後には家族が増えてるんだよ……うれしい?」
皓は複雑な表情を見せた。
「…治療は?」
「産んでから。治療、はじめたら子供を産めなくなるし」
いつも決断の早い皓の顔は迷いに溢れている。
あたしはこのとき、気づいたんだ。視野が狭くなっているぶん、焦点が完璧になって皓がくっきりと見える。部屋を巡っていくと、ダイニングのテーブルに置いた花瓶のガーベラも、食器棚に置いたお揃いのコーヒーカップも、飾り棚の中にある数少ない二人並んだ写真も、鮮明にあたしの目に入ってくる。
「わかった……瞳、ありがとう」
「え?」
「…子供のこと」
「うん」
そういえば、こんなところも不器用なんだ。結婚するときも、言葉ではなくて、いきなり婚姻届を差し出されたんだった。
「ねぇ、触れていい?」
いきなり訊ねたあたしを、皓は問うように見下ろした。
「顔に触れさせて」
そう云いながら手を伸ばした。自分の手さえ視界に入ってくるのに時間がかかる。
皓はしばらく黙ってあたしが触れるのに付き合っていた。
そして、クッと笑いだす。
そのくちびるをなぞった。
「へんな奴」
「見えるうちに、あたしの中に皓の写真集を作っておくんだよ。触れたらどんな顔してるかわかるように」
そう云うとまた皓は笑った。そしてあたしの手を抑えると、そのまま手のひらに皓はくちづけた。
「皓、ありがとう」
「なに?」
「いっぱい酷いこと云ったのに……あたしのこと、見棄てないでくれて」
皓は片方のくちびるを上げて策略ありげに笑みを浮かべた。
「瞳、襲っていい?」
返事を待たずにあたしは誘拐された。
それから皓はあたしを連れて、よく写真を撮りに出かけるようになった。だんだんときれいな風景があたしの前に増えていく。
赤ちゃんが大きくなっていくと、躰も温かくなったせいで布団から飛び出ていることが増えた。そのぶん「愛してるよ」という言葉も増えて、ちょっと得した気分になった。生まれたら減るのかなと思ったら残念な気がする。
そして出産予定日を一カ月後に控えた日、あたしは暗闇から出られなくなった。
目覚ましが鳴って目を開けたけれど、どこに顔を向けても、カーテンを開けっ放しにしているはずの窓を探せない。
「皓…」
隣で皓が起き上がる気配がした。
探るように伸ばしたあたしの手を皓が掴まえる。
「赤ちゃんの顔…見たかったな…」
皓の腕があたしを包む。
「大丈夫」
皓の震える声。
「ねぇ、触れさせて」
躰を離して皓の顔に触れた。その頬が濡れている。
「……ずるい。いまの皓の顔、あたしの写真集にはないよ?」
あたしが本当に悔しそうに云うと、触れている皓のくちびるが笑みをかたどった。
「瞳の目にはちゃんとおれが映ってるよ。どんなレンズよりもきれいな瞳だ」
「……それって、あたしがきれいって云ってるんだよね?」
ずうずうしく云うと、あたしの視野が狭まるのと反比例するように、少しずつ雄弁になった皓がハハッと声を出して笑う。
あたしのレンズは飾り物になったけれど、あたしの中には皓の心を映しだす、もう一つのレンズが光っている。
あとどれくらい、あたしの時間が残っているのかはわからない。
けれど。
「瞳、愛してるよ」
ちょっと、ううん、すごく得した気分だよ。
あたしはいま、皓がくれるたくさんの『愛してる』のなかにいるから。
皓、EYE LOVE YOU!
― END ―
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