第十八部第一章 舞台の移転その十
「しかし草原の方がいいのですか」
「モンゴル人にとってはな」
「遊牧ですか、やはり」
「チンギス=ハーンの時代から、いやそれ以前からか」
その言葉に懐かしさが混じっていた。
「我々は草原で生き、草原で暮らしてきた」
中国の北にあるモンゴルの大平原。そこが彼等の住処であった。冬は厳しく夏は暑い。人が生きるにはあまりにも過酷である。だがそこで彼等は暮らしてきたのだ。その過酷な場所が彼等を育ててきたのである。
「そして遊牧をしてきた。それだけで充分だと思うが」
「御言葉ですがあまりピンときません」
銀行員はこう返した。
「私は。街で生まれ育ってきましたので」
「なら仕方ないか」
バールはそれを聞いて少し寂しそうに笑った。
「街も農園も。草原ではない」
「はい」
「草原のことは草原でしかわかりはしないからな」
「その草原に戻られるのですか」
また問う。バールはその問いに笑って応える。
「君が研修の後銀行に戻るのとはまた違うがな」
「ははは、確かに」
「故郷に帰るんだ。そしてそこで死ぬまで暮らす」
「何処かに再就職はされないのですか?」
「モンゴル国軍にでもか?」
「統合作戦本部長ともなれば引く手あまただと思いますが」
「確かに再就職はする」
彼はそれは認めた。
「では」
「だがそこが遊牧なのだ」
そしてこう言ってくすりと笑った。
「遊牧が我々の仕事」
「羊を追い、乳を搾るのが」
「今から楽しみだ。馬乳酒があるな」
「名前は聞いたことがあります」
モンゴル伝統の酒である。馬の乳から作った酒である。あまりアルコール度は強くはないがモンゴル人達はこの酒を浴びる様に飲む為かなり酔うのである。
「あれはこうした場所で飲んでも美味くはないんだ」
「そうなのですか」
「普段から飲んでいるがな。やはり街で飲むものではない」
「草原で、ですか」
「そうだ。あの酒もまた草原で飲むのがいい」
彼は言った。
「それはわかるだろうか」
「これまた御言葉ですが」
「やはりわからないかな」
「はあ。あの酒は飲んだことがありませんし」
そう答える。その表情は本音のものであった。
「今では普通に街にも売っているがな」
「私は酒に関しては実は偏食家でして」
「何を飲むのだ?」
「コニャックです。それ一本です」
「コニャックか」
中々面白い酒が出て来た。
「はじめて飲んだのがあれで。そして今までずっとコニャックです」
「あれも悪くないがな」
「妻と酒は一つと決めておりまして」
「エクアドル人にしては珍しいな」
バールはそれを聞いて顔を崩した。
「酒はともかく妻は一つというのは」
エクアドルの男は遊び人とされているのである。それでエクアドルの女は常に焼き餅を焼いているのである。もっともこれは連合どころか人類社会全てで言えることであるが。浮気は女がするものより男がする場合が圧倒的に多い。そして焼き餅を焼くのが女の仕事なのである。
「いや、案外多いものですよ」
銀行員はバールにそう反論した。
「そうした男も」
「私の知っているエクアドルの男はどれも遊び人だぞ」
「まあそうした輩もいますが」
「もっともモンゴルの男もだがな。金内相に睨まれそうな奴ばかり知っている」
モンゴルの男はおおむねおおらかである。草原で生きている為そうなっていったとも言われている。この時代の草原での生活はかつてのそれとは全く違うのどかなものになっている。科学技術の進化がそうさせたのだ。
「あの内相は男女関係にも五月蝿いそうですね」
「あの人はまた特別だ。内務省は要塞と化している」
「はい」
「君には案外合っているかも知れないが」
「冗談じゃないですよ」
彼は口を尖らせてこう言い返した。
「あそこだけは勘弁して欲しいです」
「そんなに嫌か」
「うちの銀行ではあそこへの研修は罰ゲームとさえ言われています」
「評判が悪いのだな」
それを聞いてバールは顔を顰めさせた。
「悪いとかそういう問題ではなく。息が詰まります」
「入っただけでそれがわかるしな」
「あの厳格な空気に耐えられないのですよ」
「国防省でもそれは有名だ」
「それに引き換えここは穏やかですね」
「長官が優しいからな」
バールはそれに応えて言った。
「軍律は厳しいがそれ以外は」
「成程」
「おおらかなものだ。ここが気に入ったみたいだな」
「イスラエル財務省みたいなことはないですね」
イスラエル財務省は厳格で有名だ。連合の影の実力者の金庫番だけはある。
「あそこは内務省の様な感じか?」
「かなり違いますね」
上を向いて考えながら述べた。
「緊張した空気があったのは事実ですが」
「内務省の様な厳格な空気ではない」
「影を感じるものではありました」
「影か」
それを聞いたバールの顔が微妙に動いた。
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