恐怖体験
カチャリ。
そんな音が玄関の方から響いてきて、カンナはびくりと体を震わせた。
玄関の扉が風で開いたのだろうか。
そんなことを考えて、カンナは心のどこかでそれはないだろう、と逡巡した。
実家にいた頃は、窓を開ければ風がよく通ったのもあって、しょっちゅう扉が風で開いていた。
しかしあれは、よほどの風が吹いたときでなくては有り得なかったし、それに玄関の位置が低い一軒屋で、鍵をかけていない場合に限るのではないだろうか。
確かにこのアパートに越してきてからは風で扉が開くことはなかったし、今だって鍵はかけてあるはずである。
窓も締め切ってある。風も強くなさそうだ。
ふいに、ぞくぞくと背中を走り抜ける悪寒にカンナは身震いすると、後ろを振り向かないようにしながら手近な物を手に取った。
一人暮らしを始めてからというもの、カンナは夜を酷く嫌うようになった。
世の中は物騒で、ニュースでは誘拐や強盗、殺人などの話題が常々彩っている始末。
近頃ではこの近辺にも強盗事件が発生したとの情報が、カンナの耳にも届いていた。
どくどくと不快な音を立て始める心臓に手を強く押し当て、拳が白くなるほどにぎゅうっと握り締める。
敵に背中を見せるのは酷く不安であるが、後ろを振り返るのはもっと恐ろしかった。
どうしよう…。
握り締めた拳を恐々開くと、そこには携帯電話がある。
先ほど身近にあるものとして咄嗟に取ったそれは、特に思案したつもりもなかったが的確な判断であったと思われる。
もし何かあれば連絡が取れるだろう。
玄関の方を視界に入れないよう、静かに首を回す。
逃げ道を確保しなくてはならない。
ここは二階であるが、未だ閉められていないカーテンによって、特に動かなくても外の状況が目に入る。
確かベランダの下には一階の庇があったはずである。
すばやくそこに足をかければ、きっと無事に地上に降りられるだろう。
こちら側は建物の裏にあたるから、人通りが少ない。
もし助けを求めるなら表にいかなければならないが、おそらく何者かが表に出て私を捕まえるよりは早くたどり着けるに違いない。
そこまで考えてカンナはぐっと携帯を持つ手を強めた。
後ろを振り向いたら襲ってくるかもしれない。
襲ってきたらその時は携帯を投げるしかない。
上手くあたらなくても怯ませることくらいは出来るだろう。
意を決してカンナは一度強く目を瞑り、一気に体に反動をつけて振り返った。
目を見開き、そこにいるはずの何者かに携帯を手にした腕を振り上げて、すぐさま逃げれる体制を作ったまま窓へと駆け寄る。
「どしたの」
そんなとき、間の抜けた声を耳にして、カンナは「は」と動きを止めた。
般若の形相をした娘を見て、母親はどう思ったか知らない。
しかし何だか酷く不振な顔をした母親が、そこには立っていた。
「え…なんで…?」
よく分からない状況にいるのはお互い様だろう。
大きな疑問符をひとつ、ふたつと頭に浮かべながら、カンナは安堵したようにぐったりと腰を下ろした。
ふと目に入ったものを見ると、玄関に様々な食料品が入ったビニール袋が転がっていた。
無様にくしゃりと潰れた形をしたそれに、カンナは、そういえば今日は母親が来る日だったとため息をついた。
「何で何も言わずに入ってきたのよー!」
恥ずかしさも伴って、真っ赤になりながらカンナは怒ったように母親にそう言っていた。
すると母親は若干呆れたように
「そりゃあんた、いつも録音してるとか何とかで音立てるなって言うからよ」
さも当然と言いたげな母親の文句に、カンナは言い返すこともままならず黙してしまった。
録音と言うか、いつも賑やかに入ってくる母親に苛立って、つい嘘をついた結果がこれである。
あぁー緊張して損した。
ぐったりと壁にもたれかかったまま、カンナはほぅっとため息をついた。
小さな物音にすら過敏に反応してしまうほど、この世の中は物騒なのかと考えて、カンナはほんの少し複雑そうな表情を浮かべた。
確かにやりすぎなところもあるが、きっとこの世の中、ぼぅっとしているものから消えていく運命なのだ。
生きるためには仕方ない。
いつまでも壁から離れる気配のないカンナを見かねてか、暖簾で仕切られただけの一間続きのキッチンから、くぐもった母親の声がする。
「ちょっとーカンナ、少しは手伝いなさいよー」
そんな声を遠くに聞きながら、カンナは脱力と安堵の中で、もう少しこうしていよう、と思うのだった。 |