すっかり冷え切った空気が、風となって私の身体をすり抜ける。
目の前で揺れる鈴の音が、耳に心地いい。
「お、『飛脚小町』だぜ」 「相変わらず早ぇな」
両側に並ぶお店を横目に走る私とすれ違いざまに噂する声が、耳にふれた。
――『飛脚小町』、か。
実はこの名前、私は好きじゃないんだ。
私、あやめがこの仕事を始めて約二年。ことあるごとに
『今日は女の配達かい』 『荷物は大丈夫なんだろうね』
と言われたもんだ。
最近は『女』の代わりに『飛脚小町』なんて体のいい呼び方されてるけれど、心から受け入れてるわけじゃない。身体を張って仕事をしている以上は、男も女も関係ない――私はいつも、そう思ってる。
だから、仕事をするときは化粧もしないし、男の人と同じように長い股引を履き、胸元はさらしを巻いたあとに丼をつけてその上に男物の着物を羽織って、腰元でたくし上げる。髪だって、仕官にあぶれたお武家さんと同じ形にしている。
寂しくない、と言えば嘘になる。
私だって、普段配達にいく大店のお嬢さんのような綺麗な着物を着て、かわいい簪を挿して、街を歩いてみたい。
だけど、五年前、十二のときに死んだ母さんが口癖のように言っていた。
『男にすがらなきゃ生きていけないような女にだけは、なってはいけないよ』と。
女中奉公していたさる大店の主人と恋仲になったあげくに捨てられた自分と同じ道を、娘の私にはたどって欲しくなかったんだろう。
「よ、あやめ。配達終わったか」
「惣吉さん」
一回り大きな鈴を鳴らし、私と並んで走るこの男性は、私が働いている飛脚問屋の跡取り息子だ。
男性にしては目が大きく、鼻筋も通っている美形だけに、お見合い話はひきもきらずに押し寄せるし、道を走れば
「惣吉さ〜ん」 「こっちを向いて」
と、芝居小屋の役者に向けられるような歓声を浴びるにも関わらず、女性にはとんと興味がないらしく、見向きもしない。
「うん。でも私用であと一件あるんだ。惣吉さんは?」
「こっちはもう終わり。あと一件って、どこだよ?」
「品川」
「品川ったら、宿場町だろ」
「うん、神田の棟梁だった、文吉さんのおかみさんに」
私と同じ長屋の文吉さんの妻、おちかさんは、外を走り回って日に焼けている私とは正反対で色が白く、いつも笑みを絶やさない、優しい女性だった。
怪我で働けなくなった棟梁の代わりに働きに出て、もうじき一年になる。
棟梁は、月に一度送られてくるお金の一部をためて、奥さんに立派な簪を買って、それを届けてくれるように私に頼んできた。
今朝、仕事が終わったら品川に届けに行きたいと旦那さんに言ったら、快く許してくれたのだ。
白い息とともに、彼もまた大川(現:隅田川)の橋を越えてくる。
「あれ? 配達終わったんじゃなかったの?」
「品川までは、お前の足じゃ遠いだろ? 年の瀬は何かと物騒だからな。ついてってやるよ」
「女だと思って、軽く見ないで」
惣吉さんの横顔をちらりと見て、私は頬を膨らませる。
ここから品川まではおよそ二里(約八キロ)。
江戸の町を照らす光は、少しずつ西の方角へ落ちている。おそらく今は、羊の刻(午後二時頃)を過ぎたくらいだろう。
時間を考えると、確かに、私一人では少し不安が残る。ここは、惣吉さんの好意に甘えるのも一つかもしれない。
でも、面と向かってそんなことを言うのが恥ずかしい私は、彼から先ん出て、前を向いたまま走り続けた。
◇◇◇◇◇
上野を出てから、半刻(一時間)あまりが過ぎた。
町中を出てからは、収穫の終わった畑や葉の落ちた木が遠くに立ち並ぶ街道筋に入る。
建物がほとんどない分、向かい風にさらされた身体が冷えるのが早い。
朝から夕方まで江戸の町を走り慣れている私でも、木でできた籠を持つ手に、力が入らなくなり、速度が少しずつ遅くなる。
「あやめ。貸せよ」
私の状態に気づいたのか、惣吉さん手をさし伸べてくる。
「いいよ。大丈夫」
空を赤く染めはじめた陽の光を横目で見ながら、私は足を動かす。
「落としたりしたら大変だろ。いいから」
彼は私に近づき、籠を無理やり交換した。何も入っていない彼の籠は軽く、少しだけ、手が楽になったような気がした。
「今日は十二月二十四日か。正月まであと七日だな」
「うん。おちかさん、誕生日なんだって」
「へぇ。そうか。そりゃ、今日中に届けてやらないとな」
「うん」
少し前を走る惣吉さんが、私を振り返って笑った。
うなずいた私は、彼に追いつこうと速度を上げる。
ところがいきなり、惣吉さんが立ち止まった。
「どうしたの?」
惣吉さんの肩越しに、何人かの男が近づいてくるのが見えた。
長い髪を下ろしただけ。もしくは、結ってはいるが、あちこちから後れ毛がはみ出している者もいる。
手には、草を刈るときに使う鎌や、脇差を持っている。
「あやめ。俺が奴らを引きつけるから、お前はこれだけ持って先に行け」
惣吉さんは膝をつき、籠から簪の入った木箱を私の胸元に入れる。
「惣吉さんを置いていくなんてできないよ」
「俺たちの仕事は、お客さんの荷物を届けることだ。文吉さんの想いがこもった贈り物なら、なおさらだろう」
「でも」
なおも言いすがる私を背に隠した惣吉さんは、互いの籠の先端に仕込んであった短刀を二本、引き抜いた。
「俺が合図したら、全力で走れ。お前の足なら、あと四半刻(約三十分)もせずに着くはずだ」
連中から私を隠す惣吉さんの背中はうんと大きくて、私の視線には、自分が着ている着物と同じ柄しか見えなかった。
一瞬、辺りが光る。
「あやめ! 走れ」
惣吉さんが私を逃がすように、奴らと身体を入れ替えて叫んだ。
私は、はじかれたように走り出す。
後ろを振り返ると、目の辺りを押さえた男らがふらつきながら、惣吉さんと対峙しているのがわかる。
惣吉さんのもとへ引き返したい気持ちをこらえて、私は、前だけを見て走り続けた。
『俺たちの仕事は、お客さんの荷物を届けること』
彼に言われたこの言葉を、心の中で何度も繰り返しながら。
◇◇◇◇◇
品川のに着いたのは、それから四半刻を少し過ぎてからだった。
辺りはすでに闇に覆われ、息を切らして歩く私を、宿場から漏れ出る灯りが優しく出迎える。
私はとりあえず、おちかさんが働いている宿、きのと屋に立ち寄った。
「あら、あやめさんじゃありませんか」
入り口を灯す提灯に照らされたおちかさんの顔色はさらに白くなり、少し痩せたように見える。
「旦那さんから頼まれて、これを届けに来たの。今日、誕生日なんだってね」
私は胸元から、小さな木箱を取り出した。
「あの人が……」
「うん。おちかさんが仕送りしたお金を少しずつ貯めて、買ったんだって」
おちかさんは震える手で、そっとふたを開けた。
細かな細工を施された銀色の簪が、雲の隙間から覗く月に照らされて光っている。
「私がつけてあげるよ」
乱れた髪を整え、私はそっと簪を挿した。
おちかさんの目からこぼれる涙が、頬を濡らす。
「ありがとう……。ありがとう、あやめさん。私、これでまた頑張れるわ」
おちかさんが、私の手を握りしめて何度も頭を下げる。
私の心にも、熱いものがこみあげた。
「よかったね、おちかさん。本当に……」
最後は、言葉にならない。
文吉さんの想いを届けることができて、よかった。
私は、強く思う。
けれど……。
品川に着くまでに追いかけてこなかった惣吉さんのことが、脳裏を駆け巡る。
「あやめさん、今日は泊まって行ってくれるでしょう?」
「ごめんなさい。私、急いでるから。仕事……頑張ってね」
骨ばったおちかさんの手をもう一度強く握って、私は彼女に別れを告げた。
大小の建物が向かい合わせに立つ道を歩く旅人の間を縫って、今来た道を引き返す。
すれ違う人々に視線を走らせる。
でも、惣吉さんらしい人はどこにも見当たらない。
いつの間にか品川の宿場町を抜け、街道にさしかかった。
でも、こちらに歩いて来るような人影すら、ない。
「……どこに行っちゃったのよ。まさか、死んじゃったの?」
さっき感じた幸福感とはうって変わった悲しみが、私の心を支配する。
私の後をついて来なければ、惣吉さんは死なずにすんだのに。
身体中の力が抜けた私は、その場に座り込んだ。
嗚咽とともに、涙が私の膝に落ちる。
「惣吉さんのばか……。馬鹿やろう!!」
暗闇に向かって、私は叫んだ。すると。
「……誰が、馬鹿だって?」
荒い息とともに、惣吉さんの声がかすかに聞こえた。
しかし、彼の姿はどこにも見えない。
「惣吉さん、どこにいるの?」
「地蔵の裏……」
私は、すぐ前にある祠へ走る。
後ろへ回ると、上げた手を力なくぶらぶらさせている惣吉さんが座り込んでいた。
「惣吉さん……」
「荷物、無事に届けたか」
息を何度も吐き出しながら、惣吉さんが訊ねてくる。
惣吉さんが無事だったことが嬉しくて、私はただうなずくことしかできない。
「泣くなよ。俺が死ぬわけないだろう」
「だって……」
涙が止まらない私の身体を、惣吉さんが自分のほうへ引き寄せた。
驚いて身を硬くした私の背中を、何度も優しく叩く。
恐怖と不安、そして冬の寒さで冷え切っていた私の心と身体が、ゆっくりと癒される。
「おい、あやめ。見てみろよ」
惣吉さんに言われて顔を上げた私の頬に、冷たい何かが触れる。
「……雪だ」
薄い雲の向こう側にある月のやわらかな光に照らされた白い花びらが、仕事を終えた私たちをねぎらうように、ゆっくりと舞い降りてきていた。
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