第九部第四章 婚礼その四
「行くか。マルヤムと婿殿が待っている」
「そうですね。では行きますか」
「ああ、行こう。父上とアブーはどうしているかな」
「父上はずっとマルヤムの側におられますよ。アブーは式場の警護も兼ねているので向こうにもうおります」
「そうか、ならいい。しかし父上も余程マルヤムが可愛いようだな」
「昔からですね、それは」
フラームは言った。
「父上はマルヤムを子供の頃から本当に可愛がっておられましたから」
「そうだな。私達の中で最もな」
「はい。やはり父親にとって娘とは特別なものなのでしょう。それはわかります」
「そうしたものか」
「私には息子しかおりませんがね」
まずはそう断った。
「ですが傍目で見ているだけで何となくわかるような気がします。それは兄上とて同じではないですか」
「私がか?」
「ええ。兄上にもおられるではありませんか」
「確かにな」
シャイターンはあのハルーク家の夫人の他に三人の妻がいる。イスラムの戒律においてそれは認められているので問題はない。一人はまだ十代の娘、一人はかって彼の側にいた侍女の一人、そして最後は政略により結婚した良家の子女である。この良家の子女は北の有力者の家の娘である。それぞれの間に子をもうけている。五人おり侍女あがりの妻は双子を産んでいる。まだ赤子であり一方が娘なのである。
「この間産まれたばかりだ」
「でしたね。ようやく半年といったところでしょうか」
「確かに息子に対する感情とは異なるな」
「やはり」
「だがシャイターン家の娘の運命は決まっているからな。それはわかっているつもりだ」
「はい」
フラームはそれを聞いて顔を引き締めさせた。
「それは私に娘が産まれた場合もですね。当然アブーにも」
「言うまでもないな」
「ええ」
フラームは頷いた。
「アブーにもこの前息子が産まれましたが。どうもシャイターン家は男がよく産まれるようですね」
「男は男で使い道がある」
彼はそれを聞いて一言そう言った。
「だが女はそれ以上だ。単に子供を産むだけではないのだ」
「はい」
「色々とやってもらうことはある。当然マルヤムにもな」
「シャイターン家に産まれた女は不幸ですね」
「不幸?それは違うな」
弟の言葉を打ち消した。
「これは時代の宿命だ。アッラーが定められたことだ」
「時代の宿命ですか」
「そうだ。戦いの中にあっては男は武器を手にして戦う。だが女もまた戦わなければならないのだ」
「だからこそですか」
「うむ」
シャイターンはここで頷いた。
「マルヤムにも戦ってもらう。シャイターン家の為にな」
かって政略結婚は単なる家と家、国と国の結び付きを強めるだけではなかった。嫁いだ先への外交官でもあり時にはスパイでもあった。欧州においてはハプスブルク家が婚姻政策を多用したが彼等は婚姻先の王位等を継承することが多かった。不思議にその先の後継者達が世を去りハプスブルク家の者が後を継ぐのである。そこには謀略もあったかも知れないが婚姻政策の成功例である。
日本においては織田信長がよく使った。彼は浅井長政に美貌で知られる妹のお市を嫁がせたが彼女は兄の危急を知らせたこともある。兄に似て頭の回転が早く、信長もそれを知って彼女を浅井家に嫁がせたのである。彼女も幸福とは言い難い一生を送ったがそれも戦国の世であったからであろうか。それは当然シャイターンも知っている。
「もっともシャイターン家の誰かの為に戦うかも知れぬがな」
「?それはどういうことですか。またそのようなことを」
「口が過ぎたな。これも忘れてくれ」
「はい」
また言葉を打ち消した。
「話が過ぎたな。本当にもうこれで行こう」
「わかりました。それでは」
「うむ」
こうしてシャイターンとフラームはマルヤムの婚礼の式場に向かった。だがその頃当のマルヤムはまだ動いてはいなかったのであった。
彼女は自身の部屋で侍女と父に囲まれていた。父ムシュタは妹の純白の婚礼の礼装を見て顔全体を緩ませていた。
「おお、何という美しさだ」
彼は娘を前にして感嘆の声を漏らした。
「御前の母にも見せてやりたかったぞ」
「そんな、御父様」
マルヤムは父にそう言われて頬を赤らめさせた。見れば彼女は白いダイヤが飾られた礼装に身を包みヴェールを被っている。その姿はまるで天界のペリのようであった。
「残念だった、本当に」
ムシュタは口惜しそうに呟いた。
「あれがここにおればな」
マルヤムの母はシャイターンやフラーム、アブー達の母でもある。ムシュタにも四人の妻がいたが子が産まれたのはこの妻だけであった。彼女は元々身体が弱く四人の子を産んだ後暫くしてこの世を去った。ムシュタはそれを今でも惜しんでいるのである。
「本当に母にそっくりになってきたな」
「またそんな」
「いや、本当だ」
ムシュタは首を横に振って言った。
「私はずっとあれの顔を覚えている。一時たりとも忘れたことはない」
「御父様」
「御前は覚えてはいないだろうな。それも仕方ないか」
「はい」
それに頷くしかなかった。母キョセムはマルヤムが幼い頃に亡くなっている。その顔は写真等でしか知らない。温もりも知らないのである。
「あれは本当に美しい女だった。今の御前のようにな」
「そうだったのですか。けれど私なんかはとても」
「マルヤム」
ムシュタはここで娘の名を呼んだ。
「はい」
「御前はその美貌と才知には自信を持ってよいのだ。それはアッラーが授けられたものなのだからな」
「そうなのですか」
「そうだ。だから御前は今ここにいる。そしてアッラーが御前に婿を授けて下さる。それを心から感謝するように」
「わかりました」
マルヤムはそれを受けて頷いた。
「御父様の御言葉に従います」
「うむ。そうしてくれ。そして」
彼は言葉を続けた。
「幸せになってくれ。よいな」
「はい」
見ればムシュタは今は完全な父親の顔であった。奸智と謀略を駆使してきた男とは思えない顔であった。これも彼の顔の一つであったのだ。
「それでは行こうか。いや、待ってくれ」
「どうしたのですか?」
「これを忘れていた」
彼はそう言うと懐から一つのダイヤを取り出した。白い大きなダイヤであった。
「これを御前に渡そう」
「そのダイヤは一体」
「これはな、かって御前の母が持っていたダイヤだ。私が婚礼の時に渡したものだ」
「そうだったのですか」
「うむ」
ムシュタはマルヤムにそれを受け渡しながら言った。
「御守り代わりに持っておくといい。これには御前の母の思いがこもっている」
「お母様の」
「そうだ。御前は一人ではない。常にアッラーと母がいることを忘れるな」
「はい」
「はっきり言えば私やメフメット達のことは忘れてもいい」
彼は優しい声で娘に対してそう言った。本当に優しい声であった。
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