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君という音と真っ白な世界
作:八代ゆかな



僕の存在理由


 こんこんと、誰かが歩いてくる音がした。

 そして、まだ声は続いていた。

 鈴の声だ、必死な声。

 「…もう、呼ばなくてもいいって言ってるのに」

 瞼を下ろしたままの状態で、僕は薄く微笑する。

 ぐいっと、上へ、前へ手をかざす。

 真っ白な世界にただひとり。

 それなのに、僕の心にはまだ孤独は現れない。

 理由は知っている。

 孤独が襲ってこないのは、鈴の声のおかげだ。

 独りだけど、独りじゃないと感じさせてくれる。

 その心が、その存在が僕を忘れずに大切に想っていてくれるから、僕は笑っていられる。

 記憶が曖昧なせいもあるかもしれない。

 どうしてこの世界に来てしまったのかは相変わらず謎だが、皮肉にも記憶が曖昧なせいで余計なことを思わずにすむし、考えずにもすむ。

 こつこつと、足音がしている。

 だんだんと、こちらに近づいてきているようだ。

 …誰だ?

 ふと、足音が止まった。

 だけれども、僕は瞼を開けたりはしない。

 ただじっと、誰かがどう行動するのかを、目を閉じて見守るだけ。

 何時間たったか、何日すぎたか分からない世界で、静かに音に耳を済ませているだけ。

 衣擦れの音がした。

 誰かが、すぐ近くに座り込む気配だけが伝わってくる。

 ふわりと前髪をすかれた。

 細くて、繊細そうな指が額に触れていく。

 「…貴方はだぁれ?」

 少女の声がして、僕はそろそろと目を開けた。

 そのとき、ちょうど逆さまの少女の顔が視界に飛び込んできて、これにはさすがに驚く。

 何枚かの重ね着をした着物姿の綺麗な少女。

 ぬばたまの黒髪は腰に届くほどに長く、先のほうだけを結っている。

 僕の頭の前に座り込んだ少女と目が合うと、少女は数回目をぱちくりさせたあと、何故か嬉しそうに笑った。

 今度は僕が目を瞬かせる番だった。

 「…どうして笑う?」

 「嬉しいからよ…貴方と会えて嬉しいからよ」

 僕は怪訝な表情をする。

 すると、少女は小首を傾げだす。

 一体何なのだろうか、この少女は。

 「…君は、誰?」

 「貴方はだぁれ?」

 「……僕は――」

 誰と聞き返されて、条件反射に名前を教えようとした。

 だけど、僕の口からは名前は出てこなかった。

 ここに来てから誰にも会うこともなく、話すこともなかったから気づかなかったけれど、僕は己の名前を知らない。

 否、記憶から消え去ってしまっていたようだった。

 鈴は僕がここに来てからずっと途切れることはなく、名を呼んでくれていたけれど、呼んでいるという認識こそ出来ているだけで。

 今思えば、記憶に刻まれた瞬間に、自動的に抹消されていたのだとわかる。

 答えようとして開いた口をきゅっと引き結んで、悔しさから顔を俯かせていると、少女の細い腕が伸びてきて、僕の体をそっと抱きしめた。

 「…何?」

 「悔しいんでしょう?…大丈夫よ、貴方には名前がちゃんとある。貴方は和紗かずさよ」

 「かず、さ…?僕は和紗って言うのか…」

 「そう、和紗。いい名前だと思うわ」

 少女はそういって、一層僕を強く抱きしめてくれる。

 あたたかい。

 生きている、人の温度だ。

 ひとりの空間にどれくらい身を置いていたかは定かでないが、もう随分長い時間をここで過ごしたような気がする。

 懐かしいと思えるくらいに、忘れかけていた人の温もりを、この少女が思い出させてくれた。

 人と触れ合っているときはほっと、心の底から安堵できる。

 ここで過ごすことに何の不安もなかったといえば嘘になるが、やはり、全てを捨て切ることなんて出来ないのだと、僕は自分をあざ笑う。

 「…君は誰?」

 少女が顔をほころばす気配だけが、体越しに伝わってくる。

 「私は、藤姫。昔、ここを訪れる前はお城の中で死ぬまでお姫様をしていたの」

 「お姫、様…。藤姫は一度、死んでいるのか?」

 こんなに暖かいのに?

 人の暖かさがあるのに?

 僕と全然変わらない生きている人だと思ったのに…この少女は死んでしまっている。

 「ええ。18歳のときに病死で」

 「じゃあ、ここへはどうして?…ここは死んだ人が来るところか?」

 だったならば、僕は自分のあずかり知らぬ間に、あずかり知らぬところで既に死んだというのだろうか。

 心臓がここに来て初めての高鳴りを刻み始める。

 だけど、藤姫は首を横に振った。

 「いいえ。ここへは貴方に会いに来たの。きっと独りでは退屈だろうから。それに私は転生の準備でここにいるだけなのよ。来世へ繋ぐために私はここにいて、今は魂の鮮麗を兼ねた浄化の途中。時間がかかるの」

 藤姫はうんざりといった風にため息をつく。

 僕はそれを苦笑で受け止めた。

 藤姫は突然体を離すと、僕の手を両手で包み込む。

 藤姫が真剣な面持ちになったから、僕は無意識に息を呑んだ。

 「和紗はちゃんと生きてるのよ。まだ死んでなんかいない。和紗は私たちとは少し違う存在なだけで、生きていることには変わりはないの」

 僕はそう言われたのが、嬉しくて仕方なかった。

 誰の存在も感じ取れなかったこの真っ白な世界で、初めて会った人に『生きている』と言われて、どうしてか安心した。

 生きているのか、死んでいるのか、何時間たったのか、何日過ぎたのか…。

 何も全く分からない環境で、何かがすっぽりと抜け落ちてしまっていた僕は孤独こそ感じずにいられたものの、寂しさでいっぱいだったから。

 鈴の声が聞こえる。
 
 僕をまだ必死に呼ぶ声が、聞こえている。

 藤姫はいつくしむように、また僕を抱き寄せた。

 「私がこの世界のこと、和紗に教えてあげる。ここは和紗が以前生きていた世界とは異なったときの流れを汲む世界。現実だけど、現実じゃない…まやかしの中。この世界は現実世界で悩めるものたちや、やり直したいと言う強い思いから作られた世界…何もない真っ白な世界なのよ。だからね、時々迷い込んでくる人たちがやってくるものよ、ここに住む住人――つまりは今ここにいる貴方を求めて、ね」

 そこで一旦区切った藤姫は、一呼吸した後、一つ付け足した。

 「別にいかがわしい事をするわけじゃないわよ?」

 藤姫はちらりと、眇めた両目で、『勘違いしちゃ駄目よ』とでも言いたげに口端を吊りあがらせて、僕を見た。

 「わかってるよ!!」

 「…ならいいの。兎に角ここは時々稀な徒人ただびとたちが迷い込んでくる…世界、なのよ…。和紗はその人たちの話を聞いてあげて、ちゃんと元の世界に帰してあげなくちゃいけないの。じゃないとね、徒人はこの世界に取り込まれて、二度とここから出られなくなっちゃうのよ」

 「なら、僕はやっぱり二度とここから出られないのか…?」

 「いいえ。和紗次第で、出られなくもなるし、出ることも可能になる。言ったでしょう?この世界は人のやり直したい・こんな現実は嫌だとか、悩んでいる人たちの強い念によって無意識に生み出されたモノなの」

 「だから、何で僕なんだ?」

 「人にはそんなことは常についてまわるもの…でも、その点、和紗は人生をやり直したいと思うほどの強い後悔とかを過去に、したことないんじゃないかしら?」

 藤姫は妖艶に笑む。

 先ほどの藤姫とは思えないくらいに妖しく、美しく生まれ変わった蝶みたいに。

 僕は自分の意識していないところで、目を閉じていた。

 だから、それを見咎めた藤姫に、僕は額をバシッと指弾されてしまった。

 「こら!人が話してるときはちゃんとその話を聞かなきゃ駄目よ、和紗。話してる人に失礼だからね」

 「はい…すみませんでした」

 「よろしい。素直に謝れるってことは素晴らしいことよ。…で、話は戻るけれど。和紗は人生を一から出直したいとか、強い後悔と言う念を抱いたことはある?」

 「無い…と思う」

 「でしょうねェ…でなければ、貴方はここにいられないもの。しばらくすれば、この世界に取り込まれて存在自体を失ってしまっているはずだから、貴方はこの世界に必要とされてここにいるの」

 「そう、なんですか?」

 つい先程まで、すっかり打ち解けていたのだが、なんだかこの人には敬語を使っておいたほうがいいのかもしれない。

 「何も無くても、ここも一応世界だから何か一つは生命の存在が必要なのよ。で、ここは簡単に言えば、迷える人たちが作り出した世界でそんな人たちでさえ、たどり着くことが滅多に無く、反対にそんなものが無い人たちは絶対に訪れることは無い世界…まぁ、まずに悩みが無い人間なんているのか謎だけど。この世界を成立させるには生命の存在が必要で、これまで生きてきた中で後悔をあまりしなかった人間に絞られていくと言うことなの。だから、和紗じゃなきゃいけない理由。かなり長くなったけれど、ざっとこんなところかしら」

 藤姫はふぅと一仕事終えたと言う様子で、境界線の無い果てしない白の上に行儀よく正座する。

 僕は今先程つらつらと説明してくださった言葉を一度整理しようと、試みる。

 「えっと…この世界は迷える人たちの念によって作られて、この世界を成立させるために、僕が必要で。そして、迷い込んでくる人たちを帰すために僕がここにいて…。簡単にまとめるとこんな感じですか……」

 「ええ。そうね…ということで、今日からよろしくね。和紗」

 にっこりと満面笑顔の藤姫は、僕を嬉しそうに見た。

 僕は、やや渇き気味の笑顔でそれに応じるだけだった。

 鈴の声だけが僕を知っていてくれたんじゃないんだね。





 「ところで、藤姫は何でそんなことを知っていたの?一体どこからこの世界へやってきたんだ?」

 「それは秘密よ、和紗」

 訊いても、笑顔でノーコメントと返されるだけだった。

 だから、僕は教えてくれそうに無いと、早々に諦めたのだった。

 
 
 

 

 












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