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第二十九部第一章 オムダーマンの沈黙その十
「特に困ったことは何も。それに」
「それに?」
「退屈もしていないわ」
 まま微笑んでいるのがわかる言葉であった。
「彼女達がいてくれているから」
「遊んでもいるのか」
「ええ」
 夫の言葉に対して電話の向こうで頷いてみせる。
「彼女達とね」
「そうか。ならいい」
 それを聞いて彼も安心した顔になるのだった。
「困っていないのだったらな」
「いえ、困っているわ」
 しかしここでこう言ってみせてきたのであった。
「何故ならね」
「何かあるのか」
「貴方がいないことよ。これは仕方ないけれど」
「そうか」
「もっともこれはわかっていたわ」
 マルヤムは落ち着いた様子でこう述べてもきた。
「そうしたものだから。軍人の家というものは」
「わかっているのだな」
「わからない筈がないわ」
 こうも夫に対して述べる。
「私の家もそうなのだから」
「シャイターン家か」
 言うまでもなくメフメット=シャイターンの家だ。本来は宗教家の家であるのだがそれでも軍人であることには変わりがない。とりわけ長男である彼はそうである。
「そうよ。だからわかってはいるのよ」
「家族や夫がいない間はか」
「ええ」
 そういうことであった。やはり事前に知っていることは大きかった、
「だから慣れてはいるわ」
「そうか。しかしだ」
 ここで彼はさらに言う。
「不安はないのだな」
「不安?」
「そうだ。戦争に行っている」
 彼はそれを言うのだった。やはり戦争に行っているからには万が一ということもある。彼が今言っているのはそのことに他ならなかった。
「若しものことがあれば」
「それは覚悟のうえよ」
 それに対しては言葉が少し険しいものになっていた。
「そうしたことはね」
「そうか」
「それもまた軍人の家だから」
 彼女は言うのだった。
「わかっていることよ。いざという時は」
「既に覚悟しているのか」
「そうよ。それに貴方は」
「私は?」
「決して死ぬことはないと信じているから」
 これはいささかどころかかなり矛盾している言葉であった。だが彼女はそれをあえて夫に対して言ってみせたのである。それには理由もあった。
「何故なら」
「何故なら?」
「貴方はまだ掴むものがあるからよ」
「まだか」
「ええ、そうよ」
 そう夫に対して告げる。
「今よりもまだ大きなものをね」
「それは何か」
「これからわかるわ」
 だがそれからはあえて言わないのであった。
「これからね。戦っていればね」
「戦っていればか」
「そういうことよ」
 そう夫に対して告げた。
「だから死ぬことはないわ。安心していて」
「戦いを続け果てには何があるか」
 アッディーンは半ば呟くように言う。
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