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18.89444362769119……

 ごわごわの脱脂綿にアルコールを染み込ませたものを、次々と燃やしていくような空しさを感じながら、私は雨に煙る国道357号線を見つめていた。俗称を湾岸道路というこの道路には、今日も今日とて排気量の多そうなトラックしか見あたらない。世界は誰のためにあるのかなんて考えたことがないけれど、少なくともこの私のためにあるわけじゃないことくらいは、生理が初めて来たあたりにはもう気がついていた。できることならこの車から飛び出して、近くのトラックに身体を轢断されたいそんなお年頃だけれど、それをやるにはもう身体がトシを取りすぎている。ドライブデートの最中でメンがヘラって外に飛び出される彼氏さんも嫌だろう。
 何故浦安駅で待ち合わせなのかわからなかったが、家の前まで車で来られると困るという私の事情を考えてのことだったようで、どうやら彼は本当に私のことが好きみたいで、なんだか申し訳なくなってきてしまった。だって私は私しか好きじゃないし、生まれてから死ぬまできっとそうで、異性どころか同性すら好きになれそうにないからだ。告白の時だってはっきりとそう言ったはずなのに、何回も何回もしつこいから望むとおりにしてやったのだ、義理もへったくれもないのだけれど、そろそろ私も世間的にも法的にも「女子」と呼ばれる年齢ではなくなっているので、なんとなく普通の女性を気取るためにも少しくらいは恋愛の経験が欲しいなと、そう思ったわけで。要するにこれは実験なのである。私が人間としてまだ大丈夫なのか、もうだめなのか、世界が平らなのか球体なのか、そういう悪辣な二項対立のどちらかに天秤を傾けさせたい、平衡を放棄したいという人間誰しも存在する欲望に耐えきれなくなったと言ってもいいだろう。
「ねえ」
 私は彼に、否、正確には虚空に問いかける。
「なに」
 虚空から声が返ってくる。私という人間にコミュニケーションというアプリはインストールされていないのだ。だから私の言葉は全てTwitterみたいに垂れ流しになって、三千世界のその先へと吹き抜けていく。
「天丼たべたい」
「天丼?」
「うん」
 こんな感じで、私は思うがままに言葉をつぶやく。それは彼に拾われ、存分にかみしめられ、崇められて、やがて私に返ってくる。それはどこか不思議で暖かな気持ち悪さがあった。
 雨はいよいよ酷くなり、景色はどんどん灰色に塗りつぶされていく。数台先のトラックすら、まともに見えなくなってきていた。
「じゃあ、お昼ね」
「やだ、今たべたい」
「そっか、困ったなあ」
 感情のない言葉が、洗濯機の中に浮いている石鹸かすみたいに、所在なさげにたゆたっている。公務員は感情を露わにしない訓練を受けているらしいが、この男を見ると本当なのかもしれなかった。だいたい信仰対象を隣に乗せておいて、よくもまあこんなに飄々とした顔ができるものだ。私だったら怖くなって車を半壊させてしまうだろう。やり場のない感情を爆発させて、それですべてが終わったのだと思うほどには心が若くないのだから。
 無限に広がる大宇宙が実は有限だったなんて話はそれこそ数えたらキリがないという意味で無限に近いくらいあるわけで、彼にとっての信仰対象が実は私ではないのかもしれないと考えるのも至極自然なことであった。もしかすると単に彼は「私のことを信仰している」という設定の男というだけの話で、本当のところ私のことを信仰しているのか溺愛しているのか、偏愛しているのかは全くわからない。人の心を覗き見ることは不可能で、それは個体差というよりは、人間の感情が個体ごとに微妙に異なっていて概念を翻訳することがとても難しいことによるものだろうと思う。だからそれをある程度で統一する言語というものが生まれているのであるが、私のような生まれつきのコミュニケーション障害を持つ人間にとっては日本語だろうが英語だろうがさして役に立たないのが現状だ。今だって彼とまともにコミュニケーションというものがとれているのかどうか全くわからないしそれが不安でならない、きっと人を好きになれないのはこういうところからしてすでに常人とは異なった感覚の中にいるからなのかもしれない。
 などと考えていると、車は急にスピードを落とし、ちょっと大きめな複合施設の中に入った。
「どうする?」
「何分くらい?」
「すぐ戻ってくる」
「じゃあ、待ってる」
 私は陸にあげられたマグロのように動き出す気力を持たない状況で、なんとか声を絞り出した。地球の重力は意外と強いのだ。
 車なんてどれも同じという彼が選んだのは小綺麗な軽自動車で、それでどこまで行くつもりなのかはよくわからないが、少なくともそれほど遠くには行かないだろうと思っている。でなければこんな雨の日に強行しようとは思わない。まともな神経があれば。
 問題は彼がまともな神経を持っていなかった場合の話だが、それはそれで別にいいだろう。
 少し、眠くなった。

 ふと、気がつけば私は、延々と広がる田畑の中にいた。青々とした風景が正方形に切り取られて、間を茶色のあぜ道が規則的に通っている。碁盤の目のような無機質さと不自然さと田圃という自然が妙にミスマッチで可笑しい。
 遠くから何か、球状のものが飛んできた。あれは、サッカーボールだ。白と黒の入り交じった、昔ながらのゴムのボールが青空の中の異物として浮き上がっている。大丈夫、ちゃんと避妊はしている。というか、私はまだ彼とセックスしたことがない。彼もそういった生臭いものが苦手なのかもしれない。

 ふと、ドアが開く音がして、彼が車内に入ってきた。
「はい、天丼」
 天ぷら油の香ばしいにおいが車内を包み込む。
 私は「ありがとう」と酷く事務的にそれを受け取り、ふたを開けて食べた。人間が体験する時間は無限では決してなくて、言うならば有限なわけであって、その中でどんな食事をするのか、どんな生活を送るのかというのはきちんと合理的に考えて幸せに送ったほうがいいと誰かが行っていたけれど、そんなことに頭と時間を使ってそれこそ有限な時間を浪費しているような馬鹿と私では話がかみ合わない。そんなのはひたすら無視をしてしまえばいいのだ。
 肥大した自意識とかりかりにあがったインゲンの天ぷらは絶妙なハーモニーを奏でながら私の胃の中に収まっていく。彼も天丼を食べる私を租借しているのだろう、なぜなら彼は概念を食べる唯一の人間だからだ、有限と言われる宇宙のどこかでそんな人間などどこにもいないだろうと思っていたら、隣の人間がまんまそれなのだから恐れ入る。こんなセカイ系みたいなことを考えている暇があったらとっとと私を抱いて射精でもすればいいのに、本当に頭の悪い男だ。イミテーションな青春を作り出してそこに私の人形(しかもかなり精巧につくられている。かなり、だ)を閉じこめて自慰行為なんかしているどうしようもなく本当に絶望的に頭の悪い存在の信仰対象になってしまった女なんて他にいますかって話だ。そもそもことばで綴られたセカイは閉空間なのかメビウスの輪的不思議空間なのかそれとも微分しただけのクソつまらない情報の塊なのか判然としないのだから好きに書けばいい。なんだってそこに私の人形を置くのだ、しかもそれは私じゃなくていい、黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子なら別になんでもいいいのではないのか、なぜそこをわざわざ私にするのか。
 そう訊いたとして、彼は私が信仰対象であるという旨の答えしかしない。もっとも彼がそこまで重層的な心理をしているとは思えない。そんな繊細な性格なら公務員など三秒で辞める。盗人猛々しいを地でいくような腐った豚以下の愚鈍さを持ち合わせなければ公務員は務まらない。すぐに磨耗して跡形もなくなったまま中央線の線路に肉塊となって消えていくのだ、そうに決まっている。
 などと日記的自伝的自意識ご開帳芸にもそろそろ飽き飽きしてきたところで、私はすっかり油っぽくなってしまった唇をゆっくりと舐めて彼を上目遣いに見つめた。
「どうしたの?」
 彼は至極平坦な声で首を傾げた。
 その程度で冷静を装っているつもりか。お前今絶対勃起しただろ。いい加減にしろ。お前が私に勝てるのは数学だけだ、今すぐ私風ダッチワイフを抱いて江戸川に沈め、いいか今すぐにだ。
「なんでもない」
 私はあえて冷静に答え、呆然と前を向いた。ほら、こんなことばっかりやってるから時間が刻々と過ぎていくのだ、知らないうちに私は歯のない老婆になって彼の髪の毛を纏って暮らすようになってしまうかもしれない。この世はでっかい羅生門。そうさ今こそ追い剥ぎだ。
 自由に酔い潰されるのが人生ならば、セカイはさしずめ一升瓶のようなものかもしれない。そう思っていたら勝手に軽自動車が走り始めた。

 雨はひたすら酷くなって、視界はどんどん狭くなっていく。これじゃあ本当にセカイ系になってしまう。僕と君とセカイ。それが軽自動車の中だけで繰り広げられるなんてイタい。イタすぎる。エッシャーもアンノもびっくりの陳腐でシュールでそれでいてベタな展開で、所詮私の脳内なんてそんなもので回路構造がさほど高速でも突飛でもなく芸術を語る価値すらどこにもないようなものなのにそれでいてセカイを語るという逆説的な(笑)的な空気こそがこのイタさの根元であり、メタ的に語ることは禁じ手であって緊急の必要性があるときは許されるのだ。プロフェッショナルじゃないからNHKの「プロフェッショナル」が好きなのとほんの少し似ている。いやあんまり似ていないかもしれない。
「大丈夫? 酔ってない?」
 強いて言えば自分に酔っていると危うく答えそうになるが、私の信奉者たる彼にそんな言葉は通用しない。仮に言ったところで聞いていないに決まっている。毎日毎日祈りを捧げるだけでいいだなんて、そんな計るだけダイエットみたいな都合のいい展開が持続するわけがないだろうに、この男はそういったところをわかっていないのだ。
「だいじょうぶだから」
 至極こんな調子で旅が延々と続くと思うと、気が滅入るような滅入らないような、少なくとも肥大した自意識についていかがかと問いただされるようなそわそわとした強迫観念と精神分裂感にさらされるけれど、考えてみればそんなことしょっちゅうでなんでかというと私は見かけによらずメンヘラなのだ。覚悟しろ。もう知らないからな。
 こうして国道を走らないと話もできない関係性と、私と、セカイとが一瞬で混ざり合って、出来の悪いティラミスみたいになっていくのだ。全てが私の妄想で済むと思ったら大間違いだ。その妄想は私を変え、私に触れる彼を変え、そしてセカイを変えていくのだ、だからセカイがどんな形態であろうとも私こそがセカイであり、彼もまたセカイなのだ。どうだ参ったか。
「どこまでいこうか?」
「どこまでも」
「気の済むまで?」
「うん、気の済むまで」
 大抵の平方根は無理数で終わらない。セカイもそんな、終わらないものであることを祈って、私たちは国道を千葉方面へと向かった。

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