業火
「熱いよぅ、熱いよぅ」
真っ赤に燃える業火の中で、少年は小さく呟いた。
前も後ろもすでに火が回っていて、ついさっきまで寝ていた寝室は今や火の海と化していた。
「おねぇちゃん…おかぁさん…」
ずるずると重いからだを引きずりながら、少年はぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す。
ほんの少し先には姉と母親が並んで倒れている。
辛うじて開けられた窓は地上から10メートルは離れていて、とてもじゃないが飛び降りれない。
「助けて…」
熱い、物凄い熱風がゴォゴォと階下から三人を炙るように吹き付けてくる。
「…助けてーっ!」
甲高い、自分のものとは違う声が後ろから聞こえてきて、少年はパッと後ろを振り返った。
げほげほと苦しそうな咳を繰り返す姉が、少年に向かってニッと笑ってみせる。
大丈夫、大丈夫だよ。
そう繰り返し伝えてくるみたいに、姉はかすれた声を必死に張り上げる。
きっと叫ぶのも辛いだろうに、姉はただただそれだけを叫んで、弟である少年に窓辺まで行くように促した。
ふいに外が騒がしくなって、少年には少し高い位置にある窓から顔を出すと、正面の家から人が飛び出してくるところだった。
「―ちゃんっ!」
多分少年の名前を呼んだのであろう声が、悲鳴に近い声で少年のもとまで届く。
絶句するように燃え盛る家を見上げた後、人影はさっと踵を返して元いた家へと飛び込んだ。
何をするのかと見ていると、今度は窓のすぐ下に布団をひいて、
「飛び降りなさい!」
と言う声が聞こえてきた。
布団は薄く、とてもじゃないが飛び降りて無事ではいられそうにない。
少年はおたおたと布団と室内に視線を往復させ、ぐすんと鼻をすすった。
ぶわっと視界を透明な膜が覆って、少年はひっく、としゃっくりを上げた。
三階にある寝室の窓からは、その布団は酷く頼りなさげに見えた。
するとそれに気づいたのだろうか。人影は更に布団を出してきて、どんどん積み上げていく。
外の騒がしさに驚いて飛び出してきた隣の人も一緒になって布団を積み、いつの間にかそれは十数枚にも及んでいた。
「早く飛び降りなさい!」
下から慌てたような声が聞こえたとき、少年は下からうねる様に近づく炎が更に火力を増したことを知った。
突然押し入ってきた炎は部屋を嘗め回すように広がり、窓を開けていることも手伝って急速にその勢力を強めていく。
「お、おかぁさん!」
入り口付近に倒れていた母親が炎に包まれるのを見て、少年は悲痛な叫び声を上げた。
「い、きなさい…」
ぐいっと足をつかまれた感触にびくりと身体を震わせ下を見ると、姉が少年の足に手をかけていた。
姉の下半身が炎に飲み込まれているのを見て、少年はひっと息を呑んだ。
徐々に侵食され、炎に包まれる姉は少年を窓枠の方へと押しやる。
ついに少年のズボンにも飛び火し、全身へと猛烈な侵食が始まった。
「早く行きなさい!」
姉が叫ぶのを聞いた瞬間、少年の身体は空中へと放り出されていた。
炎に包まれ、朦朧とした意識の中慌てて首をめぐらすと、力尽きたように窓枠からずるりと消える姉の手が見えた。
「おねぇちゃーん!!」
少年はそれを最後、気を失った。
目が覚めるとそこには見慣れない白い天井があった。
「…」
声を出そうと口を開けかけたが、何故か声が出ない。
くぐもった荒い息だけが自分の意思に反して口から漏れ出るばかりで、一向にそれが声になる気配はなかった。
「先生!意識が回復しました!!」
突然ドアの向こう側から聞こえてきた声に、少年はぼんやりと誰のことを言っているのだろう、と考えた。
死んだと思ったが、どうやら一命を取り留めたらしい。
どうして助かったんだっけ?
そう考えて、少年はふいに白濁した意識の中から引っ張り出されるような感覚を覚え、それと同時に吐き気を感じた。
ぱたぱたと忙しなく近づいてくる音に視線をそちらへやると、瞼の腫れた父親がそこには立っていた。
泣いてたの…?
珍しいものを見た、そんなことを思って、少年は視線をふわりと左右に振った。
すぐ近くにいると思ったのに、他の二人はどこへ行ったのだろう。
きゅっと眉根を寄せると、口につけられていた変な機械を外された。
「…かあ…さん……おねぇ…ちゃ…んは…」
微かに吐息とともに吐き出した声は、まだあの時のまま熱を持っているかのようだった。
ぜぇぜぇと繰り返される呼吸は、途中でつっかえ気味に咳をしながらにしか出来ない。
そんな中呟いた声に父親はハッとしたように少年を見、そして、微かに唇を振るわせた。
それはまるで謝罪の言葉のようで、少年はほんの僅かに怪訝な顔をする。
何を謝ることがあるのだろう。聞きたいのは母親と姉の居場所なのに。
そう思うのに、一向に答えを言う気配のない父親に焦れて声を出そうとするが、今度は上手くいかない。
声は咳にかき消されて、父親の耳に届かせることができない。
今はどこに…そう焦る気持ちが父親に伝わらず、ただひたすら焦る自分がいた。
何故こんなに焦っているのかと自分でも思うほどに―。
それでもしばらくの間じっと父親を見ていると、ころん、と父親の目から何かがこぼれ落ちた。
「お星様に、なったんだよ」
何かがぷちん、と切れる音がした。
今まで必死に否定してきた何かが。
最後に見た姉は、弟だけを助け、そして死んでいった。
きっと助けを呼ぶために叫んだり、弟を窓から落とすために体力を使わなければ助かったのに。
「おねぇちゃん…」
その声は大気に吸い込まれるように、誰にも届かず消えていった。 |