夏のある日
ぱしゃり、と足で水を弾く。
素足にかかる水は柔らかく、冷たい感触は心に一種の安らぎを与えてくれるようだ。
私はぐるぐると足で水をかき回しながら、ぼんやりと空を見上げた。
盥に氷を入れ水を張る方法は、今時珍しい納涼方法だと思う。
縁側の縁に浅く腰掛けて、私はまた、ぱしゃん、と水を蹴った。
空には満点の星空が広がっている。
街中と違い、祖母の家があるこの田舎は、周りが田んぼに囲まれていて余計な明かりがない。
そのため家の中からでも星が拝めるほどに、町全体がしんと静まり返り、深い闇につつまれていた。
何かいいなぁーこういうのも。
ぱたぱたと団扇で顔を仰ぐと、開けっ放しの窓に向かって、蛾がひらひらと飛んできた。
鱗粉をたっぷりと乗せた重そうな羽を、これまた重そうな胴体に乗せて、よたよたと飛んでくる。
上へ下へと安定しない動きをしながらも、そいつはゆっくりと部屋中へと侵入していった。
まぁいっか。
一通り蛾の行く末を見つめた後、また外へと視線を戻すと、今度は遠くの方からゲコゲコと言う声が聞こえてきた。
周りが田んぼであるから蛙くらいいるだろうが、それにしても凄い声だ。
丁度繁殖期なのかもしれない。
ゲコゲコゲコと忙しなく鳴く声は、人間の私にはとても求愛をしているようには聞こえないが、蛙の世界ではあれが精一杯のラブコールなのだと思うと、ほんの少し笑えた。
暑苦しく思えるほどの盛大なラブコールに耳を傾け、何となく空に向かって手を伸ばしてみる。
よく、星空に手が届きそう、などと言う表現を見るが、正直それは間違っていると思う。
こうして実際見て思うのは、本当に美しいと感じたとき、それは届くどころか圧倒的な敗北感の元、絶対届くことがないと言う諦めにも似た感情が感じられるはずなのだ。
今見ている星空も、手を伸ばしても届くどころか、逃げていくよう。
寧ろ手を伸ばすことで、手が届かないことを再認識させられたような、そんな虚しさが心を掠める。
手を伸ばしたついでに、斜め上に見えている月を、指の間に絡めてみる。
今日は十六夜月。
満月から下の部分をほんの少しだけ齧った様な、ほぼ丸に近い月。
薬指をそっとへこんだ部分に沿わせると、指の上に丸く輝く部分だけが見えて指輪のように見える。
月は高く小さく、それは銀色に輝くパールのようだった。
ぱしゃっ。
氷が半ば解けて、温くなった水から足を上げる。
用意してあったタオルで丁寧に水気を取ると、しわしわになった指が目に入った。
どうやら長い間水に浸かり過ぎたようだ。すっかりふやけてしまっている。
手でぎゅっぎゅっと足の指を揉んでやると、冷えていた指先に徐々に血がめぐり始めた。
縁側から半身を乗り出す。
すぐ足元にある盥を指に引っ掛けて、その場でばしゃっと引っくり返した。
土がむき出しになった庭に、小さな水溜りが出来て、すぐに水を舐め取るように吸い込んでいく。
相変わらず耳に煩い蛙の声を聞きながら、明るい室内に目を向ける。
そこのは先程進入を許した白い蛾が、電灯に向かってぱちぱちと弾けていた。
夏だなぁ。
私はもう一度だけ空を見上げると、盥を縁側に立てかけ、ゆっくりと部屋の窓を閉めた。
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