僕は裸のステインの手を握り締めながら、ぼんやり天井を眺めていた。行為によって生み出された無数の塵が、かさの割れたスタンドライトの光に照らされながら「宇宙空間」に向かって立ち上っていた。太陽系を模した天井の絵には大小様々の星が無造作に散りばめられ、青い惑星の下を一機の宇宙船がこちらに向かって飛行していた。
「上手な絵」と、ステインは言った。
そうだね、と僕は上の空で答えた。絵の巧拙より、渋谷駅から最も離れた休憩2時間4000円のラブホテルの天井になぜこんな絵が必要なのか、ということを僕は考えていた。
「ドクター・ススキ、あなた、絵は好き?」とステインが聞いた。
「ステイン、ドクター、じゃなく、ミスター。それに、ス・ズ・キ、ね」と僕は丁寧に言った。
「私、今CGを学習しているの。カンピター・グラヒクスね。カンピターって何でもできるのよ」
「CGの前に英語を勉強した方がいいな」と僕は笑った。
舌が上手く回らないの、ステインは口を大きく開けたり閉じたりした。「わざとよ、ドクター」
会話の隙間を埋めるように有線が流れていた。流行のポップスからヴォーカルと毒気を抜いたインストゥルメンタル。スーパーで買い物をしてるみたい、とステインは頬を緩めた。
「あの宇宙船はない方がいいよね?」と僕が言うと、長くカールした睫毛を摘みながら彼女は留守宅を覗くように僕の顔を見た。「いいんじゃない? 宇宙らしくて」
僕の興味は既に天井から離れ、再びステインの体を弄んでいた。掌にぴんと張り詰めたバストの緊張感が心音と共に伝わった。僕はステインの手を下腹へ導いた。下腹は先の汗と体液でまだ濡れていた。
「あなた、ひょっとして結婚してる?」とステインは聞いた。
「まさか」と僕は答えた。
「ねえ、初めて私たちを利用した時の話、聞かせて?」
ステインは僕の胸の中心に手を当てた。「必ず聞くことにしてるのよ。それを聞くと、その人のこと大体分かるの」
体の向きを変え、小さな瞳を大きく見開いて、彼女は僕の顔を見た。左手は常に僕の陰毛に埋もれていた。僕は人差し指でステインの唇をゆっくりなぞった。
「千沙と別れてからだから」
煙草に火を点けながら、五年前の自分が聴いていた音楽について思い出していた。
*
足元に忍び寄る明け方の寒さが、僕の目覚まし時計だった。目が覚めると僕はいつも、乾燥したはんぺんのような掛け布団を股に挟みながら壁際で丸まっていた。日焼けした若草色のカーテンから零れ落ちる朝日の断片が、殺風景で黴臭い僕の部屋になけなしの温もりを与えていた。
事実、部屋にはろくな物がなかった。自慢できるものと言えば、リサイクルで買った漆塗りのロッキングチェア、イトーヨーカドーオリジナル中華鍋、アイワのCDプレーヤー、リンカーンの顔が側面に彫刻されたマグカップ程度だった。
着の身着のままで千沙のアパートを出た。必要最低限の物と預金通帳を持って、すぐに入れるアパートを探した。千沙は僕との口論に憔悴していた。顔を合わすたび喧嘩ばかりしていた。僕の怠慢を彼女は糾弾した。非が自分にあることは事実だった。僕は彼女に食べさせてもらっているだけだった。それでも僕は千沙が好きだった。特に、彼女の腰のくびれから大腿にかけてのラインはいとおしかった。
「あなた、才能なんてないのよ」と千沙は言った。「ただの自惚れで、だらしないだけじゃない」
千沙は思い切りテーブルを叩いた。空のリンカーンが床に落ちたが、とても拾える雰囲気ではなかった。
「いなくなって」という彼女の最後の言葉に、その夜、僕は彼女と3年暮らしたアパートを出た。未練がないといえば嘘になるが、彼女に捨てられても仕方のないことだった。大体、僕はもうその時30を過ぎていたのだ。
それでも、今の一人暮らしで寂しいと思ったことはなかった。適度に愛着を感じるいくつかの物さえあればそれでいい、と僕は思った。
ケイトのお気に入りはロッキングチェアだった。彼女はそれだけが人生だというように、静かな微笑を湛えていた。
朝、僕が目覚めると、ケイトはいつも漫画のヒロインのような麗しい目で僕を見つめていた。嫌悪も憐憫も感じさせない、均整のとれたいい瞳だった。
「おはよう。今日はずいぶんねぼすけさんね。ハローワークで職探し?」
「失業保険、遥か昔に終わってる。あそこは仕事探すとこじゃなくて、金をもらうところ」
僕は無理矢理体を起こして、小さなやかんを火にかけた。ニコチンの鬱積した寝起きの喉を正すには、リンカーンのマグカップで飲むインスタントのミネストローネがよく効く。
「ケイトは眠らないの?」と僕は聞いた。
「眠ってしまうのが怖いのよ。永遠に目覚めがこない気がして」
人間は自然の摂理でどうしても眠らなければならないんだよ、と僕は付け足した。
「二つのタイプの生き方があると思うの。『目覚め』の人生と『眠り』の人生。私はもちろん『目覚め』派。だってそうでしょう? この世界にある綺麗なもの、可愛いもの、気持ちいいもの、いっぱい知りたいじゃない。眠ってしまったら何も見えない。ただ深い海のような闇があるだけで。いいえ、闇を認識することすらできないわ。そんなつまらないことってある? 何のために生きているのよ」
桜の花びらのような唇を忙しく上下させてケイトは言った。僕はコンロの火で煙草に火を付けた。
「美しいものばかりとは限らないよ」と僕は言った。「時には生きていくのが嫌になるような、やるせなくなるものもあるよ。贈収賄とか、猫の礫死体とか」
「確かにそういうこともあるわ。けれども世界は一秒ごとに変わってる。昨日汚く見えていたものだって、今日は綺麗に見えるかもしれない。次々に生まれてくる新しいことを、私は見逃したくない。全部、見ておきたい。同じ日っていうのは一度もないのよ。あなたと毎日こうして一緒にいるのだって。あなたには、自分が眠っている間の世界のことなんて何にも知らない」
「知ってたら怖いよ」
そう言って僕は笑ったが、ケイトは何も聞こえなかったように視線を外に向けたまま眩しそうにカーテンを開けた。
「いつもより一時間も早く朝刊が届いたり、もずがベランダの手すりでキスをしていたり、小さな地震が照明を揺らしたり、あなたが寝言で私の名前を呼んでくれたり。私は美しいと
感じることにいつも貪欲でいたい。あなたのことだってもっともっと知りたいの。私には知らないことが余りにも多すぎる」
ケイトは口を閉じ、毛玉だらけのはんぺん布団に視線を落とした。
僕はカップにお湯を注ぎ、赤い粉末が瞬く間にパセリとブロッコリーとトマトを浮かべた上質のスープに変わる様をぼんやり眺めていた。きっとケイトには、こんなことも美しく見えるのだろうなと思いながら。
スープを啜りながら、現代文明から授かった等身大の奇跡を飽きずに眺めた。花柄のフリルのついた白いブラウスとタータンチェックのタイトスカートがぴったり彼女の体に貼りついていた。ずっと以前から彼女を知っていたような、どこか懐かしい気持ちがした。小さな両足に被せられたレースのソックス。それは無条件に温かく、秩序ある安らぎを僕に与えた。
「ねえ、安っぽいセンチメンタリズムなんて思わずに聞いてくれる? 今度、外に出てみたいの。ここからの景色だってとっても素敵よ。けれどもずっと見続けてばかりいると触れてみたくなるの。コンビニの看板にも、給水塔の梯子にも、お母さんに連れられて歩く男の子の擦り切れたスニーカーにも」
そんなことか、と僕は思った。
「そういえば一緒に外出したことはなかったね。今度どこか遊びに行こう」
「本当? 嬉しい。ありがとう!」
彼女はチェアの上で小さく跳ねて喜んだ。僕はスウェットを脱ぎジーンズに足を通した。メンソールの微粒子が脳漿にしみ込み、だれていた神経をいくらか活性化した。
「仕事、見つかりそう?」とケイトが聞いた。
「選り好みをしなければね」
あてもなく、僕は靴を履いた。貯蓄はそろそろ底を尽きてきていた。家賃を滞納しない程度にはアルバイトを探すほかなかった。
近所の定食屋で食事をしてから、僕は最低区間の切符と週刊誌を買い電車に乗った。誌面の大半は育毛剤やピンクサロンや消費者ローンの広告で埋まっていた。胃がきりきりと痛み始めたので、週刊誌を網棚へ放り投げ、大学のある駅の一つ手前で降りてトイレに駆け込んだ。こんなことはしょっちゅうだった。胃が痙攣したように収縮し始めると、決まって僕は吐いた。その日は昼食時に飲んだアルコールのせいかもしれないけれど。
大学は僕の母校だった。ついこの間まで通っていたはずなのに、校舎の位置や食事をした場所を忘れていた。窶れた胃を摩って、僕は適当な教室に入ってみた。「経済学史」という講義だった。老教授が小さな声で過去の偉業者について語り、黒板には「見えざる手」とだけ書かれていた。僕はしばらく老教授の地味なスーツを眺め、女子学生を眺め、机に「アダム・スミス」と書いてから目立たぬように退室した。
それから僕はゲームセンターに立ち寄った。客はまばらで、店員はカウンターで爪を切っていた。ミッフィーの小さなぬいぐるみを手に入れるのに僕は2000円も費やしてしまった。そして、街中を少しぶらぶらしてから、ケイトが一人ぼっちで待つ築25年の安アパートへと向かった。
「ただいま」
靴の紐を解きながら、僕は3時間ぶりに声を出した。自宅で自分の帰りを待つ人がいるというのは素晴らしいことだ。誰もいない家は冷たく老いる。人の体温で温められていた空気はたちまち熱を失い、ベクトルのない膠着した冷気となって次に扉を開ける者を否応なく鬱にする。
800ワットの電気ストーブで温めた部屋の熱、整髪料の甘い香り、粗削りなジョン・フォガティの歌声、そして希望に満ちた陽の光。朝の五感を刺激するフラグメントの数々。しかし帰宅時までには、ストーブは色褪せ、匂いは湿気り、ジョンの唇は固く閉ざされる。千沙と一緒に暮らそうと思った理由の一つは、この窒息感を味わいたくなかったことだ。
今はケイトがいる。朝をそのままに保っていてくれる。老いたアパートでも待つ者さえいてくれればそれだけで部屋は生きてくる。
「ただいまあ」
僕は語尾を間抜けなくらい間延びさせて、もう一度言った。
「あら、おかえり。さっき出ていったと思ったら」
椅子にもたれたまま、ケイトは手にしていた本を閉じた。
「何かいいことあった?」
「何もいいことなんてないよ。相変わらず校舎があって、学生がいて、アダム・スミスがいた。ケイトが言うほど、世界が変わっているなんて実感全然ないな」
大きく歪んだ僕の顔をじっと見つめてケイトは何か思案していたが、やがて僕の口癖を真似ながらきっぱり言った。
「長い人生、そんなこともある」
余りにもそっくりだったので、僕らは顔を見合わせて大笑いした。
ケイトは笑っている時の顔が一番素敵だった。彼女と他愛もない会話をしている時間が、千沙と別れた後の僕にとってこの上ない慰めであり、幸せだった。ケイトとは何の躊躇も打算もなく、現実的な生活の話から、後で考えれば赤面してしまうような話まで、心置きなく交わすことができた。
僕はスウェットに着替えてウーロン茶を飲んだ。ざらざらした食道にお馴染みの清涼感。ケイトは再び本に目を落として、フラゴナールの少女のように熱心に見入っていた。女の子が本を読んでいる姿は、暑さに参った時の眩暈のようなものを感じさせた。
僕は彼女の空想を遮らないように、蚤の泣くほどの声で聞いた。「何を読んでるの?」
「ううん、本棚にあった写真集よ。ねえ、綺麗な景色」と彼女は本から目を逸らさずに呟いた。
それは、僕が中学生の頃、クラスメイトの女の子からもらったものだった。彼女は親の都合で急遽転校することになり、その送別会が終わった後、僕だけにくれたものだった。それは有名な写真家の写真集らしく、日本中で撮った「夕日」の姿ばかりがあった。北海道十勝に沈む夕日、能登の日本海に漂う物悲しい夕日、新宿の高層ビルを影絵のように浮かび上がらせ、中央アルプスの稜線を幻想的に歪めている、そんな日本各地の「夕日」ばかりを収録したものだった。
僕はケイトを「富士山」へ連れていってあげようと、その時思った。
彼女の世界を壊さないように、そっとシャワーを浴びて缶ビールを一本飲んでから、ケイトの頬にキスをして布団にもぐり込んだ。まだ眠る時間ではなかったが、胃を休めるための仮眠が必要だった。
ケイトは何事もなかったようにページをめくっては、目を潤ませて本を見続けた。
「閑話休題」と僕。
「ゆっくり、おやすみ。可愛いベイブ」
ケイトは本から久しぶりに目を離して、僕に微笑んだ。
今日もケイトは眠らないのだろうと、僕は思った。
*
その日は梅雨時のような生暖かい風が吹いていた。歩道に捨てられたキャンディーの包み紙が音もなく側溝に運ばれ、不安定に揺れていた。使い古しの雑巾をつぎはぎしたパッチワークのような空模様。予報では午後から雨が降るということだった。
「今度にしようか? こんな天気じゃ山も見えないよ」
朝の心地いい空気を楽しみにしていた僕はがっかりして言った。
「ううん、行きましょうよ。『見えないフジヤマ』なんて安藤広重でも書けないわ」
僕の手に引かれたまま、ケイトは「ノープロブレーム」といいながら、脳天気な少女の笑みをこぼした。
「一ヵ月乗ってないから、ちょっと心配」
「いいのよ、車じゃなくても」
「ドライブしてみたくて、ケイトと」
駐車場へ向かう道で、僕は何度も天を仰いだ。友人からただで譲り受けたコロナの助手席を開けて彼女を乗せ、シートを調節しベルトを優しく装着した。
「これがあなたの車ね。なかなかいい感じじゃない」
色々な計器類に目を向けて、ケイトは中指の腹で触れ回った。その表情は、盲目の人が指先の感覚だけで物の存在を見ているようだった。
「今どきそんなカーステ、どこのスクラップ工場探し回ったって見つからないよ」
「そうかしら? レトロでいいじゃない。私、この車とっても気に入ったわ。匂いよ。あなたの匂いがする。ほら、この運転席のシート」
そう言って、ケイトは子犬のように鼻を嗅ぎ立てた。僕も真似をしてみたが、偏頭痛を起こさせるような脂と汗と塩化ビニールの匂いがするだけで、「自分の匂い」を判別することはできなかった。
「あなたは、いつも自分の匂い嗅いでるから分からないのよ」
「俺の匂いって、どんな感じ?」
「そうね」
少し考えてから、ケイトは言った。
「真夜中のマーク・ハミル」
「難しい」と僕は頭を抱えた。
空は、ますます怪しくなっていた。行くか、と、僕は心のなかで決意を固めた。
「よし、行こう!」
ケイトは元気に号令をかけた。エンジンは3回目のトライですんなり始動した。古い時代から日本車は丈夫なのよ、とケイトは得意気に言った。
道は平日のせいか空いていた。もともとスピードの出る車ではないので、左車線に90キロの速度を維持したままのんびり行くことにした。調布から中央道に入って八王子、長い下り坂の小仏トンネルを抜け、相模湖を囲む色づいた山々を縫うように走った。
僕はリッキー・ネルソンのカセットテープを間に流して、思いついたことを思いつくまま口に出した。時折、ケイトは車窓に広がる雄大な景色に感動しては「ねえ、見て、ほら、早く、あれ、へえ、うわ、おお」と感嘆詞のパレードを僕に浴びせた。どうしてもっと早く彼女とドライブしなかったのだろうと、僕は後悔した。彼女には今、綺麗なもの、感動するものに触れさせてあげることが必要だった。自分は既に見慣れてしまって、ただ虚しさを覚えるだけのものであっても。
談合坂を過ぎたあたりで、分厚い雲の固まりの中から二筋の光が僕たちの視線を捕らえた。もしかしたら晴れるかもしれないぞ、と、僕はケイトに言った。
「でも天気予報は雨って言ってたのよね? 山のお天気は気まぐれだから。確率、何%だった?」
「100%。午後は東海から関東一帯、大雨だって」
「ねえ、気象庁の予報で100%大雨が降るって言ったとき、ハズしたのは過去30年間でたったの4回だけなの」
「本当? それは知らなかった」
「まさか」ケイトは大声を出して笑った。
「最近よくからかう」と僕はわざと怒って見せた。
「あなたがすんなり信じちゃうから可笑しくて。でもそれだけ、自然を予測するって難しいってことでしょう。予測できないから素敵なのよ、あなたと一緒で」
「俺は予想できるよ。毎日やることも考えることも一緒だから」
「そんなことないわ。あなたの気持ちが、どんどん私に向いてきているのが分かるの。どんどん大切に思ってくれて、どんどん優しくなっているのよ。私には感じる。明日はどれだけ今日より好きになってくれるのだろうって、そればかりは予測できないわ。こんな形で、私を愛してくれるとは思わなかったから」
僕はうなるウィンドウを一杯に開けて、煙草に火を点け深く吸い込んだ。そしてケイトの右手を軽く握った。
「ありがとう、ケイト。自分を好きだって言ってくれる人がいるだけで幸せだよ。このままずっと側にいてほしいよ」
「もちろんよ。他に行くところなんて私にはないから。あなたの望む限り」
お互い、しばらく沈黙した。その間に、全ての意志と感情を溶解した。
僕の肩にもたれるようにして、ケイトは体を擦り寄せた。懐かしい石鹸の香り。ケイトの匂い。無性に彼女を抱きたくなっていた。
御殿場方面へ南下する有料道路に入ったところで、再び天候は悪化した。濃い霧が立ち込め、劣化の甚だしい隙間だらけのワイパーも使わざるをえなくなっていた。富士山など見えるはずもなく、灰色のスクリーンが幾重にも重なりストーリーのない無声映画を流し続けていた。僕はスピードを極力落とし、ただ目前の闇だけに注意を払った。
有料道路を下りたところで、コンビニに寄り、温かいウーロン茶とおにぎりを買った。天候とは裏腹に思ったほど寒くはなく、長袖のTシャツ一枚と革ジャンでちょうど良かった。
ケイトに、寒くないかと聞いたら、少しだけ寒いと言うので、僕は着ていた革ジャンを脱い
でケイトに着せた。その余りのアンバランスさに、「革ジャンとデートしてるみたい」と僕が言うと、両腕を大きく広げてハンガーの形を作りながらケイトが返した。
「革ジャンに好かれてるって、どんな気持ち?」
僕は先ほどのお返しとばかりに、よく考えてから言った。
「衆議院予算会議でのストリップショー」
車が7台通り過ぎる間、ケイトは何度も首をひねった。
優柔不断な雲で辺りは覆われ、普段なら右手間近に迫っているはずの富士の峰は、一向にその輪郭すら現さなかった。僕らの目に映るものはただ、道路に引かれた中央線と、寡黙に流れ去る古ぼけた木々だけだった。
「ねえ、疲れた?」
ケイトは、僕が目を瞬いている様子を見て心配そうに言った。
「少しね」と僕は答えた。
「大丈夫?」
「もう少し行くとドライブ・インがあるんだ。そこで休憩しよう」
「ねえ、私、トイレ行きたくなっちゃった。もう我慢できないの。どうしたらいい?」
地球上のあらゆる生命体の心臓が、三秒間停止した気がした。
「ジョークよ。ブラック・ジョーク。一度言ってみたかっただけ」
「頼むよ」
僕は胸を撫で下ろし、もう一度ハンドルをしっかりと握り直した。
「でも、変よねえ。一体どんなつもりなのかしら、彼」
「彼?」
「フジヤマよ。本当にここにあるの? 私たちには見られたくないのかしら。見られてまずいことでもあるのかな」
「雨男ってよく言われたよ。過去の旅先日誌を繙くと、かの地に降る雨のPH記録しか残されていない。嫌われてるんだ、恵みの太陽にはね」
僕はテープを日本のアイドルソングに替えた。
「あなたのせいじゃないわ。本棚に貼ってある露出狂ビキニ女のせいよ」とケイトは言った。
「彼女も雨女かもね」と僕は言った。
「今度、銀行のシュレッダーに突っ込んでおくから」とケイト。
「構わないよ」
「でもせっかくここまできたのに、やっぱり悔しいわね。静岡の空気吸いにきたわけじゃないのよ、もう」
ケイトはハンドルを掴んで上下に振った。「危ないよ、やめろって」
二人の体が大きく左右に振れた。ケイトは素直に手を離したが、車は反対車線上を真っ直ぐ走行していた。
「私が無理に行こうって言ったんだもんね」
ダッシュボードに両手を乗せて、ケイトは諦めて言った。
「頼みますよ」
僕は車を立て直しながら、冷や汗を素手で拭った。
「水ケ塚公園」というドライブインで、僕は車を止めた。駐車場には泥だらけのライトバンと、ワインレッドのスカイラインがひっそりと停車しているだけだった。
車を降りてベンチに腰掛け、鮭のおにぎりを食べた。皮膜のような霧が辺りを取り巻いていた。御殿場方面が一望できるはずの展望台は、その彼方に不定型な帯状の影を蜃気楼のように浮き上がらせているだけで、景観らしい景観は何一つ存在しなかった。ベンチ裏の公園には、滑り台と円墳の形をした小山と朽ちかけた木々の根が点在するだけだった。持ち主に見捨てられたプラスチックのスコップが、大地に怒りをぶつけるようにして砂場に突き刺さっていた。
僕は口に残った米のかけらを舌でかき出しながら煙草を吸った。ケイトはずっと山頂があるはずの方角に目を向けていたが、一度小さく頷いてから僕を見、そして前方の三角屋根のレストハウスに目を移して、穏やかに聞いた。
「あなたのお母さんて、どんな人?」
「どんな人って、普通の人だよ。これといった特徴は見当たらない」
家族の話は苦手だった。特に話すこともなかった。
「親父は八年前、車に跳ねられて死んだ。酔っぱらって道路で寝てしまったんだ。酔っぱらった若い奴らの4WDに。どっちもどっち」
僕の息は白んでいた。それが煙草の煙りなのか寒さのせいなのか、区別がつかなかった。
「私には親なんて生まれた時からいなかったけれど、親って必要? 素敵なもの?」
ケイトの瞳は真剣だった。僕も真剣に考えた。
「一定の年齢になればなくたって困りはしない。ナポリタンに振りかけるタバスコみたいなものだと思うよ。なくちゃだめだって言う人ならかければいいし、なしで食べる人はそうすればいい」
「ふうん、そんなものか」とケイトは大きく頷いた。
それから、僕らは気の済むまで語り合った。ケイトが投げかける質問に僕は答え、僕が投げかける話題に、ケイトは感心し、悲しみ、お腹を抱えて笑った。心に残るマンガの話から千沙と出会い、別れに至った経緯まで。僕のトイレで一度中断したものの、後は全て二人だけの時間だった。誰にも邪魔されず、咎められず、レストハウスとトイレのマークしか見えないベンチの上で、僕らはお互いの物語を共有し愛を確かめ合った。
「人の女性って、都合がいいのね」とケイトは千沙の話を聞いて言った。
「出会ったときは、『あなたのそういうところが好き』とか言っておきながら、いざ別れるとなると、『あなたのそういうところが嫌いだったの』なんて。自己矛盾だわ」
「恋愛なんて、そんなもんだよ。ずっと一緒にいたいと思って同棲したり結婚したりするんだけど、二人で暮らすようになると、隠せる領域が少なくなって、本音の部分がふとした拍子に出てきてしまう。はじめは少しずつだけど、そのうちぼろぼろって。いちいち反応していると、お互いが疲れちゃう。そのうち相手に対して鈍感になって、恋愛とはまた違うフェーズでの付き合いになる。でも三十過ぎて、いつまでも夢見たいなこと言ってた俺がいけないんだよ」
「そういう観点からすると、私たちには表裏なんてないわ。相手を一生懸命に愛する、ただそれだけだから。だって、それが私たちのレゾン・デートルだもん」
ケイトは足を組んだ僕の膝にそっと手を置いた。千沙は今、どうしているのだろう、と僕は思った。どこかの若い男と、一緒に寝た布団の中で愛し合ってるのだろうか。
「ねえ、あなたの夢って何だったの?」とケイトは聞いた。
「絵本作家」
「冗談でしょ?」
「本当だよ」と僕は正直に言った。「信じられない?」
「ううん、そうじゃないけど。でも、絵本なんて本棚に全然なかったよ」
「致命的だよね」
「あなたの師匠は?」
「林明子」
「知らない」
「だろうね」
「そういう知のデータはまだまだね」といって、ケイトは頭をこんと叩いた。
それから、ケイトは僕の右手の肘を自分の腿に乗せて、何か奇妙な生物でも眺めるようにしげしげと観察していた。裏返したり、指を触れたり、皮を引っ張ったり。
「ねえ」
「ん?」
「ここ、どうしたの?」
「医学情報も少ないかな」といって、僕は肘を折り曲げて、彼女の目の高さに合わせた。
「『乾癬』っていうんだよ」と僕は言った。
「カンセン」
「うん。自分の持つ免疫や遺伝子が深く関与しているといわれる非伝染性の自己免疫疾患。国内では10万人の患者がいるらしいよ」
「ふうん」
そう言って、ケイトはそこだけ色の違う肘の皮膚をいとおしそうに撫でた。
「治るんでしょ?」
「ううん。特効薬、ないんだ」
「どうして?」
「どうしてって、発症原因が特定されていない」
「可愛そうに」とケイト。
「僕のはこれでもいい方だから」
「にっくき、カンセン」
「現代医学でも治せない病って、まだまだたくさんあるんだよ。今度、『乾癬撲滅協議会』をネット上に立ち上げようと思ってる」
静かだった。車の出入りも人の気配もなく、野外にいると思えないほど何の物音もしなかった。もっとも、こんな季節の、こんな天気の日に富士山に行こうなんて思うのは僕くらいなのだろう。
「私たちがあなた方と違う点は、病気にならないということ」
「だよね」うらやましそうに僕は言った。
「もう一つ」とケイトは思慮深げに、ちょっと間を置いてから呟いた。
「『死』への恐怖がないこと」
「うむ、微妙なところだけどね」
「電源切れば、はい、終わり。パチン」
「電源て、どこにあるの?」
「企業秘密」
「何それ」と言って、僕は笑った。
話が一段落してから僕らは車に乗り込み、少しシートを倒して音楽を聴いた。僕は古いロックが好きだった。時代の熱と新しい才能が開花する予感。みずみずしい若者の息吹。ケイトも好きだといってくれた。「口当たりのいい赤ワインみたい」と彼女は言った。
しばらくぼんやり聴いていると、ケイトは僕の腿に手を乗せた。
「何を考えているの?」
「何も考えてないよ」
僕はケイトを見た。彼女の瞳は潤み、少し寂しげだった。「千沙さんのことね」
「違うよ」
「嘘つき」
ケイトは水槽の中の熱帯魚を覗き込むように、僕の目をじっと見つめて言った。
「ねえ、したい?」
僕は素直に頷いた。
「いいわ。でもこれだけは約束して。今は私のことだけを真剣に思って。ね? クライアントに注文をするのは、契約違反かもしれないけれど」
「もちろん」
ケイトは僕のズボンのチャックを下ろし、ブリーフを少しずらした。僕はケイトの髪の毛に指を絡めながら彼女の行為を受け止めた。彼女の掌はとても柔らかく、そして温かかった。
ケイトは途中、何度も「私のこと、好き?」と聞いた。僕はその都度「大好きだよ」と答えた。そして目を閉じ、頭の中をからっぽにしてから、ケイトの顔を思い浮かべた。頬の色艶や瞳に映る僕の顔まで、それは手で掬い取れるほど鮮明にイメージすることができた。
千沙は、どういうわけかうまくいかなかった。どんな髪型で、目で、鼻で、唇だったのか、全ての輪郭が不鮮明で、彩度を欠いていた。僕は目を開け、ケイトの胸に手を当てた。ケイトは口で僕の体液を吸い取った。
2回目のトイレに向かおうとした時、僕は辺りが随分暗くなっていることに気が付いた。時計を覗き込んだら、既に四時を回っていた。いつの間にかスカイラインの姿はなく、レストハウスから一人の中年女性が出てきて僕らをちらと見、憮然とした表情で表のシャッターを閉め始めた。
そろそろ行きましょうか、とケイトが目で訴えていたので、僕は煙草を吸殻に差してサイドブレーキを下ろした。
「時間が経つのってあっという間ね。喉の奥にもう一つ喉があるくらい、いっぱい話したね」
ケイトは眠るようにシートにもたれ、満足そうに微笑んだ。
「楽しかった?」
「ええ、とっても。あなたのこと色々教えてもらったし。それだけでも大きな収穫」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。運転してきた甲斐があって」と僕は言った。
「気を抜かないでね。お家に帰るまでが遠足です」
「はいはい。十分気を付けます」
「『はい』は一回でよろしい。オーケー、では解散。ご両親には今日の事、ちゃんとお話するのよ。いいですね?」
「それでは、皆さん、さ・よ・う・な・ら」
帰りの車の中で、ケイトは無口になっていた。疲れているようだった。ウィンドウに流れ去る民家の屋根を、名も知らぬ樹木の梢を、遠くに揺れる初々しいネオンを、ただ無表情に眺めていた。
テープの音量を少し下げて、僕は胸元の開いている革ジャンをきちんと着せ直した。
「ありがとう」とケイトは言った。
「眠っていきなよ」
「ううん、私が眠る時は」
そう言って、ケイトは口を噤んだ。
高速道路に入ると、あれほど頑だった雲の一端がぷつりと途切れ、扇形の光線がルームミラーに反射して僕の両眼を突き刺した。夕日が、さっきまで僕らのいた辺りの山々を背後から照らし、富士の影を切り絵のように浮かび上がらせた。
馬鹿にしてるよ、僕は心の中で呟いた。
それがケイトに通じたかのように、ぽつりと、彼女は言った。
「長い人生、そういうこともあるのよ」
僕らはその時、最高に幸せな顔してたんじゃないかと思う。
*
僕はその日、友人と酒を飲む約束をした。前日かなり夜更かしをしていたので、誘いの電話の後、再び居酒屋の生ゴミのように眠ってしまい、気がついたら既に家を出ていなければいけない時間となっていた。慌ててはね起きてシャワーを浴び、髪を整えてケイトに一時の別れを告げ、2度強く抱擁をして家を出た。
抱擁の際、ケイトから小さな紙包みを手渡されたので電車の中で開けてみると、胃腸薬の錠剤が2回分、4錠転がって出てきた。そしてその一つずつに、鉛筆で「体」「大」「切」「に」の四文字が、教科書の見本のように書いてあった。薬にものを書くやつがあるかと僕はやたらに愉快になって、そのうちの「体」と「に」を、ぼりぼり音を立てて噛み砕いた。
それから朝まで酒を飲み、彼の家で午前中を潰し家を出た。僕の頭の中は、アルコール漬けの白子のような脳味噌で満たされていた。行動を起こしてから、後でその意味を考える有り様だった。
ケイトが心配して待っているのは分かっていたが、まっすぐ家に帰る気がしなかった。僕は駅前商店街の本屋に立ち寄った。並んでいる本の九割九分は雑誌かコミックか埃の被った実用書だった。客はもとより店主すらいなかった。
平積みにされている「少年マガジン」の上に、僕は手当たり次第周囲の週刊誌を重ねていった。適当な高さまで積み上げると、バランスや向きを丁寧に調節し一つ深呼吸をした。
それから作業を締めくくるに相応しい「爆弾」を探してみるものの、僕の所持品はというと小銭と煙草と衣類と靴くらいだった。服を脱ぐわけにもいかないと思い、仕方なく100円ライターを差し込んだままのマールボロを置いて店を出た。
それから僕は考えた。起爆させるための一番大切な導火線をどこかに忘れていた。元から持っていたのかどうかさえ怪しかった。致命的なことは、それが遠い昔既に実行されていた陰謀であり、しかも今回の場合、衰退化した商店街の「イノウエ書店」であり、週刊誌であり、100円ライターとマールボロ。
あなたの存在理由は、何ですか?
自宅に着くまで、僕はずっと考えていた。頭が痛くなるくらい。
部屋の鍵をそっと開けると、ケイトは台所に立って中華鍋を振っていた。腰を低く落とし、折れそうなまでに細い両腕で不安定な鉄の塊を必死に支えながら、じゅうじゅうと食欲をそそるいい音を立てていた。栗色の長い髪の毛を後ろで縛り、僕のエプロンを身に着けていた。エプロンの紐が片結びになっていて、床に触れるほどだらりと垂れ下がっていた。それが腰を入れるたびに馬の尻尾みたいにひらひら揺れ、何とも愛くるしかった。僕の存在にまだ気付いていないようなので、しばらく彼女の初舞台を母親のような目で見守った。
「お見事!」と僕は言って、手を打った。
「わっ!」
ケイトは驚いて鍋をガスレンジに落とした。炒め物の一部がガスの元栓と流しの方へ弾け飛んだ。
「ちょっと、びっくりするじゃない。黙って入ってくるなんて」とケイトは半分泣きながら言った。
「だって、余りにも夢中になってるから」
「この心臓の音、聞こえる? おかげで寿命が三年は縮まったわ」
彼女はほっと肩の力を抜き、呼吸を整え、大げさに胸を撫で下ろした。
「何を作ってたの?」と僕は謝りながら聞いた。
「ジャガイモとベーコンの炒め物。お腹空かせて帰ってくると思って」
事実、胃の中は見事なほどに空白だった。今僕が死んで司法解剖を受けても、胃の内容物による死亡推定時刻の判定は不可能というくらい。
「ケイトが料理だなんて」
「私だって女よ、このくらいはね」
彼女は休めていた手を再び動かしながら言った。中華鍋に水を張り火を強めた。
「美味しそう」
「美味しそう、じゃなくて、美味しいのよ。簡単なの。ジャガイモ、ピーマン、ベーコンを千切りにして油で軽く炒める。水を張り砂糖、醤油、本だし、味醂を加え弱火で十五分くらい煮詰める。これだけ。ジャガイモがとろけてくればグッド」
「肉じゃがだね」
「内容としてはね。ただベーコンを使うとちょっと洋風になるのよ」
「あなたの師匠は?」
「栗原はるみ。ねえ、今日は天気がすごくいいわ。ベランダで食べない?」
そう言って、彼女は得意気に微笑みながら、味噌汁に使うもめん豆腐を切る作業に取りかかった。僕はその間に熱いシャワーを浴びた。
風呂から上がると食事の準備は終わっていて、ケイトは一つずつその出来ばえを点検していた。食事といっても、ジャガイモ料理とご飯と豆腐の味噌汁だけだが、ケイトに料理を作る才能があるとは夢にも思っていなかったので、僕は感動していた。
「料理も、プログラミングされてるの?」と僕は聞いた。
「基本的なことはね。レシピについては、今日、覚えたわ」とケイトは胸を張って答えた。
「材料は生協の宅配。ごめんなさい。勝手にお金を使ってしまって。またペナルティね」
「そんなことはかまわないけど、それより今日思い立って、今日材料仕入れて、今日これだけのものを作ったの?」
「そうよ。『食べる』という行為に興味を持ったの、この本を読んでいたら。だって、あなた、コンビニのお弁当をいい顔して食べてるじゃない。私もあなたのために、何か作ってみたくなって」
「いきなり料理なんてできるもんじゃないよ」
「一度経験したことは二度と忘れない。一度失敗したことは二度と繰り返さない。私たちの鉄則よ。夕暮れがとても綺麗ね」
僕らは畳一枚程度のベランダに段ボールのテーブルを置き、ケイトの初料理を並べた。彼女の学習スピードは僕の想像をはるかに越えていた。彼女の無垢なメモリに知識は次々と書き込まれ、確かめられた。僕には失われつつある、好奇への執着と打算のない奉仕。彼女には気付かされることが沢山あった。
燦々と降り注ぐ西日を体全体に浴びながら、僕はケイトの料理を口に運んだ。味付けも塩加減も、僕の舌の構造を知っているかのようにぴったりだった。ケイトは頬に両手を当てて、僕が腹ぺこの犬のように頬張る様をじっと見ていた。試しに「ケイトも食べる?」と聞くと、あなたの食べてるところが見たいだけだから、と彼女は笑った。
「お味はいかが?」
「大したものだ」と僕は箸でベーコンをつまんだ。
「料理しないの?」
「最近はあまり。一人分を作るというのは不経済だから」
「わたしが付き合えたらいいのにね。食後のビールは、どう?」
僕はあっと言う間に食事を平らげ、ケイトから缶ビールを受け取った。彼女は何か聴かせて、とCDラックをがさがさと漁っていたが、決め手がないようで、左右に首を傾げていた。「ねえ、孤独と連帯、今の気分は?」とケイトは僕に助けを求めた。少し考えてから、連帯、と答えてみた。彼女はほっとした表情でテープをセットしてから僕の隣に座った。
アコースティック、ハーモニー、そして風。ピーター・ポール&マリー。
孤独を選んでいたら誰の曲が流れたのか気になったが、僕は聞かないでおいた。
「どうして、夕日ってこんなに美しいのかしら?」
ケイトは僕の肩に顔を寄せ、眩しそうに目を細めた。
「いずれは消滅するからだよ」と僕はとりあえず答えた。
「ねえ、あの夕日の色は、何色といえば正確なの?」
「何?」
「色よ、夕日の」とケイトはもう一度言った。
「オレンジ色」と僕は答えた。
「どうしたの?」
「蜜柑色、なのかなあ」
「変な人」とケイトは言った。
「いや、何だかこんな会話、どこかでしたことのあるような気がしたんだ。オレンジ色についての話」
「デジャヴ?」と彼女は言った。
「いや、本当にしたことある、遠い昔に」
それは中学生の頃の出来事だった。どういうわけか、そのときの事が突然、ケイトとの話の中で鮮明に甦った。
「どんな話なの?」
「近所にね」と僕は言った。「同い年の女の子がいて、結構仲良かった子でさ、彼女が中学2年の頃だったかな、急に目が見えなくなったんだ。視神経が障害を受ける難病。本当にあっという間だったみたい」
「全く、病気って、いやね」とケイトは言った。
「それから、しばらく会ってなかったんだけど、夏のある日、彼女が向こうの母親と一緒に僕の家を訪れたことがあった。親同士の用事だったと思うけれど、ふと会いたくなったって、彼女もいてね。でも、彼女の目、見えてないなんて信じられないほど、健全と輝いた瞳だった。
僕はぎこちなく彼女の手を取って二階の部屋に行き、ジュースとクッキーを用意して彼女に差し出した。喉が渇いていたらしく、彼女は三口でコップを空けてしまったので、もう一杯注いであげたらそれもあっと言う間にごくごく飲んじゃった。冷たくてとても美味しいって、彼女は嬉しそうにお礼を言った。
その時の会話、うん、何だかすごく良く覚えてる。このオレンジジュース、何色って彼女は聞いた。もちろん、橙色だよ、と僕が答えると、橙色ってどんな、と聞いてくるから、次は蜜柑色と答えた。でも、それ同じだな、なんて思って。目の見えない人に色を説明するのってすごく難解な命題だよ。
そしたら、彼女はこう言った。そうじゃなくて、同じ橙色でも沢山あるでしょう、と。濃い色から薄い色、明るいとか暗いとか。果汁100パーセントのバレンシアオレンジジュースと果汁一パーセントの合成着色料ジュースとでは全然違うと思う、家で飲むものよりずっと美味しかったからどんな色をしてるのかなと。目が見えなくても、色を感じることはできる。それは物の色だけじゃなくて、例えば私の前にある人が立っている。声も出さず、呼吸も聞こえないくらい静かに。相手はじっと私のことを見つめている。そして、彼が私に対してどういう感情を抱いているのかが、ぼんやりした形の定まらない色のイメージとなって、真っ暗な意識のなかに浮かんでくる。こういうことって信じられるか、と。『超能力みたい』と僕が言うと、『嘘よ、あんなの』と彼女は言った」
「ふむ。未知の世界ね」とケイトは相槌を打った。
「木の香りがする広々とした公園でベンチに座ってうとうとまどろんでいる、これは、白、又は淡い灰色。私のことをすごく憎んでいる人が、いついじわるしてやろうかじっと機会を窺っている、これは、黒、茶色、赤、それらの色がその時の心の強さによってぐるぐる入れ替わったり、混じり合ったり。目の健康な人が羨ましいなあとぼんやり思うとき、黄金色か明るい茶色。生きているのがとっても辛い、何もやる気が起きない、深い深い藍色。そうした色のイメージがその時の気分や環境で雲がかかるみたいに見えてくる。
色に感情を表す意味もあって、ブルーは憂鬱だとか、レッドは怒りだとか、イエローやグリーンは嫉妬深いとか、あれ、いい加減じゃなくて、本当にそういった色なんだって。感情の色。きっと最初に目が見えなくなった人が気付いた。人間が昔から持っていた動物的能力。でも、いつしか目だけで物を見るようになってしまった。目に映ることと、感じることは全く次元の違う話だと思う、と。
クッキーを齧る手を休めて、僕は話に聞き入った。そして一生懸命に話し続ける彼女の瞳ばかりをずっと見つめていた。どの角度から眺めても、瞳は一杯に光を溜め、その中に僕の輪郭もすっぽり収まっている。でも彼女には、僕が当時よりいくらか大人になり、二つの小さな黒子が新しく右頬にできたという事実を認めることはできない。僕は彼女を不憫に思ったけれど、彼女はそれほど哀しそうには見えなかった。楽しんでいるかのようだった。心を捉える色のイメージ。忘れかけている原始の感覚。少しだけ、彼女が羨ましくも思ったよ」
「それで、オレンジの話ね」とケイト。
「『それでね、ジュースの色なんだけど』と彼女は言った。『大きな枇杷をナイフで縦割りにしたときの、あの柔らかい実の色』って。なるほど、その通りの色だった。枇杷とオレンジの共通項だね。オレンジの話はこれでおしまい」
100円均一で買った健康サンダルに両足を乗せて、僕はビールを一口飲んだ。
「感情の色かあ」
ケイトは僕の手を軽く握り、暖色から寒色へ染め直された空の帳へ顔を向けた。夕日は姿を消し、厳しい冬の予感を孕むひんやりとした冷気が僕の耳元をすり抜けた。
「彼女は今どうしてるの?」とケイトは聞いた。
「分からない。その後引っ越しちゃったから。でも、きっと彼女のことだから、元気にやってると思うよ」
「だと、いいわね」ケイトは小さく微笑み、頷いた。
「ねえ、部屋に戻ろうか?」と僕。
「もう少しここにいさせて。二番星が見えるまで」
「二番星は、大都会・東京にあって、まず見えない」
「だから、そう言ったの」
ケイトは小気味よく微笑んだ。頬が少し上気しているようにも見えた。僕は諦めて煙草を取り出した。彼女がすかさず僕の手からライターを取り上げ、両手で風を遮りながら火を点けた。最近は余計なことまで覚えてしまう、と僕は笑った。
僕はケイトを割引期間中の廉価でレンタルをした。契約は3ヶ月。ネットで彼女と出会い、僕は直ちになけなしの代金を振り込んだ。2日後、契約書を持参して、彼女はやってきた。「ケイト」の身体の特徴に関する説明書と合わせて交換可能な体の一部も付いていたが、翌日、それらは返品をした。要らないものは早急に眼前から消す。それは僕の経験則だった。
そして、僕とケイト二人の共棲が始まった。
彼女が普通の女性と大きく異なる点は、人類のたゆまぬ技術革新への努力によって生み出されたことと、生理がないということだった。
クリスマス・イブは、朝から雨が降っていた。町を彩るデコレーションランプは、母の膝で読むディズニーの絵本のように温かく揺れていた。
僕はケイトへのプレゼントを探そうと、朝から渋谷に出ていた。金曜日と重なったこともあって、おろしたての洋服に身を固めたカップルや仕事帰りのスーツ姿の男女たちが歩道を埋め尽くし、それぞれの親密な時を共有していた。
彩り豊かな群集を何となく眺めているうちに辺りは黄昏ていた。僕がしたことといえば、オリバー・ストーンの映画を1本見て、3軒の喫茶店でコーヒーを飲み、クリスマス用販促煙草のサンプルを街頭で貰っただけだった。
僕はプレゼントのことを本気で考え始めた。今夜は二人で朝まで語り合おうと約束していた。「クリスマス」にはなぜ恋人同士で過ごすのか、ケイトに教えてあげなければならなかった。
とりあえず、僕はブックセンターに行ってみることにした。今度は「朝日」だけを写した写真集はないものかと思ったからだ。
外の喧騒とは裏腹に、気味の悪いほど閑散としたその地下の店で、僕は側にいたアルバイトの女の子に声をかけた。
「アサヒ、ですか? ええと、写真集ならあちらのコーナーなんですけど」
声をかけてから、どきりとした。千沙によく似ていた。髪形も、背格好も、声質の感じも。少し違うところは、顔立ちが幼すぎるということと、本屋でアルバイトするにはいささか気性が激しすぎるということだった。
彼女の導きに従って、僕は写真集のコーナーに立った。人気アイドルの健康的な写真集と、売れなくなった過去のアイドルや、女優を夢見る無名の女の子のヌード写真が混沌と並んでいる隣の棚をその子は懸命に漁った。
「ちょっと、見当たらないですねえ、そういうの。一応、情景モノはこの棚しかないので、ここにないと」
情景モノ、という言葉が全く彼女に相応しくなくて、心の中で笑った。
「いいですよ。後は自分で探してみるから、どうもありがとう」
「いいえ」と言って、彼女は雑誌を整理していた元の場所に戻っていった。僕は再度「情景モノ」の詰まった棚から、朝日にとって代わるべき写真集を探していると、さっきの彼女がいつの間にか僕の隣にいて遠慮がちに言った。
「今確認したら、もう一件のお店にはあるみたいなんですが」
「もう一軒て、どこにあるの?」
「円山町」と彼女は言った。
そんな所に書店なんてあったっけ、と僕は聞いた。
「昔から芸妓さんご用達なんです。案内しますよ」
通りの群衆の波は一段と激しくなっていた。雨は既に上がっていて、各々の店から各々のクリスマスソングが、お互いのテリトリーを侵さない程度にささやかに鳴っていた。
彼女は私服に着替えて現れた。その姿はとても雑誌の返品作業のできる格好ではなかった。強烈な香水の匂いが僕の鼻を突いた。
「イヴにバイトなんて、最悪だよね」階段の入口で、口紅を塗りながら彼女は言った。
「見栄張っても仕方ないじゃん。人がお金を使ってる時にお金を稼ぐっていうのも快感よ。ここは遊びだけど」
彼女が足早に歩き始めたので、黙って後を追った。彼女の白い息が僕に交わることなく歩道に溶けた。坂を登り、路地を曲がり、あるファッションホテルの前で僕らは立ち止まった。
「写真集に、カラオケと美女をつけるけど」と彼女は言った。
「悪いけど、人を待たせてあるんだ」と僕は言った。
「彼女? どこに?」
「家に」
「家はどこ?」
「東松原」
「ふうん」
彼女は不満げにバッグからフリスクを取り出し口に放り込んだ。僕は彼女の考えていることを表情から探ろうとしたが、彼女はじっとホテルの入口に立つ観葉植物を見つめていた。
ケイトが帰りを待っているのだということを心に言い聞かせた。
「あなた、学生? 社会人?」と彼女は聞いた。
「失業中だよ」
「私はどう見える?」
「松濤に住む元閣僚の娘」
「モトカクリョウ? マジで?」と言って、彼女は少し笑った。
「地下の本屋のアルバイター」
「ふざけないで、ちゃんと考えてよ」
彼女は小さく息をついて顔を上げた。茶色い髪も紫の口紅も高貴な香水も、暗がりのなかで先程までの色相と輝きを失っていた。
ホテル街は縁日のように賑わっていた。多くのカップルが僕らの傍らで立ち止まり、空を見上げ、お互いの顔を見つめ、肩をすくめ、そして再び歩き出した。親子ほど年の違う男女もいれば、ランドセルが似合いそうな男女もいた。黒人もいれば、同姓同士もいた。彼女は両手を後ろに組み、ブーツの底で地面をこつこつと打った。僕は煙草をくわえ、ジーンズの財布の位置を確認した。
「一般論からいけば、高校中退、17才、フリーター」
「だよね」
彼女は微妙に肩を落とした。
「大学4年生には見えない?」
「4年生というと、22才?」
「一浪してるから23才」
「暗がりでも見えないな」
「23才がこんな髪の毛して、こんな服着て、こんな化粧して、こんなピアスしてたら変だよね」
「ちなみに、どこの大学?」
「東京大学」
彼女は僕に学生証を見せてくれた。右肩の「教養」の文字が丸で囲まれていた。写真の彼女は髪が黒く、メイクも普通だった。それが彼女かどうかは、大体の輪郭と左目の泣き黒子で判断するしかなかった。
「どうして恋人を待たせているの?」と彼女は聞いた。
「プレゼントを買いに来たんだ」
「当日のこんな時間に? もっと早く用意しておけばいいのに」
彼女の言うとおりだった。
「イブに女の子を待たせては駄目よ。あ、もしかして結婚してるの?」
「一緒に暮らしてるだけ」
「同棲?」
「そんなところ」
ケイトは今頃何をしているのだろう。
「どうしてあんな寂しそうな顔してたの?」
「そう?」
「もっと楽しそうな顔しないと」
そう言って、彼女は僕の革ジャンの襟を両手でつまんだ。それは触れているのかどうか分からないほどのささやかな感触だった。
「君も寂しいの?」
僕も彼女にそう聞いてみた。しかし実際に口に出して言ってみると、それは余りにも直截的で陳腐だった。聞いた後で、必ず後悔する言葉のうちの一つだった。僕は彼女から目を逸らすわけにはいかなくなっていた。
「だとしたら?」
彼女は見上げるように僕を見つめた。その瞳は、千沙がかつて僕に向けた瞳に似ていた。
「でも、安心して。私が欲しいのはお金だけ。家で待ってる彼女への愛まで奪う気はないから」
一組のカップルが伏目がちにエントランスをくぐり、入れ替わるようにもう一組のカップルがお互いの腰に手を当てながらホテルを後にした。
「写真集はいくらなの?」と僕は聞いた。
「歳末セール中につき、税込み3万」
「本当にいただけるのかな」
「もちろんよ」
僕を導く彼女の手は少し湿っていた。
彼女と別れた後、僕は家路を急いだ。電車を降りた頃には10時を回っていた。東大の彼女からは約束通り写真集を貰ったが、それは「朝日」ではなく、世界のダイビングスポットで撮影した魚やサンゴの写真集だった。「モルジブへ行かなきゃ嘘」と彼女は何度も念を押した。
駅前の洋菓子店がまだ開いていたので、僕は苺のたくさん詰まったショートケーキとシャンパンを買い、アパートへ通じる薄暗い小道を足早に歩いた。
ケイトが待っている。今日という日を、世の中の恋人たちと同じように幸せに過ごそうと。そして僕は願った。今夜中に天気が回復してほしい、と。明日の「朝日」を、ケイトと一緒に見たい。写真よりもずっと綺麗に違いない、本物の姿。
「ごめん、遅くなっちゃって」
僕の声だけが、ひんやり停滞した空気に虚しく響いた。ケイトの応答はなかった。部屋の中が従来の黴びた匂いで満ちているのを、僕は瞬時に感じ取った。
写真集とケーキとシャンパンを台所のテーブルに置き、他人の部屋を覗くような気持ちで居間を見た。
ケイトは俯いて肘掛け椅子に座っていた。足元には夕日の本と膝掛けが無造作に置かれていた。そして、電話の子機。
「ただいま、ケイト」
僕は何度も背中から呼びかけたが、彼女からの返答はなかった。僕は彼女の正面に回り、両頬に手を当て、顔を起こすようにそっと持ち上げた。
彼女は、眠っていた。
それはとても優しい寝顔だった。口許と瞼をわずかに緩めて。
僕は深呼吸をし、気持ちを整理するためにビールを開けた。それから冷たい水で顔を洗い、夕刊の一面と社会面にさっと目を通した。そしてプレーヤーにCDが入っていることを確認して再生ボタンを押した。ジャニス・ジョプリン。
それから、電話の履歴。着信、午後7時14分。通話時間、1時間33分。その電話番号に僕はとても見覚えがあった。一体、そんな長い時間、ケイトは何を話したのだろう。
僕はもう一度彼女の肩を揺すり、「ケイト」と呼んだ。彼女は真剣に眠っていた。体が部屋の温度と同じくらい冷たく、そして小さく感じられた。
以来、ケイトが夕日の写真集を見たり、僕の帰りを待ったり、料理を作ったりすることは
なかった。契約はあと2日残されていた。何かの間違いではないか、と電話の業者は言った。
「普通に使用していて、故障ということはまずないはずですが」と彼は僕を疑うように言った。「バッテリー上がりでもないようだし。自ら電源を落とすというのは物理的に不可能なんです」
業者は、とりあえずあと2日あるので別のパートナーを送る、あるいは2日分のリース料を返金するのでいずれかを選択してほしい、と言ったが、僕はどちらも断った。こんな形でケイトと別れるとは思ってもみなかったので少しショックを受けていたし、後々面倒なことになるのも嫌だった。
それから間もなく、業者の外回りがケイトを引き取りにきた。僕は眠り続けるケイトを慎重に預けた。外回りはケイトの体の隅々までチェックをし、何度も首を横に振った。そして最近の彼女の状態と僕の行動を子細に聞き、メモをとった。
「バグの可能性もあるので、一応、本部にはエラー報告をしておきます」
最後にもう一度首を大きく傾けてから、詫びの言葉を一言残し玄関の戸を閉めた。僕は帰り際、ケイトが大好きだった夕日の写真集を彼に手渡した。業者は「困る」と拒否をしたが、僕は「もしかしたら、修理の際に必要になるかもしれないから」と無理やりケイトの両手に持たせた。
ケイトとの別れは実にあっけないものだった。彼女は生まれて初めての眠りにつき、僕の生活はこれまで通り、殺風景で平板な世界へと引き戻された。
そして、革ジャンのポケットの底に沈んでいた「大」「切」の錠剤2粒が、彼女の形見と
して残された。
翌日、宅急便で大きなダンボールが2つ届いた。千沙からだった。手紙もメッセージもなく、ただ僕の衣類やら下着やら、3年の間に僕が千沙にプレゼントしたさまざまなアクセサ
リーや雑貨、歯ブラシやコンドームなどが一杯に詰め込まれていた。
整理をしていると、シャツとシャツの間に、林明子の絵本がこっそりと挟み込まれていた。それは、小さな女の子が家族でピクニックに行く朝の支度の最中、いろいろな騒ぎを起こす
という話で、将来自分の子供が生まれたらぜひ読んであげようと思っている可愛い絵本のう
ちの一つだった。僕は久しぶりにページをめくりながら、ケイトは気に入ってくれただろう
か、とちょっと想像した。
それから、僕は伝票に書いてある番号に電話をかけた。ダイヤルしている間、頭の中は真っ白だった。今更、何を話すというのだ。僕はただ、宅急便が今着いたと、それだけ伝えたかっただけなのかもしれなかった。
「もしもし」と電話に出たのは男だった。僕は黙っていた。バックで、ジョン・レノンが流れていた。「もしもし? どなたですか?」
何度も電話を切ろうと思った。しかしその度に、僕は受話器を持ち直し、強く耳に押し当てた。
「もしもし? 誰?」
「もしもし」と僕は言った。なるべく、声を低めて。
「どなた?」
「千沙さんは、いらっしゃいますか?」
「今、シャワー浴びてるけど。それよりあんた、自分の名前、名乗りなよ」
「彼女に、荷物、今着いたからって伝えておいてもらえるかな?」
「あんた、ふざけてんの?」
男は明らかに苛立っていた。
「こっちは何とかやってるから、何も心配いらない。それから彼女、何か嫌なことがあると洗濯する回数が急に増えるから気をつけて見ててごらん」
「今すぐ電話切ってもいいんだが、こっちにも報告しなきゃいけない義務、あるからね」
「最近まで、彼女と一緒に暮らしてた者だよ」と僕は言った。
「ああ、あんたがそうなの。その荷物、俺がまとめたんだ。彼女の言われる通りにね」
顔が酷く熱かった。シャワーの音は聞こえなかった。男が千沙の腰に手を当てている姿を想像した。同じ手で、僕の衣類と林明子をダンボールに詰め込んだのだ。
「いつまでそこにいるの?」と僕は何気なく聞いた。
「明日までだよ」と男は素直に答えた。
「最近は男性版もいるんだね」
「女性からのニーズの方が増えてるの、あんた、知らないの? 時代は変わってるんだよ。よっぽどしっかりしないと、あんたみたいな男、すぐに放り出されちゃうよ」
パートナーに馬鹿にされることもあるんだな、と僕は思った。
「それにしても簡単に電話に出るね」
「最近、セールスやら変な男からの電話が多いんだよ。あんたのような」
男は声を出して笑った。
「セキュリティーが甘すぎるようだね、男性版は」
「クレームなら、メーカーに言ってくれ。それに、あんたから言われる筋合いはない。千沙は、俺をとても素敵だ、と言ってくれたよ」
そう言って、彼は口をつぐんだ。きっと、昨夜のことでも思い出しているのだろう。いや、今シャワーを浴びてるとすると、ついさっきのことかもしれない。
僕もしばらく沈黙していた。お互いが喋りはじめるのを待っていた。ジョン・レノンは終了し、音楽は何も流れていなかった。男は何か飲み物を飲んでいるで、からんと氷の落ちる音が聞こえた。静かな部屋だった。ついこの間まで自分がいたとは思えないほど、そこは遠くに思えた。僕はゆっくり3つ数を数えてから受話器を置いた。僕もやたらと喉が渇いていた。
イヴから3日後、東京は記録的な大雪に見舞われた。数十年振りのホワイトクリスマスに、あるものは驚き、あるものは鬱陶しがり、あるものは子供のようにはしゃいだ。そして、僕のアパートには、蒼い雪が降った。
ブルーハワイのシロップを振りかけたかき氷のような雪が、一晩中、ベランダを、裸の木々を、自転車置場の屋根を蒼く染めたのだ。僕はその時の雪を、リンカーンのマグカップ一杯に詰めて、フリーザーに入れて保存した。ニュースにもならなかったが、これはおそらく誰も知らないとっておきの奇跡だろう。
*
「それから、ケイトさんはどうなったの?」とステインは言った。
「知らないよ」と僕は言った。
「あなたのミスではなさそうね。初期不良だったのかしら。まだバグが多くて、当時はトラブルも結構あったって先輩から聞いたわ」
「仕方ない。人間だってトラブルはある」
「でも、何もそんな大切な日にねえ」
ステインは枕元の空調を少し弱めた。そして煙草を僕に勧めた。
「千沙さんからの電話にきっと応じてしまったのね。そこで、何らかの理由でフリーズしてしまったんだわ。さもなくば、その本屋の女の子と寝たからという可能性もある。人との交渉が可能な男に私たちは必要ない。それは鉄則ではなく、レーズンデットルに関わる問題」
僕はステインに言われたことを記憶の中でなぞっていた。いずれにしても、非は自分にあることは間違いないようだった。
「当時より数段進歩してるのよ。彼女のような学習型タイプは始めだけ。予め十分記憶させることができるから、現代は」
ステインはシーツに付いた髪の毛をつまんで、ごみ箱に捨てた。
「それにしても蒼い雪の話は作り物ね」
「本当だよ」と僕はすかさず言った。壁の宇宙が少し広がったように感じた。
「証人は?」
「当時アパートの住人は自分だけだったし、翌日には積もった雪から色が消えていた」
「ストレイイインジ」
彼女は首を左右に振り、外国人がするように、大げさに両手を広げた。僕は蚕のようになった灰の塊をビールの空き缶に落とした。本当なのだから、仕方がない。
「嘘だと思うなら見にくる?」
「ぜひ」とステインは言った。「ケイトさんと暮らしたアパート?」
「そう。引越しなんてするお金ないから」
「でもパートナーをレンタルするお金はあるんでしょう?」
ステインは僕の顔を覗き込んだ。僕は一言多い、と言った感じに眉をしかめた。それを見てステインはまた子供のように笑った。
「ところで、ススキという人のことはよく分かったのかな?」
「蒼い雪を見せてもらってからだわね」
これから何かとてもいい映画を見にいくかのように、彼女はてきぱきと支度を始めた。僕も誰かに蒼い雪を見せるのは初めてのことだった。
「従ってこの私にくれた服、ケイトさんのね」とステインはスカートを広げた。
「みたいだね」と僕は答えた。「妬いてる?」
「みたいね」とステインは目を細めた。それからすぐに「嘘よ」と言って顔を緩めた。
ステインはマリ・クレールのバッグから化粧品を取り出し、手際よくパフを叩いた。
「そのバッグには何が入ってるの?」
彼女の体には少し大き過ぎる気がした。
「何もないわ。携帯電話、手帳、化粧道具、オプショナルパーツ」
「オプショナルパーツ」と僕は繰り返した。
「何よ」とステイン。
「そのパーツ、捨ててくれない?」
「できないわ。クライアントはあなただけじゃないから」
僕は手持ち無沙汰にホテルのキーを振り回した。
「妬いてるの?」
「みたいね」と言って僕は笑った。それから、口紅を塗り終えたステインの後ろに回り、首にキスをしながら言った。「その前に、もう一度しない?」
分厚いコートに自分とステインをくるんで道玄坂の人波に乗った。僕は唇を噛むステインのマフラーを巻き直してから、手をポケットに入れきつく握りしめた。「痛い」とステインは笑ったが、僕は構わず握り続けた。
アパートの壁に街灯が反射し、青白く光っていた。壁は一度塗りかえられただけで後は何も当時と変化はなかった。
「ねえ、今時こんな汚いアパート、住む人いるの?」とステインは見上げて聞いた。
「おあいにく、現在満室です」
僕はステインの手をとり二階へ上げた。ステインは足元ばかりを気にしながら慎重に登った。思ったより軋みの少ない階段ね、と独り言をいいながら。
部屋に入ると、僕はビールをグラスに空けた。ステインはベランダやトイレや本棚など、目に付いたものを次々と物色した。そして「ケイトさんの椅子」と言って、ロッキングチェアに深く腰を埋め、前後に揺らした。
「本当に、物の少ない部屋」とステインは言った。
「5年前と、何にも変わってないね」
ケイトの写真を一枚くらい残しておけばよかったと僕は後悔した。
「ビール、飲む?」
「いえ、結構。アルコールは寿命を縮めるわ」
ステインは足を組みながら言った。ダイニングの椅子から僕はステインを見ていた。滑らかなウェーブのかかった栗色のヘア、シルバーのピアス、そしてケイトのために買ったニットカーディガンとフェイクレザーのスカート。
「私は、何人目?」とステインは天井を見上げて言った。
「数え切れない」僕は嘘をついた。
「ロングではレンタルしないの?」
「そんなにお金ないし、情が移るから」
「ケイトさんのこと、よっぽど気に入ってたのね」
ステインはバッグから手帳を取り出しぱらぱらと捲った。そしてゆっくりと腰を上げ僕の前に座った。ちらと腕時計を見、小さな溜め息をつき、テーブルの置時計を見た。
「10時までだよね、私」
「そう」
「あと30分」
ステインは僕の手からグラスを奪い少し口に含むや否や、苦い、と言って乱暴にグラスを置いた。
「味覚あるの?」
「もちろん」
「進歩してるんだ」と僕は言った。
「あなたと違ってね」
ステインはいたずらっぽく笑って答えた。
「悪いけど、延長はできないよ」
昨日確認した通帳残高を思い浮かべて、僕は言った。
「いいの。次のクライアントが待ってるから」
「これから?」
「ええ。12時に国分寺。その前に本部に戻ってガソリン補給」
「妬けるな」
「妬いてよ。最後にもう一度、いいのよ」とステインは言った。
「ありがとう。でも今日はこれで遠慮するよ」
「たまにね、何もしない人いるの。ただ会話だけを楽しむっていう人。別に料金はいただくわけだから私たちはどっちでも構わないんだけど。そういう人、あなた、どう思う?」
「いろんな人がいるから。少なくとも君たちといると、普通の女性と付き合うよりがっかりすることが少なくて済む」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。ねえ、シャワー、浴びてもいい?」
「ご自由に」
「ところで、この洋服」とステインは聞いた。
「本当にあげるよ」と僕は言った。
床を打つシャワーの音を聞きながら、僕は引き出しに仕舞ってあった千沙との写真を取り出し、顔の輪郭、髪型、目、鼻、口の順にその形を確認した。
幸福な時間。そして失望。
僕は千沙が例のパートナーに抱かれている様子を想像した。残りのビールを飲み干し、それから写真を再び引き出しに戻した。両手を頬に当てた。固い髭が伸びていた。
帰り際、ステインは僕のごつごつした手の指を名残惜しそうに弄んでいた。
「また指名してくれる?」
「もちろん。でも、またしばらくは労働の日々が続くけれど」
「ねえ、ドクター」とステインは僕の目を見上げた。「ケイトさんに、また会いたい?」
僕は少し時間を置いてから、頷いてみた。
「探してみようか?」とステインは言った。
「5年も前の話だよ?」
「可能性はある。私たちは一体一体、行政に登録をしなければいけないの。処分したときにも届け出る義務があるのよ、メーカーには。控えが必ずあるはずだから、バラされていない限り、彼女は必ずどこかに保管されている。もっとも、今現役で動いていることはないと思うけど」
ステインは自分の恋人を探すように楽しげに言った。「私に任せて」
僕は彼女の小さな唇に感謝のキスをした。ステインは僕の口にお返しの舌を入れた。
「その代わり、また本当に指名してよ? 絶対」
「もちろん。ブッキングしないことを祈るよ」
「ねえ、私、何か忘れてない?」と言って、ステインはカーディガンのポケットに手を当てた。
「忘れ物?」
「ううん、まあ、いいや。また思い出すでしょう。お元気で。ありがとう」
僕はステインの姿が見えなくなるまでいつまでも手を振っていた。部屋に戻り、もう一本ビールの缶を開けた。そしてステインの匂いが残る浴室でシャワーを浴びた。シャンプー台にステインのカチューシャが残されているのに気が付いた。最新鋭ロボットにも忘れるということがあるんだ、僕は自分の頭にステインのカチューシャを差して、浴室を出た。
部屋はとても寒く感じられた。電気ストーブは何の役にも立っていなかった。息は白んでいた。僕は友人の携帯に電話をし、飲みにいかないかと誘った。友人はしぶしぶ同意した。
僕はすぐに支度をし家を出た。何となく家にいたくはなかった。駅へ向かう途中、ステインのもう一つの忘れ物を僕は思い出した。彼女に「蒼い雪」を見せてあげること。
*
玄関のチャイムに起こされ扉を開けると、そこにケイトがいた。ステインと別れてから5日後のことだった。彼女はステインが持ち帰ったケイトの服を着ていて、表紙の擦り切れた写真集を手にしていた。髪形もニュートラルな瞳も、あの頃のままだった。
「メアリです。よろしく」と言って、彼女は小さな紙を僕に手渡した。「ステインからメッセージを預かってきたから」
紙にはこう書かれていた。ケイトは資金的な理由から廃棄処分をされずに倉庫に放置されていた、心臓とメモリーは二度オーバーホールされているので当時の記憶はなく最終ネームは「メアリ」、バッテリー残量は約5日分、廃棄登録済につきレンタル料などは不要。
僕は紙をきちんと折りたたんでポケットに仕舞い、「どうぞ」といってメアリを居間に通した。メアリ、メアリ、僕は何度かその名前を反芻し、かつてのケイトの顔と見比べた。メアリは首を傾げ不思議そうに僕の様子を見ていた。
「何か顔についてるかしら?」
「いい名前だね」と僕は言った。
「そう? 私はあまり気に入ってないけれど」
メアリは部屋に入ると、すぐにロッキングチェアに腰掛けた。
「いい椅子ね」
「みんなに座りたがられる幸せの椅子」
僕は布団を畳んで隅に寄せ、カーテンを開けた。午後3時の町は明るく、刷毛のような雲
が高い天空で凍っていた。
「この写真集、あなたのですって?」
「そう。昔、君にあげたんだ」
「私に? 初めてではないのね。でも覚えてないな」
「遠い昔のことだから」
「でも、なかなか綺麗、この景色」
ページを捲る彼女の姿に、僕の鼓動は早まった。あの頃の、とても懐かしい香りが彼女の背中から漂っていた。僕は彼女の髪を撫で、指に絡めた。
「する?」
「いいんだ。話だけでも付き合ってくれる?」
「それは構わないけれど。したくなったらいつでも言ってよ。それが仕事なんだから。最近、あなたのような人、増えてるのよねえ。全然しようとしない人。男の人って、みんなしたいのかと思ってた」
それから僕は久しぶりに料理を作ってみることにした。近所のスーパーで材料を揃えフランスワインを調達した。すぐに支度を始めフライパンを火にかけた。初めて作る料理、西洋風肉じゃが。
「あなた、料理するの?」とメアリが感心して聞いた。「料理する男の人って、私、好きよ。これ、なんていうの?」
「じゃがいもとベーコンの炒め物。ベースは肉じゃがだね」
「ふうん。どこで覚えたの?」
「あるプロの料理家に教えてもらった」
「そんな知り合い、いるの?」
「顔が広くてね。食事できる? メアリ」
「もちろん。従ってトイレにも行きます」とメアリは嬉しそうに言った。
「進歩したんだね」
僕はフライパンに蓋をし、ごはんをといだ。「ねえ、メアリ、何か音楽をかけてくれない?」
メアリは床に積み上げられたCDを何枚か見比べてから、プレーヤーに入れた。
バディ・ホリー。適当に選んだ割にはいいセンスをしてる、僕はじゃがいもの煮詰まり具合を確認した。
それからベランダに段ボール式テーブルを組み、二人分の食器と料理を並べ、ワインの栓を抜いた。
「ワインは?」と僕が聞くと、いただきます、とメアリは遠慮がちに答えた。「それにしても美味しそう」
「食事の前に君に見せたいものがあるんだ」と言って、僕は冷凍庫から霜の降りたマグカップを取り出してメアリの目の前に置いた。リンカーンの顔には、溶けて零れ出た雪の跡が幾筋もついていた。面影は失われ、わずかに蒼色の澱みを残す氷の塊となっていた。
「これは、何?」とメアリは不思議そうに尋ねた。
「5年前のクリスマスに降った雪」と僕は言った。「このアパートの周りにだけ、蒼色の雪が降ったんだよ」
「本当?」
「少し褪せてしまっているけど、よく見てごらん」
メアリはカップを覗き込んだり、上に翳したりした。そして二度大きく首を傾けてから、よく分からない、と呟いた。
「仕方ないか。五年も経過すれば」僕は声の調子を落とした。
「ホワイトクリスマスだったのね、東京」
「そう」
「あなたの話、信じるわ」とメアリ。「蒼い雪なんて、ちょっとロマンチックじゃない。あなたにとっての思い出の雪」
「ありがとう」
僕はそう言うと、長い間、体中に蓄積した煩わしい楔がすうと消えて行くのを感じた。それはまるで優しく子供の棘を抜く母のようだった。自分の両手が正確に物を捕らえ、両足が堅実に大地を踏みしめられるような気がした。
雪は今日限りにしよう、と思った。久しぶりにリンカーンのマグカップでミネストローネが飲みたくなっていた。
「ねえ、どうしたの?」ワインは彼女の頬をうっすらと染めていた。
「いや、なんでもないよ」
「ちょっと見て、綺麗な夕焼け」
メアリはベランダの桟の間から覗く遠くの空を眺めて言った。安アパートのベランダから見た夕日だって、写真集にあってもよかったのに、と僕は思った。
「あれは何色っていうのかな」と僕は聞いた。
「何色って?」
「あの、夕日に染まった雲の色」
「オレンジ色じゃない」
「そうかな」
「橙色とか。ねえ」と言って、メアリは首を少し傾げた。
「どうしたの?」
「ううん、何かこんな会話、前にしたことあるような気がして」
「デジャヴじゃない?」
「これがデジャヴっていうの? 一度味わってみたかったの。でも何か変な感じね、少し」
「分かる、その変な感じ」
そう言って、僕はメアリの肩を抱いた。メアリは静かに体を預けた。居間で電話が鳴っていた。キスをしている間中、電話はいつまでも鳴り続けていた。 |