第1章 見果てぬ夢
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<地の崖て>(パラドキア)と呼ばれる場所はとても広い。中央世界から見て、七海を隔てた世界すべてを囲むような形で、荒漠たる大地が広がっている。だが、その中で人が生息するに適した場所というのは、極一部に限られていた。
中央世界の一番西に位置するラス=レー二ア王国から、カイスヴィリーフ海を隔てて存在するのが、東の十二部族と呼ばれるパラドキア人の土地で、他にネイディーン山の北側にある土地を所有するのが北の十二部族、同じくネイディーン山の南側の土地の所有権を持つのが南方の十二部族であった。パラドキアの西は、峻険な岩山が続く不毛の土地であり、そこには竜しか近寄れないと考えられている。
だが、危険を冒す覚悟さえあるのなら、野生の竜が翼を休める岩棚の下に、豊かな鉱脈源があるのを人は発見することが出来るだろう……また、さらにずっと西、中央世界から見れば東に位置する場所に、聖地オルランディアと呼ばれる場所がある。
そこは人が住まなくなって久しい暗黒の島国で、パラドキア人たちは、そこに暗黒竜が昇ってくるための穴が存在すると伝承により信じていた。だが、実際にそのような場所が存在するのかどうか、確かめた者はいない――唯一人、<地の崖て国の王>を名乗るアシュランスを除いては。彼は己が騎乗する真紅の竜、バーミリオンの翼の間から、そこに廃墟に近い神殿跡が存在するのを認めていた。
「この石版の伝えるところによれば、だ」
アシュランスは、<聖魔の秘跡>と呼ばれる洞窟内で、すでに何十度目になるかわからぬ話し合いを、学者のナーラダと重ねているところであった。
ナーラダは、アシュランスと同じく、中央世界へ無駄に竜の足を伸ばした罪により、本来ならばネイディーン山の火口の餌食になるはずの罪人であった。しかし、どうにか処刑人の手を逃れて落ちのび、その時にネイディーン山で<聖魔の秘跡>と呼ばれる場所を発見していたのである。
顔のほうは陽に焼けて浅黒く、ギョロリとした目はどこか疑い深そうで――彼が一筋縄ではいかぬ人間であることを窺わせるが、彼は単に哲学的な思考回路の持ち主だったというだけで、実際はさして疑い深い性格ではなかった。
「あのオルランディア島にある神殿跡まで、<聖竜の秘宝>をすべて持っていくなら、光の竜ルシアスの力が解放されるという。だが、闇の側の者どもがその邪悪な意図をもって<聖竜の秘宝>をすべて揃えたなら、その時現れ出でるのは暗黒の竜を従えた闇の女神アシェラなのだとか……どうだろうな、ナーラダ?俺はべつに、闇の女神アシェラがこの世に解き放たれ、世界が終わったとしても一向構わんのだが――光の竜ルシアスが解き放たれ、全世界が癒されるというその瞬間を、この目で見たいような気もするわけだ。何より、<姫巫女>と呼ばれる存在に俺は興味があって、一体どんな女が聖竜の秘宝を携え、わざわざここ<地の崖て>くんだりまでやってくるのか、そのことに強い興味を覚えるのだよ」
「王よ。まったく運命というのは奇異なものでございますな」
壁一面にびっしりと、古代文字の石碑が並ぶ洞窟内で、強い光を放つアルディア石に照らされながら、ナーラダがどこか皮肉げに微笑む。
小ぶりのアルディア石ひとつで、実に半径1エートル半(1エートルは約1メートル)くらいあたりが明るくなるのだが、この石のそばに長くいると次第に目が悪くなると言われるとおり――ナーラダは碑文解読に熱中するあまり、今では外の太陽光線を痛く感じるようになっていた。そこでほとんど解読が済んだあとも、<聖魔の秘跡>を半ば住居のようにして暮らしているのである。
「あなたさまは、神と運命の裏をかいてやろうとして、<聖竜の秘宝>すべてを集めるより先に、<姫巫女>の御身をお求めになろうとした。ですが、神と運命のほうでは、そんな王を嘲笑うかの如く、<姫巫女>が自刃するよう最初から仕向けてあったのですな……なんにせよ、聖竜の槍はこちら側にあり、オルランディア島へ渡るには竜の助けが必要となる。となれば、必然、我々が何もしなくても神と運命とやらに導かれた<姫巫女>がいずれは秘宝の残りすべてを携え、ここ「地の崖て」国へとやって来ましょう。なに、我々はその瞬間をただ首を長くして待っていればいいのですよ」
アルディア石に長時間照らされ続けた影響で、ナーラダの瞳は今、夜に見る猫と同じように爛々と気味悪く輝いていた。黒い顔の中で不気味に光るナーラダの目は、さながら未来を予見する預言者を思わせる何かがある。
「だが、もしそうなのであれば……」と、アシュランスは他の誰にも見せたことのない、後悔を滲ませる顔色で言った。「俺はもしかしたら最初から、何もすべきではなかったのかもしれぬ。ナーラダよ、俺はただ、<姫巫女>という存在がどのような女なのか、興味本位から見てみたかったというそれだけだった。まさかそれが、自ら己の命を絶とうとするなどとは、想像してもみなかったのだ。結局、聖杯のほうは次に<姫巫女>となるべき巫女のひとりに託され、その少女のほうはどこにいるものなのか皆目見当もつかない……例の聖竜の槍のほうはな、天空島にある神殿のほうへ安置するということにした。ファルークの話では、あの黒い槍を長く手にしていると、だんだん気が大きくなってくるという話でな。つまり、聖竜の秘宝をすべて集め、自分こそが世界を支配するに相応しい人間だ……といったように、「何か」が意識に働きかけてくるのだそうだ。俺も聖槍の実物を見てみたんだが、どうも<聖なる槍>といったようには思えぬ強い力を感じる。俺はてっきり、聖竜ルシアスの秘宝というからには、その槍は光り輝く金か銀でもしていて、思わず人が平伏したくなるような威容を誇っているのだろうとばかり思っていたが――どうもあの黒い槍からは、禍々しいような何かを感じずにはおれない。このこと、おまえはどう思う?」
「どうでしょうなあ」
ナーラダは白い光魔石のテーブルの上から、カミルと呼ばれるパラドキアにしか生らない果実を手にとると、がぶりとそれに齧りついた。
ふたりは今、ミシュラル石のテーブルを挟み、同じくミシュラル石で出来た椅子に腰掛けて話をしていたのであった。
「ここが<聖魔の秘跡>と呼ばれるのは、それなりに理由あってのこと……つまり、<聖竜の秘宝>というのは、善き者が集めれば光の竜の復活を呼び起こし、悪しき者が集めれば邪竜の復活を呼び起こす。今から約千年ほど前の探索行では、ここネイディーン山がちょうど噴火して、我ら一族は非常に難儀な思いをしておったわけですよ。そこへ秘宝をすべて集めた<姫巫女>殿が折りよく現れ、神に祈ることにより、噴火をお鎮めくださったわけです。そこで我々パラドキアの者たちは、即座に平伏してオルランディア島まで<姫巫女>殿を竜にのせて送り届けたというわけですな。そのことは無論、王もすでに重々承知のこととは思いますが……」
アシュランスとナーラダが今いるのは、<聖魔の秘跡>と呼ばれる洞窟の、かなり奥のほうに位置した空間だった。入口近くにある石碑には、千年前に<姫巫女>が何故国を追われなければならなかったかということに始まり、彼女がどうやって<聖竜の秘宝>を集めていったのか、その過程について中央世界に現存する聖書などよりよほど詳しく書き記されている。
そしてふたりが今いる空間の壁には、<聖なる鎧>の継承者であるワロンカという従者が何故裏切ったのか、また彼の死を姫巫女がどれほど嘆き悲しんだかについて描かれたのち――彼女が地の崖て国の噴火を鎮め、オルランディア島へ渡ったところまでが詳細に記されているのであった。
「千年前、聖なる剣の継承者はイツファロ王国が誇る剣聖、<北斗七聖将>のひとりだった。そして聖なる盾の継承者は、ミッテルレガントの時の第一王子、それから鎧の継承者はロンディーガの鍛冶屋の息子で、これは平民の出だ。聖槍の継承者は時の大神官からそれを授けられたルシアス神殿の僧侶が持ち、ルーシュの指輪はカルディナル王国出身の魔法使いが持っていたというわけだ……残る聖なる冑については、何も言及する必要がない。何故ならそれは、オルランディア島にあるも同然の代物なのだからな」
そう言って、アシュランスはどこか意味ありげに微笑んだ。この<第六の石碑の間>を抜け、次の<第七の石碑の間>へ行けば、聖なる秘宝をすべて集めた姫巫女が、どのような儀式をオルランディア島で行わなければならないかが描かれている。
アシュランスが姫巫女リリアを攫おうとしたことの目的には、第一にそのことが念頭にあった。つまり、神とやらが自ら選んだ<姫巫女>に最終的に何をさせたいのか、それを最初から知っていてなお、聖竜の秘宝の蒐集を望むのかどうか――彼が知りたかったのは、何よりもその点だったのである。
「それにしても、神というのは、案外つまらん運命を用意するものだな。ここの碑文など読まずとも、エルシオンに現存する聖書を一冊手に入れて読みさえすれば……聖なる剣はイツファロ王国に、盾はミッテルレガントに、ルーシュの指輪はいかにもそれらしくカルディナル王国に眠っているだろうことは、誰でも容易に察しがつくだろうに。まあ、それであればこそ我々も、レグナ大公にはったりをかけつつ、こちらに有利に交渉事をまとめることが出来たのだがな」
(あの狡賢い狐め)と思いつつ、アシュランスはレイヴァン=レグナの切り揃えられた茶色い髪と、狐によく似た褐色の瞳を思いだしていた。
アシュランスは自分の腹心の部下をひとり使いにだし、レグナ大公に対してこう言わせたのである。「聖なる剣も盾も、また指輪の在処についても我々はすでに大体のところ把握している。もしレグナ大公が我らの算段に首を縦にお振りにならないその時は――我々は飛空艇と竜により、イツファロ王国の王宮かミッテルレガント王国を襲うということになろう。そして剣と盾を手に入れた暁には、次に聖都ルシアスを襲撃する予定である。ルシアス王国が滅ぶかどうかは、まこと、貴殿の心次第……」といったように。
そこでレグナ大公は、自分では愛国心から行動していると錯覚しつつ、従兄妹のユージェニー王妃に事の相談をはかったに違いない。ただし、聖竜の槍に関しては、大神官エルヤサフが答えを濁していたにも関わらず、おそらくこちらには色よい返事を返して寄こしたのだろう……アシュランスは今でこそそのことがはっきりとわかるが、当時は姫巫女の身柄さえ手に入れば、聖槍が手に入らずとも良いとしか思っていなかったのである。
「して、王よ」
ナーラダはカミルの果実を齧ったせいで、赤い果肉に染まった歯を見せながら、どこか不気味に笑った。
「あなたさまもまた、神の手のひらで踊ることを、とうとう決意されたのですかな?わたしが聞いたところによりますと、若い竜騎兵たちが戦いに血気を逸らせているとのことでしたが。次に襲撃するとすれば、聖なる盾の眠るミッテルレガント王国か、剣があると思われるイツファロ王国のいずれかといったところ……まあ、中央世界に対し、我々がこれだけ脅威となる力を持っていると知った今、こんな不毛の地でくすぶっているのは愚か者のすることだと、若人たちが思うのも当然のこと。もっとも、あなたさまのお父上は、決してこのことに賛同なさらないでしょうが……」
ナーラダが生きているとわかった時、彼の身柄をどうするかについて族長会議が開かれたのだが――その時、アシュランスの父、ヨアシュはナーラダを再びネイディーン山の火口へ突き落とすほうへ、賛成の票を入れたらしい。といっても、ナーラダはそのことを少しも恨みに思ってはいない。ただ、彼が今も痛ましいと感じているのは、アシュランスの顔の火傷の痕のことであった。もし自分のことがなかったとしたら、ヨアシュも可愛い末息子にこのような惨い仕打ちをすることはなかったであろう……そう思うと、他でもないこの自分自身の手こそが、彼の顔を火炎石に押しつけたも同然ではないかと思われて、ナーラダは良心に激しい痛みを覚えるのであった。
「俺のこの火傷の痕は、何もおまえのせいではないさ」、清々しい笑顔とともに初めてそう言われた時、どれほど心の救われる思いがしたか――ナーラダは、自身の哲学的雄弁術を駆使してさえ、そのことをうまく表現することが今も出来ない。
「俺の親父はな、ナーラダが今言った<若人たち>の意見によれば、頭の固い古い世代の人間ということになるのだろうよ。我々パラドキア人の祖先は、竜族とゼロラと呼ばれる民の混血であると言われている。竜たちはエンガイムと呼ばれる岩石や、ハリルフォルン、あるいはオリハルコンと呼ばれる鉱脈源などが好きだ……これだけ竜とのつきあいが長い我々にも、竜の生態についてはまだわからないことがたくさんある。が、なんにしても西の野生の竜が棲む岩山には、竜が生きる上で必要となるそうした「食料」があるわけだ。竜の主食が実は岩や石だなどとは、中央世界の人間どもは想像してもみないことだろうな。無論、人間が食べる果実や動物の肉などもエネルギー源としてある程度かわりにはなるだろうが、あれらの鉱石がなくなったとすれば、竜は己を竜たらしめている何かを失うことになるのだろうよ。だからこそ我々は、ここ<地の崖て>と呼ばれる大地から離れることが出来ない……だがまあ、飛空艇と竜の力を持ってすれば、エルシオン攻略も確かに不可能ではないだろう。もし俺にそれだけの野心と熱意があったとすれば、本気で長老たちを説き伏せ、皆の心を一つにまとめあげることも出来るだろうが――とにかく、俺はそんなことは億劫でな。全世界の覇権を手に入れるまではそう悪くもないだろうが、その体制を維持していくには、膨大なエネルギーが必要となるだろう。それよりはまあ、中央世界に時々ちょっかいを出して、向こうの富を掠め奪い、地の崖て国が潤えばそれでいいというくらいにしか、俺にはどうも思えんのだよ」
「ですが、姫巫女の死を眼前にするまでは、そうではなかったでしたろう?」
ナーラダは、姫巫女リリアを掌中にせんとして出陣する前、アシュランスには明らかに神の意志に逆らってでも、全世界を征服する王とならん……というくらいの野心があったと確信している。
だが、姫巫女の誇り高き死を目にして以来、アシュランスは<世界征服>といったことに対し、急速に興味を失ったようだと見てとっていた。
「まあな。男を戦いに駆り立てるものは、一般に富と女だと中央世界では言われたりするようだが……俺もおそらくそうだったんだろう。竜と飛空艇の力を持ってすれば、少し脅しただけで欲しいものはすぐ手に入るとわかっている。だが、死んだ人間のことはどうすることも出来ん。姫巫女リリアのかわりに、次に姫巫女となった聖杯の保持者を血眼になって探すということも出来るだろうが、それよりも今は――苦労して旅を重ね、秘宝の残りを集めたリリアの後継者がここへやって来るのを待ちたい気持ちのほうが強いかもしれんな。なんにしても、ナーラダが言ったとおり、若い竜騎兵どもが最近血気に逸っているというのは本当のことだ。その力を俺も王としていつまでも押さえつけることは出来ない……ゆえに、いずれまた戦争の備えをすることになるだろうよ。ただ、ファルークの奴は結婚したばかりだからな。再び中央世界へ攻め入るとなれば、間違いなくあいつも戦いへ加わろうとするだろうが、せめて子供が無事に生まれるまでは、ファルークにはアストラ・ナータへ留まってもらおうかと思っている」
「今、アイリ殿のお腹の子は、三か月でしたかな?」
「ああ。アイシャが死んだ時、確か腹の中にいた子は九か月くらいだったろうからな。ファルークの奴が何故あれほど神経質なのか、アイリにはわからんだろうが……なんにしても、ナーラダもあいつにうまく言って聞かせてやってくれ。次の合戦では、ファルークがいなくとも我々だけでうまく勝ってみせるから何も心配するなとかなんとか。飛空艇にトラブルが起きた場合を想定して、やはりおまえには一緒に来てもらいたいと思う。太陽の光が眩しければ、奥の操舵室で休んでくれていて構わないから」
「そりゃまあ、当然ですよ」
ナーラダはどこか誇らしげに、歯を見せて笑った。<聖魔の秘跡>からは、千年前の探索行に関する碑文だけでなく、今から三千年前か四千年前のものと思われる石碑が、数多く発見されていた。それらを復元するのは並大抵の苦労ではなかったが、飛空艇こと<箱舟>の建造を己が手で実現できることを思えば――ナーラダにとっては失明する危険すら顧みずに発掘調査を続けた甲斐があったというものだ。
「それにしても、何故<今>こんなものが見つかったのだろうな」
アシュランスは自分たちを取り囲む壁の石碑を見て、一体何度目になるかわからない、同じつぶやきを洩らしていた。
「はてさて、何故でしょうな」と、ナーラダもまたいつもと同じように、答えをはぐらかす。「わたしが思いますには……これもまた、神の計画のひとつなのではないかということですよ。人間には、神のようにはパズルのピースがすべてぴたりと嵌まった世界像というのは、思い描けぬものなのです。神から見れば、我々もまた世界を構成するひとつのパズルのピースであり、小さな駒のような存在にすぎぬもの。王よ、エルシオンには<クロノス>と<カイロス>という時の概念があるのをご存知ですかな?」
「いや……」
実をいうと、中央世界に関してのアシュランスの知識というのは、ナーラダが教師となって教えてくれたものがほとんどである。エルシオンにある国の多くでは、結婚した女性は左の薬指に指輪をはめるものらしいが――これは<地の崖て国>とは逆の慣習である。ここパラドキアでは、結婚した女性は右の薬指に指輪をはめる。だが、ユーディン帝国と彼の国の属国では、同じように結婚した男女は右の薬指に指輪をはめる習慣とのことだった。他にも、そうした細々したことを含め、中央世界のあらゆる国の文化の違いについて、アシュランスはナーラダから教わっていたのである。
「<クロノス>というのはですな、過去から現在、そして未来へと流れる一定の不変的な時の流れのことをさします。ラス=レー二ア王国には、『人間にとって唯一、時の流れと死だけが平等だ』という有名な諺がありますが、この<時>を示す言葉はクロノスです。そして<カイロス>というのは――ある特殊な時の訪れ・流れをさす言葉なのですよ。たとえば、エルシオンの聖書には『そして時至って、姫巫女が<聖竜の秘宝>を探す時がやってきた』といった一節がありますが、これなどには<カイロス>という言葉が当てられています。つまり、神の定めたもうたある特定の<時>がやって来た時に……姫巫女は<聖竜の秘宝>を探すための探索行に出かけたといったわけなのですよ」
「ふむ。それは面白いな」
アシュランスはテーブルの上の鉢から、干しいちじくをひとつ手にとり、それに齧りついた。もっとその話の続きをするようにと、ナーラダに対し、目線で促す。
「王よ、<時>というものには、まったく不思議な性質があるものです。たとえば明日、長く恋焦がれた愛しい娘と結婚する男にとっては、明日の訪れが待ち遠しいあまり、明日までの時間が通常より長く感じられることでしょう。そしてそれとは逆に、病いの床にあって苦痛に苛まれている時などは、一時間という<時>がとてものろく感じるものです……エルシオンの伝承によれば、<神>というのはこの「時」というものとこの地上を含めた全宇宙の「空間」とを完全に支配する存在なのだとか。ゆえに、いつ・どこで・何が起きているのかを常に完全に把握しているという話です。つまり、我々が今ここで何を話しているかも神は知っており、また同時にこの世界のどこかにいるであろう姫巫女が今どこにいて何を考えているのかも、神は完全に知っておられるということですな。また、あなたさまが一体いつ中央世界に向けて出陣することになるのかも、すでに<神>は予知しているということでもある……」
「ほう。ナーラダの話はいつも面白くてためになるものが多いが、今回の説には俺は少々首をひねらざるをえないな。確かに、<神>は千里眼の持ち主ではあるだろう。<神>がもし本当に全知全能であるならば、全世界に蠢く人間どもひとりひとり、今この瞬間何を思っているかを言い当てるのはそう難しいことではあるまい。だが、俺はまだ「いつ」エルシオンへ向けて戦争を仕掛けるかなど、俺自身にさえわかっていない状態なのだぞ?にも関わらず、何故それが神にわかるというのだ?」
ナーラダは、どこかおかしそうに何度か首を振った。それはアシュランスの無知を嘲笑う仕種ではなく、彼の率直な質問に対して向けられたものだった。
「ひとりひとりの人間には、必ずある<傾向>といったものが存在するものなのです、王よ。こんなたとえ話は、いかにも馬鹿らしく聞こえるでしょうが……あなたさまは、<竜の園>に生えるドラゴンが好む果実、ドラゴン・フルーツが実にお好きだ。逆に、ロンディーガ王国の砂漠に生える、人の心に情熱をかきたてるとすら言われる美味なる果実――シェイリーラのことはあまりお好きではありませんでしたな?エルシオンでとても有名な果実なので、どれほどのものかと思い食してみたが、あんなもののどこが美味いのか、さっぱりわからなかったと……」
「確かにそうだが、それがどうしかしたか?」
アシュランスは、鉢の中のドラゴン・フルーツに手を伸ばしながら、ナーラダに話の先を促した。
「つまり、ですな。あなたさまが明日、突然どうしてもドラゴン・フルーツが食べたくなり、西の野生の竜たちが羽を広げる<竜の園>までそれを取りにいく可能性と、ロンディーガ王国へ長い時間をかけ、シェイリーラを取りに行く可能性、どちらが高いかといえば、当然前者でしょう?確率としていえば、98%対2%くらいなものでしょうか。人間には自由意志というものがあって――我々は普段、自分がなんでも自由に選択し、行動していると考えている。これは<時>の状態でいえば、<クロノス>に近いかもしれません。ですが、<神>はこの人間の思考回路を、ある瞬間(これが<カイロス>ということですが)、自分の用のために用いることが出来るのですよ。つまり、王は今エルシオンへ再び攻め入ることにあまり気がお進みでない様子ですね。しかしながら、もしそれが<神>の御心であるならば、あなたさまは竜と飛空艇を駆って<神の時>に出陣なさることでありましょう……それも、自分でも何故かわからないが、突然シェイリーラが食べたくて仕方なくなったというような、他愛もない理由によって」
「ふっ、はははははっ!!」
アシュランスは、ドラゴン・フルーツの甘い果肉の奥にある、小さな種を吐きださんばかりにして大笑いした。確かに、シェイリーラ如きのために自分がミッテルレガントでもなくイツファロ王国でもなく、ロンディーガ王国へ攻め入るという可能性は限りなく低くはあるだろう。だが確かに、<神>が間違いなく本当に真実<神>であるというのなら――ありえない奇異な幻を見せることによってさえ、自分にある特定の行動を起こさせることが可能であろうと、アシュランスは思ったのである。
たとえば、姫巫女らしき少女がロンディーガの砂漠の中を歩いている夢を見た……ただそれだけでも、自分はロクセリアと呼ばれる砂漠の移動都市に密偵を放つことを決めるかもしれないし、またそれはいかにも自分が取りそうな行動――あるいはいかにも<取りえそうな>行動であると、アシュランスは理解したのである。
「いつもながら、まったくおまえの話は面白いな、ナーラダよ。そして俺はたった今、おまえの話を聞いていてこう決めたぞ。明日にでも軍議を開いて、中央世界の一角へ攻め入ることについて、長老たちに事の是非を諮る。彼らは無論反対するだろうが、若い竜騎兵たちは、それこそが竜王の取るべき行動として、俺のことを支持してくれるに違いない……そして、多数決により賛成の意見が上回ったとすれば、ナーラダ、それこそが神の計り知れぬ<御神意>ということになるのだろうな、今のおまえの説によれば?」
「さようでございますな、王よ」
光り輝くアルディア石に照らされたナーラダの体は、不自然なほど細められて、石碑の壁に影を投げかけていた。その影はどこか歪んでおり、より深い闇を人に感じさせる。強い光といったものは、このように不自然なまでに深い<闇>を生みだすものなのかもしれない。
それからアシュランスが他愛もないような世間話をひとつふたつして、<聖魔の秘跡>から去っていくと、その闇に消えゆく後ろ姿を見送りながら――ナーラダはどこか不敵な笑みをその顔に浮かべていた。
というのも、ナーラダにはよくわかっていたからだ。自分がどのような話をして王の背中を軽く押せば、彼が再びエルシオンへ攻め入る決意をするかという、そのことが……。
やがて、まるでアシュランスと入れ違いになるようにして、別の人物がアルディア石の強い光の元へ姿を現した。金の髪に翡翠色の瞳をした彼は、どこか面差しがアシュランスとよく似ている。それもそのはずで、彼――ナハシュは、アシュランスの六人いる兄のうちの、一番年の近い兄弟であった。
「我らが王のことを、説得していただけましたかな?」
ナハシュは、父親とすっかり関係の冷えきった弟のことを不憫に思い、六人兄弟のうち唯一、アシュランスの味方をしたのだったが、今ではすっかり中央世界の富に心奪われ、父ヨアシュのことなど、石頭の古い人間であるとしか思わないようになっていた。そしてそれと同様に、ファルークの父、レイルークをはじめとしたアストラ・ナータの長老たちに対しても、必要であれば暗殺する計画さえ、彼は心の内に秘めていたのである。
「そう直接的に訴えかけたわけではありませんが、まあ、最終的には……」
ナーラダは、テーブルの上から眼鏡を取り上げると、石碑の壁の奥にある隠し部屋へ通じる扉を開いた。この部屋のことはアシュランスも知っており、まさにここから<箱船>や<天空島>を創りだすための秘儀の描かれた石版が出土していたのだが――ナハシュは石版に描かれた古代文字を翻訳する作業を、随分長くナーラダの元で手伝っていたのである。
「これがいわゆる<しゃべる石>、アルセリアですよ」
アシュランスを説得してくれたことに対する報酬を与えるように、ナハシュは灰色のローブの袖から、虹色に輝く石を取りだした。
「わたしも、中央世界のことについてはまだまだ勉強不足ですが……この石は、少ないながらも向こうでも稀に出土することがあるそうです。エルシオンではこの石のことを<共鳴石>と呼んでいるらしいですね。ただ黙ってこの石を見つめていると、そのうちに石そのものに心の中を覗かれ、その人物は石と話をするようになるのだとか。向こうの人たちはどうやら、我々とは違い、この石の本当の使い道といったものを知らないらしい」
「まあ、無理もないことですよ」
アルディア石を小さな貝殻の上に置き、それで前方の闇を照らしながら、ナーラダはナハシュよりアルセリアの塊を受けとった。ふたりは今、両側の壁だけでなく、天井にも床にもびっしりと古代文字の描かれた通路を、奥へ向かいゆっくりと進んでいくところだった。
「<地の崖て国>で出土する石の中にも、今もってその性質のよくわからないものが時々あるくらいですからな。なんにしても、この塊で今日は石碑の内容を最低三十枚ほどは音声として記録できるでしょう」
「わたしも、竜部族の<語り部>のひとりとして、これ以上光栄なことはないと思っています。アルセリアに宿る精霊と心の中で語り、自分の言った言葉を石に記憶させる……そうすれば、石版の内容はこれからも、この<聖魔の秘跡>がいつか崩れ去るようなことがあった時でさえも――永遠に残り続けることが出来るでしょうから」
「さようですな」
ナーラダとナハシュは、記録の終わった石版の続きの箇所までやってくると、その石碑の前に並んで腰を下ろした。そして向かい合わせとなり、アルセリアの石の塊を間に置くと、互いに目を閉じる。
すると、アルセリアに宿る精霊がふたりの心に働きかけはじめた。ナーラダは翻訳した古代文字をナハシュに伝え、ナハシュが口から出した言葉を、石の精霊が記憶しはじめる……そのような形で、二時間ほどが過ぎた時、石の精霊が消えゆく気配をナーラダとナハシュは同時に感じとっていた。
「今宵はここまで、といったところですね」
ナーラダは笑い、顔から眼鏡をとると眉間を軽く指でもんだ。視力を使うようなことは何もしていないはずなのだが、それでもそこに疲れが蓄積されているような感覚を、彼はこの作業のあとにいつも感じるのであった。
「アルセリア石の精霊よ。さあ、おまえが今記憶したことを、もう一度話すがいい」
ナハシュがそう言って石に向かって語りかけると、アルセリア石は彼の言葉に反応し、ナハシュの、朗々とした<語り部>としての声がそこから流れはじめる。
『次に、竜髄石をエンジン基底部へ埋める。竜髄石とは、あるものに永久運動を続けさせることを可能とするほどの、膨大なエネルギーを封じこめた石のことである。竜髄石とは、古代の竜が死に、その竜が墓として選んだ場所――たとえば山や谷の一角などに、古代竜が死して数百年が過ぎたあとに生まれることのある石である。これが小さな塊ひとつでもあれば、大きな船一隻、あるいは小さな島ひとつを浮かせるほどのエネルギーが出現する。その形状は澄んだ水晶やラピスラズリによく似ており、間違いやすいが、その二種類の石が混ざったような形状をしているというのが、逆に大きな特徴といっていいだろう……』
「さて、今宵のところはここまでとしておきましょうかな」
ナハシュの語り部としての落ち着いた、美しい声音に満足するように頷くと、ナーラダは組んでいた足をほどき、ゆっくり立ち上がった。こうしたアルセリア石による録音作業を、あまり長く続けられないのには理由がある。
この<石>の精霊そのものと長く会話を続けていると――そのうちに石の精霊に心を乗っ取られ、こちらが向こうにしゃべらせたいことを録音するのではなく、ナーラダとナハシュのほうこそが、石の精霊の道具として使われかねないからであった。
ふたりは再び元来た通路を戻っていくと、飛空艇の構造図の描かれた巻物を広げ、次に中央世界、エルシオンへ攻め入った時、どのようにその場所を攻略するのがもっとも効果的であるか、ゴブレットを片手に話し合いを続けた。
ナハシュとナーラダのふたりがともに思っていたこと……それは、どうやったらアシュランス自身にそのことを<王の考え>であるとして実行させ得るかという、その一事についてばかりであった。
2
南方十二部族の中で、唯一人の女性の<竜使い>として名高いリューは、その時アストラ・ナータから竜の園までを、己が騎乗する竜――エストラドを駆けさせていた。
以前ここへやって来たのは、一体いつのことだったろうとリューは回想する。天空島の建設や飛空艇の建造が始まって以来、アシュランスやファルークとそうした<遠乗り>をした記憶はほとんどない。
竜は一度ひとりの人間と「儀式的契約」を交わすと、その「主」の元を離れて勝手な行動を取ることは滅多にないが、唯一竜を竜たらしめる物質の摂取のために、年に一度は主の元を離れなくてはならなかった。
その時、竜たちはエンガイムやハリルフォルンと呼ばれる、人間にとっては有害な毒素を含む鉱脈源のある洞窟で、ゆっくりと翼を休めるのである。そしてそれらの岩石を思う存分喰らい、人間にとっては毒となるガスを十分浴びてから主の元へ再び戻ってくる……そういった特殊な石や岩の次に竜たちの味覚が好むのは、<竜の園>と呼ばれる場所に自生するドラゴン・フルーツという名の果実だったろうか。
リューは天空を移動するアストラ・ナータから、三時間ほど時をかけて竜の園へ到達すると、不毛な岩石に囲まれた緑の楽園へ、自分の愛する黒き竜を降下させていった。
茶色い岩山に這いつくばるようにしてねじれた根を伸ばす、灰色の樹木……その枝の先には、周囲の殺風景さとは対照的に、極彩色の青や緑や赤といった実が生っている。エストラドはいくつか実の生っている枝ごとドラゴン・フルーツに齧りつくと、それらを強靭な歯によってムシャムシャと食んでいった。リューもまた、手近にあった黄色い実をひとつもぎ、それに歯を立て、柔らかい果肉の味を楽しむ。
≪リュー、我は水晶の泉で水浴びがしたいぞ≫
「わかったわ、エスト」と、リューはエストラドのことを愛称で呼び、彼の固い首筋の鱗を撫でた。そしてひらりと彼の背に飛び乗り、<竜の園>のほぼ中央に位置する水晶の泉へと飛んでいく。
上から見ると、深い藍色をしているように見えるその泉は、人間の目には泉ではなくれっきとした湖にしか見えなかったろう。だが、エストラドたち竜にとって、それは湖ではなく泉の如きものでしかなかった。
エストラドが湖畔に降り立ち、早速とばかり翼を大きく広げて水浴びをはじめると――リューもまた生まれたままの姿となり、水晶の泉で泳ぎはじめた。その間、エストラドはふざけて口の中から水を吹いたり、また翼で湖面をはたいてリューにかけたりしたが、そうした様子は不思議と、見る者に恋人同士の戯れのような印象を与えたに違いない。
≪リュー、我と番いとなったこと、今も後悔しておらぬか?≫
ドラゴン・フルーツの枝にかけた衣服を手にとり、それを着はじめたリューに向かい、エストラドが精神感応によりそう語りかける。エストラドの眼は、自分が今より幼き頃に傷つけた、リューの体中の傷を順に見回している……それも、まるで恋人の体を眺めるような、愛しげな眼差しで。
「後悔だなんて、随分今さらなことを聞くじゃないの、エスト?」
リューはエストラドの問いかけがあまりにおかしくて、下着を身につけながら、思わずくすくす笑ってしまった。
「おまえも知ってのとおり、わたしは本当は……ずっと永遠に、おまえだけのものでいたかったのよ。アシュにわたしが初めて抱かれた時、おまえは一体何か月、わたしと口を聞いてくれなかったものかしらね?」
≪そのことは、もう言うな≫
エストが照れたように、喉を鳴らして唸る。
「だって、自分と番いとなったことを後悔していないかだなんて――おまえが言いたいのはつまり、そういうことではないの?」
≪違う≫と、エストラドは精神感応によって主と会話を続ける。≪アシュランスは、バーミリオンの騎乗者にして、今では竜族の王たる者だ。それに我にも……その気さえあれば、子を為す行為をおまえに断りもなく行うなど造作もないこと。もっとも、リュー。おまえは我とは違い、そのことで嫉妬などまるでせぬだろうがな≫
「確かに、それはそうね」
竜と精神感応によって会話をする場合、人間の側に嘘をつくことは出来ない。ゆえに、リューは率直にそう答えていた。
「でも、エスト……おまえは主であるわたしが死ぬまでは――他に恋人を作るつもりはないのでしょう?バーミリオンなんて、アシュがわたしを抱いたその翌日には、子作りをはじめたっていうのにね」
≪それは当然であろう≫と、同族の雌竜に対し、エストラドはどこか同情的な口調で言った。≪彼女は、聖母竜ガイアの血に連なりしもの……つまりは、女王だ。その気高い彼女にとって、自分と番いになった主が純潔の誓いを破ったとあれば、同じことをするだけの権利を主張するは、当然のことであろう≫
人間の主と竜の純潔の誓いというのは――正確には、互いに言葉でそう言い表しあっているわけではないのだが、<夢の中>でそう確約しあっているも同然のことだった。
エストラドがリューのことを自分の主であると認めるまでの長い期間、彼は彼女のことを極限まで試し抜いた……その結果、リューは体中が竜の爪痕で傷だらけとなっていたが、エストラドが彼女のことを<主>として認め、初めて夢の中でふたりが出会った時、リューの体からはその傷がすべて消えていた。
『あの傷痕がどこにもないのは、どうしてなのかしら?』
夢の中でそう訝るリューに対し、エストラドは――彼は夢の中で、リューがこれまで見たこともないような美青年として現れた――こう答えていた。
『それは我々が愛しあうため、またすでに愛しあっているためだ』と……。
そしてそのあと、リューはこの上もなく官能的な夢の中で知ることになる。彼が自分の体に傷をつけたのは、他の人間の男にリューを取られないため、自分だけの<しるし>をつけたのだということを。
「わたしも、こんな傷だらけの体を抱きたいと思う物好きな男がいるとは、思ってもみなかったのよ」
湖から上がったエストが、甘えるように鼻面を、リューの胸に押しつけてくる。彼がリューにここで昼寝をし、<夢>を見て欲しいと思っていることが、リューにはよくわかる……だが、残念なことに彼女は今、少しも眠くなどなかった。
≪そのことは、もういいさ。だが、我が愛する乙女は生涯ただひとり、おまえだけだ、リュー。それに我が後悔しているのは、そうなることが最初からわかっていたなら……おまえの体に傷などつけるのではなかったという、そのことだけなのだからな≫
「エスト、わたしもこの世界中で一番、おまえを愛しているわ。誰よりも、何よりも……」
リューがエストに頬を寄せ、彼にそう愛の言葉を囁いた時――遠い頭上の空に、暗黒の影が差した。対岸の湖畔に、赤銅色の竜が舞い降りる姿を見て、リューには騎乗者の姿がはっきり視認できなくても、それが仲間のユディスであることがわかる。
「彼らの愛の戯れを邪魔しちゃ悪いわね」
赤銅色の竜、デュアリスとユディスとの間の<純潔の誓い>は、今も破られてはいないし、これからも決して破られることはないだろう……そのことが、リューは時々とても羨ましくなることがある。本来ならば、自分とエストラドの関係もまた、同じものであったはずなのだ。
≪我もおまえをこの世界で一番愛しているぞ。他の竜仲間の誰よりも、あるいはこの世界に存在する何よりも……≫
リューの心の中を読みとり、エストラドが精神感応により優しく、そう語りかけてくる。
「ありがとう、エスト」
リューはエストラドの首筋を撫でると、彼の背中に再び飛び乗った。それからエストラドは、自分の主とともに天空島、アストラ・ナータへと戻ったのだが――雲の薄い蒼穹を駆け抜ける間、ふたりの心は完全にひとつに溶けあっていた。おそらく、央界と呼ばれるエルシオンに住む住人たちには、よもやこれが竜と人が心を通わせる方法なのだとは、それこそ夢にも思ってみないことだったに違いない。
3
リューがエストラドとの<遠乗り>から戻って来た時、ファティマと額を合わせ、精神感応によって話をしていたファルークが、彼女に気づいてこちらへやって来た。
エストラドはファティマと目が合うと、ほとんど同時に翼を広げあい、そしてアストラ・ナータの断崖の下へ消えていった――ふたり(というより、この場合は二匹、というべきだろうか)が一体どんな会話を交わしていたのか、リューとファルークにはある程度想像できるとはいえ、彼らの言葉である竜言語を、人間の言葉に置き換えて翻訳するのは不可能だった。
「アイリの様子はどう?五か月っていうと、そろそろお腹が大きくなってくる頃じゃない?」
「そうだな。医術士の話によれば、今のところお腹の子は順調に育っているということだったが……なんといっても、油断はできないよ。アイシャの時だって、子供が生まれる直前までは、どうということもなかったんだから」
ファルークもリューもアシュランスも、ともに南方十二部族の出身で、それぞれ近い村に<郷>(ストウ)を構えていた。<郷>というのは、それぞれの部族が採掘する鉱脈源のある洞窟を中心にした村落で、現在掘っている鉱脈が尽きた時には、別の場所へ部族ごと移動するのである。部族同士がそうした鉱石を交換する市があるので、隣村同士の者は自然、それなりに交流のあるのが普通だった。
ゆえに、リューはファルークのことも、彼の幼馴染みであるアイシャのことも、小さな頃からよく知っていたのである。
「ねえ、ファル。前からひとつ聞きたいことがあったんだけど……あなたがアイリと結婚したのは、彼女がアイシャと似ていたから?それとも……」
(おまえほどの女が、随分くだらんことを聞くんだな)と、ファルークが思っていることが、リューにはすぐわかった。彼は口数が少なく、また顔のほうも無表情なことが多かったけれど――リューは長いつきあいから、ファルークのちょっとした仕種などで、彼の考えていることがすぐ察知できた。
「俺がアイリと結婚したのは、彼女がアイシャに似ていたからというより……アイリがアイリだったから、つまりは彼女が彼女自身だったからだ。これで、リュー、おまえの聞きたかったことの答えになっているか?」
「ええ、大体のところはね。ただ……」
「ただ、なんだ?」
全部で八階層造りの、窓というよりは穴ぼこだらけといった印象の宮殿を見上げ、リューはくすりと笑った。今その茶色い岩肌の宮殿前には、見事なまでの花園が広がっている。そうした元は央界にしか存在しない草花はすべて、ファルークが自分の花嫁のため、土地を改良して生みだしたものだということを、天空島で知らぬ者はひとりとしていなかったであろう。
「わたしも、アイリのことは友達として好きよ。でも央界の人に、ファル、あなたのことを本当に芯から理解できるものなのかどうか――少し心配だったの。ファティマはあなたとアイシャの関係を、最初から寛容に許してたけど……ファティマはもともと、母性愛の強い、バーミリオンとは対極の嫉妬深くない性質だったものね。それで、あなたとアイリとの関係も、アイシャのそれと同じこととして見ているのかもしれない。でも、アイリはそのことを知ってるの?あなたとファティマとの、夢の中での関係を……」
「説明はしたよ」
その問題には触れられたくない、という顔をファルークがあからさまにしたのを見て、リューは自分の直感が正しかったことを悟った。つまり、彼はおそらく――互いにそれぞれ元の言語が異なることも手伝ってか、フィティマとの関係について<必要最低限>の説明しかしてはいないのだ。
「でも、だからこそあなたは待ったのよね。アイリが長くこの竜部族の村で過ごすことで、少しずつこちらの言葉を解することを知り、竜と人間がどのように交わるものなのかを十分理解できるようになるまで……だけど、ファル。あなたはもともと口下手だし、言葉で何かを説明するよりも、なんとなく見て察してくれっていうタイプだもの。わたしの見たところ、アイリは感づいてると思うわ。あなたが自分より、何か得体の知れない存在を大切にし、それを胸の奥深くに隠しているということを……」
「リュー、何故おまえは俺でもないのに、俺がアイリよりファティマを大切にしているとわかるんだ?」
隣のファルークから、じっと真剣な眼差しを注がれ、リューは軽く肩を竦めた。
「わかっているはずよ、ファルーク。竜と夢の中で一度でも交わったことのある者なら……現実の側の異性なんて、恋愛対象として見るのは難しくなるってことを。もっとも、これはわたしが女だから、余計にそう感じることなのかもしれないわね。アシュランスみたいに、あくまでも夢は夢、現実は現実と捉えて、肉体的な欲求をはらす男のほうが――ある意味まともなのかもしれない。ただ、わたしが言いたかったのは、あなたが見た目以上にとても複雑な男だってことよ、ファル。夢の世界では、己の理想を体現したかの如き美女と交わり、現実世界では過去に失った妻とよく似た女性を抱く……そんなあなたのことを、パラドキア出身でもない央界の女性が、一体どのくらい理解できるものなのか、少し興味があったの」
「そういうことなら、俺にではなく……直接、アイリにそのことを聞けばいいだろう」
ファルークが珍しく、怒りに眉をしかめる姿を見て、リューも彼に少しばかり同情した。アイリの話によると、ファルークと彼女は結婚式当日の夜に、出会ってから初めての大喧嘩をしたらしい。それも、ファルークの母親がうっかり、花嫁姿のアイリを見て――「まるで何年も昔のあの日が甦ってきたかのよう。アイシャが生き返ったみたいだわ!」と泣きながら言ったというのが、その喧嘩の原因だったらしい。
「そうね。というか、アイリの気持ちについてなら、すでにそれなりに聞いてるわ。なんといってもわたしたちは、親友同士だし」
リューがそう言って意味ありげに微笑むと、ファルークも流石に気になったのだろう。リューがそれ以上のことを自分から語る気がないと察すると、足元の砂利に混ざった<鏡石>をひとつ手にとり――それで蒼空と太陽の光を反射させながら、こう聞いてくる。
「それで、アイリは俺のことをなんて言ってた?」
「ふふっ。それは同じく親友のあんたにも、教えることは出来ないわね。べつにアイリに口止めされてるってわけじゃないけど……女には不文律の守るべき秘密っていうものがあるから。ただ、アイリにはわからないあんたの心の深い心配が、わたしにはわかる。夢の中ではファティマと交わり、現実では気心の知れたアイシャと幸せな結婚をしたあんたが、彼女のことを失った時に感じた絶望感……二度と、誰のことをも愛することはないと思っていたのに、かつての妻とよく似た女性に安らぎを求めてしまったことに対する戸惑いも。そして今、再び同じ悲劇を経験したらどうしようかと、尋常じゃないくらい、あんたがアイリの身を案じているっていうこともね」
「やれやれ。まったく、おまえに隠しごとは出来んな」
ファルークは軽く溜息をついて、銀の前髪をかきあげた。
「確かにリュー、俺はおまえの言うとおり、口で説明するよりも目で見て察してくれっていうタイプだ。だが、そんな俺でも、話をするべき時には話をするし、それなりに家で雄弁に語ったりもするさ。けど、おまえにもわかるだろう、リュー?夢の中で竜と交わるのがどんなことなのか……あれは経験した人間でなきゃわからない。それに、俺がアイシャのかわりとしてではなく、アイリのことを愛しているということも――口ではうまく説明出来ない種類のことだ。それで結局、なんていうかどうも、どれもこれも説明が中途半端なことになって……アイリがイライラするのはたぶん、その中途半端さかげんについてなんだろうな、俺の。まあ、母さんが言うには、アイリは妊娠中で少し神経質になってるんだろうっていうことなんだが。俺がまた、母さんのかの字でも言おうもんなら、アイリはギロッと物凄い目でこちらを睨んでくるからな」
「ふふっ。それはそれで、いいことじゃないの」
リューは普段はクールなファルークが、家庭内での弱い自分の立場を打ち明けたことで――親友としての彼が、ますます愛しくなった。
「一体、今の俺の状況のどこがいい?べつにアイリと母さんは嫁と姑として仲が悪いってわけじゃないさ。ただ、母さんはわかってるんだろうな……アイリをイライラさせたいと思ったら、アイシャの名前をだせばいいっていうことが。おかしな話、アイリは自分が母さんにそんな形で弱味を握られているように感じて――それで余計にイライラするのかもしれない。たぶんな」
「まあ、ひとり息子のあんたとしては、つらい立場よね。けど、息子のあんたがパラドキアの娘じゃなく、央界の女性を選んで結婚したっていうのは……あんたが思ってる以上に、お母さんにとって重い意味を持つことなのよ。他でもない、一部族の長として後を継ぐべきあんたが、央界の血をこちらへ導き入れたということはね」
「ああ、わかってる」
ファルークは、頬に軽く口接けるという、パラドキア人の別れの挨拶をリューと交わし、愛しい妻の待つ邸宅へ、百合の花を摘みながら戻っていった。リューはそんな親友の後ろ姿を見送りながら、彼が去り際に落としていった<鏡石>を拾い上げる。大小様々な面によって構成される<鏡石>は、それぞれの面が己の見た真実の景色を反射しあい、まるで万華鏡のような景色を映しだしていた。
それをつい先ほど、ファルークが翳していたのと同じように――リューはその石で蒼い空と太陽の光を反射させた。すると、遥か遠く、戦いに備えて演習に出かけていた竜部隊の一群が、ぐんぐんと間近に迫ってくるのが見える。
先頭にいる真紅の竜は、アシュランスの騎乗するバーミリオンだった。リューは彼女が自分に対し、殺したいほどの憎しみを抱いているのを知っていたが、バーミリオンの燃えるような灼熱の眼差しから目を逸らしたことは一度もない。しかしながら、彼女の機嫌次第によっては、他の仲間が被るだろう甚大な被害のことを考えて――一度、竜騎場に近いこの場所から、姿を消すことにしたのだった。
(悲劇を恐れているのは何も、あなただけじゃないのよ、ファルーク)
彼と同じように再び、砂利の中に鏡石を捨て去りながら、<ヴァルハラの塔>と呼ばれるアストラ・ナータの宮殿に向かい、リューは心の中で呟いた。
(今、確かに時代が大きく動いて、何かが変わろうとしている……アシュランスが聖都ルシアスへ攻め入った時、姫巫女のリリアが死んだということは、中央世界の誰もが嘆くべき悲劇だったに違いない。そして我々はその時の戦いの感触から、央界の人間と対等どころか圧倒的優位な立場にあることを知ってしまった。けれど、わたしが思うには、そうした戦いが何度か繰り返されるうちに、わたしたちもまた、戦争の苦い味を次期に味わう時が訪れるのではないかということ……何分、あれから随分と長い時が経過したせいもある。央界の人間たちにしても、いつまた竜の飛来があるかと、ただ怯え惑うだけでなく……各国が協力してなんらかの対応策を練っていると考えるのが自然だろう。そして何より、わたしが気になるのは<姫巫女>という存在……)
姫巫女、という言葉を聞くと、リューの心に嫉妬の炎が揺らめきはじめる。リューがアシュランスに初めて抱かれた時、彼女の心にあったのは自分の生涯の伴侶――エストラドを裏切ってしまったことに対する強い罪悪感だった。だが、エストラドはある理由からリューが自分の純潔を犠牲にしたのだということを理解し、それからのちは、以前と同じように夢の中でリューに現れ、前と同じように優しく接してくれるようになった。
けれど、そんなリューに対する、バーミリオンの怒りの炎を不当なものと彼女は感じていたにも関わらず……いざ、その自分自身が嫉妬する側になってみると、リューにはバーミリオンの気持ちがよくわかるような気がしていた。「姫巫女のリリアを手に入れる」と決めてからのアシュランスの心には、彼女のことしか眼中にはないようだったからだ。
≪まさかリュー、おまえはあの男のことを本当に愛しているのか?≫
エルシオンへ攻め入るという前日の夜、竜騎場で不意に泣きだしたリューに向かって、エストラドは精神感応によってそう話しかけていた。
「わからない。わたし自身にもわからないのよ、エスト。ただ、よくわからないのに……涙だけが出るの」
その日の夜、エストラドは夢の中で、リューのことをこの上もなく優しく抱いた。夢の中でエストラドは、黒い髪に紫の瞳の、とても美しい青年として、いつもリューのことを訪れる。彼のことを想うなら、幼馴染みのアシュランスなど、リューにとっては恋人などではないし、体だけの関係だと、割り切ることも出来た。けれど、アシュランスが<姫巫女>という存在を欲するようになってからというもの、バーミリオンの嫉妬の炎が、まるでリュー自身にも乗り移ってしまったのかのようだったのだ。
その後、レグナ大公の娘にして、第七の巫女のサフィを捕え、彼女の口から色々と姫巫女の継承者であるミュシアという少女のことを聞くにつけ――リューの心からは徐々に嫉妬の炎が消えていった。もちろん、サフィの話したことはおそらく、実際より相当悪く誇張して表現してあるだろうことは、リューにもわかってはいる。
けれど、その悪口がリューの耳にはむしろ心地良く響き、周囲の人間が呆れるほど我が儘なサフィに対しても、リューだけは唯一我慢強く接することが出来たのである。
(<姫巫女>か……まったく、忌々しい名だ。そして聖五王国が他の周辺諸国とは違い、真に神の恩恵を受けた特異な国であるというなら、仮に今は我々が有利に戦いを進めることが出来たとしても、いつかは一敗地にまみれるということもあり得るのではないだろうか?もし、<神>という存在が本当にこの世界にいて、<姫巫女>の祈りを必ず神が聞き届けるというのが本当であれば……)
我々は、神の定めた掟に逆らうというより、神その人に弓を引く戦いをはじめようとしているのではないだろうか……そして、その結果として起きるであろう悲劇のことを思うと、リューの胸は痛んだ。
彼女はアシュランスにも何度か、それとなく戦いを回避する方法はないのかと、上手く話を持っていこうとしたが、むしろ彼はそうしたリューの真意に気づいて、こう言ったものだった。
「もしも神がいるのなら、確かに我々は負けるであろうな、リューよ。だが、我らが竜に大砲は効かぬ。もちろん、何かの拍子に至近距離で直撃を受けたような場合は別としてもな……普通の弓矢も、竜たちの固い鱗には到底意味がない。魔法か?並の魔導士の魔法では、竜たちには効かぬ。して、これで一体あやつらは、我々最強の竜騎兵団に対し、どうやって立ち向かうつもりだというのだ?」
確かに、理論上はアシュランスの言うとおりであるということを、リューにしても認めざるをえない。けれど、姫巫女リリアが自害し、アシュランスが当初の目的を達しえなかったのと同じように――結局のところ、次の遠征もまた、うまくいかずして終わるのではないかと、リューはそんな気がしてならなかった。いや、それどころか以前の戦以上に悪いことが起きるのではないかと感じられて、彼女は胸の奥に渦巻く不安を、うまく口で言い表すことが出来ないままでいた。
4
ファルークは、甘い香りを放つ百合の花を片手に、ヴァルハラ宮殿から少し離れたところに立つ、自分の新居へ帰り着くところだった。
ヴァルハラ宮殿は、元はファルークたちの一族が神殿としていた場所を基礎に作られたもので、そこへどんどん階層を建て増していったという特異な構造物である。だが、縦にも横にも広い蟻塚のような住居は、新婚夫婦が住むのに相応しくないとアシュランスは考えたのであろう。彼はアイリとファルークのために、宮殿の目と鼻の先にある場所へ、央界の建築技術を用いた、瀟洒な建物を新たにこしらえさせていた。
最初、アシュランスはその場所を、王である自分のための離宮と説明していたが、実際に完成してみると、結婚祝いとしてファルークとアイリにプレゼントされるということになったのである。
漆喰によって白く塗られた四角い建物を見るたび、ファルークは異世界に迷いこんだような、少し不思議な気持ちになる。実際、アイリの故郷であるイツファロ王国には、こうした計算されつくした作りの、四角四面な建造物が多いのだ。それに対し、パラドキアではもともとの自然な岩石の造りを活かした構築物が多い……正直なところを言って、その異質な雰囲気を目にするたび、ファルークは胸に恥かしさがこみ上げるのだが(そして彼の母親は、この家へやって来るたびに「見たこともないおかしな家」だと小声で言った)、ただひとつの救いといえば、妻のアイリがこの家をとても気に入っているということだっただろうか。
薔薇の蔓の絡まる青銅のアーチを抜け、央界から仕入れた珍しい木材の扉を開くと、そこには暖炉前のソファで横になる、ファルークの最愛の妻がいる。
「いや、無理して起きなくていい」
帰ってきた夫を出迎えるために、アイリが体を起こそうとするのを見て、ファルークは手ぶりで妻のことを押し留めた。料理用ストーブの上には、夕食用のスープの鍋がかけられ、微かに湯気を立てている。それから、釜の中で焼いたばかりのパンの、甘い香りが居間には漂っていた。
「体の調子はどうだ?どこも、おかしいところはないか?」
ソファに体を起こした、アイリの隣に腰かけながら、ファルークはいつもどおり、愛妻のお腹に触れてそう聞いた。
「ねえ、ファル。何百回も言ってることだけど、わたしあなたのその言葉、いいかげんうんざりするくらい、聞きすぎてると思うの」
夫の気遣いと優しさに感謝しながらも、あまりにも心配されすぎることに対し、アイリは何度目になるかわからない溜息を着いた。
「アシュはわたしに対して……おまえなら、ファルーク以外のどの男でも大切にしたがるだろう、みたいなことを言ってたけど、今はつくづく身に沁みてよくわかるわ。わたしはあなた以外の人とでは、ここパラドキアで絶対うまくなんていきっこなかったでしょうよ。でも、流石にあなたの赤ん坊に対する心配は度を越しすぎてると思うの。朝も昼もわたしのために食事を作ってくれたり、掃除や洗濯もかわりにしてくれたり……とても有難いと思ってるし、あなた以上にいい夫なんて、エルシオンでもわたしは絶対持てなかったと思う。けどね、ファル、こう一日中家にいてぼーっとしてばかりいたんじゃ、わたしそのうちノイローゼになって、お腹の子にもいい影響を与えない気がするの」
「そうか。そんなにか」
ファルークが嬉しそうに微笑む顔を見ると、アイリもまた、いつもと同じくそれ以上何も言えなくなってしまう。彼は、エルシオンの男よりもパラドキアの男のほうがいい――そうアイリが口にすることが、何よりも嬉しいのだ。
実際のところ、アイリはファルークとの結婚が、こんなにも幸福な気持ちを自分にもたらすことになろうとは、最初は思ってもみなかった。もっとも、「怖いくらいに幸せ」な結婚前の気持ちを、ファルークの母親が結婚式当日に踏みにじったという経緯はあったものの……それ以外のことでは、アイリにとってファルークという男は<完璧な夫>だったと言えるだろう。
とはいえ、自分が彼の亡くなった妻に似ているという事実を知ってからというもの、アイリは心中穏やかではいられなかった。結婚初夜にベッドルームで、アイシャという名の元妻のことを夫に問いつめもしたし、自分が彼女と似ていたからそもそもここへ連れてきたのかと、泣き喚きもした。
そして、そんな手のつけられない状態のアイリの言い分を、ファルークはじっくり聞いた上で――「俺がおまえを愛しているのは、アイシャに似ていたからじゃない」理由を、彼女が納得するまで、ゆっくり気持ちを落ち着かせるように説明したのだった。
「初めてアイリのことをイツァーク村で見た時、正直俺は、アイシャに似ているとはまるで思わなかった。何分、夜のことで、おまえの姿は遠くの篝火にぼんやり映って見える……といった程度だったからな。前にも何度か言ったと思うが、俺がアイリに心を惹かれたのは、第一にはおまえの歌声のせいだ。あの、竜たちでさえもうっとりとして耳を傾ける歌の力に俺自身も囚われたというわけだ。そしてそのあと、アシュランスの飛空艇に呼ばれて、そこで初めておまえの姿をはっきりと見た。俺が思うには……アシュランスがおまえのことをさらってくるよう部下に命じたのは、たぶんおまえがアイシャに似ていたからなんだと思う。もちろん、そのことを<運命>だなんて感じるのは、ただ俺ひとりだけの幻想にすぎないとわかっているつもりだった。突然、ほとんどの人間に自分の言葉も通じないような場所へ連れてこられて、おまえもさぞかし自分の悲運を嘆いたことだろう。俺にしても、今さらこんなことは自分の望みじゃないと言ったところで……飛空艇や自分たち竜騎兵団の存在をおまえに知られた以上、アシュランスがおまえを元のイツァーク村へ返すはずなどないとわかっていたからな。それで、ずっと待っていた……いつか、おまえが俺に対して心を開いてくれる日がやってくるといいと、そんなふうに願いながら」
自分は結局のところ、亡き妻の身代わりにすぎないのではないか、という不安と猜疑の気持ちが、夫のその言葉だけでアイリの中から完全に消えたわけではない。けれどアイリは、彼女が唯一このパラドキアで心から信頼できる親友――リューからアイシャのことを聞くことで、心からファルークのことを許そうと思えるようになっていた。
「そうね。ファルークとアイシャの関係っていうのは、今あいつがあなたに持っているような、激しい情熱や嫉妬を伴うものじゃなかったんじゃないかしら」
だから、現在のファルークの妻であるアイリが、過去の亡霊に嫉妬するのは無意味だと、リューは言外に語っているかのようだった。
「ふたりとも、まだ全然幼くて……互いに互いのことを、異性だなんて意識していたかどうかとすら思うくらいだったの。ファルークとアイシャは同じ部族の出身だから、幼馴染みとして、ファルのお母さんもアイシャのことを溺愛しててね。家柄の釣りあいっていうことからしても、ふたりは本当にお似合いのカップルだったと思う。ファルークの家も、アイシャの家も、優秀な竜使いを多く輩出してる家系だったから……アイシャっていうのはね、なんていうかこう、ふわふわっとした感じの、本当に純粋で素直な子だったの。もちろんわたしも彼女のことを友達として大好きだった。だから、こういう言い方はどうかとも思うんだけど……でもなんていうかこう「この子、ちょっと頭が足りないのかしら?」って首を傾げたくなるような感じの子でもあったわけ。ファルークはそういう彼女のことを、自分の心の純粋さと重ねあわせて、心から愛していたと思うけど……でも、わたしが思うには……」
ここまで言いかけて、不意にリューは言い淀んだ。アイリはそんな親友の姿を見て、ここまで来たら何を聞いても驚かないとばかり、彼女に話の先を促した。
「前にもリューには話したことがあるでしょう?わたしには故郷に本当に心から好きだった男の子がいるって……ファルークにとってのアイシャさんっていうのはたぶん、わたしにとってのその子と同じような存在なんだと思うの。だから、今のリューの話を聞いただけでも、ファルークの気持ちはわたしにもよくわかる。ねえ、リュー。わたしはただ、<本当のこと>を知りたいだけなのよ。耳に優しい嘘の言葉を聞かされるより、わたしが今聞きたいのは、本当のことだけなの」
アイリの覚悟の眼差しを見て、リューは意を決したように話を続けることにした。
「わたしたち竜部族の間ではね、自然、竜使いを多く輩出した家系が力を持ち、また周囲の人々の賞賛や尊敬を勝ち取ることになるのは、アイリも見ていてわかるでしょう?でも当然、部族の男たち全員が竜使いになれるわけではない……わたしたち竜部族の男たちには<成人の儀>というのがあって、竜の爪に体を傷つけられても、それに耐えられた男は成人と見なされるわけ。けれど、それの出来ない男が<成人>となれるふたつ目の道に、鉱脈源のある坑内で一晩すごすというのがあるわ。ようするに、危険な場所まで深くもぐって、珍しい鉱石を持ち帰るということね。アイリが元いた央界ではどうなのかわからないけど――ここパラドキアでは、一番の男の中の男と見なされるのが竜使いなの。あと、竜使いになれなかったとしても、竜の爪に傷つけられても耐えた男には、それなりの栄誉が与えられもする。でも、どんな深い地下へもぐって、どんな珍しい鉱石を持ち帰ったとしても……そういう男っていうのは、ここパラドキアじゃあんまりもてないの。でも、わたしたち竜部族の人口を支えてるのは、間違いなく彼らだと言っていいと思う。このことの意味が、アイリにはわかるかしら?」
「えっと、それはもしかして、竜に体を傷つけられることで、死ぬ人もいるっていうこと?」
「そういうことね。アイリの目にはもしかしたら、随分野蛮な習慣であるように見えるかもしれないけど……竜を手なずけるっていうのは、つまりはそういうことなのよ。まさに命がけってわけね。一匹の竜が自分にとっての主を選ぶまでの間に――大抵は、最低でも五、六人の犠牲がでる。アシュランスが騎乗してるバーミリオンなんて凄いわよ。たぶん、アシュが主になるまでに、軽く数十人は死んでるんじゃないかしら」
「へえ……」
この話をしていたのは、ファルークとアイリの新居でのことだったが、その時アイリはハーブティーを飲みながら、思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
パラドキア人については、今もって理解できないところが多いと感じてはいたものの――竜のために死ぬのはこの上もなく栄誉なことであり、ただの鉱夫で終わるよりも、竜の爪や牙にかかって死んだほうが良いとする習慣が、アイリにはやはりわからなかった。何より、<竜の手にかかって死ぬ>ことを自慢げに語るリューの気持ちが、アイリには今もってまったく理解できない。
「ただ、竜と一度番いになると……一度竜から主として認められさえすれば、彼らは本当に素晴らしい贈り物をわたしたちにもたらしてくれるの。でも逆にそのせいで、竜使いはその一生を独身で過ごすことも珍しくないのよ。ねえ、アイリ。それが何故だかわかる?」
「さあ……」
アイリはハーブティーを飲みながら、向かいのソファに腰掛けるリューに対し、曖昧な返事をかえす。アイリに言わせれば、彼女は相当な<竜気違い>で、竜のことを話しはじめると、どこか異様な目つき、顔つきになるのが常だったからだ。
「それはね、竜がわたしたちに見せる<夢>にその秘密があるの。このこと、わたしから聞いただなんて、ファルやファルのお母さんに言ったりしては絶対駄目よ。わたしはあなたを親友として認めるからこそ、この話をするんだから。結局のところ、わたしが何を言いたいかっていうとね……ファルにとってアイシャは、彼の竜であるファティマと愛しあうのに、なんの障害にもならなければ、邪魔にもならない女性だったんじゃないかっていうことなの。どこかほんわかしてて、子供みたいに純粋で――ファティマの性格が穏和なせいもあるだろうけど、少なくとも彼女はアイシャに嫉妬なんてしてはいなかった。アイシャが死んだ時、落ち込むファルークのことをファティマは夢の中で優しく慰めたんじゃないかって、わたしは勝手にそんなふうに想像してたけど……本当はそうじゃなかったのかもしれないって、ファルークがあなたと一緒にいる姿を見て、初めて思ったわ。むしろファルークは自分を責めるあまり――ファティマに慰められることすら拒んだのかもしれない。もしそうなのだとしたら……」
リューがまるで夢中になって独り言を呟くようにそこまで説明した時、ファルークが玄関前にある石段を上ってくる気配がした。それで、この話は中途のまま終わってしまったのだが、その続きについて、アイリはその後リューに問い質したりはしなかった。かわりに、自分の夫に直接こう聞いてみることにしたのである。「竜がその主に見せる夢とは、一体どんな種類のものなのか」と……。
対するファルークの答えといえば、「言葉では到底説明することは出来ない」というものだった。
「確かに、竜使いは自分の竜と<夢>を共有している。リューが何をどんなふうにおまえに説明したのかはわからないが――それでも夢は、やはりただの夢にすぎないんだ。どんなに素晴らしい夢を見たところで……いや、その夢が素晴らしいものであればあるほど、現実の世界へ戻ってきた時に、絶望的な虚無感がむしろ深まるということもありうる。アイリ、おまえも知ってのとおり、俺は口下手だから……何をどう上手く説明したらいいのかわからないけど、とにかくアイシャよりもおまえを愛していないとか、おまえよりもファティマのことを愛しているとか、これはそういうことではないんだ。そのこと、わかってくれるか?」
「……………」
その日、アイリは夫のファルークに背を向けたまま、ベッドの中で眠った。突然、信頼していた夫の優しさも誠実さも、すべてが偽善にまみれているように思えてならなかった。夢の中ではえも言われぬ素晴らしい体験を竜と共有し――そしてこれは心の浮気よりもさらに悪いことではないだろうか――結果として、そのことから生じる心のやましさから、夫が自分に対して必要以上に優しいのではないかと、アイリにはそう疑われてならなかった。
けれど今、アイリには別のことがわかってもいる。つまり、亡き妻のアイシャが与えられなかったものを自分が与え、また竜のファティマでさえ埋めることが出来なかった彼の心の間隙を、自分こそが埋められたのかもしれないということが……ファルークがいつも「うまく説明できるかどうかわからないが」という注釈付きでアイリに伝えたいことというのはつまり、そういうことなのだろうと。
ファルークの母親に対しても、アイリには言いたいことが山ほどあるが、こちらについてはほとんど諦めていたといっていい。嫁と姑の問題というのは、ここパラドキアであろうとエルシオンであろうと、国境などまるで関係ないということを、今はよく理解しているつもりだった。何より、故郷のイツァーク村でも、アイリ自身似たような話ならそれこそ山のように聞かされて育った。「母さんも、悪気があって言ったわけじゃないんだ」と母親を弁護するファルークに対し、(いいえ、今のは絶対わざとよ)と思うことがアイリに百度あったとしても――それはここ、パラドキアの女として生きることを決めた以上、自分が甘んじて受けねばならぬ試練のようなものなのだと、アイリは徐々にそう考えるようになっていた。
ただ、家事をよく手伝ってくれる優しい夫に、お腹の子が蹴る音を聞かせるという、幸せな瞬間を何度となく味わいながらも……アイリは今も時々、自分が苦しいくらいに孤独で寂しいと感じることがあった。そしてそんな時には、自分が登場しないだろう夢を竜と共有している夫の傍らで、アイリは声を押し殺して泣いた。
心にそうした形で<秘密>を持っているのは何も、夫のファルークだけではない。物質的には何不自由のない生活を与えられ、周囲の人々からも敬われ、心から愛する夫が隣にいながらも……これ以上何かを求めるなど、贅沢極まりないことだと感じながらも、アイリは安らかな寝息を立てる夫のすぐ隣で、静かに涙を流すことがあった。
そして、もしかしたら心の中で浮気のようなものをしているのは、何もファルークだけではないのかもしれないと、アイリはそう思いもする。そんなことを考えたところで詮無いことと、とうに諦めてはいても――いつも、どんな時にも、彼女の心はある一点から離れるということが出来なかった。その一点というのは、もし自分があの時、アシュランスの部下たちに攫われることがなく、周囲の反対を押し切ってでもシンクノアと結ばれる道を選んでいたらどうだったかということだった。
アイリの右の薬指には今、ファルークの祖先から代々伝わるという、古代竜の鱗を加工して作った、精緻な細工の指環がはまっているけれど……彼女の生まれ故郷である聖五王国では、結婚指環というのは左の薬指にはめるのが普通だった。そしてアイリは時々、自分のその指環のはまっていない左薬指を眺めながらこう思う。自分の左の薬指に結ばれているのは、他でもない幼馴染みのシンクノアとの絆以外にない、ということを……。
シンクノアが今はすでにもう、自分のことを仮に少しも想っていなかったとしても――彼という存在は、パラドキアというアイリにとって今も馴染めぬ土地で、彼女のアイデンティティを支えるとても重要な存在であり続けた。
愛する夫が同じベッドですぐ隣に眠っており、お腹の中に彼の子供がいてさえ、アイリにはあるひとつの夢を今も捨て去るということがどうしても出来ない。
それは、いつかシンクノアが自分を連れ戻しにここパラドキアへやって来るという、どう考えてもありえない、アイリ自身にも実現不能としか思えない、彼女にとっての見果てぬ夢だった。