その日も、いつもと変わらない日だった気がする。
「ショパンの前奏曲、第15番。素敵な曲が流れてるわね」
ラジオから流れる音楽を聴いて、ニシムラが言った。僕は何も言わない。それが素敵な曲かどうか、よく分からなかったから。
ぺら、と本のページを捲る音が、ラジオから流れるクラシックに混じって聞こえた。音のした方へと目をやると、いつの間にかニシムラが本を読んでいる。表紙から察するに、ニシムラが一番好きだった作者の短編集だった。ラジオからは、ただ音楽が流れるだけだった。
「知ってる? 別名、雨だれの前奏曲」
ニシムラは透き通る綺麗な声でそう言って本を閉じた。しおりは挟んでいない。もう何度も読み返した本だ、しおりなんかいらなかったのだろう。彼女はどうやら喉が渇いたようで、スリッパをぺたぺたと鳴らしながらキッチンへ向かって歩いていった。
そんな彼女の後ろ姿に向かって、僕はやっと声を発する。
「皮肉だね。こんな時に、そんな題名の曲を流すなんて」
正直な感想を述べた僕に、ニシムラは意外そうな声を出した。
「あら、そうかしら。何か飲む?」
「何がある?」
火の付きが悪いのか、何度かコンロをかちかち回す彼女の姿が見えた。
「紅茶かしら。コーヒーもあるけど、私の気分は紅茶なの」
紅茶の中からどちらかを選べ、ということらしい。僕は少し迷って、レモン、と一言答えた。特に意味はない。先に浮かんだのがミルクではなくレモンだっただけ。
もう一度台所へと目をやると、ニシムラはまだコンロをかちかちいわせていた。
ラジオからは、少し音楽が途切れた。どうやら雨だれの曲が終わったらしい。
次に流れてきたのは、弦楽器の音だった。音楽的な知識の乏しい自分には、それがヴァイオリンなのかチェロなのか、それとも全く違う楽器なのかどうか分からなかったが、確かにソレは弦楽器の音だった。
「はい、レモンティー」
ラジオに耳を澄ませていると、突然ニシムラから声を掛けられた。
「あれ、これなの?」
それはどうみてもティーパックから作ったものではなく、買いだめしておいたペットボトル。市販の紅茶だった。
「しょうがないわ。ガスが付かないのよ」
「ああ、きっともう機能していないんだよ。交通機関も、大分前からストップしていたしね」
温かい紅茶を飲めないのは残念だったけど、それも仕方ない。
「世界が終わるんだもんね」
ニシムラがさっきと寸分違わぬ位置へと腰掛けて、ペットボトルを持ったままの僕を見た。
僕は彼女の眼を見て、それから窓の外を見た。24階建てのマンションの中で3番目に高い位置にある部屋だったからか、ずっと向こうまで見える。窓の外は雨が降っていた。ラジオからは相変わらず弦楽器が音を奏でていた。
窓の外、銀色の糸を遙か上空から垂らすこの雨は、もう何日も前から降り続いている。過去最大の、そして恐らく最後になる、異常気象。世界はこの長雨によって滅びるのだと、何ヶ月か前のテレビで僕は見ていた。
どうやら世界は、終わることになったそうだ。
「『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』って言うの。長い題名でしょう?」
唐突にニシムラが声を発した。あまりにも唐突だったので、僕はその言葉の意味を理解出来なかった。正確に言うと、理解しようとする前に、ニシムラが答えを言ってしまったのだ。
「この曲の題名よ。ラジオから流れてるでしょう?」
「ああ、これね…」
神様、何故私を見捨てたのですか。
確かそんなセリフを、何処かの本で見たことがあるような気がした。絵本だったかもしれないし、聖書だったかもしれない。
僕も詩的に呟いてみようか。神様、何故この世界を見捨ててしまわれたのですか、と。
ノイズが混じり始めたラジオからは聞き取りにくいが、確実にクラシックが流れていた。さっきの長ったらしい題名の曲はとうに終わっていたらしい。
ここ数日はどうもラジオの調子がおかしくて、時々ノイズ混じりになってしまう。今更買い換える気も起きないけれど、全てが終わってしまう前に、ラジオくらい新調しても良かったかも知れない。
「いい趣味してるわ」
それはラジオから流れてくる曲に対しての誉め言葉だったのか、ニシムラが満足そうに耳を傾けていた。気になって、僕も耳を傾ける。聴いたことのある曲だった。
「……確か『世の終わりのための四重奏曲』オリヴィエ・メシアン作曲……だよね?」
「なんで知ってるの?」
僕が曲名を当てたことに酷く驚いて、ニシムラは目を丸くした。音楽に興味の無い僕が、今まで過ごした中で、ニシムラよりも先に曲名を当てることなんてほとんど無かったからだ。
「題名が気に入ったから、覚えていたんだよ」
「ふうん?」
まるで子犬が鼻を鳴らすような声をあげて、ニシムラは持っていた本を本棚へと仕舞った。栞は挟まれていない。もう読む気は無いらしい。
それから少しして部屋は静かになった。ページを捲る音も聞こえない、ただの雨音だけの世界。
正確に言うと、ノイズ混じりのクラシックも流れてはいる。
沈黙が苦手な僕は、何か喋ろうと思って話題を探す。とにかく何かを話そうと思い、僕は頭に浮かんだ言葉をよくも考えずに言ってみた。
「ねえニシムラ。遺書でも書いておく?」
窓の外を見つめていたニシムラがその台詞に素早く反応して、ソファーの上で胡座をかいていた僕に振り返る。そして溜息を吐いた。
「じゃあ聞くけど、一体誰に読んでもらうの?」
心底馬鹿にされたみたいだ。
「それもそうだね。あ、じゃあさ、日記を破いておく?」
「どうして?」
「誰かに読まれたら困るだろう?」
「だから誰が読むのよ?」
「ああ…そっか」
それ以上、僕は何も言わなかった。ニシムラも相変わらず窓の外を見ている。
世界は、こんなにも静かに終焉を迎えるんだろうか。僕の耳にはもうノイズしか聞こえない。
「アサノ」
突然ニシムラが、窓からその眼を離して僕の名を呼んだ。僕は瞑っていた瞼を開けてニシムラを見る。
「なに?」
「そろそろ外に行かない?」
そう言ったニシムラの背景は、滑稽なほどに降り続く銀雨。BGMは軽快なワルツ。きっとこれは『子犬のワルツ』だ。
「もう、行く?」
「ええそうよ。雨がまた一段と強くなったの」
僕は思う。優しい笑顔も良いけれど、やっぱり彼女の悪戯っぽい笑顔が一番好きだな、と。
「じゃあ行こうか」
僕の返事を聞いて、彼女は先に玄関へ行った。
「アサノ! 来て! ほら見てよ」
扉を開けて真っ先にニシムラが言う。
「どうしたの?」
「廊下が綺麗だわ」
「あ、ホントだ。雨が、もうここまで来てたんだね」
僕等の足下は浸水していた。長い廊下には柵を超えて水が入り込み、とても幻想的に見えた。20階を超える高層マンションも、雨には敵わなかったらしい。
「ニシムラ。どこへ行くの?」
「屋上よ……ちょっとアサノ、あなた何を持ってるの?」
「え? ラジオと傘だけど?」
「持っていくつもり?」
「いいだろう?」
「別にいいけどね」
足取りは軽やかに、僕等はさらに上を目指す。
僕の左手に掴まれたノイズ混じりのソレは、僕等と同じように軽やかなワルツを流す。子犬は、まだ走っているらしい。
「長靴を履いてくれば良かったね」
「心配ないわ。私、水溜まりが好きだもの」
「君が良くても、僕は良くないよ」
エレベーターの前まで歩いただけなのに、僕の靴の中は水浸しになっていた。ニシムラがぴちゃぴちゃと水を跳ねさせながら歩く所為で、ズボンの裾も水が染みこんでいた。
「あ」
「どうかしたの?」
「アサノ。エレベーターも動かないわ」
そうだった。電気はもう使えないんだった。
「階段を使おう」
たった数階先までだ。エレベーターの隣にある階段を指さすと、ニシムラはまたぴちゃぴちゃと音を立てて歩いていった。
普段なら滅多に使わない階段を、僕は妙にわくわくしながら上る。今よりも昔、階段は無限に続く物だと信じていたときもあった。
僕等は恋人同士のように手を繋ぐこともなく、それぞれ自分のテンポで階段を上る。
「とても素敵な終わり方だと思うわ」
数段先から僕を見下ろして、ニシムラは声を掛けてきた。彼女はいつも突然に話し掛けてくる。
「何が?」
「この雨よ」
耳を澄ませる。目には見えないけれど、ざーざーと容赦無く降る雨の音を感じる。
それがどうしたのだろう。何をどう答えたものかと悩んでいると、ニシムラが続きの言葉を発した。
「ねえ、こんな話を知ってる?」
「何を?」
今日は質問してばかりだ。
「海はね、雨から出来たの。雨がたくさん降ったから、海が出来て、生き物が生まれて、私達がここにいるの」
「それで? 雨がたくさん降ったから、海が大きくなって、生き物が死んでいって、僕たちは消えてしまうんだね?」
全て雨の所為。僕等に等しく降り注ぐ、この銀糸の所為。
「素敵な終わり方だと思うわ」
もう一度同じことを言って、ニシムラは最後の一段を上り終えた。扉の向こうの屋上は、まだ水に浸かるまで十分時間がある。
そこは僕が見慣れていた屋上などではなく、幻想的な、そう例えば映画のような世界で。
「アサノ」
ニシムラは、この映画のヒロイン。僕は脇役。
「見て、ビルが水に浸かってるの」
この世界を救うヒーローは、まだ現れない。
「本当だ。全部水に浸かってるね」
「嘘みたいね」
「だけど、これが本当なんだよ」
「そうね」
屋上で二人、僕等はまるで恋人同士のように合わせた手を繋ぐ。ああ、なんて現実感が無いんだろう。
段々とノイズが混じってくるラジオ。そこから流れる音楽は、相変わらず子犬が駆け回っている。
ねえ、君と世界のどちらか。一体どっちが先に終わってしまうんだろうね。僕もニシムラも、それを見届けることは出来ないのだけれど。
「ねえ、知ってる?」
ニシムラが問いかける。僕はまた答える。
「何を?」
「知らないの?」
「だから何を?」
「ふふ、後で教えてあげるわ」
後でね。そういって笑うニシムラは、綺麗だ。
「後で? 絶対に教えてよ」
「ええ」
そうして、一緒に柵を越える。僕等の世界と、あっちの世界を分ける頼りない線。
そんな線を飛び越えて、僕の体は不安定になる。この現実感の無さは、まるで夢のよう。夏の湿度の高さに魘されながら見る、奇妙で少し怖くて、それでいて何処か心地良い夢。
ニシムラの手の温かさと、頬に伝う雨の冷たさだけがリアルに分かる。
ふわり
ぱしゃり、とまるでシャボン玉が割れたような音がして、世界にはまた雨音が響いた。
誰かが屋上に置き忘れてしまったのか、傘を差してもらったラジオだけが、未だノイズを鳴らしている。
二人の死体はまだ誰にも見つかっていない。
|