雨の日
ぱしゃん。
顔の上ではじけた雫に片目を閉じて、僕は空を見上げた。
どんよりと曇った空。
それは油絵の具のパレットに、白と灰色を混ぜたような、水彩とは違う硬質な色をしていた。
あぁ、ついに降ってきたかぁ。
僕は後ろを歩いているはずである彼女の手を何も言わずに取ると、足早に横断歩道を渡った。
青く明滅を繰り返す信号機が、睫毛についた雫で滲んで見える。
白、黒、白、黒、と繰り返される道路は、すぐにその単調な模様を切り上げて、僕らを歩道へと押しやった。
横断歩道を渡りきって後ろを振り返ると、彼女がゆるくウェーブのかかった髪に、沢山の水滴をつけて、大きく肩で息をしていた。
大丈夫?と小さく問いかけると、吐息交じりに、大丈夫、と言う声が聞こえてくる。
彼女の肩についた水滴をぱっぱっと手で軽く払うと、僕は近くに雨宿りができる場所がないかと首を巡らせた。
正直この辺りは詳しくない。寧ろ大学の近い彼女の方が詳しいのではないだろうか。
そう思って彼女を見ると、意図を察したのか、今度は彼女が先を歩き始めた。
知らず離れそうになる手を握りなおし、雨で奪われる体温をそこから得ようとでも言うように、僕はぎゅっと力をこめる。
足元でぴちゃぴちゃと跳ねる水がジーンズを濡らす。
彼女はサンダルをはいているから、きっと足もびちょびちょに違いない。
皮に張り付く水と、そこを滑る素足の感触は、不快以外の何者でもない。
スニーカーに染み入る水もまた然りだ。
二人で雨の中をしばらく歩くと、目の前に深緑の看板を設けた喫茶店が見えた。
すでにぐっしょりと濡れそぼった二人が手をつないだまま扉を開くと、いらっしゃいませ、と言う低い声が聞こえてくる。
珈琲の香ばしい香り漂う店内は、今時珍しいんじゃないかと思われるくらい、シックな造りをしていた。
暗く店内を照らし出す電球や、磨きこまれたフローリング。つんと鼻をつく匂いは、図書館の中を思わせる。
ジャズが控えめに二人を向かえ、彼女に連れられて一番奥の窓際の席に着くと、しばらくしないうちにマスターが注文を取りにきた。
珈琲ふたつ。
当たり前のようにそう頼む彼女は慣れたもので、どうやら初めて来た所ではないらしいことが伺えた。
ここの珈琲美味しいのよ。
うれしそうにそう話す彼女は、顔に張り付く髪を耳に引っ掛けながら笑った。
挽きたての珈琲を入れてくれるの。私の隠れ家。
へぇ。
そう相槌を打ちながら窓の外を見ると、やはり雨は降っていた。
心なしか、店に入る前よりも雨脚が強くなっている気がするのは気のせいだろうか。
雨やまないな、と小さく呟くと、彼女はんー、と気のない返事をした。
彼女はごそごそと鞄の中から一冊の小説と一枚のタオルを出すと、丁寧にその上にふりかかった水滴を拭き出した。
彼女はいつどこでも小説を持ち歩くほどの小説フリークである。
しかし自分の身体を拭くより先に、小説を拭き始めるとは思わなかった。
ほら。
そうやって僕のハンカチを放ると、少し驚いた顔をして、やっと気づいたように自分の顔やら腕やらを拭き始める。
私小説がぐちゃぐちゃになるの、許せないの。
ぽつんと呟いた声が、誰もいない店内に響き渡った。
僕が適当に相槌を打つと、彼女は僕のハンカチを頭に乗せたまま、またタオルで小説を拭き始めた。
水で紙が浮くのも、表紙とかが折れ曲がって跡が付くのも、本にページを開いたときの跡が残るのもイヤ。
ふふっと口元を緩ませて笑うと、彼女はいたずらっぽく目を光らせて、僕を見つめた。
昔ね、弟が私の本を開いて伏せたまま寝てたの。
くすくすと笑いながら、彼女は丁寧に本の水気を吸い取っていく。
私すぐに本を閉じて。
ぱんぱん、と水を弾くと、彼女は鞄にそっと本を忍ばせながら、くすりと笑った。
弟をね、近くにあったクッションで叩いたのよ。
あははっと軽く笑う彼女を見ながら、僕は恐ろしい女だな、と微苦笑した。
彼女はそんな僕の言葉を気に留めた様子もなく、頭に乗せたハンカチをするりと落とすと、指の間を丁寧に拭いた。
だってね、本は私の人生だから。あの時こんな本読んでたんだなって思うとね、それに伴う人生が思い出せるもの。
好んで読んでた作家さんとかジャンルとか。
自分が何を考えてたのか、日記を読むように本を読むことでまた思い出せるのよ。
ぱたぱた、とハンカチを振って皺を伸ばすと、彼女はゆっくりとそれを畳む。
同じ作品でも、その時々で感じ方が違う。だから人生そのものなの。
にっこりと笑う彼女は、これ洗濯したら返すわね、と言ってハンカチを静かに鞄へ閉まった。
お待たせいたしました。
珈琲の香りとともに、低い落ち着いた声が聞こえて、かちゃん、と目の前に湯気立つ珈琲が置かれた。
見事は白髪のマスターは、白のパリッとしたワイシャツに黒のエプロンをしている。
その姿はこの喫茶店に何の違和感もなく溶け込んでいて、喫茶店同様の深い歴史のようなものが感じられた。
ありがとう。
そう言って珈琲カップに手を伸ばすと、先にカップを手にしていた彼女に視線を移した。
両手で包み込むように持つカップからは、僕のものと同様白い湯気が立っている。
彼女は一時手に伝わる温もりを楽しんだ後、ゆっくりと口にその液体を流し込んだ。
あぁ美味しい!
ぽぅっと熱に浮かされたような目をした彼女は、実は珈琲フリークでもあったのかもしれない。
彼女がこの喫茶店で小説を片手に珈琲を飲む姿が、僕には容易に想像出来た。
僕はそんな彼女を想像して微かに微笑みを顔に浮かべると、熱い茶色の液体を喉へ通した。
僕はミルクも砂糖も入れない、ブラック派だ。
入れない理由は特にないのだが、気づけばブラックを飲んでいて、それが当たり前になっていた。
あ…美味い…。
思わずそう呟くと、彼女が今まで見たこともないような、満面の笑みでにっこりと笑った。
そうでしょう。
幸せそうに珈琲を飲む彼女は、テーブルに両肘を付いてカップを支え持ったまま、窓の外を見た。
晴れたねぇ。
珈琲カップから口を僅かに浮かせ、彼女はゆっくりと瞬きをする。
眩しそうに目を細めて、僕も彼女から窓の外へと視線を移した。
ほんとだ。
外には僅かに湿気を含む、涼やかな日差しが差していた。
表の通りには傘の下から顔を覗かせ、雨の変わりに降り注ぐ日の光に微笑む人々が、濡れたガラス越しに見える。
そろそろ行くか。
そう呟いて、僕はゆっくりと席を立つ。
大気中に残る雫が乱反射して、僕らの席に虹色の影を落とす。
僕はそれを確認して、
また彼女の腕を取った。
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