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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

運命の赤い糸

懺悔

作者: アイ

 思えば、私も長く生きたものでございます。目に見える景色はまるで霧のかかったように白くぼやけ、痛む躰はもう起き上がることすらままなりません。皺だらけの棒切れのような手は碌々力も入らず、こうして筆を握るのもやっとという有様でございます。あの惨劇以来、罪悪に追われ、死を望んだ私はしかし、心の臆病であるが故に死にきれないままズルズルとこの時まで生き長らえてしまいました。なんと恥知らずでありましょう。私の心底より敬愛するあのお方はもう遥か昔にいなくなってしまったというのに。

 あれから幾つもの夜が明けました。幾つもの朝を迎えました。しかし、私の心には未だに朝は訪れていないのです。この数十年間、あのお方を忘れたことなど片時たりとも御座いません。今でも一度目を閉じれば、あのお方が私に微笑みを浮かべているのです。あの頃と何も変わらず優しげで、しかし、何処か悲しげなその笑みは見ていて胸が張り裂けそうです。優しいあのお方にそれを望むのは酷いことだとは承知しておりますが、いっそのこと、私を口汚く責めて下さったならば、私の心も幾分か楽になりましょうに。


 あのお方、オーレリア様はまさに令嬢の鑑と言うべき素晴らしいお方でありました。私は幼い頃、周りの方々から美しいと称されていました。今にして思えば恥ずかしい限りでありますが、私よりも美しい令嬢などいないだろうと思い上がっていたのです。しかし、学園にてあのお方を初めて見た時、私はこの方には決して勝てないという女としての敗北を確かに感じました。日の光を受けて輝く金色の御髪おぐしは風に靡いて踊るように揺れ、大きな翡翠の瞳は美しさだけでなく、その内に秘めている海のように深い知性を垣間見せております。女神も裸足で逃げ出すかのような整った顔立ちは透き通るように白く、遠目に見てもきめ細やかで、まるで高級な絹のようでありました。ほっそりとした身体は清らな泉のような気品を溢れさせておりながらも、同性でも思わずクラッとくるような扇情的な魅力を放っております。春の訪れを感じさせるような新芽色のドレスをその身に纏い、思わず見惚れるような優雅な所作で淑女の礼を交わすそのお姿たるや、まるで森の妖精が舞い降りたかのようでありました。蕾のような唇から紡がれる声は鈴を鳴らすように清廉で、その声で自分の名を呼ばれる度に私は身が打ち震えるような喜びを感じたものです。

 私は女としての屈服と同時に、オーレリア様への深い心酔を覚えました。何としても、あのお方とお近づきになりたい。私はそう強く願ったのです。オーレリア様の父君であるコリングウッド公爵は貴族の中でも切れ者だという噂に高いお方でありました。国王陛下の実の弟君であらせられ、その先見の明の如き優れた政治的手腕と陛下に対する絶対的な忠誠は忠臣として名高く知られております。また、領地経営の方法も革新的でありながら理に敵っており、彼のお方の領地は他の領地などとは一線を画した発展を遂げ、領民にも慕われていると聞きました。貴族の中には公爵の手腕を見本とし、彼のお方の方法を参考にせよと子息に言い含め、成功を収めた方々も多くいたものです。そのようなお方の実子であるオーレリア様もまた、非常に優れた才覚をお持ちの方であり、とりわけ人の本質を見抜く審美眼は凄まじいものでありました。オーレリア様は家柄、容姿共に非常に優れておいででしたので、周りにはいつも多くの人が集まっておりました。その中には当然、オーレリア様の家に、もしくはオーレリア様自身に対して醜い下心を持つ者も大勢いたのです。しかし、あのお方はそのような人達を巧みな話術で退け、決して近付かせはしませんでした。その後、彼等は貴族社会から姿を見せなくなったので、やはりあのお方の慧眼は全てを見抜いていたということなのでしょう。真に感服の至りで御座います。

 そのようにして、何時しかあのお方の周りに集まるご令嬢方は定まった顔ぶれになってきました。その中に私も加わることが出来たのは今でも最上の誇りに思っております。貴族の集まりと申しますと、やはり殿方との揉め事や家同士の諍いなどでギスギスとした空気になることがしょっちゅうなのですが、オーレリア様の御友人方は良識のある落ち着いた気性の淑女ばかりで、争い事など一切なく、穏やかな関係を築いておりました。あのお方は身分に拘りなど持たず、貴賤問わず誰に対しても慈愛に満ちた微笑みを向けておられたようなお人でしたので、高位の方に苦手意識を持つ身分の低い令嬢方にも憧れを抱かれていたようです。

 しかし、人間とはどれほど完璧であろうとも、必ずや一つや二つ、欠点があるもので御座いまして、それは非の打ち所もないようなオーレリア様にも当てはまっていたようです。矮小な私がこうして述べるのは烏滸おこがましいことであるということは百も承知なのですが、僭越ながら言わせていただきますと、あのお方は良い殿方を見定めることが不得手でありました。オーレリア様が幼い頃より想いを寄せられていたのは当時、我が国の王太子であり、オーレリア様の婚約者でありましたルーファス殿下で御座います。頬を桃色に染め、愛おしそうに小指を撫でながら彼の方を見つめるオーレリア様のなんとお美しいことでしょう。しかし、当のルーファス殿下は婚約者であるオーレリア様の想いに応えるどころか、嫌っていたようにも思われます。婚約者であるオーレリア様を蔑ろにし、しかも、まるであのお方への当てつけでもするかのように多くの令嬢と浮名を流す殿下の姿に、私共がどれほど心の痛んだことか。噂を耳にする度、気丈に振舞いながらも悲しげに眉を寄せるあのお方に、私は胸が締め付けられる思いでありました。畏れながら、殿下は顔貌は確かに素晴らしく、成績も優秀でありましたが、到底王族の器ではなかったように思われます。オーレリア様が抑えていなければ、彼の方の評価などとっくの昔に地に落ちていたことでしょう。私共は再三オーレリア様に、浮気などしないよう、殿下に進言すべきだと申したのですが、あのお方は「大丈夫よ。私と殿下は運命の赤い糸で結ばれているもの」と仰られて聞く耳を持ちませんでした。

 ある時、再び殿下が別の女性と仲睦まじげにしているとの噂が立ちました。お相手は爵位を貰ったばかりのデニス男爵のご令嬢、クラリス=デニス。私も一度見かけたのですが、デニス男爵令嬢ははしたなくも、殿下の腕に擦り寄るように抱き着き、媚びた笑顔を浮かべておりました。殿下もその整った容貌を蕩けさせ、愛おしげに彼女を見つめております。その顔を見た時、私は途轍もなく嫌な予感を感じたのです。その予感を晴らすべく、再びオーレリア様に進言したのですが、「決して相手の令嬢に手を出してはいけない」と言い含められてしまいました。

 今にして思えば、オーレリア様は起こりうることを予期していたからこそ、私共を諌めたのでありましょう。しかし、私はこの時、このままではオーレリア様の愛する婚約者がデニス男爵令嬢に奪われてしまうと思ったのです。故に、行動を起こすことにしました。

 デニス男爵令嬢を呼び出し、殿下との付き合いをやめるよう忠告を言い、貴女は殿下とは釣り合わないと嫌味をぶつけました。オーレリア様の名前は一言たりとも出しておりません。あのお方は身分を振り翳す行為を何より嫌っておりましたから、私のせいで汚名を着せる訳にはいきません。手を汚すのは私だけでいい。そう思っていたのです。しかし、デニス男爵令嬢はその後も殿下との付き合いを続けておりました。そこで、とうとう私は彼女が殿下から賜ったドレスをズタズタに引き裂いたのです。それがあの惨劇の始まりでした。

 私は愚かにも予想していなかったのです。まさかデニス男爵令嬢がオーレリア様から婚約者の座を奪うため、ドレスを引き裂いた犯人をオーレリア様だと言い張るなど。まさかそれを聞いた殿下が何一つとして調べもせず、オーレリア様を呼び寄せ、そして……。

 あの時の光景は今でも夢に見ます。ゆっくりと倒れ伏すあのお方の身体。綺麗なドレスは流れ出た血に染められ、引き抜かれた剣は血の糸を紡いでおりました。ようやく目の前で起きた惨劇が理解でき、悲鳴を上げて逃げ惑う人々。私はその中で、何もすることが出来ず、ただ呆然と突っ立っておりました。大量に流れ出る血に、わかってしまったのです。もう、オーレリア様は助からない、と。最後に一言、幽かな声で何事かを呟き、オーレリア様は息絶えました。あまりにも、呆気ない最期でありました。

 あのお方の突然の死に、誰もが深い悲しみに暮れ、滂沱の涙を流しました。学園の友人達はあまりのことに声を抑えきれず、国王陛下は小さな声で「すまない……」と呟いておられました。コリングウッド公爵は地に拳を叩きつけ、血が流れるほど強く唇を噛みしめておりました。私はその光景を見つめながら、ただただ人形のように佇んでいたと思います。

 あの後、デニス男爵令嬢を連れ去って逃亡した殿下は、王都の郊外にある使い捨てられた廃屋で見つかり、抵抗したため、その場で処刑されました。地下の牢屋にはデニス男爵令嬢がおりましたが、彼女は心が壊れていたようで、ただずっと何かを呟いていたそうです。しかし、その話を聞いても、私の心が晴れることはありませんでした。


 私が余計なことをしなければ。私がオーレリア様の言うことを聞いていれば。私があの時、私がやったのだと自白していれば。今更後悔しても、オーレリア様が戻ってくることはありません。オーレリア様は私のせいで死んだのです。私があのお方の言葉を信じていれば、オーレリア様は死ななかったでしょう。私があの方を殺したも同然なのです。

 ――もう、腕が動かなくなってきました。もうじき、私は死ぬのでしょう。私の罪は死んでも許されることはないのでしょうが、せめて冥府の底より貴女の幸せを願っております。

 レオナルド様、先立つ私をお許し下さい。私はさぞ不甲斐ない妻であったことでしょう。愛される資格などない私のことをこんなにも愛して下さった貴方には感謝してもしきれません。罪を犯した私が言うのも何なのですが、私、エノーラは貴方のことを心底より愛しておりました。


 ――嗚呼、嗚呼、オーレリア様、私を迎えに来て下さったのですね――


〈手記はここで終わっている〉

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― 新着の感想 ―
[一言] レオナルドという人物が「貴女」になっていますが、貴方でなく貴女、夫婦共女性であったという認識でよろしいのでしょうか?
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