大女優もとい殺人ババア
毎朝見かける光景がある。
僕が出勤時に、あるマンションの壁際に花を捧げる女性の姿だ。
スリムな体型と美しい顔立ちに僕はすぐさま惚れていた。
ずっと年上である事は何となくわかったが、どこか醸し出される妖艶な雰囲気が年齢を感じさせなかった。
行き過ぎれば少し怪しいとも思える僕の必要な視線にも彼女は笑顔で応えてくれた。
いつしか挨拶から始まり、ほどなくして僕は週末を彼女の自宅マンションで過ごす様になっていた。
彼女のミステリアスな風貌とは違い、自室は生活感に溢れていた。
リビングに小さな男の子と彼女と同い年くらいの男性の写真が飾られていたが、僕はあえて詳しくは聞かなかった。
彼女の普段の行動からすれば、その理由は明らかだったからだ。
きっと彼女は下の大通りで夫と息子をなくしたのだろう。
それはこのマンションから出かける時なのか、それとも戻ってきた時なのか。
二人は車に乗っていたのか、それとも歩いていた所をなのか。
真相はわからないけれど、僕が今できるのは彼女が抱えている哀しみを少しでも和らげてあげることだけだと思った。
年齢差のあるこの関係、それこそいつまで続くかなんてわからないのだから。
ある日彼女はベットの上で恥ずかしがりながらも、自分の夢を語ってくれた。
子供の頃からの夢で、今も目指しているのだという。 彼女は東北の田舎から女優を目指し十代の頃に、上京してきた。
小さな雑誌のモデルの仕事をこなしながら、ドラマや映画のオーディションを受けていたが、芽が開く前に事務所のマネージャーとの間に子供を授かり引退したのだという。
「息子と夫を亡くした事は哀しい事だけれど、もう一度チャンスを与えられていると思うの」
そう言って彼女は哀しそうに、美しく、微笑んだ。
彼女は歳を重ねていたけれど、それでも遅くないと思った。
けれど中々チャンス巡ってこなかった。
「また落ちてしまったの」
そう嘆く彼女の髪をそっと撫で、僕は慰めた。
平日の朝、他人ぶっていつものように花を捧げる彼女の横を簡単な挨拶のみで通り抜ける。
その時後ろから自転車で走ってきた高校生の声が聞こえた。
「殺人ババア」
髪を茶色に染め、着崩した制服をまとうその高校生は、確かに彼女に向かって言っていた。
僕は振り返らなかった。
何となくだけれど、殺人ババアと言われた時の彼女の表情を見たくなかったのだ。
僕は会社につくと、パソコンで一番に彼女の名前やマンション名を検索した。
そしてヒットしたのは、彼女のマンションの下の大通りの名前と事故と疑惑という言葉をand検索した時だった。
深夜でも交通量の多いその道路は、あるマンションが立ち並ぶ付近で見通しの悪いカーブにさしかかる。
終電を無くした人達が少し離れた大きな駅から歩いてくる道ということもあって、事故が多発していた。
そしてついに死亡事故が起きた。
深夜一時すぎ、飲み会帰りの酔っ払いが運転する車が、その見通しの悪いカーブを曲がる際に何かを避けようとしてスピンしマンションの壁に激突した。
フロントガラスは大破し、運転手は血まみれで外に放り出された。
頭を強く打ったが、まだその時はすぐに処置をすれば助かる状態だったという。 しかし運の悪い事に、事故の音を聞いて駆け付けた女性が驚き、彼の頭を大きく揺さぶってしまったお陰で死に至ったのだという。
そして彼が救急車で運ばれ、車が電柱から引き剥がされたとき、二つ目の悲劇が発覚した。
ペシャンコになった車の前方から、押し潰された小さな男の子が見つかったのだ。
身体からは中身が出され骨は砕け、無事だった頭も膨らみ驚いた顔のまま車に張り付いていた。
マンションには小さな人型の血が残っていた。
無惨な姿で見つかった小さな男の子は、そのマンションに住むある一家の子供だった。
その子の母親はまだ助かる可能性のあった酔っ払い運転手の頭を振り動かして死にいたらしめた女性だった。
そしてその酔っ払い運転手は、小さな男の子の父親であり女性の夫だった。
事故の全貌はこうだ。
深夜息子の姿が見えない事に気付いた母親は、飲み会に行っている夫に助けを求めた。
話を聞いた夫は、代行タクシーを使うことなく自分の車で運転して帰り、自宅マンションから少し離れた所に借りている駐車場に向かって車を走らせていた。
自宅マンション付近の急カーブで、何かを避けようとスピンし、マンションの壁際に座り込んで居た我が息子に激突したのだった。
物凄い音に驚いてでて来た母親は、車から放り出された夫に驚き動転して頭を強く揺り動かしてしまった。
そして一緒に救急車に乗って行ったことで、我が息子の存在を忘れてしまっていたのである。
また夫がスピンした原因である、何かはその母親であることがわかった。
マンションを離れて息子を捜索していた母親は、道路の反対側に息子がいるのに気づき赤信号にも関わらず道路に飛び出して来たのだという。
自分の妻を避けようとして、自らの命と息子の命を失ってしまったのである。
間もなくして母親が任意同行をうけた。
息子の虐待容疑でである。
車とコンクリートの壁に挟まれグチャグチャになった男の子の遺体から、数々の虐待の跡が見つかったのだ。
また近隣住民の証言で、男の子が度々深夜に急カーブある自宅マンションの壁際に座らされていたこともわかった。
何度か巡回中も警察官がそれに気付き、母親に話を求めたが、深夜に外に出てしまう癖があるのだと言われればそれまでだった。
しばらくはニュースでも取り沙汰され、夫側の両親が家宅裁判を起こしたが、事故を事件に結びつける事は出来なかった。
それから数年の月日が流れたという。
事故はもはや忘れされた。
歴史を塗り替える様な事件や事故のせいで。
だけど今日も彼女は花を捧げている。
夫と息子を失ったマンションの壁際に。
彼女はある日僕に一本のビデオテープをくれた。
そこには当時悲劇のヒロインとして扱われ数々のインタビューを受けている、彼女のニュースの映像だった。
涙を流し懸命に悲劇を受け入れる彼女は儚く、美しく、大女優のようだった。
そして僕は知っている。
彼女が再び日の目を浴びようと模索している事を。
だって今も彼女は腕の中で寝息を立てながら、僕が眠りにつくのを待っているのだから。
いつの日か、そう遠くない未来に彼女はまたニュースで取り上げられるだろう。
当時のようにハラハラと涙を流しながら、年齢を重ねても消えない美しい姿を魅せるのだろうか。
その時一緒にニュースで僕の名前が流れるのを思わず想像して、全身が身震いしたのがわかる。
僕は眠ったふりを続ける大女優もとい殺人ババアを残し、ベッドから立ち上がった。
その時だった。
耳に轟音が響き、胃が飛び出るような衝撃が走る。
僕は振り向くと、血の滲んだガラスの灰皿を持つ、血走った彼女の目を見据えた。
「やめろ!こんなことをしても、悲劇のヒロインにはなれないぞ!ただの殺人犯だ」
一気にそう叫ぶと、今度は本当に胃の中身がでたかの様な痛みが走る。
それでも彼女を何とかしてでも止めないと、本当に殺される。
口の中に溜まったものを吐き出すと、血やゲロに混じり、床に白い物が音を立てて転がった。
自身の折れた歯なのだとわかる。
自己満足のドラマのシナリオに勝手にキャスティングされるのはゴメンだ。
目にかかる血なのか汗なのかわからない液体を、震える手で必死に拭い去る。
「やめろっ……、救急車を呼んでくれ。まだ間に合う。僕は君を殺人犯にしないからっ……」
そう懇願すると、彼女は灰皿を持った手を下げた。
あともう少しだと思う。
愛しあった日々を彼女に思い出させなければ。
けれど次に彼女から出た言葉は、絶望的なものだった。
「大丈夫、それでいいのよ。この前私が落ちた映画のオーディションは、美しい殺人鬼の役だったから」
一瞬彼女は初めてあった時の様な優しい微笑を浮かべると、ゆっくりゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けたとき、彼女は美しい殺人鬼となってまた灰皿をふりかざすのだろう。
残った歯がガチガチと音を立て、本能から逃げ出そうとする足が床を虚しく滑る。
全身にまわる急激な悪寒と痙攣を感じながら、僕はただその時を待つしかなかった。