第三十二部第五章 決戦を前にしてその十九
「万全の調子でな」
「それだけ激しい戦いになると」
「それは間違いない」
アヤグーズにとってはその存亡をかけた戦いでありハサンにとってもまさに正念場である。これはシャイターンでなくとも容易に想像できることであった。
「だからだ」
「ではそのように」
「御前も休むのだ」
末弟に直接顔を向けて声をかけた。
「御前もな。よいな」
「私もですか」
「将兵もだと言った筈だ」
また末弟に対して声をかけた。
「これは命令だ」
「命令ですか」
「そうだ。そして私もだ」
シャイターン自分自身についてもそうだと言うのだった。
「私も休息を取ろう」
「兄上もまた」
「私とて人間だ」
こう言って微笑んでみせる。
「ならば。休まなくては身体も精神も参ってしまうだろう」
「確かに」
シャイターンは己の能力や素質に絶対の自信を持っている男だ。だが決して過信はしていないしましてや己を神だとも言ったりはしない。むしろムスリムとしての考えから己をアッラーの前にいる人間だと考えているのだ。アッラーのみが神であるのがイスラムであり他は全て同じ人間なのだからだ。
「それはその通りです。それでは」
「休息の後ですぐに艦橋に戻る」
これは艦橋にいる全ての者達に対する言葉でもあった。
「ただしだ」
「ただし?」
「閣下、何か」
「何かあればすぐに起こすように」
こう言うのは忘れなかった。
「それはくれぐれもな」
「はっ、それはもう」
「承知しております」
旗艦イズライールの士官達がそれに応える。ティムール全軍の旗艦にいる士官達らしくその返答は実に立派なものであった。
「ですから閣下、ここは」
「安心してお休み下さい」
「ではそうさせてもらおう」
シャイターンも彼等の言葉を受けて安心した面持ちで頷いた。見れば前にいるイズライールの士官達はその動きも表情もいい。信頼に足るものであった。
「安心してな。だが貴官達もだ」
「はい」
「当直以外は休むようにな」
このことを伝えることを忘れなかった。
「くれぐれもな。無理はするな」
「わかりました」
「すぐに嫌でも無理をする時が来る」
その時こそが決戦の時である。これはもう言うまでもなかった。あくまで決戦の前の英気を養う休息なのだ。言うならば弓の弦を緩めているのだ。
「だからこそだ」
「それでは」
「我々も」
「そういうことだ。休むのだ」
言いつつ自らも踵を返してみせる。するとそのマントが大きく動いた。赤いティムール軍の軍服に漆黒のマントが映える。赤と黒、それは青と白のオムダーマンのそれとは実に対称的であった。それぞれデザインは違うがやはり対比されるものがそこにはあった。
「今はな」
「はっ」
「それでは」
「では行くぞ、アブーよ」
「わかりました。兄上」
末弟は長兄の言葉に従い彼もまた艦橋を後にした。二人は艦橋のスタッフ達の敬礼を受けてその艦橋を出た。そのうえでそれぞれの部屋に戻るのだった。
その中で彼はまた。アブーに対して声をかける。彼はずっと長兄のすぐ後ろにいた。
「それでだ、アブーよ」
「はい」
「ブルコルジ女王だが」
「あの女王ですか」
「どう思うか」
こう彼に対して問うてきた。
人気サイトランキング
小説・詩ランキング
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。