第2章 神葉樹の森
1
カルディナル王国のブリンク、エリメレクに「渡したいものがある」と言われていたミュシアは、ミッテルレガント王国へ出立する前日――魔導邸を訪れることになっていた。
時は、アスラン・ミッテルレガント王子とその侍従、マトヴェイが王都カーディルを出発した一週間後のことである。ミュシアの気持ちとしては、彼らの出立した翌日にでも、すぐ後を追うような形でミッテルレガントへ向かいたいとの思いがあった。
しかしながら、旅支度を整えるためには、王都で謝肉祭が終わるのを待たなければならなかったのである。この間、都は煌びやかな衣裳と仮面を纏った人々が行き交い、多くの店が閉まるだけでなく、開いている店も他国からの観光客をあてこんで、一時的に物価が高騰するのであった。
「まったく、最初からおまえがこの時期にミッテルレガント王国へ向かうとわかっていれば、無駄に金を使わずに済んだものを」
センルはわざと大仰に溜息を着きながら、皮肉たっぷりにそんなことをミュシアに言ったものだった。といっても、彼は余計な出費がかさんだことに対し、本気で腹を立てていたというわけではない。単にそう言うことで、ミュシアがこまネズミか何かのように縮こまる姿を見、内心それを楽しんでいたというだけのことだった。
「すみません、センルさん。でもわたし、どうしても……」
「ああ、そうだったな。神に祈ったところ、ミッテルレガントへ行けという御託宣があったのだろう?それで、途中の道を折れて聖都へ一度向かうかどうかの話し合いは、神とついたのか?」
流石にセンルのこの物言いには、ミュシアも若干ムッとした。ミッテルレガントへ行って<蝕>という病いにかかっている者のことを癒すのは、間違いなく神の御心であるとの確信が、ミュシアの中にはある。だが、その途中で寄り道をし、聖都ルシアスの様子を一度見ておきたいというのは、自分自身の願望に起因することではないかと思うと、彼女はそこに強い迷いを感じるのだった。
「<今>聖都ルシアスへ向かうことが、神の御心なのかどうか……それはもう少し祈りこんでみないとわかりません」
「ほーう。そういえばおまえは、シンクノアの誕生日である十三月十三日には、断食をしたんだったな。どうやらその効果はなかったように思えるが、もし一度聖都ルシアスへ向かうとなると――ミッテルレガントの王都へ到着するのは、再来月のアゼルの月ということになるかもしれんな」
「……わかっています。アスラン王子が出立を急いだのは、おそらく家族で年を越したいと思っていたからでしょう。年末年始には、王の家族が王宮のバルコニーに顔を見せるといった祝賀行事もあるようですし、わたしたちがこれからどんなに急いでミッテルレガントへ向かったとしても、新年がとっくに終わった頃合になるでしょうね。もし一日に百エリオン走破するにしても、ミッテルレガントまで行くには二千エリオン以上、王都へ辿り着くまでには四千エリオン近くありますから……そう考えた場合、やはり聖都へは立ち寄らずに、まっすぐミッテルレガントへ向かうべきなのだと思います」
「まあ、私とシンクノアはどちらでも構わないがな」
センルは腕組みをしたまま、向かい側の椅子にミュシアと並んで腰掛ける、自分の旅の相棒に目を向けた。シンクノアは特にふたりの会話に口を差し挟むでもなく、ただ時折紅茶をすすっている。
「おまえが聖都へいって、昔馴染みのルークという神官に会いたいというなら、それもいいだろう。それが神の御心かどうかなど、私は興味もないし、ミュシア、おまえの好きなとおりにしたらいいと思っている。まあ、そのためにミッテルレガントへ向かうのが遅くなり、結果として<蝕>という病いに罹っている患者の治療が遅れる……そのことにおまえが罪悪感を感じる気持ちもわかるがな。結局のところ、神がどうこうなどと言うより、おまえの好きなとおりにしたらいいんだ」
「……すみません。そろそろ出かけないと、魔導邸でお忙しいエリメレクさんのことを待たせてしまうと思うので、この話の続きは、帰ってきてからまた」
「ああ、そうだな」と、半ば呆れたようにセンルは頷き返し、扉の取っ手に手をかけたミュシアに向かい、最後にこう声をかけた。
「ついでに、貸し馬車屋からディアトレドのことを引き取ってきてくれ、ミュシア。金のほうの話し合いなら、すでに向こうとついているから」
「はい、わかりました」
静かにパタリ、とドアが閉じられるなり、「うあ~あ!」と唸りながら、シンクノアがソファの背に大きく腕を伸ばす。
「センル先生、最近何かとあの子にきつく当たりすぎなんじゃねーの?ミュシアはさあ、巫女としてっつーか、とにかく小さい頃からまわりに『神様は本当にいらっしゃるのよ』みたいに言われて育った子なわけじゃん?そんな子に対して、一日五時間祈ったら、一体どれだけ神から恩恵が受けられるんだだの、その他哲学的・実存主義的問いかけなんてしても、俺は無意味だと思うけどな。ま、あんたのこったから、何か考えがあるんだろーなと思って黙ってたけど、結局のところセンルはあれじゃねえ?ミュシアがルークとかいう幼馴染みの神官を気にしてるのが気に入らないとかさ」
「まったく、おまえの言うことは、呆れるほどくだらんな」
センルはテーブルの上の、磁器皿に並ぶなつめやしの菓子に手を伸ばした。
「正直なところを言って、私にとってはあの娘が聖都ルシアスへ立ち寄ってからミッテルレガントへ向かおうがどうしようが、そう大差などありはしない。むしろ、一度竜によって破壊し尽くされたという聖都が今どうなっているのか見たいという気持ちのほうが強いといってもいいだろう……私がミュシアに言っているのはつまり、こういうことだ。あの娘はそれが『神さまの御心だから』とかなんとか、寝言を吐いているが、あの娘がこれから向かうところは言うなればまあ、<らい病患者の巣>のような場所だ。シンクノア、もしおまえがこの<蝕>とかいう病いにかかって、悶え苦しんでいたとして――そのすぐ横で神がどうたらいう説教をほざかれたとしたら、嬉しいか?」
「そりゃ、時と場合によるんじゃねーの?」シンクノアはマロングラッセを口に放りこみながら言った。「普段、どんな強気な人間でも、病いを得ると、その途端に心細くなるもんさ。そういう時に神官さまが横にいてくださって、もし死ぬにしても、心から悔い改めたる者には天国が待っている……なんて言われたら、それが仮に安っぽい気安めみたいなもんでも、死を前にした人間にはそれが救いになったりするんだろうからな」
「確かに、そういう考え方もあるか」
くるみの菓子を口に放りこみ、紅茶を一口飲むと、センルは少しの間瞑想でもするように目を閉じていた。今、目の前の磁器皿の上に並んでいる菓子は、どれもすべて高級品といっていい品である。ロンディーガの王宮で、こうした物を食べなれているセンルにとっては、菓子だけでなく、一日にとる三食の食事がどれほど豪勢であろうと――特に心が痛むということはない。
最初、ミュシアの心の罪悪感というのは、他の人間が金をだしたものを無遠慮に食べることに対するものだと、そうセンルは感じていた。だが、単にそれだけではなく、「自分がこうして贅沢をしている間にも、この世界のどこかには苦しんでいる人がいる、飢えている人がいる、寒さに凍えてろくに眠れない人もいる……」といった事柄に起因するものらしいと知った時、センルは彼女の心の美しさに感動するどころか、むしろ逆にイライラしてきたのである。
「あの娘はあまり、ものを食べないな」
突然、話の切り口が変わったのを感じ、シンクノアは首を傾げた。それから、(ははーん。そういうことか)と、ようやく合点がいく。ふたりが出会ってからほんの四か月ほどにしかならないが、今では互いにほんのちょっとした言い種などで、相手の考えを察するのは難しくなくなっていた。
「確かに、自分以外の人間のことばかり考えていれば……まあ、自然食のほうも細くなるのかもしれないな。というより、これから<蝕>とかいう病いにかかってる重病人を前に、自分は何が出来るのかとか、ミュシアが思うことって表面に見えるより、たぶん色々あるんじゃねえか?それだけじゃなくて他に――<聖竜の秘宝>のうち、鎧と冑はどこにあるのかだとか、聖都は今一体どうなってるのかだとか、最終的にそこを復興させるために姫巫女っていうのは神殿に戻らなきゃいけないわけだろ?まあ、先々のことを考えたらキリがないし、そんな大事業を実際、自分が本当にやりおおせられるのかっていう不安もあるわな。で、結果として『神さま、無力なわたしをお助けください』って、あの子が毎日神に祈る気持ちっていうのも、俺にはなんとなくわかる気がするけど」
「そうか。なるほどな……ところで、最近私はそんなに、あの娘にきつく当たっていたか?」
今、ソファの横や、部屋の片隅には、長い旅に備えて揃えた荷物が、コンパクトな形にまとめて置かれている。シンクノア自身の着ている革の胴着も、防寒用のローブも、新品のブーツも何もかも――センルの財布が出費したものだといっていい。
そういう相手に対して、対等に物を言い合うというのは、ミュシア自身にとっても難しいことだったに違いないが、それでもシンクノアの見たところ、彼女はかなり善戦していた。何より、話が巫女として彼女がもっとも大切にしているだろう<神>のことに及ぶと、ミュシアがいつになくムキになるという一面を、シンクノアもまた新たに垣間見ていたからだ。
「ま、さっきのセンルの言葉で……ある程度俺も察しはついたけどな。<らい病患者の家>みたいなところにミュシアが突然いって、神の愛がどーたら説いても、「もし神が本当にいるのなら、何故こんな悲惨なことが起きるんだ!」とか、そんなふうに言われたらどーすんのかって、先に試してみたんだろ?」
「確かに、それもある。だが、一番の原因はたぶん……あの娘が私に、本当のことを話そうとしないからだと思う」
「本当のこと?」
シンクノアは大理石の暖炉に薪をつぎ足し、火かき棒で軽く火を起こしながら、センルのことを振り返った。その上にかかっているやかんを取りだすと、ティーポットの蓋をあけ、茶葉の上に湯を注ぐ。それから自分のカップとセンルのそれに紅茶をついだ。
「私も自分で、うまく説明は出来ないがな。表面的には、経済的な面でもその他の面でも、アスラン王子が言っていたように……私がミュシアのことを庇護しているように見えるかもしれん。だが、あの娘が本当の意味で全面的に頼っているのは<神>とやらなわけだ。私やシンクノアと出会ったのも神のお導きで、これからミッテルレガント王国へ向かうのも神のお導き……どう思う、シンクノア?過去の探索行について記された聖書の記述を読むかぎり――ミュシアがこの調子でただ神に祈って、その言うとおりにしていけば、確かに最終的にこの探索行というのは、成功するのだろうな。だが、そのことに協力している私やおまえは一体なんだ?ただの自由意志を持った、神やあの娘にとって都合のいい、一種の操り人形でしかないということか?」
「センル先生、そんなこと考えてたんスか」
ぶっと吹きだしそうになるのを、シンクノアはなんとか堪える。
「なんだ?一体何がそんなにおかしい?」
「いや、あんたとミュシアってさ、たぶん物の考え方がどっか似てるんだろーなと思って。普通、そんなに根本まで突き詰めて人は物を考えたりしないって。センルが今言った、あの子が本当のことを話そうとしないっていうのはようするに……いや、俺にもあんたの言いたいことはわかるよ、センル。ミュシアはとことんまで問い詰められてから、ようやく「本当はこう思ってる」ってことを話す子だ。普段は遠慮して、俺やあんたの言うことを適当に聞き流していたとしてもな……けど、それこそ突き詰めていったらセンル、それってあんたがあの子にとっての<神>になりたいっていうことだぜ?いや、普段神にだけ<本当のこと>を話して祈ってるみたいに――それと同じことを自分にも話せっていうことだろ?」
「……………」
瓢箪からこま、というべきか、意外なところから意外なものが飛び出たような気がして、センルは口を噤んだ。シンクノアにしても、普段は楽観的なお調子者を演じながらも……彼は実に物事をよく見ているし、その洞察力についても大したものだとセンルは思っている。だが、誰か他人から、今のように自分の心の隠れた部分を突かれて言葉を失うなど――彼にとってはここ何十年となくしたことのない経験だった。
「そう、か。あの娘は神になら、なんでも本当のことを話すわけだ……私に話しているのはおそらく、その十分の一程度のことであったとしても……」
センルがそう独り言を呟き、まるで目の前にシンクノアがいることも忘れたように、再び物思いの世界へ入りこむのを見て――シンクノアは、果たしてもう一押し言ってやるべきなのかどうかと、一瞬迷った。
(相手にとっての<神>になりたいだなんて……それは別名「恋」っていうんですぜ、センル先生、なーんてな)
けれど当然、シンクノアはそんなふうに軽々しい言葉を吐いたりはしなかった。もっとも、ミュシアとセンルが話している姿を見ていると、時々じれったいあまり、ホテルの柱に背を押しつけ、そこを掻きたいような衝動に駆られることがあったとはいえ……このふたりの「恋の行方」がどうなるのか、シンクノアとしては余計な口を挟まず、ただ見守っていたい気持ちのほうがずっと強かった。
(ようするにまあ、あれだよな。ミュシアがセンルに恋をしてるってはっきり認めるためには……<神>っていう存在が一番邪魔なんだ。たぶん、センル自身も気づいてないんだろうけど、ここ最近、センルが神についてあれこれミュシアに讒言するのは、そいつがいなくなれば自分のほうをもっと見るってわかってるってことだ。やれやれ、なんともややこしい関係だな)
そんなことを思いながら、シンクノアは小指を立てて紅茶を飲み続け――目の前のハーフエルフが今何を考え、これからどうするつもりなのかと想像してみた。普通に考えたとすれば、何をどうしたところで、この地上のどのような存在も<神>が<神>である以上、絶対に<神>に勝つなどということは出来ない。
けれど、シンクノアは同時にこうも思っていた。おそらく、どこかにうまい「抜け道」のようなものがあるのではないか、と。そしてその「抜け道」のような場所を、これからミュシアとセンルは互いに手探りで探していくのだろう……そう思うと、なんとはなし微笑ましいような思いがこみあげて、シンクノアはただこの二人に最終的にうまくいって欲しいと、それこそ<神>に願わずにはいられないのだった。
2
(最近、センルさんが何かと神さまのことで突っかかってくるのは何故なんだろう……)
ミュシアは、城下町カーディルの大通りを歩きながら、鎖に通してある胸元の指環を、何度かいじっていた。この指環をセンルが「自分には必要ない」と言ってミュシアの左薬指に通してくれた時――ある奇妙な感覚が彼女のことを捉えていた。
ルシア神殿の巫女には、指環や耳飾りやネックレスといった装飾品類を身に着けることが許されていない。ゆえに、ミュシアはすぐそれを外していたのだが、にも関わらず彼女は、夜眠る前や部屋でひとりきりになった時、それを指にはめては、センルが指環をくれた瞬間のことを何度となく反芻していた。
確かに、エルフとして動植物の言葉を解せるセンルにとって、また世界各国のあらゆる言語にも通じている彼にとっては、ルーシュの指環というのはさして必要性のあるものではなかっただろう。また、いくら赤ん坊の頃からルシア神殿で育ち、世事に疎いミュシアであるとはいえ……彼女も、俗世間に生きる男女が、婚約・結婚する時に指環を与え合う儀式を行うということくらいは知っていた。
「センルさん、どうしてエルシオンの人々というのは、婚約したり結婚したりする時に、薬指に指環をはめるんでしょうか?」
ミュシアは一度、物知りのセンルにそう聞いたことがある。
「指環を交換しあうのは、愛を形として表す象徴的な行為だというのは理解できます。でも、どうして薬指じゃなくちゃいけないんでしょう?」
――この言葉の言外には実は、何故自分の人差し指や中指でなく、薬指にルーシュの指環をはめたのかという、ミュシア自身の疑問がこめられていた。だが、センルはまるでなんでもないことを聞かれたように、こう答えただけだった。
「さあな。一説によると、聖竜ルシアスが妻のルーシュに指環を贈った時、それを左手の薬指にはめたから、と伝説で言われているのが発端らしい。またユーディン帝国では、左手の薬指ではなく、右手の薬指に結婚指環をはめるのが慣例となっているが……これはその昔、右手の薬指の神経が人の心に通じていると考えられていたかららしい。どちらにしても、結婚指環というのは必ず薬指にはめるものだとされているのは面白いな。もっとも私は、指環をしていて一番邪魔にならないのが、人間の五本指の中で薬指だからだろうと考えているが」
「どうしてですか?センルさんのその理論でいくと、五本の指の中で指環をしていて一番邪魔にならないのは、小指か親指のような気もしますけど……」
「考えてもみろ。手の一番外側にある小指や親指に指環をしていると、何かの日常の作業で大切な指環に傷がつくかもしれないだろう?だがその点、利き手ではない左手の薬指なら、指環に傷がつく心配もなく、またさして邪魔にも感じないということだ」
「確かに、それはそうですね」
それだったら、利き手の薬指じゃなく、中指か人差し指じゃ駄目なんですか、とまでは、ミュシアもセンルに聞いたりしなかった。何より、ミュシア自身のこの質問の意図が、<自分の薬指にルーシュの指環をはめたのは何故か>というものであったため、ミュシアはそれ以上彼に何かを聞こうとは思わなかったのである。
(センルさんがわたしの左の薬指にルーシュの指環をはめたのは、単に伝説で聖竜ルシアスがルーシュに同じことをしたからっていう、ただそれだけ……)
そうとわかってはいても、ミュシアの中であの瞬間、素直に「嬉しい」と感じた喜びの感情は、今も消えていなかった。また、彼女にとって他にももうひとつ、ルーシュの指環に纏わることでとても嬉しい経験があった。それは、この指環をはめると鳥や花や風の言葉が翻訳されて聴こえてくるということだった。風の言葉、というのは正確には、動植物が天空に向かって歌う言葉が、風に乗って聞こえてくるということだったが、センルが指環などなくともそうした<声>を聴ける世界に半分属しているのだと思うと――彼のそうした精神世界にほんの少しだけ近づけた気がして、ミュシアにはそのことがとても嬉しかった。
とはいえ、そんなふうにセンルのことを理解できて嬉しいと感じたのも束の間、ここ数日というもの、彼がやたらと<神>のことで突っかかってくることには、ミュシアも少しばかり辟易している。
「確かに、毎年十三月十三日になると、ルシア神殿の巫女というのは断食して精進潔斎する慣わしらしいな。だがミュシア、おまえには同時にその日が誕生日だっていう、この気の毒で憐れなマゴクに対し、せめても一緒にその呪われた誕生日を祝ってやろうという優しさはないのか?」
「あ~、センル先生、もしもし?俺をダシにして、なんか変な八つあたりすんのはやめてくれませんかね?」
シンクノアが間に入って茶化そうとしたが、彼が<八つあたり>といった言葉の意味がわからず、ミュシアはただ真面目にこう答えていた。
「わたしも、シンクノアの誕生日のお祝いはしたいです。でも、本当ならこのマザルの月は……ルシア神殿の巫女たちがもっとも祈りを強めなくてはならない月なんです。けれど、神殿を離れている以上、他の巫女や女神官たちと交替で断食するというわけにもいきませんし、せめて大潔斎日の十三日くらいはと思って……」
「ああ、俺のことならいいの、いいの、ミュシアちゃんてば。気遣いは一切無用っつーか、今夜は男ふたりでむさくるしく祝い酒でも飲めばいいってだけの話なんだから」
ねーっ、などと言って、シンクノアが酔ったふりをしつつ、センルの肩にしなだれかかる。
「誰がおまえとふたりきりで、むさくるしく祝い酒など飲むと言った?第一、私が言っているのは、一日くらい断食して神に祈ってそれが一体なんにな……」
シンクノアがセンルの口許を押さえつけたため、彼はむぐっと強制的に言葉を途切らさざるをえなかった。シンクノアがミュシアに向かって手を振り、「気にしなさんな」というように、彼女の寝室のほうを指差す。それでミュシアは自分の部屋へこもると、ベッドの傍らに跪き、祈りはじめたのだったが――それでも、深く瞑想の世界へ沈みこむまでの間、センルが何を言おうとしていたのかが気になって、彼女の心は乱れたままだった。
また、別の時にはこんなこともあった。
「そういえばミュシア、ミッテルレガントへ行くことにしたのは、祈っていて神にそう言われたとかなんとか言ってた気がするが……それはおまえの気のせいとか、聞き違いということはないのか?」
「そういうことは、ありません」
ミュシアがあまりにきっぱりと言い切る姿を見て、センルは不思議そうに彼女のことを見返した。これもまた、ホテルの居間で起こったことで――シンクノアにしてみれば、(またはじまったか)というような、複雑で微妙な表情をせざるをえない。
「ほう。ではひとつ聞くが、その<祈っていて神にそう言われた>というのは、一体何をもってしてわかるんだ?何かこう、はっきりそういう声が聴こえるということか?たとえば、祈りの途中で窓からまばゆい光が差してきて、そう神の声がはっきり聴こえたとか……」
「そういうのとは、少し違いますけど……でも、とにかくわたしにはわかるんです。それが自分のとるべき、次の最善な道なのだということが」
ここでセンルは(理解できん)というように、コツコツと右の人差し指でこめかみのあたりを叩いていた。まるで、ミュシアの精神に多少異常があるのではないかと疑うように。
「せ、センルさんみたいな人に、わたしの気持ちはわかりませんっ!センルさんは自分でなんでも出来て、色んなことを知っていて、だから神さまに頼ろうとする弱い人間の気持ちなんてわかりっこないんです!!本当はいもしない存在に祈りを捧げるだなんて時間と労力の無駄だとか、センルさんがそんなふうに思ってるって、わたし知ってますっ!!」
思わずムキになってそう答えてしまってから、ミュシアはハッとした。
センルの顔の表情を見ていて、なんとなく自分が彼の思うつぼに嵌まってしまったのではないかと、そう直感したからだった。
「べつに、私は神に頼ろうとする人間のことを弱いだなんて思わない。ミュシア、おまえは何か誤解しているようだが……私が言っているのは、おまえが『どうせセンルさんにはわたしの気持ちなんてわからない』と決めつけて、なかなか本当のことを話そうとしないということだ。神がミッテルレガントへ行けと言ったから次はミッテルレガントへ行こうと思っている――それはそれでいいさ。だが、何故そのことをすぐ私に話さなかった?まさか、あの魔導会議室で話し合いの場を持った時に、突然神からの閃きがきたというわけではあるまい?」
「……………」
確かに、それはセンルの指摘したとおりだった。ミュシアは自分でも、「次はミッテルレガントへ行かなければならない」というお告げを受けたと話したところで――センルが納得するはずがないと決めつけていたのだ。それに、今にして思うと、ぎりぎりになるまでそのことを黙っていたのは、彼が離れていくのが怖かったからだろうと、そんなふうにミュシアは思いもする。つまり、「そういうことなら自分はそろそろロンディーガへ帰る」と、センルがそう言いだすことを何より怖れたのだ。
ミュシアは城下町カーディルの石畳の通りを歩いていきながら、大通りの最後に軒を連ねる貸し馬車屋の前で足を止めた。これまで通ってきた雑貨屋や仕立て屋、鍛冶屋といった店は、すべて青灰色の石造りで、店の表にはギルドに加入していることを示す看板が下がっていた。だが、この通りで唯一、貸し馬車屋の家だけが木造作りであり、またこの店の主は正確には、<貸し馬車屋ギルド>に入っていないことが、見る者が見ればわかっただろう。
何故といって、<貸し馬車屋ギルド>の看板は後ろ足で立つ白馬というものだったが――この店の主はギルドに対する年間登録料をケチり、「後ろ足で立つ白いユニコーン」という、実に紛らわしい看板を外に出していたからである。
ミュシアはこの店にセンルやシンクノアと何度となく出入りしていたから、貸し馬車屋の亭主やおかみともすっかり顔馴染みになっていた。店のドアをくぐる前から、厩舎にいたおかみがミュシアの存在に気づき――「ディアトレドなら、こっちにいるよ!」と、教えてくれる。
「センルさんから、お金のほうは支払ってあるので、ディアのことを引き取ってくるよう言い使ってきたんです」
「そうかい、そうかい。そんじゃまあ、鞍やその他の馬具類については、おまけしとこうかね。うちの亭主ときたら、あの高貴な人の足許を見て、結構な金をふんだくったんだろうからね。この痩せ馬の一体どこに、そんな値打ちがあるのかわかりゃしないけど……あの人がいたくディアトレドを気に入ってるのを見て、普通よりよほど金額を吊り上げたんだろうよ」
まったくうちのしみったれ亭主ときたら、とばかり、首を振るおかみから白い馬を受け取り、ミュシアはディアトレドの手綱を彼女にかわって引いていった。
王城、または王立魔導院いずれかへ至る分かれ道のところで、ミュシアはようやくルーシュの指環をはめると、ディアトレドと話をすることにした。
「ええっ!?これでようやく地獄の日々から解放されたですって?うん、質の悪いまぐさにはもううんざり、これからはもっと燕麦をいっぱい食べたいのね……わかったわ。気をつけることにする。じゃあわたし、そろそろ背中に乗ってもいいかしら?」
もちろんだ、というようにディアトレドが繰り返し鼻面をミュシアの胸に押しつけて寄こす。
ミュシアにとっては、これが初めてひとりで馬に乗る経験であったが――ルーシュの指環があればディアトレドと話が出来るのだから、なんの問題もないだろうというふうに、センルからは言われていた。
「うんしょ……」
鐙に足をかけ、鞍の上に跨ると、突然ディアトレドが後ろ足で立ったので、ミュシアは危うく振り落とされそうになった。それからも、湖の脇の細道を、ディアトレドは全速力で駆抜けてゆき、ミュシアは馬の体に捕まっているのが精一杯だったといっていい。まるで、自由となった我が身を心から喜ぶかのような、快い疾走――といっても、それはディアトレドにとってそうであったというだけの話で、ミュシアには飛ぶように過ぎる糸杉の風景しか見えないという、目も回るような体験だった。
やがて、<言霊の森>へ続く入り口のところで、ひとりのうらぶれた老人がいるのを見るなり、ディアトレドはゆっくりと速度を落としはじめた。もっとも、ディアトレドはその老人に反応して速度を緩めたのではなく、<言霊の森>に漂う神秘的な気配にそうさせられたのである。
「こんにちは、姫巫女殿」
見も知らぬ老人にそう話しかけられ、ミュシアは手綱を引きながら驚いていた。
だが、薄汚い灰色のローブを着た老人の、水色の瞳を覗きこんでいるうちに――彼がカルディナル王国のブリンク、エリメレクの変身した姿だということがすぐわかった。また、ミュシアがそう看破すると同時に、不思議とエリメレクの魔術が解け、彼は背中の曲がった老人から、背を真っ直ぐに伸ばした鷲のように威厳ある人物へと変わっていく。
「エリメレクさま、どうして……待ち合わせは魔導院にて、第Ⅲ(マゼル)の刻にと聞いておりましたのに」
「フォッフォッフォッ」と、どこか親しげにエリメレクは微笑んだ。「いえ、姫巫女さまの貴重なお時間を無駄に頂戴してはいけないと存じましてな。結局の向かう先であるこちらへと、先回りして待っておったという次第です」
「そうでしたか。それで、わたしに渡したいものがあるというのは、どのような品物なのでしょうか?」
ミュシアはディアトレドから降りると、「めっ!」というように、彼の鼻先に人差し指を押しつけた。するとディアトレドは、作りつけられたばかりの蹄鉄を示すように、しきりに前脚で道の土をかいている。
「『この蹄鉄、すごく具合がいいぜ?』まったくもう、ディアったら……」
「フォッフォッフォッ。早速とばかり、ルーシュの指環が役に立っておるようで、何よりですな。ところで、今回姫巫女殿にご足労願ったのは……」
手綱を引くミュシアと並んで歩きながら、陽光を遮るように枝を差し交わす<言霊の森>へと、エリメレクは光魔石の嵌まった杖とともに進んでいった。両側から灰色の枝々が伸び、アーチのように道ゆく者の頭上を塞ぐため、森の中は薄暗い。また、樹木の根元に生える下草もまばらで、リスどころか鳥一匹いないこの場所は、あまりにもしーんとした静寂に包まれ、不気味な気配をあたりに漂わせている。
「あの、この場所で下手に魔法の呪文を唱えると、その唱えた呪文が本人に跳ね返ってくるというのは本当なのでしょうか?」
「センル殿にお聞きになったのですな。しかり、この場所では下手に、魔法など使わないほうがいい……その理由について、センル殿はご存知だったですかな?」
「いえ、ただセンルさんは、魔術院の魔導生だった頃から、ここには何かあると感じていたと、そうおっしゃっていました」
「ふむ。なるほど」
鉄灰色のあごひげをしごきながら、その後、エリメレクはただ黙って歩を進めていった。この<言霊の森>の中へ入ってからというもの――エリメレクが魔石の嵌まった杖で、しきりに「何か」を探しているらしいことが、ミュシアにもわかっていた。その精神集中の妨げにならぬよう、ミュシアは隣のディアトレドの首筋や腹を撫でながら、彼に合わせるようにゆっくりと歩いていく。
「ああ、ここですよ」
エリメレクはコツコツ、と茶色い地面を杖で叩き、それからどの樹木もまったく同じように見える灰色の樹の一本に向かい、短く呪文を唱えた。いや、正確にはそれは呪文ではなくエルフ語で、彼は「マトワー」となんの変哲もない樹に向かって話しかけたのだ。途端、灰色の幹の真ん中ほどに、人の顔によく似た何かが現れる。
『一体なんの用だ、ブリンクのエリメレクよ』
ディアトレドが興奮したように鼻を鳴らすと、人の顔をした樹木は、不機嫌そうな顔を白馬に対して向け――それから突然、驚いたような顔つきになった。馬の隣にミュシアの姿を認めたそのせいである。
『その指環はルーシュの指環……ということは、この娘が<姫巫女>か!!』
合点がいったらしいその人面樹が他の仲間たちに合図を送ると、まるで足でも生えているように、灰色の木々が右や左へよけて、その間に道が出来ていく。そしてその先には、光あふれる泉がこんこんと湧き出す、世にも美しい場所が開けていた。
「さあ、姫巫女殿。つむじ曲がりの樹木どもが道を開けている間に、早く行きなされ」
『つむじ曲がりは余計じゃ』
灰色の樹木がそう言い、唾――正確には樹液――をエリメレクに向けて吐きかけるが、彼は老人とは思えない機敏さで、それをさっとよけていた。<言霊の森>の主は『チッ』と舌打ちし、思いきり顔をしかめている。
「どうかされましたか、姫巫女殿?」と、杖で灰色の樹木を牽制するようにしながら、エリメレクが問う。
「えっと、この先には一体、何があるんでしょうか?」
向こうにある、眩しく光を反射している泉が、どこかこの世でない神聖な場所へ続いているということは、ミュシアにもわかっていた。今自分たちが地歩を占めている場所よりも、明らかに高次元なところへ続いているらしいということも……けれどミュシアは、センルの言っていた「どことも知れぬ場所」という言葉を思いだし、俄かに怖くなったのだ。
『心配することはないぞえ、姫巫女よ。この道の向こうの泉には、生命の泉の主にして、すべての者を癒す者がおるのじゃ。さしずめわしはその番人で、人間界からエルフ界へと続く道を守っておる者。時々こうした汚らわしい魔導士めらがやって来て、こそこそ嗅ぎ回ってはなんやかやと呪文を唱えてゆくがな……そのたびに、ちょっとばかし脅かしては、追い払ってやったものよ』
「つまり、センル殿が言っていたことというのは、そういうことなのですよ。センル殿はここに御自身の故郷ともいえるエルフ界の扉があると、本能的にずっと昔から察知しておられたのでしょう……けれどまあ、この気難しい門番めが、センル殿に決してこの道の在処を教えはしなかったという、そういうことですよ」
『ふん。わしとて、セシリアとセリエの息子には、道を開いてやるのもやぶさかではなかったわい。しかしな、アデイラインさまがいくらあの者が泣いて縋って帰りたいと叫んだとしても、決してエルフ界へ通してはならぬと厳しく命じられたのじゃ。まったく、可哀想に……セシリアの息子が人間界に馴染めぬという愚痴をこの森でもらすたび、わしに出来たのはせいぜいが、木霊によってちょっとばかり慰めるということくらいであった。この間この道を通った時も、懐かしさのあまり、胸が張り裂けそうだったものよ』
「センルさんが……」
エルフ界へ通じているというエリメレクの言葉によって、ミュシアは何もなかった場所に突然花の咲きはじめた空間へ向かい、一歩足を踏みだした。この時のミュシアには、エリメレクの言っていた<渡したいもの>という言葉は、すでに頭の隅のほうへ追いやられていたといっていい。今の彼女にあったのは、(知りたい)という強い想い、ただそれだけだった。
(センルさんのことを、もっと知りたい……!!)
ミュシアはただそれだけの願いに支えられ、人間界よりも高次に位置する異界へと、なんの恐れもなく踏みだしていき――そして、眩い光に包まれたのち、次に目を覚ました時に彼女が見たのは、今はないはずのルシア神殿にあった大理石の噴水が、水を吹き上げている様だったのである。
3
「ここは、一体……?」
時間と空間の感覚があまりに乱れすぎていて、ミュシアは一瞬混乱した。
だが、つい先ほど、確かに自分は<言霊の森>にいたということを、彼女ははっきり覚えていたし、そこでブリンクのエリメレクと灰色の樹木が交わしていた会話のことも、よく覚えていた。
(懐かしい……)
ミュシアが自分の着ている服を眺めて見ると、彼女はチュニックに革のズボンなどという格好ではなく、昔の馴染み深い白い巫女服を着ていた。こんこんと清冽な水を流す大理石の噴水も、よもやこれが夢であるとは思えぬほどの冷たさで、彼女の心を深く打った。
(よくここでは、親友のリルカと色々な話をしたっけ……)
リルカがヒヤシンス石の巫女、サフィの悪口を並べるのを聞くたび――もしかして自分は、軽い優越感に浸ってはいなかったかと、今にしてミュシアは思う。そう、今はもう認めよう。自分はリルカが彼女の仕える巫女の悪口を言うのが、聞いていて楽しかった。そして、自分の仕える緑柱石の巫女であるリリアが、そのような我が儘な方でなくて良かったと、心底感じていたのだ。
(つまり、あれは……おそらくは、起きるべくして起こったことだったのだわ。わたしがリリアさまの後を継ぐような形で、緑柱石の巫女となった時……リルカさえもわたしと口を聞いてくれなくなったことが、わたしはとてもショックだった。でも、わたしは彼女の愚痴を聞く以外、一体何をリルカにしてやっただろうか?リルカが瞳に涙を滲ませて、サフィに仕えることがいかにつらいかと訴える間――助けてあげたいけれど、結局自分には何も出来ないと最初から諦めていた。けれど、それは本当にそうだっただろうか?わたしは最初から「何も出来ない」と信じこむことで……何も出来なかったのではなく、最初から何もしようとしなかっただけではないだろうか?)
つらい後悔の気持ちがミュシアの胸に押し寄せ、今はリルカがあの時口を聞いてくれなくなったのも当然だというようにしか、彼女には思えない。そして何より、ミュシアは自分の親友が今どこでどうしているのか、生きているのかどうか、その安否が気にかかるばかりだった。
(リルカには、聖都に住む両親や兄弟や親戚たちがいたはず……うまく逃げて、親兄弟と合流できていれば、かつてルシア神殿で巫女だったことを忘れ、普通に生きていくことも出来るに違いない。そう、ただリルカが生きてさえいてくれたら、わたしにはそれだけで十分。彼女が今はもうルシア神殿の巫女としての生き方を捨てていたとしても……)
もしこれが<夢>なら、おそらく<夢>であると気づいた時点で、とっくに目が覚めていたに違いない。けれど、大理石の噴水の縁に腰かけて、水しぶきをその手に受けるミュシアには、これがただの<夢>でないことがよくわかっていた。巫女服の白い絹のなめらかな感触も、噴水の水の冷たさも、中庭に生える草花の上を、雲が影として渡っていく様子も……ミュシアには、これが紛れようもない現実であるようにしか知覚できなかった。
(えっと、エリメレクさまとあの<言霊の森>の精はなんて言っていたかしら?確かここがエルフ界へ通じる入口だとかって……)
混乱する記憶をミュシアが整理し、そして彼女がセンルの姿を最後に思い浮かべた時――ハッとして顔を上げた彼女の肩に、誰かがそっと手を置いた。
「リ、リリアさま……!!」
ミュシアは自分が目にしているものが信じられないあまり、体が痙攣したように震えだした。大理石の噴水の縁から腰を浮かせ、足に力が入らぬままに、ガクリと膝を折って倒れこむ。
「ごめんなさいね、残念ながらわたしは――あなたの慕う姫巫女のリリアではないのよ」
そう言って彼女、<生命の泉>の妖精であるアデイラインは哀しそうに微笑んだ。
その顔の微妙な変化によって、ミュシアにもすぐ、彼女が本当はリリアでないことがはっきりとわかった。ただ、リリアの姿形をとった肉体の中に、妖精のアデイラインが宿っているだけなのだということが、直感的にわかる。
「びっくりさせて悪かったと思うわ。ただ、普通の人間にはね、突然エルフの世界に順応できるだけの能力が備わっていないのよ。小さな子供のような場合は別としても……大抵の人はまず、自分が一番幸せだった頃の記憶と、エルフ界の波長を合わせることがほとんどなの。でもあなたは強いのね……普通の人は、自分にとっての都合のいいことだけを覚えていて、それを繰り返し再生するものだけど……ミュシア、あなたはここがどんなに幸せな楽園のように感じられたとしても――<先へ進む>ために、ずっとここへ居続けようとは思わないのでしょう?」
「……はい」
熱くなる胸の谷間をぎゅっと握りしめ、滂沱と流れる涙を止められぬままに、ミュシアは跪いたままの姿勢から、かつての自分の主、リリアのことを見上げてそう答えた。
泉の妖精アデイラインは、たった今、自分のことを「強い」と言ったけれど――決してそんなことはないと、ミュシアはそう思っていた。ただ、この場所は自分にとって<幸福>と<悲劇>が織り交ざった場所であるがゆえに、幸福感よりも、のちに訪れるであろう破滅の不安と予感が先に立っているという、それだけのことなのだ。もしその感覚さえ記憶の隅へ追いやれるというのなら……ミュシアもやはり、自分が幸福だった時代のことを何度でも再生するような形で、ここへ留まり続けたいと思ったことだろう。
「いいえ、それは違うわ」
アデイラインは、泣きじゃくるミュシアの手を取り、そっと立ち上がらせると、彼女と一緒に大理石の噴水の縁へ座った。そして慰めるように彼女の肩を優しく抱いて囁く。
「あなたはやっぱり、それでもすぐに先へ進もうとしたはずよ。そもそも、あなたが何故ここへ来ようと思ったか、覚えてる?」
「あ………」
泉の水面に人の顔が浮かぶように、ミュシアの脳裏にセンルの顔が思い浮かぶ。その途端、彼女の瞳から涙が引いて、不思議と安らいだような気持ちで胸がいっぱいになった。
「ふふっ。いい子ね。本当は、あなたの記憶がこんなに鮮明じゃなかったとしたら……わたしが姫巫女リリアの振りをして、これからあなたがなすべきことを<御託宣>のような形で告げようかとも思ったんだけど――ミュシア、あなたにはそんな必要すらなかったみたい」
リリアの姿をしたアデイラインは、ミュシアの頬から涙をすくいとると、それを見たこともないような白い花の上へ振りかけた。それから、その花を透明な噴水の流れへ浸すと、水が吹きでる上の段のほうから、金と銀の葉をつけた枝が、ゆっくりと流れてくる。
「これはね、神葉樹の森にだけ生えている、生命の樹なのよ」
「神葉樹の森……」
ミュシアが鸚鵡返しにそう呟くと、アデイラインは噴水を流れてきた金とも銀ともつかぬ色合いの葉を、何枚か手にとった。彼女が噴水の水から取りだしたそれは、アデイラインが手にした時点で、少しも濡れてなどいなかった。
「あなたはこれから、ミッテルレガントへ行って、<蝕>にかかっている人々を治しにいくのでしょう?この葉を体に貼ったり、あるいは煎じて人に飲ませたりすると……たぶんある特定の人たちの病いは治るでしょうね。ブリンクのエリメレクがあなたに言っていた「渡したいもの」っていうのは、これのことよ」
「ある特定の人たちっていうことは、すべての人が癒されるわけではないのですか?」
「残念ながらね」と、アデイラインは再び、とても哀しそうに目を伏せた。
「それから、どんなに困っても、最後の一枚は絶対に残しておかないと駄目。この約束はきちんと守ってね。あなたが神さまにお祈りをして、必要なだけこの生命の葉をくださいと願えば、次の日の朝には必要なだけの量、枝に葉が生えているはずだから……ただし、いつかは必ずこの生命の葉も、最後に一枚残し続けたとしても枯れるっていうことを忘れないで。それは、この枝があなたにとって必要でなくなった時に起きることだということも……」
はい、と返事をしてミュシアが頷くと、リリアの姿をしたアデイラインは、彼女のことをぎゅっと抱きしめた。
「がんばりなさい、姫巫女。あなたに神からの祝福があらんことを……」
アデイラインはミュシアの額に祝福の口接けをすると、最後に付け加えてこう言った。
「これは、姫巫女であるあなたに対してではなく、あなた個人に対して言うことなんだけど……セシリアとセリエの息子には、優しくしてあげてね。あの子がまだ魔導生だった頃、エルフ界にどうしても戻ってきたいと思って、<言霊の森>をうろうろしていたのを、もちろんわたしも知っていたわ。でも、<掟>は<掟>ですからね。あの子の魂はこれからもずっと少年のまま、人間の世界をさまよい続けるしかない……あの子がもし、何か憎たらしいことを言ったとしても、この人は三百歳にもなる子供なんだと思って、本気で相手にしたりしないことよ。もしかしたら、それが長く愛の続く秘訣かもね」しれないわ
大理石の噴水から吹きだす水量が次第次第に多くなっていき、やがてすべては水のヴェールに包まれて、ミュシアの目にも視界がぼやけて何も見えなくなった。アデイラインはなおも、親切心からか、姫巫女である自分に対し、何か言葉を送ってくれていたけれど――それもやがて、ごぼごぼという聞きとりにくい水の湧き出す音でしかなくなってしまう。
そしてミュシアが元いた場所である、<言霊の森>へ戻ってきた時……彼女は少しも濡れていなかったし、服装のほうはチュニックに男物の革のズボンという格好だった。ただ、ミュシアが別の世界へ行って戻ってきたという証拠に、彼女の手には<神葉樹の枝>が握られていたという、その違いがあるだけだった。
「意外に、早かったですな」
四方八方から灰色の樹木に攻撃され、緑灰色の樹液まみれになっていたエリメレクが、その粘つく樹液をどうにか振りほどいて言った。
『流石は姫巫女。大した精神力じゃな。普通の人間は、向こうの世界の居心地があまりに良すぎて、なかなか戻ってきたがらなんだが……それだけ、自分の使命について深く自覚しておられるということに違いない』
<言霊の森>の主は、感心したようにそう言い、ミュシアが自分の開いた道から最後の一歩を抜けると、『セシリアとセリエの息子によろしく』と言い残し、再び元の無口な姿へ戻っていった。
あたりが再び不気味な静寂に包まれるのと同時、エリメレクの長い髭からも、灰色のローブからも、光魔石の嵌まった杖からも――粘着性のある緑灰色の樹液が消えてなくなっていく。
「何か、言霊の森の精と言い争いでもしたんですか?」
ミュシアはくすりと笑いながら、ディアトレドの首筋を撫でて言った。
「わたしと奴の間では、いつものことですよ。あの灰色の森の精は、魔導士って奴を毛嫌いしとるんですが、わたしがルーシュの指環の所持者である以上、<生命の泉>へ通さぬわけにもいきませんのでな。その腹いせとしていつも、ぺっぺっと唾を吐きかけてくるといったような、そんな次第でして」
「そうだったんですか」
その時ミュシアは、ふとディアトレドにある変化が起きているのに気づいた。白い顔の中央、額のあたりに、何か真っ白な尖ったものが生えているのだ。
「あの、エリメレクさま、もしかしてこれって……」
ミュシアの促しにより、ディアトレドの額にエリメレクも注目した。カルディナル王国のブリンクとして、長く魔導界の頂点に君臨するエリメレクでも――流石にこの時ばかりは驚きと興奮を隠せなかった。
「これは……!!ディアトレドがユニコーンになる兆候に違いありませんぞ。おそらく、あなたがエルフ界へ行って戻ってきたその手で、最初に触れたその影響かもしれませんな!」
エリメレクがなおも小さな生えかけの角のまわりを撫でたり、あらゆる角度から眺めまわすのを見て、ディアトレドはブルルッと不機嫌に鼻を鳴らしている。
「おお、すまん、すまん。わたしもユニコーンになれる馬を見たことなど、生まれて初めてなものでな。それで、つい……」
「どんな馬でも、ユニコーンになれるというわけではないのですか?」
ルシアス王国の国旗は二頭のユニコーンが角を差し交わしているというものだったが、ミュシアにしても本当に一角獣などという生き物が実在するとは、これまで考えてみたこともなかった。
「うちの魔導院で<魔導生態学>を専攻している学生が――白馬と角のある生き物をかけ合わせて、それらしき生き物を作ったことはありますがな。ですが、そうした生き物というのは一代限りで、繁殖させるということがまず無理なのです」
「そうなんですか」
『ぼく、どっかへん?』と、しきりに首を傾げて訊ねるディアトレドに対し、ミュシアはにっこりと微笑んで見せる。
「いいえ、どこも変なんかじゃないわ。いつもどおり、とっても男前よ」
そう言って、ディアトレドの頬にチュッと軽く口接ける。ただ、ミュシアにとって少し心配なのは、このままもし角がどんどん伸びていくのだとしたら――ディアトレドはもしかしたら、この世界ではとても生きにくくなるのではないかということだった。
「まあ、魔法で角を隠すことについては、センル殿に相談してみることですな」
エリメレクはまるで、ミュシアの心の心配を見透かしたように言った。
「それと、その<神葉樹の森の枝>については、使い方はおそらくアデイラインに聞いたことと思いますが、神葉樹の森というのは、神のおわす山の麓に生えている生命の樹なのですよ。言うなればまあ、姫巫女殿、あなたが神に祈ったことに対する、これが祈りの答えだといってもいいのではないでしょうか」
「はい」
凛とした眼差しでミュシアはそう答え、<言霊の森>の入口で、どんな経験をしたのかを物語ったのち、彼女はエリメレクと別れるということになった。エリメレクは「何か困ったことがあったら」、魔法による伝達手段をセンルが知っているはずなので、なんでも気軽に御相談くださいと、最後に親しげにそう伝えた。「わたしは姫巫女殿の、忠実なる下僕のひとりなのですからな」と。
「ご親切、痛み入ります」
ミュシアは姫巫女として馬上からカルディナル王国のブリンク、エリメレクに一礼すると、馬首を翻し、糸杉の小径を来た時と同じように駆け抜けていった。けれど、今度は難なくディアトレドの速度についていくことが出来る……それが何故なのか、ミュシアは不思議に思いはしたものの、特に深く考えたりはしなかった。
<生命の泉>の精、アデイラインとの邂逅についてもそうだった。もし理詰めで考えるとしたなら、自分はもっと色々なことを彼女に質問すべきだったろうと、ミュシアはそう思いもする。あの場所は一体なんなのか、何故自分に協力してくれるのか、そもそも<神葉樹の枝>が姫巫女に必要と感じ、それを与えるのは彼女自身の考えによるものなのか……などなど。
センルのことについても、何故彼がエルフ界への出入りを禁止されるのか、それを禁じる<掟>とはなんなのか、それを破ってもいい特例のようなものはないのかといったことについてなど――今にして思えば、ミュシアも疑問に感じることが随分たくさんある。
ただ、ミュシアにはいくつかのことについて、言葉でそうと説明されなくても、すでにわかっていることがあった。たとえば、ルーシュの指環を仮にセンルが持っていたとしても、せいぜい行けるのは自分と同じく<生命の泉>の前までなのだ。またルーシュの指環の力を持ってしても、彼が<掟>を越えてエルフ界へ戻ることは出来ないということも、ミュシアには説明されずともわかっていた。
それがこの指環の与える理解力によるものなのかどうかというのは、ミュシア自身にもよくわからない。ただ、エルフ界のような人間界よりも高次の世界へ行ってみると――こちらにいる時よりも、言語以外の感覚で「わかる」ことが格段に多くなるというのは確かなことらしい。センルにしても、小さな頃はあのように素晴らしい世界で過ごし、その後人間界のように汚れた場所へ落とされたのなら、神に恨み言のひとつも言いたくなって当然だろうと、ミュシアはそんなふうに思いもした。
「センルさんは、神の実在を信じていない……つまり、無神論者ということですか?」
「べつに、神の実在を信じていないわけではないが、まあそれに近いようなものだな」
以前、ミュシアがそう訊いた時、センルが答えた言葉について、彼女はその時少しばかりショックを受けた。でもあれも、今にして思えば――おそらく意味合いがかなり違ってくるということが、ミュシアにはわかる。
つまり、エルフ界よりさらに高次の最高次元界とも呼べる頂点に<神>のような存在がいるのは知っているが、センルが言いたいのは、「だからそれがどうした」ということなのだろう。つまり、エルフ界へ帰りたいという願いを<神>に拒まれ続けた結果として、自分のもっとも欲しい答えを与えぬような神ならいらぬ……人間がいくら祈ったところで、<神>が一体どれほどのことをしてくれるのだと、センルはそう言いたいのだろうとミュシアは思った。
(なんだ、センルさん。そうだったんだ……)
ミュシアは突然、微笑ましいような思いがこみあげて、カーディルの城下町へ戻るまでの短い道のりの間、終始彼女の顔は笑いっぱなしだった。
<生命の泉>の妖精、アデイラインが言っていたとおり、本当に彼の心は少年なのだとミュシアは思ったし、第一そのことは――アデイラインに教えられなくても、ミュシア自身とうの昔に知っているようなことだったのである。
4
「あの、センルさん……」
ミュシアはヤースヤナ・ホテルに戻ると、ホテルの納屋にディアトレドのことを通してから、急いで三階の<ロダールの間>へと駆け上がっていった。
センルは息を切らしているミュシアのことを見て、一瞬何事かと思ったが、彼女の瞳がいつにも増して輝いているように感じ、強い好奇心をそそられた。
何より、エリメレクがルーシュの指環の他に姫巫女に渡したいものとはなんだったのだろうと気になっていたし、ドアから少しだけ顔をだし「こっちに来てほしい」と合図するミュシアに、彼は黙って従うことにした――ちなみに、シンクノアは夕食の買出しに行っていて、留守にしている。
「どうした?もしかして魔導邸で何か面白いことでもあったのか?」
「ええ、まあ。色々と……でも、今はまず、引きとってきたディアトレドのことを一緒に見てください!」
センルはミュシアが何故そんなにも嬉しそうにしているのか、理解できなかった。それで微かに首を傾げながら、彼女と並んでモザイク模様の階段を下りていったのだが――ホテルの裏庭へ通じる出口から外へ出、納屋へ入った時にその理由がわかった。
「一角獣化か……!」
納屋にセンルが入ってくると、ミュシアだけがいる時以上に、ディアトレドがとても喜んでいるのがわかる。この白馬は自分よりも、ハーフエルフのことをより好いているのだろうと、ミュシアには以前からよくわかっていた。
「しかし、それにしても何故……あのしみったれた貸し馬車屋にいた時には、そんな兆候はまるで見られなかったがな」
独り言のようにつぶやいてから、ディアトレドの額の角に触れ、センルはすぐあることに思い至った。エルフ界からの干渉が、白馬の角付近に強く残っている気配を感じる。
「あの……エリメレクさんが、ディアトレドの角を隠すには、センルさんがいい魔法を知っているだろうって……」
「ああ。他の人間の目には見えないように、この角を隠す魔法をかけるのは簡単だ。ところでミュシア、おまえ、エルフ界へ行ってきたな?そうだろう?」
何故わかったのだろうと思い、ミュシアは一瞬ドキッとした。それで彼女は、ディアトレドの手綱を引いて戻ってくる道すがら(大通りは人でごった返していた)、センルに話すべきかどうか迷っていたことを、やはり思いきって話してしまうことに決める。
「センルさん、あの<言霊の森>には……<生命の泉>に通じる道筋が隠されていたんです。エリメレクさんのお話によると、ルーシュの指環があれば、そこを通ってエルフ界の入口まで到達することが出来るみたいなので……あの、もしセンルさんが、その……」
「今さら私がそんな場所へ行って一体なんになる?確かに、エリメレク殿は最初、おまえにではなく、私に直接ルーシュの指環を渡そうとした。だがそれはあくまで、姫巫女の探索行に私が随行する場合においての話であって、あの方は何も私がエルフ界へ帰れるかどうかの試みに、ルーシュの指環を託そうとされたのではない……つまりは、そういうことだ」
「えっと、でも……」
がぶがぶと水を飲むディアトレドの横で、餌箱に燕麦の入った麻袋を開けながら、ミュシアは口ごもった。燕麦のほうは、納屋に置いてあったのを、ホテルのボーイに言って安く譲ってもらったのである。
「なんだ?おまえはもしかして、私に向こうへ帰ってほしいのか?だが、私がエルフ界へ帰ったとしたら――これはもし帰れたと仮定して、ということだが――ディアトレドの額の角を魔法で隠すことも出来ないし、その他のことでも色々困るだろう?それとも何か?アスラン王子という新しい姫巫女の後援者が見つかったから、もう金蔓としての私はお払い箱という、これはそういう話か?」
「そんな……っ!!違いますっ!わたしはただ、センルさんが一度向こうへ行って、<生命の泉>の入口にいる、アデイラインと話をしてきたら、過去のわだかまりとか色々、解消できるんじゃないかなって、そう思って……」
「泉の精のアデイラインか。まったく、あのくだらんおしゃべり好きの妖精め」
今のミュシアの口ぶりで、自分が魔導生時代、<言霊の森>付近をよくうろうろしていたとでも彼女は話したに違いないと、センルには容易に察しがついた。実際、故郷のエルフ界が恋しいあまり、<言霊の森>の目立たぬ一角で、一体何度自分は泣きじゃくったろうとセンルは思う。
「まあ、なんにしても私は、もし向こうへ帰れるのだとしても、今そうしようと思う気持ちはまるでない。少なくとも、ミュシア、おまえの姫巫女としての任務が完全にまっとうされるまではな……それに、おまえが懐に隠しているその神葉樹の枝は、<蝕>という病いを癒すのに確かに役立つだろうよ。おそらく神とやらがここ最近の私とおまえの言い争いでも聞いていて――ミッテルレガントへ行くと言った姫巫女の言い分は正しいということを、私に証明しようとでもしたのだろう。なんにせよ、私とおまえの神学的論争は一旦ここで終わりだ。そもそもいもしない神のために言い争うだけ、時間と労力の無駄というものだからな」
(センルさん、神さまは……っ!!)と言いかけて、そこでミュシアは言葉を止めた。アデイラインの言っていた、『あの子がもし、何か憎たらしいことを言ったとしても、この人は三百歳にもなる子供なんだと思って、あまり本気で相手にしないこと』という言葉を思いだした、そのせいだった。
「なんだ?おまえ今、何か言いかけたろう?言いたいことがあるなら、今すぐはっきりと言え。私は我慢できなくなるまで溜めておいてから、最後に一気に吐きだすタイプの女が、一等嫌いなんだ」
センルの嫌い、という言葉に、この時ミュシアの心はズキリと痛んだ。もちろん、自分に対して直接向けられた言葉ではないにしても……ミュシア自身に<我慢できなくなるまでとりあえず我慢する>という傾向が強いのは、誰の目にもはっきりしていた。
「な、なんでもありません……っ!!」
ぐすっと鼻をすすると、ミュシアはそっぽを向いて納屋から出ていこうとした。
ディアトレドに水と燕麦も与えたし、センルに白馬の額に一角獣化の傾向が見えていることを教えもした――これ以上ここに自分がいなくても、特におかしなことはないとミュシアは思ったが、そんな彼女のことをセンルが引き留める。
(流石に私も少し、大人気なかったか……)
ミュシアがうっすらと瞳に涙を浮かべているのを見、センルが後悔しかけた時のことだった。バターンと納屋のドアが突然、大きく左右に開かれる。
「あっれ~。もしかしてお邪魔でしたかね?こりゃまた失礼しました!!」
ミュシアのことを抱きしめかけているセンルのほうを見、シンクノアはすぐにまた、納屋の扉を閉めた。彼にしてみれば、夕食の買出し帰りに、納屋の前を通りかかったらふたりの声がしたという、それだけのことではあったのだが。
「ち、違うんですっ、シンクノア!!」
「そうだ。この小娘がまた、喉に小骨が引っかかったような態度でいるから、それで……」
「あ~はいはい。センル先生がミュシアにまた例の如く嫌味を言って、流石に堪りかねたミュシアちゃんがちょっと涙ぐんだから、センル先生も二百何十歳も年下の娘に大人げなかったとか思って、今みたいなことになったと。ハイハイ、オッケー、了解了解!」
両手に麦藁で編んだ買物袋を提げて、シンクノアはそんなことを言いつつ、ホテルの裏口から中へ戻っていく。
「……あいつ、もしかして千里眼か?」
「でも、よく考えてみたら……わたしとセンルさんの言い争いを聞いていて、間に挟まってるシンクノアのほうが、もしかしたらすごく疲れたかも……」
(夫婦喧嘩は犬も食わないっていう諺を知らんのかね、この人らは!)なんていうことを思いつつ、シンクノアは<ロダールの間>まで階段を一段飛ばしに上がっていった。
そしてそんなシンクノアのあとを、ミュシアとセンルが肩を並べて追いかける。それは誤解を解くために、競いあって階段を上がっていたのではなく――単にふたりとも、お腹がすいていることに気づき、喧嘩の原因はそれだという結論に一旦落ち着いたという、そのせいだった。