【1】微妙な関係
「ほら、遅刻するぞ、寝ぼすけ!」
ぺちん。
十月の澄んだ朝の空気を揺らす、実に小気味の良い音と共に、まだ目覚めきれない少女の後頭部に、軽い痛みが走る。
ぷうっと頬をふくらませ、不機嫌な顔を作って振り返ると、いつものごとく、妙に爽やかな少年の笑顔が見つめていた。
何だって朝からこんなに元気なんだ? このテニス小僧は。
少年に睨みをきかせ、心でひとりごちる少女の名前は、遠藤亜紀。ごく普通の高校二年生。
取り柄と言えば色白なことくらいで、真っ黒な肩胛骨までの髪も、硬すぎて寝癖が付くと直すのに一苦労する。
母親は「色白は七難隠すのよ」と言うが、亜紀は、色黒でも七難ない方が良いと思っている。
亜紀の後頭部に平手打ちを入れて、爽やかに笑ってる少年は、不動健一。
二人は、幼稚園から今の高校までずうっと同じクラスと言う、恐ろしい腐れ縁の持ち主達である。中学までは二クラスしかなかったが、それにしても驚異の確率だ。
健一は、身長178センチの長身の持ち主で、160センチそこそこの亜紀と並ぶと、頭一つ分高い。
テニス部の部長をしているだけあって、無駄な贅肉の付いていないすらりとしたスタイルと、健康的な日に焼けた肌。
女の亜紀から見ても羨ましい、くっきりかっきりな二重まぶたの大きな瞳。
それに、通った鼻筋とキリリと引き締まった口元。
おまけに、髪はサラサラの猫っ毛と来てる。
見た目は悪くはないが、性格がこの通り、乙女の後頭部を平手で殴るデリカシーのないヤツなので、亜紀にしてみたら、『嫌いじゃないけど、色っぽい話になりようがない』のだ。
「痛ったいなぁ、もう! 今ので脳細胞、千個は死んだ。今日の数学のテスト、出来なかったら健一のせいだからね。せっかく一夜漬けした数式、全部忘れちゃったじゃない」
「それはそれは、ご愁傷様」
それが、ご愁傷様って言う顔? 理数系が得意なスポーツマンなんて嫌いだ。
亜紀は、更に頬をふくらます。
「帰りに、マックでおごりね」
「何だ、その論理は?」
「亜紀様の論理」
プワン――。
二人の会話に終止符を打つように、路線バス特有のクラクションが響いた。
「あ、やばい!」
二人同時にハモると、十メートル先の停留所に止まったバスを目指し、慌てて並んで駆け出す。
一時間に一本しかない田舎の路線バス。あれに乗り遅れたら、完璧に遅刻だ。一時間目の数学のテストを受けなかったら、それこそ一夜漬けが水の泡になってしまう。
「お先!」
「あ、薄情者!」
笑いを含んだ声を残し、学年で一、二の俊足を誇る健一がスピードを上げる。
「ま、待ってよ」
自慢じゃ無いが、亜紀は走りには自信がない。
いや、正確に言うと『走りにも』自信がない。平たく言えば運動音痴なのだ。
ただでさえ寝不足で脳みそが開店休業状態なのに、全力疾走。結果は明白だった。
クラリ――。
亜紀の視界が揺れた。
すうっと首筋の辺りの血が引いて行くのが分かる。
やばっ、倒れる――。
亜紀がそう思った瞬間、誰かに抱きかかえられた。
「大丈夫か? ちゃんと朝飯食ってないんだろう」
がっちりとした大きな、温かい手。
心配気に覗き込む瞳。
「あれ? 健一なんで?」
薄情にも、先に行ってしまったはずの健一が、自分を抱きかかえている。
状況が良く飲み込めなくて亜紀は、『じいっ』と健一の顔を見つめてしまう。
「ほら、呆気てないで急ぐぞ。バス、待っててくれてるから。なんなら、お姫様抱っこでもしてやろうか?」
「えっ、遠慮します!」
『お姫様抱っこ!?』 冗談じゃない。がばっと健一を押しのけ、スタスタと歩き出す。
驚いた。驚いた! 健一ってあんなにがっちりしてたんだ――。
どちらかと言えば一見痩せぎすなのに、しっかり男の人なんだ。
やだ。今頃ドキドキして来た。きっと今、赤い顔をしてる私。
亜紀は頬が火照るのを感じて、その自分の反応に驚いていた。まさか『あの健一』相手にトキメイテしまうなんて思ってもいなかったのだ。
健一はどうなのだろう? 何も感じないのだろうか?
振り返って、健一の表情を確認したい衝動を必死にこらえ、亜紀はバスへと乗り込んだ。
それは、いつもと何ら変わらぬ日常の一コマのはずだった。
その先に待っている数奇な運命を、亜紀は、知るよしもなかった――。
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