第九部第二章 虚の兵士達その八
「アッバース共和国軍の奮戦は最早伝説になっております」
「マラケシのものもな」
「有り難うございます」
「エウロパの大軍を相手に一歩も引かず戦い抜いたと聞いている」
「その通りです」
ワフラは誇らしげにそう答えた。
「あの時エウロパ軍は我が軍の十倍の数でもって攻めて来ました」
「うむ」
「しかし我々は祖国を背に一歩も退かず果敢に戦いました。それこそが誇りです」
「それはアッバースもだ。我等にもサハラの誇りがあった」
「サハラの誇りですか」
「アッラーの使徒としての誇りがな。侵略者、いや十字軍に敗れるわけにはいかなかったのだ」
「十字軍」
「違うか」
「いえ」
ワフラは彼の言葉に首を横に振った。
「言われてみればその通りです」
「そうだろう」
それを聞いて満足そうに首を縦に動かした。
十字軍とはエルサレム奪還を名目に欧州各国が中東に侵攻したものである。ことの発端はビザンツ帝国がイスラム勢力との戦いに西欧各国に傭兵を依頼したことであった。それにローマ=カトリック教会が乗ったのだ。
この時のローマ教皇がウルバヌス二世であった。優れた政治家であった彼はすぐにこれを大規模なものに発展されクレルモンの公会議で十字軍を送ることを決定した。こうして西欧各国から大軍が送られた。だが中東に向かったのは兵士達だけではなかった。
移民や商人達もいた。これこそが十字軍の本質であった。領主達も中東に居座るとそこに国を築いていった。エルサレム奪還は名目に過ぎず、移民や利権、領地の獲得こそが本来の目的であったのだ。
彼等は正義を旗印にしていた。それも名目に過ぎなかった。彼等が中東で行ったことは正義とは全くの正反対であったのだ。
ムスリム達を虐殺し、その肉を食らった。カニバリズムであった。人肉食はよく中国の歴史書に出て来る。飢饉の際や戦乱において行われるのだ。城を包囲すると死人や自分の妻子を食べていくのだ。また猟奇的な嗜好により人を食らう場合や薬として食らう場合もある。処刑された者の血を饅頭に浸して食べたり切り刻まれた肉を食べるといったことがあったがこれは結核や吹き出物の薬になると言われたからであった。実はフランスの貴族達にも全く同じ話があった。彼等は人の血は強精の薬になると信じていた。その為夜遊びの後には処刑場で殺されたばかりの死刑囚の血を飲んでいたのであった。このことからも欧州でもカニバリズムがあったことがわかる。
中国では歴史書にそれが載っている。だが欧州においては童話にそれが隠されている。中国よりもさらに貧しい地域であった欧州では飢饉が頻発した。その為人が人を食らうこともあったのである。一説にはアメリカ開拓史においても原住民達が食われていたともいう。
グリム童話には人を食らう魔女の話がある。ヘンゼルとグレーテルだ。そしてキリストの聖餅の儀式にもそれが隠されている。赤いワインはキリストの血、パンはキリストの肉なのだ。古代にも欧州においてはカニバリズムの風習があったのである。ギリシア神話にもそれがある。
そうした世界にいる十字軍の兵士達が人を食らうのは当然であったのであろうか。元々異教徒であるから人だと思わなくてもよかった。だからこそさらに残虐になったのだ。しかし彼等の残虐性はムスリムだけに向けられたのではなかった。
彼等は同じキリスト教徒達も虐殺した。エルサレム陥落の折街は血で膝まで浸かったという。彼等はその際ムスリムだけを殺したのではなかった。同胞も殺戮の対象としたのである。当時中東にはイスラム教徒達に混じってキリスト教徒達もいた。イスラムは異なる宗教の存在を認めていた。税さえ納めれば彼等はその信仰を許した。この際ムスリムになった場合の様々な特典を啓示していたことが巧妙であったのだが。信仰は強制であっては何にもならないというムハンマドの考えであった。そして同じ啓典の民であるユダヤ教徒、キリスト教徒達を優遇した。その為エルサレムにおいてもキリスト教徒達がいたのであった。
「異教徒と混じっていることこそ罪だ」
十字軍の考えはこうであった。それが為に彼等も殺された。そして後には同じキリスト教国のビザンツ帝国にも攻撃を仕掛けた。帝都コンスタンチノープルは陥落し三日に渡って掠奪が行われた。これこそが十字軍の本質であった。彼等は単なる野蛮で残虐な侵略者に過ぎなかったのだ。これに対してイスラムの英雄サラディンはエルサレム奪還の折キリスト教徒達の安全も保障している。彼等とは全く正反対の人物であったのだ。
それを今この老人は口にしていた。確かに彼等にとってはそうであった。
「流石に掠奪や虐殺はなかったがな」
「はい」
「だが奴等が国を奪ったことは事実だ」
「そうですね」
「このハサン=マシュハド」
そして自らの名を口にした。
「あの時のことは一日たりとも忘れたことはない」
「アッバースとエウロパの戦いは壮絶なものでしたから」
「そうだ」
彼はそれに応える。
「わしはその時も戦場に立っていた。一歩も退かずにな」
「ええ」
「その結果がこれだ」
そこで自らの左手を見せた。それは義手であった。
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